04:トランプ色のナイフ
視界の左端が黒く染まった。続けて耳から髪がはらはらと零れ落ちる。今朝方に作ったおにぎりの海苔みたいだな、等と呑気なことを思った。
いつの間にか髪留めが必要なくらい伸びていたことに気付き、自分がベーカー街に来てそれなりに時間が経ったことを実感した。
なにせ冬が顔を覗かせてきたため、御琴羽さんが暖炉の使用を検討していたくらいだ。
つい手慣れた味噌汁を作ってしまいがちだったけれど、ホームズさんのためにステーキパイ───ビーフシチューをパイ生地で包んだ料理だ───に挑戦してみるのも良いかもしれない。
やはり慣れ親しんだ味の方が好ましい時も多いだろうから。
自身が担う家事について思いを馳せつつ、手元の書籍に目を落とす。
英語を改めて学び直し、大英帝国の情勢や歴史を頭に詰め込む日々を送っていたが、ようやく自分の中で及第点に達しようとしていた。
それでなくともこの一ヶ月、御琴羽さんには度々買い物へ連れて行ってもらい、ホームズさんには捜査に誘われ続けていた。
事件現場に漏れなく着いていっては、二人して御琴羽さんに呆れられるばかりだったけれど。元々イギリスという地にもホームズという名にも惹かれていた身なので、断るという選択肢は端から存在しなかった。
お陰様で一人で外出できる状態にはなったものの、二人と出会ったキッカケが鮮烈だったためか家の外で独りになったことはない。
自分の身が可愛いというよりも、御琴羽さんに心配をかけてしまうことを避けたかった。
その意図を察しているからこそ、わたしがホームズさんに連れ立って外出することを無理やり止めようとしないのだろう。
先ほど留学生として病院へ出かけた際も、特に心配する素振りは見せなかった。
「さて、ミス・ナマエ。出かけるとしようか」
複数の試験管をカチャンと鳴らして机に置く間も、ホームズさんは緩く椅子に腰掛けていた。
ひどく退屈そうな顔で謎を追い求める姿は、原典からして想像通りではある。しかし未成年であることを考えると危うくて歳不相応で、御琴羽さんが友人として心配する気持ちも分かる気がした。
「今日はどちらに?」
「フレスノ街。イーストエンドのハズレにある小さな区画だ。そこにある唯一のガラス工房に行く」
イーストエンドといえば、かの有名な切り裂き魔を生み出した下町だ。
世界一の技術力を誇る大英帝国の煌びやかな光の下で、静かに犠牲になっている闇の巣窟。新聞に日々躍る犯罪の記事は、現代の価値観から見ても残虐であり頻度が高かったものの、倫敦の人々は娯楽として認識しているようだった。
殺人事件の号外に群がる市民を見た時なんて、あまりの倫理観に絶句したものだった。
怖くないといえば嘘になるが、同じくらい興味もあった。
自分自身を欠陥品だと自覚しているからこそ、人間という生き物が抱える醜い闇に惹かれるのかもしれない。
かの有名な『フランケンシュタイン』や『ドラキュラ』といった怪物の概念───この世界には存在しないらしいけれど───が誕生したのも、倫敦の闇がバックグラウンドにあることは有名だ。
意識的に英文学を学んでいた人間として、どうしても目を逸らす訳にはいかない。
手早く外出用のコートを羽織ったホームズさんに倣って、わたしもなるべく迅速に防寒対策をした。
未だに朝日の波にぷかぷかと浮いているような現実味のない気分だったけれど、身体を動かさなければ何も始まらない。
「ほう。では、そのガラスのナイフが凶器だったと」
「ああ」
ぶっきらぼうに応答した老人の反応を受け、ホームズさんは血のついた透明な刃物をじっと眺めた。
先端から柄の部分まで余すところなく透き通ったそれに、わたしもつい目を奪われる。
豪快に赤黒い血痕がついていても、陽射しに照らされたナイフはきらきらと乱反射していた。
表面が滑らかとは程遠いざらざらとした印象で、ビー玉のような気泡を数多く内包している。
機械で作る精巧な作品とは程遠く、質は低い筈なのに。今朝ほど傷害事件に使用されたばかりの、忌むべき凶器であるというのに。
美しさと醜さをアンバランスに発露する鋭利な光に、自然と神経が集中していた。
「とてもきれい」
つい零れ落ちた思考が拾われたことを知るのは、目の前の老人が不快そうに眉を上げたためだった。
現場では目立たないように大人しくしているつもりだったのでハッとする。
ホームズさんでさえ興味ありげにこちらを見遣っており、穴があったら叩き付けられたい気分だった。
「ごめんなさい。差し出がましいことを……」
「物好きめ。手作業のガラスなんてイマドキ誰も見向きせんわ」
唾棄するような物言いの老人はしかし、わたしに対する悪意は抱いていないようだった。
ずっと他人から無様だと言われ続けていた身だから分かる。他者を害する意図のある人は、どんなに表情が穏やかであっても怖いくらい目が濁っているものだ。
「わたしは素敵だと思うんですけど」
「ふん」
下町の労働者は、産業革命により職を奪われた歴史があったと聞く。まさにその当事者なのだろう。
痛ましいがわたしに同情する資格など無いため、頭を下げてから小さな工房を軽く見回した。
大小様々なガラス製品が並べられていて、口には出せないが物凄く心が躍る。
手作業の産業形態、いわゆるマニュファクチュアによって作られたアンティークのガラスは、現代にいた頃からずっと憧れていた。
もちろん、作られたばかりなので骨董品 と呼ぶのは相応しくないだろうけど、わたしから見たらこの世界は全て等しく過去のものに見えてしまう。
ホームズさんが推理にわたしを巻き込むことは一切ないため、失礼のない範囲で思う存分工房の空気に浸っていた。
御琴羽さんがいない時は小さめの事件捜査にしか繰り出さないので、今日もきっとすぐに終わるだろう。
赤黒く透明なガラスに再び目を奪われつつ、くるくると動き回るホームズさんを視界の隅で見詰めていた。
相変わらず、楽しくなさそうな顔をしながら無邪気な言動を取るひとだった。
わたしは自分を好きだなんて微塵も思えそうにないけれど、このひとはどうなのだろう。
答えのない問いを呼吸と共に吐き出した後、今日の晩御飯は何にしようかと考える。やはりステーキパイが良いだろうか。
言葉に出来ない異物感に押し潰されそうになりながら家事に思いを馳せるわたしも、あの美しいガラスに負けず劣らずちぐはぐな存在だった。
いつの間にか髪留めが必要なくらい伸びていたことに気付き、自分がベーカー街に来てそれなりに時間が経ったことを実感した。
なにせ冬が顔を覗かせてきたため、御琴羽さんが暖炉の使用を検討していたくらいだ。
つい手慣れた味噌汁を作ってしまいがちだったけれど、ホームズさんのためにステーキパイ───ビーフシチューをパイ生地で包んだ料理だ───に挑戦してみるのも良いかもしれない。
やはり慣れ親しんだ味の方が好ましい時も多いだろうから。
自身が担う家事について思いを馳せつつ、手元の書籍に目を落とす。
英語を改めて学び直し、大英帝国の情勢や歴史を頭に詰め込む日々を送っていたが、ようやく自分の中で及第点に達しようとしていた。
それでなくともこの一ヶ月、御琴羽さんには度々買い物へ連れて行ってもらい、ホームズさんには捜査に誘われ続けていた。
事件現場に漏れなく着いていっては、二人して御琴羽さんに呆れられるばかりだったけれど。元々イギリスという地にもホームズという名にも惹かれていた身なので、断るという選択肢は端から存在しなかった。
お陰様で一人で外出できる状態にはなったものの、二人と出会ったキッカケが鮮烈だったためか家の外で独りになったことはない。
自分の身が可愛いというよりも、御琴羽さんに心配をかけてしまうことを避けたかった。
その意図を察しているからこそ、わたしがホームズさんに連れ立って外出することを無理やり止めようとしないのだろう。
先ほど留学生として病院へ出かけた際も、特に心配する素振りは見せなかった。
「さて、ミス・ナマエ。出かけるとしようか」
複数の試験管をカチャンと鳴らして机に置く間も、ホームズさんは緩く椅子に腰掛けていた。
ひどく退屈そうな顔で謎を追い求める姿は、原典からして想像通りではある。しかし未成年であることを考えると危うくて歳不相応で、御琴羽さんが友人として心配する気持ちも分かる気がした。
「今日はどちらに?」
「フレスノ街。イーストエンドのハズレにある小さな区画だ。そこにある唯一のガラス工房に行く」
イーストエンドといえば、かの有名な切り裂き魔を生み出した下町だ。
世界一の技術力を誇る大英帝国の煌びやかな光の下で、静かに犠牲になっている闇の巣窟。新聞に日々躍る犯罪の記事は、現代の価値観から見ても残虐であり頻度が高かったものの、倫敦の人々は娯楽として認識しているようだった。
殺人事件の号外に群がる市民を見た時なんて、あまりの倫理観に絶句したものだった。
怖くないといえば嘘になるが、同じくらい興味もあった。
自分自身を欠陥品だと自覚しているからこそ、人間という生き物が抱える醜い闇に惹かれるのかもしれない。
かの有名な『フランケンシュタイン』や『ドラキュラ』といった怪物の概念───この世界には存在しないらしいけれど───が誕生したのも、倫敦の闇がバックグラウンドにあることは有名だ。
意識的に英文学を学んでいた人間として、どうしても目を逸らす訳にはいかない。
手早く外出用のコートを羽織ったホームズさんに倣って、わたしもなるべく迅速に防寒対策をした。
未だに朝日の波にぷかぷかと浮いているような現実味のない気分だったけれど、身体を動かさなければ何も始まらない。
「ほう。では、そのガラスのナイフが凶器だったと」
「ああ」
ぶっきらぼうに応答した老人の反応を受け、ホームズさんは血のついた透明な刃物をじっと眺めた。
先端から柄の部分まで余すところなく透き通ったそれに、わたしもつい目を奪われる。
豪快に赤黒い血痕がついていても、陽射しに照らされたナイフはきらきらと乱反射していた。
表面が滑らかとは程遠いざらざらとした印象で、ビー玉のような気泡を数多く内包している。
機械で作る精巧な作品とは程遠く、質は低い筈なのに。今朝ほど傷害事件に使用されたばかりの、忌むべき凶器であるというのに。
美しさと醜さをアンバランスに発露する鋭利な光に、自然と神経が集中していた。
「とてもきれい」
つい零れ落ちた思考が拾われたことを知るのは、目の前の老人が不快そうに眉を上げたためだった。
現場では目立たないように大人しくしているつもりだったのでハッとする。
ホームズさんでさえ興味ありげにこちらを見遣っており、穴があったら叩き付けられたい気分だった。
「ごめんなさい。差し出がましいことを……」
「物好きめ。手作業のガラスなんてイマドキ誰も見向きせんわ」
唾棄するような物言いの老人はしかし、わたしに対する悪意は抱いていないようだった。
ずっと他人から無様だと言われ続けていた身だから分かる。他者を害する意図のある人は、どんなに表情が穏やかであっても怖いくらい目が濁っているものだ。
「わたしは素敵だと思うんですけど」
「ふん」
下町の労働者は、産業革命により職を奪われた歴史があったと聞く。まさにその当事者なのだろう。
痛ましいがわたしに同情する資格など無いため、頭を下げてから小さな工房を軽く見回した。
大小様々なガラス製品が並べられていて、口には出せないが物凄く心が躍る。
手作業の産業形態、いわゆるマニュファクチュアによって作られたアンティークのガラスは、現代にいた頃からずっと憧れていた。
もちろん、作られたばかりなので
ホームズさんが推理にわたしを巻き込むことは一切ないため、失礼のない範囲で思う存分工房の空気に浸っていた。
御琴羽さんがいない時は小さめの事件捜査にしか繰り出さないので、今日もきっとすぐに終わるだろう。
赤黒く透明なガラスに再び目を奪われつつ、くるくると動き回るホームズさんを視界の隅で見詰めていた。
相変わらず、楽しくなさそうな顔をしながら無邪気な言動を取るひとだった。
わたしは自分を好きだなんて微塵も思えそうにないけれど、このひとはどうなのだろう。
答えのない問いを呼吸と共に吐き出した後、今日の晩御飯は何にしようかと考える。やはりステーキパイが良いだろうか。
言葉に出来ない異物感に押し潰されそうになりながら家事に思いを馳せるわたしも、あの美しいガラスに負けず劣らずちぐはぐな存在だった。