君を彩るラベンダー
肌を刺すほどに冷たい風が吹き抜ける。高く澄み渡る空は厚い雲に覆われ、道端の木々が通学路に影を落としていた。
名前はブレザーの袖を極限まで伸ばして指先を覆い、襲いくる寒さに一人耐え忍ぶ。早朝の薄暗さに覆われた道は人気が無く物寂しいが、身体の内側から込み上げる柔らかな熱が、負の感情を全てかき消してくれていた。
名前の目的地は、眼前の十字路を右に曲がった先にあった。ひんやりとしたアスファルトの車道を抜け、色とりどりの装飾に満ちた商店街へと踏み入れる。多くの店はシャッターが閉まっていたが、その中で唯一、愛らしく彩られた扉が顔を覗かせているケーキ屋さんがあった。
迷わずアーケードを突き進み、名前は硝子で仕切られたお店の前に立つ。店内に設置された机の前に座り込む人影を見て、自然と溢れ出る笑顔を保ったまま扉を開けた。りん、とベルの音が鳴り響いたのを聞いて、目の前の彼は顔を上げる。
和泉一織は、端整な顔に呆れを滲ませながらゆったりと目を細めていた。その様は、まるで彫刻と形容するに相応しい。白磁のように白く滑らかな肌に、黒く透き通った二つの宝石がバランスよく嵌め込まれているかと紛うほどの顔立ち。きゅっと顰められた柳眉も、高く通った鼻筋も、薄いながらふっくりとした唇も。全ては、計算し尽くされたかのようにそこに在った。
ピンク色のまるいランプに明るく照らされた店内においては、どこか不釣り合いに思えるほどに綺麗な男の子。それが、私の幼馴染みでありアイドルの卵でもある、和泉一織くんだった。
「今日は珍しく早いんですね」
穏やかな声音で紡がれた言葉には、しかし美しさや可愛さなんて微塵も感じられない。一織くんらしいなあと笑いながら、名前は彼の隣にそっと腰かける。小学校から高校までずっと同じクラスという縁に恵まれた故か、多少距離が近くても気にしない間柄にはなれたらしい。
「だって、一織くんとこうやって過ごせる最後の朝だもん。いくら面倒臭がりな私でもそりゃ早起きするよ」
「……今はメールもラビチャもあるじゃないですか。完全に縁が途切れるわけでもないですし、何をそんなに悲観する必要があるんです?」
「でも、もう出来なくなっちゃうんだよ。こうやって登校前にお喋りしたり、帰り道に買い食いしたり、お休みの日に一織くんの家で勉強したり。今まで当たり前に出来てたことが全部、これからは過去の思い出になるから」
一織は一瞬だけ眉を下げたかと思うと、視線をふいと反らして俯く。そこに見え隠れする感情は、あの日と同じ光景を思い起こさせた。
今日、一織は家を出る。アイドルになるため、寮生活を始めるのだ。クラスが離れたことさえ無かったのに、通う学校が別々になるだなんて想像もつかなかった。けれどそれは現実で、確実に待ち受けている未来だ。
沈黙が落ちる。視線がさ迷う。やがて二人の瞳は互いを捉え、そして。
───私、芸能事務所にスカウトされたんです。数週間前、名前は一織から突然そう告げられた。
恒例の、週末に行う勉強会の最中だった。数多の愛らしいマスコットキャラクターが飾られている勉強机に向かっていた一織は、静寂に満ちた部屋にぽつんと爆弾を落としたのである。
彼に背中を向け一人宿題をしていた名前は、驚きながらもどこか納得したように相槌を打った。 彼は他人に自分の弱い姿を見せようとはしないので、既にそれは決断した後なのだと思ったからだ。自分たちは悩みを吐き出す間柄ではないけれど、こうして決意を表明し合えるくらいの関係性は構築出来ていたということなのだろう
ふわりと喜びに浮遊した胸の内を、名前はそのままさらけ出した。
「そっかあ。なら、私が一織くんのファン第一号になってもいいのかな?」
「……本当に暢気ですね。この意味、分かってますか? 私、アイドルになるんですよ」
「一織くんが、私よりもずっと将来のことを真剣に考えているのは分かるよ。私が追いつくためには、今よりもっと勉強して、今よりずっと頑張らなきゃいけないのも理解してる。だけど、……いや、だからこそ。私にも一織くんの夢を応援させてほしいなって思うんだけど」
がたん。大きく立てられた音に振り向くと、不満の色をありありと浮かべた一織がすぐ近くにまで迫っていた。常に涼しい顔で毒ばかり吐き出す彼にしては珍しく、感情を剥き出しにしている。名前は、今度こそ驚愕しながらそっと首を傾げた。
「一織くん、どうしたの? 私、何か気に障るようなこと言っちゃったかな」
「答える前に、聞きたいことがあります。そもそも私がデビュー出来るかどうか、出来たとしても売れるかどうか。……更には、芸能界以外の道を捨てる程の価値があるのかどうか、何も分からない状態で飛び込むんです。それでも貴女は、私が愚かで無いと言えますか? 先の分からない私を応援すると、明確な意思をもって断言出来るんですか?」
「出来るよ。だって、私は一織くんの友だちだから」
「意味が分からないです。それが何故私を信じることに直結するんですか」
「ええ、そう言われてもなあ。……アイドルになるっていう夢は、一織くん自身が決めたことだろうから。大好きな友だちが目指す未来を、応援しないはずが無いと思うんだけど」
「……これが私自身の夢じゃないとしても、ですか」
諦めたように瞳を伏せて、一織はそっと呟いた。名前は心臓が跳ね上がるほどに驚いて、彼の顔をじっと見詰める。今まで近寄ることすら赦されていなかった一織の心の奥に触れている。それを感じ取ってしまったから。
脳裏に浮かんだのは、常に屈託なく笑う一織の兄。小さい頃からずっとアイドルに憧れ続けていた、名前の二人目の幼馴染み、和泉三月だ。三月は、日本中に旋風を巻き起こした国民的アイドルのゼロに焦がれ、目標とし、現在も身長の低さにめげずオーディションを受け続けているという。けれど結果は奮わないようだとも聞いていた。
三月は昔、一織にねちねちと嫌味を言われ憤慨する名前をよく優しく宥めてくれていたものだった。一織だって口には出さないけれど、常に笑顔で一生懸命な兄が大好きなのは傍目からも分かる。名前もまた、本当のお兄ちゃんのように慕っていたのだ。
一織は、勉強も運動も人並み以上にこなせる才能があった。いつだって冷静に現実を見据え、がむしゃらに何かを追い求めることは殆ど無くて。もし今回も、兄への思い遣り故に決断したことなのだとしたら。
「兄さんも一緒に。その条件で受けたんです、スカウト」
「そっかあ。三月くん、喜んでたでしょ」
「ええ、それはもう。かわ、……年甲斐も無くはしゃいでましたよ」
「昔からの夢だったもんね。私も嬉しいな」
「……けれど私は、覚悟も何も無いまま、自分の一生をも左右する決断をしてしまいました。兄さんのためと言ったら美談に聞こえますけど、そんなのただの私のエゴです。弟のついでにスカウトされたと聞いたら、兄さんが傷つくことだって分かっているのに」
「……それでも、一織くんはアイドルになることを選んだんだよね。ならもっと、どーんと胸を張ってもいいんじゃないかなあ」
名前は笑って、一織の手を包み込むように握った。大きくて硬くて、けれど繊細でほっそりとした指先は、二つの掌を使っても全部覆うことは出来そうにない。
名前がこうして言葉を重ねるのも、自分のエゴ故だ。言いたいことを口にしなかったなんて後悔をしたくないから。例え今この瞬間、彼に嫌われたっていい。 決して、自分が一織の心を動かせるなんて自惚れてはいない。
それでも。小さい頃、自分に自信の無かった名前に勇気をくれた一織のために。最大限の想いを捧ぐ覚悟は既にあった。
「一織くんは、人の良いところを見つけるのが得意だよね。いつも視野が広くて冷静で、中学校時代は生徒会で何度も助けてもらった」
「……貴女は独創性がある分、猪突猛進で大胆ですからね。誰にでも分け隔てなく接して、いつも校内を走り回っては誰かのために働いて。見ていて飽きなかったです」
「一織くんがいたから好きなことを自由に出来てたんだよ。私のどんなに突飛のない提案でも、一織くんは全部きちんと受け止めて、検討して、ちゃんと答えをくれたよね。私が書いた穴だらけの企画書にもびっしり赤ペンで訂正入れてくれてさ。私、嬉しかった。一織くんは真面目で、自分にも他人にも厳しくて、でも不器用なくらい優しいんだなあっていつも思ってた」
「……相変わらず変な人ですね。私を優しいなんて形容するのは、貴女くらいですよ」
「それは光栄だな。……でも私はね、何かを目指す上で、高尚な理由なんて無くてもいいんじゃないかなって思うんだ。そもそも、私が生徒会長に立候補したのも一織くんみたいになりたかったからだし」
「はあ? そんな下らないことを考えていたんですか?」
「えっ、下らなくなんてないよ。どんなことにも真面目に取り組んで、一定以上の結果を必ず出して、それでも自分を誇示せずに凛と前を向く一織くんは、ずっと私の憧れだったもん。だから私、追い付きたくて必死だった。でも、一織くんがアイドルになるなら、これからもっと頑張らなきゃいけないね」
「……貴女は、本当にばかだな」
ふい、と目線を外に投げ出して、一織は考え込むようにそっと俯く。繋がる掌を再度握り締めて、名前は瞳を伏せて微笑んだ。私は今、彼のために何が出来るんだろう。必死に考えて、考えて、それでも答えは出なくて。
「ねえ、名前」
それはやわらかくて、穏やかで、優しい声だった。耳を包み込まれるように紡がれた自分の名前に、思考の波に沈んでいた名前の意識がふわりと引っ張られる。
一織は、口元を柔らかく緩めながら名前を真っ直ぐに射抜いた。その瞳に力強く浮かぶ光が、名前の胸を温かい感情で満たしていく。
「……私はまだまだ未熟で幼くて。その上、自分一人では将来を決められないほどに弱くて情けないです。それでも、こんな私でも、自分の力で誰かを笑顔にしたい」
「大丈夫だよ。だって私は、一織くんが頑張ってる姿を見るだけで勇気を貰える。一織くんが笑ってたら、それだけで私も幸せになれるから」
「よくもまあ恥ずかしげもなく言えますね。……でも、ありがとうございます」
僅かに赤らんだ顔を隠すように、一織は右手で口元を覆った。
「あと、たった今出来ましたよ。私がアイドルになりたい理由。もちろん秘密ですけど」
「ええっ、何でそうやって焦らすの!? 一織くんのけち!」
「はいはい、ごめんなさい。私、喉が渇いたのでお茶取ってきますね。それよりも名前、早く宿題を終わらせた方がいいんじゃないですか」
早口で捲し立て、一織は自室から一目散に出ていった。寂しいような悔しいような複雑な思いを抱いた名前であったが、あんな後ろ姿を見たら文句なんて言えそうにもない。
耳まで赤く染めて、照れる時だけ素直なのは相変わらずだなあ。名前は思い、自分の顔にも急速に熱が集まってくるのを自覚した。
───苗字さんは、わらった顔がいちばんかわいいよ。
胸の奥底で大切に仕舞っていた声が、ふわりと浮かび上がる。あれは、出逢ったばかりの頃だっただろうか。今よりもずっと幼くて拙くて、けれど何よりも私を励ましてくれた、魔法のような言葉だった。
未だに初恋をずるずると引きずっている自分に呆れながら、名前は膝をまるめて一織の帰りを待つ。自分はどうしようもなく幸せで、どうしようもなく欲張りだったのだと痛感してしまった。
「名前、聞いてますか?」
「えっ!?」
一織に顔を覗きこまれるように見つめられて、心臓がどきりと音を立てた。いつのまにか、終わりの見えない思考の海に浸かっていたようである。
ああそうか。いよいよ、彼が家を出る日がやってきてしまったんだ。
未だに実感がわかずぼんやりとする名前を見て、一織は呆れたように、けれど僅かばかり心配を滲ませた表情で、小さく溜め息を吐いた。
「ああ、はいはい。今の反応で私の話を微塵も聞いていなかったことが分かりました。ごめんなさい、こちらの配慮が足りなくて」
「ご、ごめんってば一織くん……。だからあんまり意地悪言わないでよ……」
「…………、本当に可愛いひとだな」
囁くように紡がれたそのやわらかな声が、名前の鼓膜をそっと刺激する。昔の思い出を想記させるような甘く優しい言葉に、顔が沸騰するかと感じるほどに熱くなった。それを誤魔化すように、名前は笑顔を浮かべながら視線を反らす。
「……一織くん、熱でもあるの?」
「あったら今頃部屋で寝てますよ。それより、本当に何も聞いてなかったんですね」
「ご、ごめんね……?」
「別に、もういいです」
拗ねたような声音で吐き出して、一織はふいと横を向いた。怒らせてしまった時はそっとしておくのが一番だけれど、このままお別れするのは嫌だなあ。
「ほら。そろそろ学校に行きますよ」
「うん、分かった……」
鞄を抱えゆるゆると立ち上がった名前とは対照的に、一織はてきぱきと準備を終えて既に店の出口にまで歩みを進めていた。
何か言わなければならない、と焦るばかりの名前を置き去りにするその背中は、とても広くて、大きくて、切なくなるほどに遠くて。
なんで、こんなにも距離が開いちゃったんだろう。考えれば考える程に苦しくなって、感情が溢れだす。
「……ああもう、なんて顔してるんですか」
ふわり。柔らかい何かが、やさしく首に巻き付けられる感覚がした。自分の足下を見て立ち止まっていた名前は、全身を震わせながらそっと目線を上げる。
一織は、眉間にシワを寄せて、唇をぎゅっと引き結んでいた。ああ、また呆れられちゃったんだ、と名前は自分の駄目っぷりに瞳を閉じる。暗くなった視界の中で、頬をつたう滴は涙なのだとようやく自覚した。いやだ、嫌われたくない。面倒臭いやつだって思われたくない。最後の日くらい笑顔で一緒に過ごしたいし、一織くんの邪魔になりたくないのに。
「あなたを笑顔にしたくてアイドルになるのに、泣かせるなんて本当に情けないですね。私は」
季節外れのマフラーに顔を埋めた名前の唇に、一織もまた自分のそれを重ねた。やわらかい布越しに触れた温もりに、辛うじて抑えていた思いがすべて溢れだす。
「いおり、くん……」
「……はい」
「すき、……すきだよ」
一織のブレザーの袖を掴んで、名前は思いの丈を吐き出した。すると今度は、彼に腕を掴まれて、掌に触れられて、やさしく指先が絡まっていく。
「知ってますよ。……それこそ、昔からずっと」
名前の思いをすべて掬い上げ、包み込むように一織は微笑んだ。
「先程、私がなんて言ったのか知ってますか?」
「うっ……ごめん。分からないや」
「───あなたは、私の夢そのものです。あなたのように、誰かのために一生懸命がんばれる人で在りたい。あなたが弱さを見せたいと思ったとき、隣に寄り添って心を包み込んであげられるくらい器の広い男で在りたい。……だから、私がアイドルを目指す理由は、あなたを笑顔にするためです」
ぽかんと一織を見上げ、降り注ぐ言葉ひとつひとつを噛み締めるように受け止めて、胸の奥底で燻る熱に身を委ねて。名前は、言葉なく一織にすがりついた。背中に回る大きな掌に、再び涙が込み上げる。
「名前が寂しいと思う暇もないくらい、毎日テレビに出てみせますから。覚悟しておいてください」
「うん、信じてるよ。……だから、もし私が必要なことがあったらいつでも連絡してね。一織くんのためなら、どこへでも飛んでいくから」
沈黙が落ちる。視線が重なり合う。やがて二人の瞳は互いを捉え、そして。慈しむように、愛を捧ぐように、密やかに口付けを交わした。
ゆっくりと距離が離れて、至近距離で見つめ合い、やがて同時にふいと視線を反らす。
「名前は、寒暖差が激しいとすぐに風邪を引きますからね。私がいなくても、ちゃんと温かくしてくださいよ」
「うん、分かった。……マフラー、私が前に欲しいって言ったの覚えててくれたんだね」
「当たり前じゃないですか。……さて、そろそろいい時間ですね。行きましょう」
一織くんがこれから歩んでいく道には、きっと辛いことも楽しいこともたくさんあるだろう。それを私が全部共有することなんてとても出来ないし、きっと一織くんだってそれを望んでいない。
だから私は、私自身の夢を見つけてみせる。彼に誇れるような人生にするために。彼が好きだと、自信をもって言えるように。
ラベンダー色のマフラーを、名前は再びぐるぐると首に巻き付ける。そこには、幸せの温もりがたくさん詰まっていた。
「一織くん! だいすき!」
「そっ……、んな、大声出さなくても分かってますよ!」
そして私たちは、未来への一歩を踏み出す。どこまでも輝かしい希望と夢に満ちた道を、自分で創っていくんだ。
名前はブレザーの袖を極限まで伸ばして指先を覆い、襲いくる寒さに一人耐え忍ぶ。早朝の薄暗さに覆われた道は人気が無く物寂しいが、身体の内側から込み上げる柔らかな熱が、負の感情を全てかき消してくれていた。
名前の目的地は、眼前の十字路を右に曲がった先にあった。ひんやりとしたアスファルトの車道を抜け、色とりどりの装飾に満ちた商店街へと踏み入れる。多くの店はシャッターが閉まっていたが、その中で唯一、愛らしく彩られた扉が顔を覗かせているケーキ屋さんがあった。
迷わずアーケードを突き進み、名前は硝子で仕切られたお店の前に立つ。店内に設置された机の前に座り込む人影を見て、自然と溢れ出る笑顔を保ったまま扉を開けた。りん、とベルの音が鳴り響いたのを聞いて、目の前の彼は顔を上げる。
和泉一織は、端整な顔に呆れを滲ませながらゆったりと目を細めていた。その様は、まるで彫刻と形容するに相応しい。白磁のように白く滑らかな肌に、黒く透き通った二つの宝石がバランスよく嵌め込まれているかと紛うほどの顔立ち。きゅっと顰められた柳眉も、高く通った鼻筋も、薄いながらふっくりとした唇も。全ては、計算し尽くされたかのようにそこに在った。
ピンク色のまるいランプに明るく照らされた店内においては、どこか不釣り合いに思えるほどに綺麗な男の子。それが、私の幼馴染みでありアイドルの卵でもある、和泉一織くんだった。
「今日は珍しく早いんですね」
穏やかな声音で紡がれた言葉には、しかし美しさや可愛さなんて微塵も感じられない。一織くんらしいなあと笑いながら、名前は彼の隣にそっと腰かける。小学校から高校までずっと同じクラスという縁に恵まれた故か、多少距離が近くても気にしない間柄にはなれたらしい。
「だって、一織くんとこうやって過ごせる最後の朝だもん。いくら面倒臭がりな私でもそりゃ早起きするよ」
「……今はメールもラビチャもあるじゃないですか。完全に縁が途切れるわけでもないですし、何をそんなに悲観する必要があるんです?」
「でも、もう出来なくなっちゃうんだよ。こうやって登校前にお喋りしたり、帰り道に買い食いしたり、お休みの日に一織くんの家で勉強したり。今まで当たり前に出来てたことが全部、これからは過去の思い出になるから」
一織は一瞬だけ眉を下げたかと思うと、視線をふいと反らして俯く。そこに見え隠れする感情は、あの日と同じ光景を思い起こさせた。
今日、一織は家を出る。アイドルになるため、寮生活を始めるのだ。クラスが離れたことさえ無かったのに、通う学校が別々になるだなんて想像もつかなかった。けれどそれは現実で、確実に待ち受けている未来だ。
沈黙が落ちる。視線がさ迷う。やがて二人の瞳は互いを捉え、そして。
───私、芸能事務所にスカウトされたんです。数週間前、名前は一織から突然そう告げられた。
恒例の、週末に行う勉強会の最中だった。数多の愛らしいマスコットキャラクターが飾られている勉強机に向かっていた一織は、静寂に満ちた部屋にぽつんと爆弾を落としたのである。
彼に背中を向け一人宿題をしていた名前は、驚きながらもどこか納得したように相槌を打った。 彼は他人に自分の弱い姿を見せようとはしないので、既にそれは決断した後なのだと思ったからだ。自分たちは悩みを吐き出す間柄ではないけれど、こうして決意を表明し合えるくらいの関係性は構築出来ていたということなのだろう
ふわりと喜びに浮遊した胸の内を、名前はそのままさらけ出した。
「そっかあ。なら、私が一織くんのファン第一号になってもいいのかな?」
「……本当に暢気ですね。この意味、分かってますか? 私、アイドルになるんですよ」
「一織くんが、私よりもずっと将来のことを真剣に考えているのは分かるよ。私が追いつくためには、今よりもっと勉強して、今よりずっと頑張らなきゃいけないのも理解してる。だけど、……いや、だからこそ。私にも一織くんの夢を応援させてほしいなって思うんだけど」
がたん。大きく立てられた音に振り向くと、不満の色をありありと浮かべた一織がすぐ近くにまで迫っていた。常に涼しい顔で毒ばかり吐き出す彼にしては珍しく、感情を剥き出しにしている。名前は、今度こそ驚愕しながらそっと首を傾げた。
「一織くん、どうしたの? 私、何か気に障るようなこと言っちゃったかな」
「答える前に、聞きたいことがあります。そもそも私がデビュー出来るかどうか、出来たとしても売れるかどうか。……更には、芸能界以外の道を捨てる程の価値があるのかどうか、何も分からない状態で飛び込むんです。それでも貴女は、私が愚かで無いと言えますか? 先の分からない私を応援すると、明確な意思をもって断言出来るんですか?」
「出来るよ。だって、私は一織くんの友だちだから」
「意味が分からないです。それが何故私を信じることに直結するんですか」
「ええ、そう言われてもなあ。……アイドルになるっていう夢は、一織くん自身が決めたことだろうから。大好きな友だちが目指す未来を、応援しないはずが無いと思うんだけど」
「……これが私自身の夢じゃないとしても、ですか」
諦めたように瞳を伏せて、一織はそっと呟いた。名前は心臓が跳ね上がるほどに驚いて、彼の顔をじっと見詰める。今まで近寄ることすら赦されていなかった一織の心の奥に触れている。それを感じ取ってしまったから。
脳裏に浮かんだのは、常に屈託なく笑う一織の兄。小さい頃からずっとアイドルに憧れ続けていた、名前の二人目の幼馴染み、和泉三月だ。三月は、日本中に旋風を巻き起こした国民的アイドルのゼロに焦がれ、目標とし、現在も身長の低さにめげずオーディションを受け続けているという。けれど結果は奮わないようだとも聞いていた。
三月は昔、一織にねちねちと嫌味を言われ憤慨する名前をよく優しく宥めてくれていたものだった。一織だって口には出さないけれど、常に笑顔で一生懸命な兄が大好きなのは傍目からも分かる。名前もまた、本当のお兄ちゃんのように慕っていたのだ。
一織は、勉強も運動も人並み以上にこなせる才能があった。いつだって冷静に現実を見据え、がむしゃらに何かを追い求めることは殆ど無くて。もし今回も、兄への思い遣り故に決断したことなのだとしたら。
「兄さんも一緒に。その条件で受けたんです、スカウト」
「そっかあ。三月くん、喜んでたでしょ」
「ええ、それはもう。かわ、……年甲斐も無くはしゃいでましたよ」
「昔からの夢だったもんね。私も嬉しいな」
「……けれど私は、覚悟も何も無いまま、自分の一生をも左右する決断をしてしまいました。兄さんのためと言ったら美談に聞こえますけど、そんなのただの私のエゴです。弟のついでにスカウトされたと聞いたら、兄さんが傷つくことだって分かっているのに」
「……それでも、一織くんはアイドルになることを選んだんだよね。ならもっと、どーんと胸を張ってもいいんじゃないかなあ」
名前は笑って、一織の手を包み込むように握った。大きくて硬くて、けれど繊細でほっそりとした指先は、二つの掌を使っても全部覆うことは出来そうにない。
名前がこうして言葉を重ねるのも、自分のエゴ故だ。言いたいことを口にしなかったなんて後悔をしたくないから。例え今この瞬間、彼に嫌われたっていい。 決して、自分が一織の心を動かせるなんて自惚れてはいない。
それでも。小さい頃、自分に自信の無かった名前に勇気をくれた一織のために。最大限の想いを捧ぐ覚悟は既にあった。
「一織くんは、人の良いところを見つけるのが得意だよね。いつも視野が広くて冷静で、中学校時代は生徒会で何度も助けてもらった」
「……貴女は独創性がある分、猪突猛進で大胆ですからね。誰にでも分け隔てなく接して、いつも校内を走り回っては誰かのために働いて。見ていて飽きなかったです」
「一織くんがいたから好きなことを自由に出来てたんだよ。私のどんなに突飛のない提案でも、一織くんは全部きちんと受け止めて、検討して、ちゃんと答えをくれたよね。私が書いた穴だらけの企画書にもびっしり赤ペンで訂正入れてくれてさ。私、嬉しかった。一織くんは真面目で、自分にも他人にも厳しくて、でも不器用なくらい優しいんだなあっていつも思ってた」
「……相変わらず変な人ですね。私を優しいなんて形容するのは、貴女くらいですよ」
「それは光栄だな。……でも私はね、何かを目指す上で、高尚な理由なんて無くてもいいんじゃないかなって思うんだ。そもそも、私が生徒会長に立候補したのも一織くんみたいになりたかったからだし」
「はあ? そんな下らないことを考えていたんですか?」
「えっ、下らなくなんてないよ。どんなことにも真面目に取り組んで、一定以上の結果を必ず出して、それでも自分を誇示せずに凛と前を向く一織くんは、ずっと私の憧れだったもん。だから私、追い付きたくて必死だった。でも、一織くんがアイドルになるなら、これからもっと頑張らなきゃいけないね」
「……貴女は、本当にばかだな」
ふい、と目線を外に投げ出して、一織は考え込むようにそっと俯く。繋がる掌を再度握り締めて、名前は瞳を伏せて微笑んだ。私は今、彼のために何が出来るんだろう。必死に考えて、考えて、それでも答えは出なくて。
「ねえ、名前」
それはやわらかくて、穏やかで、優しい声だった。耳を包み込まれるように紡がれた自分の名前に、思考の波に沈んでいた名前の意識がふわりと引っ張られる。
一織は、口元を柔らかく緩めながら名前を真っ直ぐに射抜いた。その瞳に力強く浮かぶ光が、名前の胸を温かい感情で満たしていく。
「……私はまだまだ未熟で幼くて。その上、自分一人では将来を決められないほどに弱くて情けないです。それでも、こんな私でも、自分の力で誰かを笑顔にしたい」
「大丈夫だよ。だって私は、一織くんが頑張ってる姿を見るだけで勇気を貰える。一織くんが笑ってたら、それだけで私も幸せになれるから」
「よくもまあ恥ずかしげもなく言えますね。……でも、ありがとうございます」
僅かに赤らんだ顔を隠すように、一織は右手で口元を覆った。
「あと、たった今出来ましたよ。私がアイドルになりたい理由。もちろん秘密ですけど」
「ええっ、何でそうやって焦らすの!? 一織くんのけち!」
「はいはい、ごめんなさい。私、喉が渇いたのでお茶取ってきますね。それよりも名前、早く宿題を終わらせた方がいいんじゃないですか」
早口で捲し立て、一織は自室から一目散に出ていった。寂しいような悔しいような複雑な思いを抱いた名前であったが、あんな後ろ姿を見たら文句なんて言えそうにもない。
耳まで赤く染めて、照れる時だけ素直なのは相変わらずだなあ。名前は思い、自分の顔にも急速に熱が集まってくるのを自覚した。
───苗字さんは、わらった顔がいちばんかわいいよ。
胸の奥底で大切に仕舞っていた声が、ふわりと浮かび上がる。あれは、出逢ったばかりの頃だっただろうか。今よりもずっと幼くて拙くて、けれど何よりも私を励ましてくれた、魔法のような言葉だった。
未だに初恋をずるずると引きずっている自分に呆れながら、名前は膝をまるめて一織の帰りを待つ。自分はどうしようもなく幸せで、どうしようもなく欲張りだったのだと痛感してしまった。
「名前、聞いてますか?」
「えっ!?」
一織に顔を覗きこまれるように見つめられて、心臓がどきりと音を立てた。いつのまにか、終わりの見えない思考の海に浸かっていたようである。
ああそうか。いよいよ、彼が家を出る日がやってきてしまったんだ。
未だに実感がわかずぼんやりとする名前を見て、一織は呆れたように、けれど僅かばかり心配を滲ませた表情で、小さく溜め息を吐いた。
「ああ、はいはい。今の反応で私の話を微塵も聞いていなかったことが分かりました。ごめんなさい、こちらの配慮が足りなくて」
「ご、ごめんってば一織くん……。だからあんまり意地悪言わないでよ……」
「…………、本当に可愛いひとだな」
囁くように紡がれたそのやわらかな声が、名前の鼓膜をそっと刺激する。昔の思い出を想記させるような甘く優しい言葉に、顔が沸騰するかと感じるほどに熱くなった。それを誤魔化すように、名前は笑顔を浮かべながら視線を反らす。
「……一織くん、熱でもあるの?」
「あったら今頃部屋で寝てますよ。それより、本当に何も聞いてなかったんですね」
「ご、ごめんね……?」
「別に、もういいです」
拗ねたような声音で吐き出して、一織はふいと横を向いた。怒らせてしまった時はそっとしておくのが一番だけれど、このままお別れするのは嫌だなあ。
「ほら。そろそろ学校に行きますよ」
「うん、分かった……」
鞄を抱えゆるゆると立ち上がった名前とは対照的に、一織はてきぱきと準備を終えて既に店の出口にまで歩みを進めていた。
何か言わなければならない、と焦るばかりの名前を置き去りにするその背中は、とても広くて、大きくて、切なくなるほどに遠くて。
なんで、こんなにも距離が開いちゃったんだろう。考えれば考える程に苦しくなって、感情が溢れだす。
「……ああもう、なんて顔してるんですか」
ふわり。柔らかい何かが、やさしく首に巻き付けられる感覚がした。自分の足下を見て立ち止まっていた名前は、全身を震わせながらそっと目線を上げる。
一織は、眉間にシワを寄せて、唇をぎゅっと引き結んでいた。ああ、また呆れられちゃったんだ、と名前は自分の駄目っぷりに瞳を閉じる。暗くなった視界の中で、頬をつたう滴は涙なのだとようやく自覚した。いやだ、嫌われたくない。面倒臭いやつだって思われたくない。最後の日くらい笑顔で一緒に過ごしたいし、一織くんの邪魔になりたくないのに。
「あなたを笑顔にしたくてアイドルになるのに、泣かせるなんて本当に情けないですね。私は」
季節外れのマフラーに顔を埋めた名前の唇に、一織もまた自分のそれを重ねた。やわらかい布越しに触れた温もりに、辛うじて抑えていた思いがすべて溢れだす。
「いおり、くん……」
「……はい」
「すき、……すきだよ」
一織のブレザーの袖を掴んで、名前は思いの丈を吐き出した。すると今度は、彼に腕を掴まれて、掌に触れられて、やさしく指先が絡まっていく。
「知ってますよ。……それこそ、昔からずっと」
名前の思いをすべて掬い上げ、包み込むように一織は微笑んだ。
「先程、私がなんて言ったのか知ってますか?」
「うっ……ごめん。分からないや」
「───あなたは、私の夢そのものです。あなたのように、誰かのために一生懸命がんばれる人で在りたい。あなたが弱さを見せたいと思ったとき、隣に寄り添って心を包み込んであげられるくらい器の広い男で在りたい。……だから、私がアイドルを目指す理由は、あなたを笑顔にするためです」
ぽかんと一織を見上げ、降り注ぐ言葉ひとつひとつを噛み締めるように受け止めて、胸の奥底で燻る熱に身を委ねて。名前は、言葉なく一織にすがりついた。背中に回る大きな掌に、再び涙が込み上げる。
「名前が寂しいと思う暇もないくらい、毎日テレビに出てみせますから。覚悟しておいてください」
「うん、信じてるよ。……だから、もし私が必要なことがあったらいつでも連絡してね。一織くんのためなら、どこへでも飛んでいくから」
沈黙が落ちる。視線が重なり合う。やがて二人の瞳は互いを捉え、そして。慈しむように、愛を捧ぐように、密やかに口付けを交わした。
ゆっくりと距離が離れて、至近距離で見つめ合い、やがて同時にふいと視線を反らす。
「名前は、寒暖差が激しいとすぐに風邪を引きますからね。私がいなくても、ちゃんと温かくしてくださいよ」
「うん、分かった。……マフラー、私が前に欲しいって言ったの覚えててくれたんだね」
「当たり前じゃないですか。……さて、そろそろいい時間ですね。行きましょう」
一織くんがこれから歩んでいく道には、きっと辛いことも楽しいこともたくさんあるだろう。それを私が全部共有することなんてとても出来ないし、きっと一織くんだってそれを望んでいない。
だから私は、私自身の夢を見つけてみせる。彼に誇れるような人生にするために。彼が好きだと、自信をもって言えるように。
ラベンダー色のマフラーを、名前は再びぐるぐると首に巻き付ける。そこには、幸せの温もりがたくさん詰まっていた。
「一織くん! だいすき!」
「そっ……、んな、大声出さなくても分かってますよ!」
そして私たちは、未来への一歩を踏み出す。どこまでも輝かしい希望と夢に満ちた道を、自分で創っていくんだ。