ひと匙のカフカ
目の前にある無機質な白い壁は、名前が燻らせた紫煙を瞬く間に吸い込んでいった。もはや惰性になってしまった煙草の火を消し、携帯に入れてあるタスク管理のアプリを起動させる。
己を縛る警視という立場は、どうやら僅かな休息すらも与えてくれないらしい。
やるべき仕事を脳内でなぞりつつ休憩室の扉を開けると、目の前には驚いたように目を丸くした美丈夫が立っていた。相変わらず女受けしそうな顔だ、とぼんやり思いつつ、名前は軽く会釈をしてから足早にその場を去ろうとする。
「苗字さん」
「うん、何?」
麻薬取締官である彼とは入庁が同時期であるため、顔を合わせれば世間話くらいはする。だが、名前はどこかぎこちない関の笑顔が苦手だったのだ。周囲からの信頼が厚い彼に対して同様の印象を抱く者など皆無だから、顔を合わせていると落ち着かない気持ちになってしまう。
「突然なんだけど、今晩空いてるかな」
「んー、普通に仕事があるけど。何かあった?」
「ああ、いや。一緒に食事でもどうかなと思って」
関がさらりと口にした言葉に、名前は思わず眉根を寄せた。
「情報が欲しいだけなら、服部あたりと行った方が良いんじゃない?」
「俺が言いたいのはそうじゃないって分かってるんだろう?」
「……私、自分に興味の無い女が良いっていう考え方は好きじゃないから」
「そうか、分かった。気が向いたら連絡してくれ」
スマホを翳しながら笑う関に「気が向いたらね」と返し、今度こそ名前は横をすり抜ける。背中に痛いほど突き刺さる視線から逃れるように、曲がる必要のない角に向かって急いだ。
人格者として名高い関にとっては、ただ単に女性らしさの欠けらも無い女が物珍しいだけなのだろう。断られたらあっさり引くだけの思いしかないならば、元から声をかけないでほしい。期待した人に裏切られる経験なんて、一度きりで充分だった。……、………………。
世間的には、警視庁周辺の夜景は綺麗だと評判らしい。だがしかし、働いている人間にとっては何の面白みもないただの職場だった。殺伐とした権力争いが蔓延る檻、と言った方が妥当だろう。
身体が空腹を訴え始める午後七時。書類の提出を終えた名前は、思いの外早く退社できる事実を淡々と喜びながら出口へと向かっていた。警視庁は基本的に関係者以外立ち入り禁止であるため、廊下で擦れ違うのは厳つい顔をした年配の男性ばかりだ。名前より若い職員は、まだ残業に取り組まなければならない時間である。
疲れた身体を一刻も早く休ませるべく足早に歩いていると、玄関ホールの端から同期の部下が歩み寄ってくるのが見えた。嫌らしくにたにたと笑う顔を目にした瞬間、名前は溜め息を吐くのを堪えて表情筋を強張らせる。
奴は名前よりずっと家柄は良いが、同じくらいプライドも高い男だった。女癖が悪くその素行を巧妙に隠しているものの、名前を蹴落とす程の成果を上げることは出来ていない。
警察内部では、女でありながら出世街道を進む名前の方が立場的に弱者なのだ。未だに男性の上司から疎ましく思われることも少なくはないし、奴も人目の無い場所では大きな顔をして名前をいびってきた。しかも、他人には触れられたくないところを執拗に抉ってくるため、出来れば一人きりでの接触は避けたかったのだが。
人気の無い廊下の端をゆっくりと歩きつつ咄嗟に目を配るものの、周囲には鼠一匹すらいない。あとでストレス発散にお酒を飲もうと決意してから、名前は自分を貶めようとする同期に対峙した。
「やあ苗字、もう帰りなんだ。さすが期待の警視様は違うなあ」
「お疲れ様。そんなことないって。天堂の方が私なんかより成果上げてるって、警視正からは聞いてるけど?」
ぴくりと眉が上がったのを見て、余計なことを言ってしまったと後悔する。今のは完全に嫌味を込めてしまった。
「苗字、家に帰っても一人だもんね。僕なんて婚約者が待ってるから自由なんて殆ど無くってさ、困ってるくらい」
「美人だって評判だよね。気が早いけどおめでとう」
「あはは、ありがとう。僕はくれぐれも───式の当日に相手から逃げられないように頑張るよ」
その瞬間、名前の視界は真っ赤に染まる。それは、過去を無遠慮に掻き出されたことに対する怒りではない。己の情けなさをまざまざと思い知らされたからだった。
男は、口を噤んだ名前を見て勝ち誇ったような顔をし、「それじゃ」と一言残して立ち去って行く。その気配が完全に消えても、名前は壁に身体を預けたまま動くことが出来なかった。
男の声が、幾度も幾度も頭の中で反響している。身体中が震えて、自ら腕を両肩に回しても収まらなくて、名前は零れそうになる涙を必死で押し留めた。あんな男のせいで泣いてしまう方が嫌だった。
「───苗字さん」
低く柔らかな声音が、己を呼んでいる。息を呑みながら恐る恐る振り返ると、昼にも会った関が無表情でこちらを見据えていた。なんてタイミングが悪いのだろう。
また仕事の関係で警視庁に来たのだろうかと検討を付けつつ、「お疲れさま」と口にしてその場を去ろうとする。今言葉を交わせば、彼に酷いことを言ってしまうのが目に見えていた。
関のことは苦手だが、決して嫌いなわけではないのだ。わざわざ彼を傷付けたいとは思わなかった。
「悪い、苗字さん。今の全部聞いてたんだ」
「……え」
自らの足元を見つめたまま、名前は死刑宣告を受けたような心地になる。
関は唯一、噂が出回っても名前に対する態度を全く変えることが無かった同期だ。皆がどこか腫れ物を触るように扱ってくる中、彼だけは穏和に、仕事仲間として接してくれた。
最近なぜか急に距離を詰められたため戸惑ってはいたが、名前にとって関は、苦手意識はあっても平和な日常の象徴のような存在だったから。もしも彼にまで苦々しい扱いをされてしまったら、それこそしばらく立ち直れそうにない。
「ごめん、変なもの聞かせて。……笑っちゃうでしょ。一言くらい言い返せば良かったんだけど」
「俺は、君のことを傷付けてまで笑うような人間にはなりたくないよ」
「そうだよね、関は優しいもんね。気を遣わせてごめん、もう帰るから」
「分かった。なら送らせてくれないか」
「私、一人になりたいから」
一歩踏み出そうとすれば、脚がもつれて床へ座り込んでしまう。力を入れようとしても、立ち上がる気力がすっかり失われていることが分かった。悔しくて、情けなくて、名前は唇を強く噛み締める。
背後から柔らかく回された右腕が名前の肩を擦り、大きな左手が慈しむように名前の頭を撫でた。そこに透けて見える同情があまりにも重くて、押し潰されそうになる。
「私のことは放っておいてよ。馬鹿な女だって、……めちゃくちゃに罵ればいい」
「俺には君を褒める言葉しか見つからないな。悪いが諦めてくれ」
「本当に悪趣味。いいから早く離れて」
「……どうしようかな」
「関!」
「ああ」
やけに嬉しそうな声で返事をしたかと思えば、言葉とは裏腹に、彼は恐る恐る名前を抱き締めてくる。
「……大丈夫。苗字さんが心配しているようなことは言わないから」
熱い想いが滲む掠れた声に、ぐっと息が詰まった。
「何で……なんで、私なんか」
「そう? 一目見た時から、俺は苗字さんのこと可愛いなと思ってたけど」
「でも関はそんな簡単な男じゃないでしょ」
「それは過大評価しすぎだと思うよ。初めて会話した時から意識してたし」
「……いつの話?」
「やっぱり覚えてないか。割と大規模の飲み会で、苗字さんは少し酔ってたから」
「ご、ごめん。お恥ずかしいところを」
「はは。その時にね、君から叱られたんだ。……”関はもっと、自分の幸せについてよく考えた方がいい”って」
初対面の相手が抱える事情なんてよく知らないだろうに、呆れるほどよく回る舌だ。自分の身勝手さに項垂れつつ、名前はぼんやりと当時の記憶を掘り起こしていく。
ああ、そうだ。関の笑顔がどこか歪で不格好なのは、きっと本当に優しいひとだから。
あんなにも己の幸福を度外視する人間に接したことが無かったため、少し厳しい言い方をしたような気がする。
「俺はこの先、誰かと結婚するつもりなんて全く無かったんだけど。もし自分が幸せになる道を考えるなら……その時は、隣に君がいてくれればいいのにと思った」
「……、関」
「だから別に、苗字さんと付き合いたいって言ってる訳じゃなくて。君が幸せになる姿を見たいから、俺にその手助けをさせてほしいだけなんだ」
───ばか。そんなこと言われたら、怒れるわけないじゃないか。
ひび割れた心に、柔らかな熱がそっと染み入っていく。強く瞼を閉じながら、名前は雨のように降り注ぐその優しさを享受する。
腹の内側にわだかまっていた数々の哀しみが絡め取られていく度、鮮やかな色を帯びた感情が心臓に溶け出した。
「ねえ関、その言い方はずるい」
「ごめん。もう全部言っているようなものだよね」
「そう思うならちゃんと言って。私は、中途半端な関係のままで答えを出したくないから」
「……苗字さん」
今すぐに彼に応えられるほど気持ちの整理はついていない。けれど、自分の幸せな未来を考えてみたいと思えるまでにはなったから。
「苗字さん、聞いてほしいんだ。俺はね───」
己を縛る警視という立場は、どうやら僅かな休息すらも与えてくれないらしい。
やるべき仕事を脳内でなぞりつつ休憩室の扉を開けると、目の前には驚いたように目を丸くした美丈夫が立っていた。相変わらず女受けしそうな顔だ、とぼんやり思いつつ、名前は軽く会釈をしてから足早にその場を去ろうとする。
「苗字さん」
「うん、何?」
麻薬取締官である彼とは入庁が同時期であるため、顔を合わせれば世間話くらいはする。だが、名前はどこかぎこちない関の笑顔が苦手だったのだ。周囲からの信頼が厚い彼に対して同様の印象を抱く者など皆無だから、顔を合わせていると落ち着かない気持ちになってしまう。
「突然なんだけど、今晩空いてるかな」
「んー、普通に仕事があるけど。何かあった?」
「ああ、いや。一緒に食事でもどうかなと思って」
関がさらりと口にした言葉に、名前は思わず眉根を寄せた。
「情報が欲しいだけなら、服部あたりと行った方が良いんじゃない?」
「俺が言いたいのはそうじゃないって分かってるんだろう?」
「……私、自分に興味の無い女が良いっていう考え方は好きじゃないから」
「そうか、分かった。気が向いたら連絡してくれ」
スマホを翳しながら笑う関に「気が向いたらね」と返し、今度こそ名前は横をすり抜ける。背中に痛いほど突き刺さる視線から逃れるように、曲がる必要のない角に向かって急いだ。
人格者として名高い関にとっては、ただ単に女性らしさの欠けらも無い女が物珍しいだけなのだろう。断られたらあっさり引くだけの思いしかないならば、元から声をかけないでほしい。期待した人に裏切られる経験なんて、一度きりで充分だった。……、………………。
世間的には、警視庁周辺の夜景は綺麗だと評判らしい。だがしかし、働いている人間にとっては何の面白みもないただの職場だった。殺伐とした権力争いが蔓延る檻、と言った方が妥当だろう。
身体が空腹を訴え始める午後七時。書類の提出を終えた名前は、思いの外早く退社できる事実を淡々と喜びながら出口へと向かっていた。警視庁は基本的に関係者以外立ち入り禁止であるため、廊下で擦れ違うのは厳つい顔をした年配の男性ばかりだ。名前より若い職員は、まだ残業に取り組まなければならない時間である。
疲れた身体を一刻も早く休ませるべく足早に歩いていると、玄関ホールの端から同期の部下が歩み寄ってくるのが見えた。嫌らしくにたにたと笑う顔を目にした瞬間、名前は溜め息を吐くのを堪えて表情筋を強張らせる。
奴は名前よりずっと家柄は良いが、同じくらいプライドも高い男だった。女癖が悪くその素行を巧妙に隠しているものの、名前を蹴落とす程の成果を上げることは出来ていない。
警察内部では、女でありながら出世街道を進む名前の方が立場的に弱者なのだ。未だに男性の上司から疎ましく思われることも少なくはないし、奴も人目の無い場所では大きな顔をして名前をいびってきた。しかも、他人には触れられたくないところを執拗に抉ってくるため、出来れば一人きりでの接触は避けたかったのだが。
人気の無い廊下の端をゆっくりと歩きつつ咄嗟に目を配るものの、周囲には鼠一匹すらいない。あとでストレス発散にお酒を飲もうと決意してから、名前は自分を貶めようとする同期に対峙した。
「やあ苗字、もう帰りなんだ。さすが期待の警視様は違うなあ」
「お疲れ様。そんなことないって。天堂の方が私なんかより成果上げてるって、警視正からは聞いてるけど?」
ぴくりと眉が上がったのを見て、余計なことを言ってしまったと後悔する。今のは完全に嫌味を込めてしまった。
「苗字、家に帰っても一人だもんね。僕なんて婚約者が待ってるから自由なんて殆ど無くってさ、困ってるくらい」
「美人だって評判だよね。気が早いけどおめでとう」
「あはは、ありがとう。僕はくれぐれも───式の当日に相手から逃げられないように頑張るよ」
その瞬間、名前の視界は真っ赤に染まる。それは、過去を無遠慮に掻き出されたことに対する怒りではない。己の情けなさをまざまざと思い知らされたからだった。
男は、口を噤んだ名前を見て勝ち誇ったような顔をし、「それじゃ」と一言残して立ち去って行く。その気配が完全に消えても、名前は壁に身体を預けたまま動くことが出来なかった。
男の声が、幾度も幾度も頭の中で反響している。身体中が震えて、自ら腕を両肩に回しても収まらなくて、名前は零れそうになる涙を必死で押し留めた。あんな男のせいで泣いてしまう方が嫌だった。
「───苗字さん」
低く柔らかな声音が、己を呼んでいる。息を呑みながら恐る恐る振り返ると、昼にも会った関が無表情でこちらを見据えていた。なんてタイミングが悪いのだろう。
また仕事の関係で警視庁に来たのだろうかと検討を付けつつ、「お疲れさま」と口にしてその場を去ろうとする。今言葉を交わせば、彼に酷いことを言ってしまうのが目に見えていた。
関のことは苦手だが、決して嫌いなわけではないのだ。わざわざ彼を傷付けたいとは思わなかった。
「悪い、苗字さん。今の全部聞いてたんだ」
「……え」
自らの足元を見つめたまま、名前は死刑宣告を受けたような心地になる。
関は唯一、噂が出回っても名前に対する態度を全く変えることが無かった同期だ。皆がどこか腫れ物を触るように扱ってくる中、彼だけは穏和に、仕事仲間として接してくれた。
最近なぜか急に距離を詰められたため戸惑ってはいたが、名前にとって関は、苦手意識はあっても平和な日常の象徴のような存在だったから。もしも彼にまで苦々しい扱いをされてしまったら、それこそしばらく立ち直れそうにない。
「ごめん、変なもの聞かせて。……笑っちゃうでしょ。一言くらい言い返せば良かったんだけど」
「俺は、君のことを傷付けてまで笑うような人間にはなりたくないよ」
「そうだよね、関は優しいもんね。気を遣わせてごめん、もう帰るから」
「分かった。なら送らせてくれないか」
「私、一人になりたいから」
一歩踏み出そうとすれば、脚がもつれて床へ座り込んでしまう。力を入れようとしても、立ち上がる気力がすっかり失われていることが分かった。悔しくて、情けなくて、名前は唇を強く噛み締める。
背後から柔らかく回された右腕が名前の肩を擦り、大きな左手が慈しむように名前の頭を撫でた。そこに透けて見える同情があまりにも重くて、押し潰されそうになる。
「私のことは放っておいてよ。馬鹿な女だって、……めちゃくちゃに罵ればいい」
「俺には君を褒める言葉しか見つからないな。悪いが諦めてくれ」
「本当に悪趣味。いいから早く離れて」
「……どうしようかな」
「関!」
「ああ」
やけに嬉しそうな声で返事をしたかと思えば、言葉とは裏腹に、彼は恐る恐る名前を抱き締めてくる。
「……大丈夫。苗字さんが心配しているようなことは言わないから」
熱い想いが滲む掠れた声に、ぐっと息が詰まった。
「何で……なんで、私なんか」
「そう? 一目見た時から、俺は苗字さんのこと可愛いなと思ってたけど」
「でも関はそんな簡単な男じゃないでしょ」
「それは過大評価しすぎだと思うよ。初めて会話した時から意識してたし」
「……いつの話?」
「やっぱり覚えてないか。割と大規模の飲み会で、苗字さんは少し酔ってたから」
「ご、ごめん。お恥ずかしいところを」
「はは。その時にね、君から叱られたんだ。……”関はもっと、自分の幸せについてよく考えた方がいい”って」
初対面の相手が抱える事情なんてよく知らないだろうに、呆れるほどよく回る舌だ。自分の身勝手さに項垂れつつ、名前はぼんやりと当時の記憶を掘り起こしていく。
ああ、そうだ。関の笑顔がどこか歪で不格好なのは、きっと本当に優しいひとだから。
あんなにも己の幸福を度外視する人間に接したことが無かったため、少し厳しい言い方をしたような気がする。
「俺はこの先、誰かと結婚するつもりなんて全く無かったんだけど。もし自分が幸せになる道を考えるなら……その時は、隣に君がいてくれればいいのにと思った」
「……、関」
「だから別に、苗字さんと付き合いたいって言ってる訳じゃなくて。君が幸せになる姿を見たいから、俺にその手助けをさせてほしいだけなんだ」
───ばか。そんなこと言われたら、怒れるわけないじゃないか。
ひび割れた心に、柔らかな熱がそっと染み入っていく。強く瞼を閉じながら、名前は雨のように降り注ぐその優しさを享受する。
腹の内側にわだかまっていた数々の哀しみが絡め取られていく度、鮮やかな色を帯びた感情が心臓に溶け出した。
「ねえ関、その言い方はずるい」
「ごめん。もう全部言っているようなものだよね」
「そう思うならちゃんと言って。私は、中途半端な関係のままで答えを出したくないから」
「……苗字さん」
今すぐに彼に応えられるほど気持ちの整理はついていない。けれど、自分の幸せな未来を考えてみたいと思えるまでにはなったから。
「苗字さん、聞いてほしいんだ。俺はね───」