「ナマエちゃん。わたくしはね、時折思うのよ。自分など、誰にも必要とされていないのではないか……って」

いつも花のように微笑む彼女が憂いを帯びた言葉で唇を震わせた時、わたしが驚くことはなかった。

他者へ優しさを分け与えられるひとほど、その内側に覆い隠す傷や痛みは深く大きく底が知れない。御琴羽くんもホームズくんも、亜双義くんやクリムトさんも、グレグソンさんだってそうだろう。
差別、偏見、欺瞞、嫉妬。人間という生き物が産み落とす負の感情に満ちたこの社会では、他者を慈しむ強さのある人ほど誰かに搾取されていく。それが血の繋がった家族である場合もあれば、仕事上の関係者であったり、はたまた社会に蔓延る権力者であったりする。

人が人である限り、わたし達は常に誰かから傷付けられ、誰かを傷付ける可能性がある。他者に共感できる感受性豊かな彼女は、きっと本能的にそれを理解しているから自分の在り方について悩むのだろう。他でもない自分自身に対して誠実であろうとする友の精神が、やはりわたしは好きだと思った。
きっとベリルちゃんは慰めや労りを必要としている訳ではなく、素直にわたしの言葉に耳を傾けたい気持ちなのだと察する。

今までにも何度かふたりきりで教会に足を運んでいたけれど、今日は礼拝日でないためかいつになく人気がない。胸の内をほんの少しでも晒してくれた信頼に応えたくて頭上を仰げば、鈍い光に照らされたステンドグラスのマリア様が微笑んでいた。そのクリスマスのような色合いは、常ならば美しいと感心したのだろうけれど。

「わたしもね、友達がいるのにこの世界でひとりぼっちだって思っちゃう時はあるよ。それが人間という生き物らしさではあるんだけど……幸せを噛み締めた時ほど孤独を近くに感じるの、不思議だよね」
「……そうね、とても不思議だわ。私はこんなにも恵まれているのに、不誠実なことばかり考えてしまうの」
「ベリルちゃん。本当に不誠実なひとは、自分のことをそんな風に責めないよ」
「そう、なのかしら……」

由緒ある家で妻としての務めを果たす上での苦労を打ち明けてもらう度、わたしは彼女の肩の荷の重さを思って空を仰いでしまう。
バンジークス家も生家も家柄が良いからこそ、身分が低い貴族から嫌がらせを受けることもあるのだと言う。高い地位を持たざる人間から見れば、成人を迎えたばかりの自分は鬱憤を晴らすのにちょうど良いのでしょう、とかつて笑っていた顔を思い出す。

クリムトさんは司法界で期待される人材であり、下町の住民にさえ注目される存在だった。裁判で有罪にされた犯人の関係者からの心無い嫌がらせが屋敷に届くこともあるという。女主人として、使用人と共にクリムトさんの耳にそれらの言葉が届かぬよう奔走しているようだった。
正直、もっと周囲に頼れば良いのにと歯がゆく感じてしまう。しかし、英国人でも貴族でもない外国人の立場で己の価値観を押し付けることは避けたいため、彼女の心が壊れてしまわないように見守ることに徹していたのだけれど。

「ねえベリルちゃん。どこか旅行に行きたい場所ってある?」

あらゆるしがらみに囚われた心を、ほんの少しの間だけでも自由にしてあげたいと思った。

「……そうね、最近はそんなこと考えてもいなかったわ。いつか日本で桜を見てみたい気持ちはあるけれど」
「素敵だね。ベリルちゃんと一緒にお花見するのも楽しいんだろうな」
「お花を見ながら一緒にお弁当を食べる行事なのよね、興味深いわ。……けれど、私がご一緒しても大丈夫なのかしら」
「どうして?」
「ナマエちゃんが行くならあの探偵さんも来るでしょう。お邪魔にならない?」
「それなら大丈夫。ホームズくんはわたしなんて気にせず好き勝手にやると思うし、もし万が一来たとしても邪魔なんて思うひとじゃないよ」
「あらまあ、そうなの。……ふふ」

先程に比べてやたらと和やかに微笑むものだから、喜ばしい反面その理由が分からずに首を傾げてしまう。口元に手を添えながら上品に目を細めた彼女は、心底嬉しそうに声を弾ませた。

「ナマエちゃんは、探偵さんのことが本当に大好きなのね」

大好き、という言葉の意味を読み取って、つい視線を逸らしてしまう。何故か確信を持っている様子の彼女は、けれどわたしの気持ちを決めつけている訳ではないのも分かっていた。

「……もちろん好きではあるんだけど」
「けれど?」
「あまりにも特別なひとすぎて、今更恋をする段階を飛び越えてしまった……というか」

初めて自分の感覚を口にすれば、自然と顔に熱が集まっていく。ここ最近密かに抱えていた悩みを恐る恐る晒したことで、しこりのような違和感が具体的な形を帯びたような気がした。
年下でありながら尊敬すべき友人は、狼狽えるわたしの手をゆっくりと取りながら微笑む。

「ナマエちゃん。恋をしなければひとを愛せない訳ではないわ」

心臓のやわらかい部分を、彼女の言葉がやさしく撫ぜてくれたような気がした。咄嗟に言葉が出なくてグリーンの瞳を見つめ返せば、慈しむような光がわたしに降り注ぐ。

わたしは自覚した。この世界にとって異分子とも言える自分自身の存在に、未だどこか引け目を感じていたことを。
───わたしは、わたしらしく自由に在ればいいと。そう言ってくれたのは他でもないホームズくんだったというのに。

先程見上げていたステンドグラスを彷彿とさせる清廉な彼女の光が眩しくて、そっと目を細めた。

「ありがとう、ベリルちゃん」
「無理に答えを出す必要はないもの。焦らなくても、きっと彼も待ってくれているんじゃないかしら」
「うん。……そうだね、ゆっくり考えてみようと思う」

心が緩やかに解けていくままに笑った時、カタリと背後で物音がした。
この教会は、バンジークス家から程近い裏路地にある小さな場所だ。基本的にいつでも開放されており、わたし達以外に人が来ても不思議ではないのだが、嫌な予感が全身を鋭く駆け抜けていった。
普通の参拝者であれば聞こえる筈の足音が不自然なくらい鳴らず、教会には似つかわしくない暗い気配を感じる。……近頃イーストエンドにてよく見かける、社会や他人に搾取され尽くされて苦しむ人々に似た闇を。

内ポケットに装備している仕込みナイフに手を添えて、そっと息を潜めた。
ベリルちゃんは不安そうに目を瞬かせるものの、無闇に声を上げることはせず心配するようにわたしを見つめてくる。安心させるように微笑み返してから、わたし達が座る最前列の席から出口までの道程を脳内で振り返る。

「……ベリルちゃん」
「ええ、ナマエちゃん」

囁くように互いの名を呼んで、あらかじめ決めてあった不測の事態が発生した際のルールを確認する。
わたしが囮となり、彼女がその間に助けを呼ぶ。囮と言っても出来ることは限られているため、ホームズくんお手製の通信グッズを通じて、緊急事態が発生した合図を適切な人へ送る役目も果たさなければならない。

覚悟を決めてから勢いよく振り返ると、濁った目をした男が一人、こちらに突進し始めていた。ベリルちゃんはそれを認めてから男と反対方向に走り出す。脱走経路の最短距離を迷いなく走る背中に頼もしさを覚えた。
わたしを最優先に狙う理由としては、まず目的外の女を軽く排除した方が効率的だからだろうか。もしくは本命がこちらであるのか。思索をめぐらせながら敢えて真正面から迎え撃つ。

自分より力のある男性にタダでやられるつもりはない、と先日亜双義くんに豪語した言葉は決して嘘では無い。
実際ホームズくんから教わった柔術や徒手武術は護身用としてはそれなりに形にはなっていたし、脳内では冷静に御琴羽くんから習った人体の急所も分析できている。ジェームズさんから貰ったナイフも実用的で扱いやすく、常に持ち歩いているため既に身体に馴染んでいた。

相手の服装がスーツであることを見るに、上流階級に扮した下手人か、身分も家も何もかも捨てる覚悟を持った貴族本人か、はたまた誰かに命じられて来た下っ端か。
ステッキから覗く刃が一瞬キラリと光り、わたしに真っ直ぐ向かってくる。距離にしてあと数歩というところだろう。

相手の姿を見て微かな違和感を覚えたものの、余計なことを考える余裕なんてある筈もなく、心臓は恐ろしい程に震えて胸がすうっと冷えていく。
タダでやられるつもりはない。けれど、無傷で場を収められる程の力がある訳ではない。既に必要な連絡は済ませているし、最低限ここで時間稼ぎをすれば大切な友達だけは守ることが出来る。

必死にナイフを振りかぶって応戦して、その結果待ち受けていたのは───あの日のように、無様に床に這い蹲るわたし自身だった。
けれどずっとこのままではいられない。近場の椅子まで両腕の力で這って進み、ゆっくりと上半身だけを起こして体重を預けた。

出血量は多いが、致命傷にはなっていない。血の滲む脚をもたもたとハンカチで止血しながら分析する。せっかくベリルちゃんが贈ってくれた物だったが、彼女なら笑って許してくれるだろう。
傷を生んだ刃物は襲ってきた張本人が抜いて持ち去ってしまったから、下手に動けば失血死する可能性が僅かにあった。栓を失った傷口を覆うアザレアの刺繍が燃えるように赤くなって、やがて収まりきらなくなった血が床に広がっていく。
情けない結果になってしまったな、と自分に失望しながらボロボロの身体を見下ろした。ステンドグラスの光があの日の朝日のように降り注ぎ、わたしを責めるかのように染め上げていく。

どくどくと傷口を中心に脈打っていた痛みが、徐々に全身に広がっていった。まるで心臓の音みたい、なんて子どものような思考のままに、愚直な感情を自らさらけ出していく。

ベリルちゃんは無事に逃げられたかな。また一人で泣いていたりしないかな。刺された時に時間稼ぎをするべく、男の手に自分の手を重ねて刃を腿に深く押し込んだのが功を奏していれば良いけれど。お陰でしばらく防戦できたから、少なくとも表通りに行くまでの道は切り開けただろう。あとは然るべき人達に任せた方が良いのは分かっていた。

亜双義くんはしっかりと釘を刺してくれたのに、全て無駄になったと呆れた顔をするかもしれない。わたしは結局、ナイフを防衛に使うことしか出来なかった。攻撃のために相手を刺すことがどうしても出来なかった。誰かを守るために他人を傷付ける覚悟を持つのって、凄いことなんだね。一朝一夕でどうにかなる話でないと分かってはいるけれど、もっと武術の心得を深く聞いておけば良かったな。

クリムトさんはわたしを多少は信頼してベリルちゃんを預けてくれたのに、期待を裏切る結果になってしまった。わたしが失望されるのは構わないけれど、彼女の自由がこれ以上制限されてしまったらどうしよう。ベリルちゃんが、貴族ではないただ一人の女の子として過ごせる時間を、わたし自身が奪ってしまったならばどうしよう。失った信頼をどうしたら取り戻せるだろう。

バンジークス家の奥方が関連する事件ともなればスコットランドヤードも動くだろうから、グレグソンさんが多少はフォローしてくれるかもしれない。けれど恩人である警察官に頼ってばかりで、わたし自身は何一つ成長していないのが情けなくて仕方がない。グレグソンさんみたいに立派な大人になるのが目標なのに、まだまだ遠すぎてあまりにも烏滸がましいと感じる。

御琴羽くんはきっと心配してたくさん怒ってくれるんだろうな。重たい荷物を共に背負わせてくれるようになったあの夜から、有難いことに遠慮なく距離を詰めて対等に叱ってくれるようになったから。もし少しでも悲しんでくれるならば申し訳なくて、なるべく誠実に謝罪したい気持ちが湧いてくる。

ジェームズさんの工房にしばらく行けそうにないことも、ちゃんと連絡しておかなくては。真面目なひとだから、表面上は何でもない顔をしながらも多少気にはしてくれる筈だ。電報や手紙を送られるのを嫌がるひとでもあるので、なるべく直接訪ねてくれるひとがいれば良いのだけれど。

「……やっぱり、ホームズくん、かな」

名前を口にするだけで、重たくて暗い感情がわたしの身体を貫いていく。

ホームズくん、わたしね。これでも自分なりに頑張ったんだよ。全然上手くいかなかったけど、友達を守るために出来る限りのことはしたつもりなんだ。今日の出来事をキッカケに誰かから嫌われたり失望されたりしても後悔はないし、全てを受け止めていきたいと思う。

でもね、だからこそ気付いてしまった。わたし、他でもないあなたから見捨てられるのが怖い。あなたの傍で生きていけなくなるのが怖い。あなたの顔を見れないまま死ぬのが怖い。あなたの声や体温を忘れてしまうのが怖い。───あなたがいるこの世から消えてしまうのが、怖い。

嗚呼。最後の最後にわたしは、自分のことしか考えられないのか。
いつかのようにチカチカと点滅する視界の中で、不思議なくらいの解放感に包まれながら意識をそっと闇へと手放していく。遠くから誰かの懐かしい足音が聞こえたのは、果たして気の所為だったのだろうか……。……、……………。




視界が真っ白に染まっていた。懐かしい病院の天井だと気付いた瞬間に、傷を負った脚の痛みがわたしの意識を瞬時に覚醒させる。
口を開こうとしても乾いて張り付いており、全身が鉛のように重たくて身体を起こすことも出来そうにない。状況を把握するために視線をぐるりと動かせば、予想外の光景に心臓が止まりそうになる。

「……おはよう、ナマエ」

ホームズくん。心の中で呼んだ声が聞こえたのか、眉を吊り上げながらベッドサイドのテーブルに置かれたコップを取ってくれる。慣れた様子でわたしの口を湿らせると、再び元いた椅子に座り込んでいた。
いつもより近寄り難い雰囲気を帯びているように感じて、自然と身体が強ばっていく。

「ホームズ、くん。あの」
「ベリル・バンジークス嬢は無事だ。犯人は警察ヤードが確保済で、キミが以前よく働きに出ていた新聞社の編集長らしい。事件の日から今日で三日は経っている」

知りたかった情報は全て開示されたため、浮かんでいた質問は全て消えて続ける言葉を見失ってしまう。
こんなにも居心地の悪い沈黙が生まれるのは初めてで戸惑った。だからこそ、いつも以上に他人を寄せつけようとしない様子がどうしても気になってしまう。いくらわたしの方が社会的な弱者とはいえ、大人としてホームズくんを見守っていきたいと思っていたから。

「ホームズくん、何かあった……?」
「何かあった、だって? キミの本質は何も変わらないんだな」

がつんと頭を殴られたような衝撃と胸の痛みで息が詰まる。いつまでも成長しない自分の愚かさを誰よりも認識しているのは、他でもないわたし自身なのに。
歯に衣着せぬ物言いをするのがホームズくんのやさしさであることは理解していたが、心も身体も弱っている今はこれ以上なくネガティブに響いてしまう。

「……ごめんね。でもそんなことは、わたしが一番分かってるよ」
「では、一体何を理解していると?」

一切の色や温度を失った平坦な瞳がわたしを射抜く。何故だか心臓の奥のやわらかな部分がぐしゃぐしゃに掻き乱されて、腹の底から熱く醜い感情が迫り上がってきた。
あなたにだけは失望されたくなかったなんて、子どもみたいに駄々をこねてしまいたいのだろう。かつての夜、わたしに期待しないと言ってくれたホームズくんの思い遣りを全て台無しにしかねない思考だと、頭では理解しているのに。

気付けば、全ての理性を手放して全身で愚かにも叫んでしまっていた。一体何を理解しているか、だって?

「わたしが誰よりも馬鹿で、どうしようもない愚図で、一人じゃ満足に何も出来ない人間だってこと!」
「ほら、ナマエ。キミは何も分かっていやしない」

傷の痛みも相まって、目の端からぼろぼろと涙が零れ落ちていく。これ以上無様な様子を晒したくなくて、両手で顔を覆いながら暴れる心を必死に抑え込んだ。

「……ごめん、なさい。ごめんなさい」
「謝らなくていい。ただ、ひとつだけ確認をさせてくれ」
「…………うん」
「キミはまだ、キミの人生に責任を持つことさえしない第三者の言葉を真に受けて、自分を否定し続けているのか?」

声音が僅かにやさしい色を帯びたのを感じて、涙を拭いながら両手を外していく。ホームズくんはいつになく真剣な顔でわたしを見つめていた。
第三者というのは、前の世界で言うところの血の繋がった家族であり、この世界においては差別的な言動を取る英国人を指すのだろう。

わたしがこの世界にやって来たキッカケは、きっと、わたし自身が生きる気力を失ってしまったから。けれど不思議な因果に導かれて、あの朝焼けの下であなたに見つけてもらって、生きることの意味を知った。

「……ううん。わたしはもう、自分で自分を否定しない。この世界で前を向いて歩いていくって決めたから」
「そうか」

ホームズくんが立ち上がってベッドに近付き、ゆっくりとわたしの顔に手を伸ばす。濡れたままの輪郭を確かめるように右手を滑らせてから、やがて両手がわたしの頬を包み込んだ。

「名前」

以前ホームズくんが、わたしの名前を日本語で書いたらどうなるのか知りたがったことがあった。理由は特に気にせず、字の由来から発音に至るまで説明したことがあったのだけれど───自惚れでなければその答えを得たように思えて、さらに目の奥が熱くなる。

「……うん」
「名前はやっぱり涙もろいんだな」
「わたしはずっと、弱虫で泣き虫だから」
「だがキミは強い。ボクはそれを知っているし、これからも……キミのことを知っていきたいと思う」

恋とも愛とも呼びきれない大きな感情が、わたしの全身を熱く満たしていく。何も紡げないまましゃくり上げる情けない女を見つめながら、ホームズくんはそっと笑った。
今までに見たことがないくらい穏やかで、温かくて、やさしい顔だと思った。

そのままゆっくりと、不思議なくらいに自然と唇が重なっていく。わたしの全てを包み込んでくれるような、かなしくて柔らかくて永遠のようなキスだった。