「おい、いい加減飲みすぎだぞ」

アルコールが回ってぼんやりしていた脳内に、慶太くんの呆れたような声が沁み渡っていく。名前は自身を諌めるお説教に聞こえないフリをしながら、手元のウイスキーを勢いよく呷った。喉を焼くような痛みを覚えた拍子に、目尻に溜まっていた涙がほろほろと零れていく。
放っておいてくれたっていいのに、彼は優しい手つきで目元を拭ってくれた。汚しちゃって申し訳ないなあと思いつつ、名前はこの底抜けに甘やかし上手な幼馴染みにいつも頼ってしまうのだ。

「大丈夫だよ。明日は一日、何にも予定無いし」
「でも、亜貴の手伝いするって張り切ってただろ」
「亜貴くんには、私がいなくても大丈夫だから」
「……まあ、お前がそれでいいなら何も言わねえけどさ」

慶太くんはグラスの氷をカラカラと回しながら、困ったように眉を下げてこちらを覗き込んでくる。

「一応、お節介焼いておく。何でも溜め込んで後悔するくらいなら、きちんと毒抜きした方がいいと思うけど」
「……意地悪」
「何とでも言え。今更そんなことで距離置くような関係じゃねえだろ、俺たち」
「そう、だけど。慶太くんに呆れられたり、嫌われたりするのイヤだよ」
「それ本気で言ってんなら怒る」
「……お、怒られたくない」
「ならさっさと吐いちまえばいいんじゃね」

心の棘をそっと溶かしてくれるような温かな声音に、目頭がまた熱くなる。背筋を真っ直ぐ伸ばしながら前を向く横顔が、名前は昔からずっと好きだった。

「なんかね、最近会社で初歩的なミスばかりしてるの。それで情けないなあって思ってて」
「ふうん。本当にそれだけか?」
「……ううん」
「だと思った。いいから言ってみ?」
「……さっき、亜貴くんが女の人と歩いてるの見かけちゃって。この間のパーティーで、赤いドレスを着てた凄く美人な人」

名前の父はアパレル商社の社長であり、名前も多忙な父を支えるためプライベートでは秘書代わりに付き添いをすることが多かった。
パーティーへの出席は個人的な付き合いとはいえ、会話の一つ一つにビジネスが絡んでくる。そこで気を抜くことは許されず、名前も頭の中に仕舞い込んだ資料とメモ帳をフルに働かせていた。
もちろんパーティーといえど幼馴染みと悠長にお喋りをしている暇などなく、名前は亜貴の様子を密かに伺うばかりだったのだ。

「ああ、あのやけに亜貴に媚び売ってた奴な。商談かと思えばプライベートな話ばっか振ってきてたし、典型的な顔だけの女って感じだったぞ」
「そ、そんな辛辣に言わなくても」
「俺、お前が泣かされてんのにいい子ぶるほど人間出来てない」

その声が思いの外真剣で、名前はハッと息を呑んだ。慶太くんは、理由なく人を傷付ける人ではない。

「お前が見てたこと、亜貴は気付いてなかったんだろ?」
「うん。でも、女の人は分かってたみたいで」
「なんかされたのか?」
「キスできるくらい距離が近かったのに、……亜貴くん嫌がってなかった」
「まあ、無下には出来ないだろうな。得意先のパタンナーの娘だから」
「む、娘さん……。そっか、だから顔を知らなかったんだ」
「ああいうパーティーは初めてだって言ってたし、名簿にも載ってなかったからな」
「よく覚えてるね?」
「だってその時、お前すごい顔で亜貴のこと見てたろ。どうせ一人で悩んでウジウジするだろうから、せめて亜貴の潔白くらい証明しようと思って」
「えっ!? い、いつ見てたの……?」
「わかんね」

彼が相手を思って曖昧な物言いをすることはよくあるが、幼馴染み相手に発揮されることは殆どない。先を促すように首を傾げると、慶太くんは頬杖をつきながらこちらをぼんやりと見遣った。

「だって俺、気付いたらお前のこと見てんだよ」
「私、そんなに危なっかしい? 亜貴くんにもよく言われるけど」
「まあ、熱があるのにぶっ倒れるまで仕事やるし、服飾の知識がないからっていきなり男だらけの工場に飛び込むし、パーティーで仕事取るために大御所の名刺いきなり貰ってきたりするし。目は離せないよな」
「うっ……! だって私ふたりに比べて頭が良くないから、せめて人の倍は身体動かさないと」
「そういうガッツあるとこは凄えなって思うけど。……お前がそんなに色々頑張るのって、亜貴のためだよな?」

夕焼けみたいに綺麗な瞳が、僅かばかり翳って名前を射抜いた。薄暗い店内ではハッキリと分からないものの、少し潤んでいるようにも見える。

「ううん、違うよ。そりゃ亜貴くんには揶揄われてばかりだから認めてもらいたいなって思うし、それが原動力になってるところはあるけど。手のかかる弟みたいな感覚だし。───私がいつも頑張ろうって思えるのは、慶太くんのお陰だよ」
「…………は?」

珍しく気の抜けた顔をする彼を見て、これは亜貴くんに自慢できるなあと思った。しっかり者で優しい幼馴染みが油断している表情を見せてくれるのは、なかなかレアなのだ。

「慶太くんは、私よりずっと仕事が出来て要領も良いのに、いつも同じ目線に立ってお喋りしてくれるでしょう? その優しさに少しでも報いたくて、努力しようって思えるから。……実は、いつか慶太くんの隣に並ぶのが私の目標なんだ」

昔から抱いていた密かな夢を零すと、気恥ずかしさで胸が満たされる。けたたましく心臓が鼓動を刻むのは、きっとアルコールのせいだけではない。

「……お前ってバカだな、本当に」
「あ、ひどい」
「俺なんかに憧れるとか、バカ以外の何ものでもないだろ」
「慶太くんが自分を大切にしない分、私が慶太くんを大切にしたいの」

名前は逸らされた視線を追いかけず、膝の上で強く丸まった拳を両手で包み込んだ。彼が初めてプレゼントしてくれた松ぼっくりのように、優しさの詰まった大きな手だった。

「でもなんだか安心した。亜貴くんが、慶太くん以外に目を向けるわけないもんね」
「おい、気色悪い言い方するなよ」
「だって私、いつもふたりには敵わないんだもん」
「俺だってお前には敵わねえよ。……まあでも」

はにかんでから名前の掌を握り込み、彼はもう片方の手で頭をくしゃくしゃと撫でてくれる。

「お前は何も心配しなくていいよ。誰かに何か嫌なことされても、俺が守ってやるから」

やはり彼は、己に頼ってくれないのだと切なく思いながらも名前は笑った。彼の心を守ってあげたいと幾度も思ってきたのに、それが名前の役割でないことがとても悔しい。

ウイスキーを飲むためにグラスを傾ければ、カランと氷が溶ける音がした。心の底にこびり付いたモヤモヤも、こうして全て消えてなくなってしまえば楽だろう。

けれど、少し願うだけで簡単に消えてしまう程の感情ならば、それはきっと愛ではない。こうして誰かを想う度に胸が痛み、遠くにある背中に追いつくために努力するから、人は成長することができる。たとえその先に待っている結末が望むものでなくとも、必ず未来の自分の糧になるのだ。

「やっぱり私、明日亜貴くんのところに行く!」
「ん、名前ならそう言うと思った。頑張れよ」
「ありがとう。本当に、いつもながら一方的に話しちゃってごめんね……」
「いや、泣いてるお前を放っておく方が落ち着かない」

揶揄うような口調に、名前はハッとしながら自分の顔に触れる。ああ、きっと涙で酷いものになっているに違いない。
名前が幼い頃に、誰よりも焦がれた王子様。そんな慶太くんから優しく見詰められると、どうにも胸の底を擽られるようにソワソワとしてしまった。

いつか名前にも、ガラスの靴を落とす機会が訪れるのだろうか。そのためにもまずはカボチャの馬車を作らなければと意気込みつつ、名前は瞳を閉じて夜のやわらかな空気に浸った。

自分で思うよりもきっと、世界は優しさで溢れている。