壱:手の甲に浮き出た川を慈しみ、手の皺を重ね海を作った
満月が、闇夜に丸い穴を開けながら忍術学園を照らしていた。
くのたま長屋の屋根に座り込みながら忍者の天敵を見上げていると、見知った気配が隣に降り立つ。腕を組みながら仁王立ちする級友が険しい顔で私を見下ろしていた。
いつもとは立場が逆だ、等と考えつつ唇に弧を描く。
「いらっしゃい、文次郎」
つい零れた笑みを握り潰すように、彼は鋭い気配を纏わせた。
「まさか、おまえに歓迎されるとはな。名前」
「あら。私はいつでも丁重に温かく持て成してきたでしょ」
「まあ、実際おまえとの攻防は良い鍛錬になっていたが」
「珍しく素直だこと」
「……これが最後になるからな」
終わりを示す言葉が他でもない彼から飛び出た事実に、驚きながらも肩を竦める。掌で右隣を軽く叩けば、豪快にどかりと座り込んできた。相変わらず気難しそうに見えて素直な男だった。
学園の中でこうして隣り合わせに座って話をするなんて初めてのことだから、なんとも不思議な感覚である。
明日、私は忍術学園を辞める。家の事情でどこぞのお殿様と結婚せねばならなくなったから。言葉にすれば簡単な理由で、私は今まで学園で学んできたことを自らの手で台無しにしてしまう。
「別に二度と会えない訳ではないわ」
「分かっているだろう。もう会わない方がいい」
城主に嫁いだ女がプロ忍者と会う機会なぞ、たった一つしかない。戦だ。敵を殲滅させるために依頼する瞬間に立ち会うか、自らの命を狙われる場面で遭遇するか。味方であれ敵であれ、顔を合わせない道を選んだ方が良いのは当然だと言える。
私たちは戦を起こすために忍を志したのではない。戦乱の世を生き延びるために忍を目指すしかなかったのだ。
「私はくのいちになれないまま、半端者として装束を脱ぎ捨てるんだもの。一般の未熟者が心を抑え込むなんて出来ると思う?」
「出来なくてもやれ」
「文次郎ってば横暴」
「……名前」
諭すような硬い声が降ってくる。まるで子ども扱いだ。ならば期待に応えようじゃないかと屋根に横たわり、両腕をぐっと空に突き上げた。
両手で月を覆い隠しても光が隙間から溢れ出る。今の心情と重なるような光景に思えたから、己の気持ちごと投げ捨てるために両腕を脱力させて真横に下ろした。
「今日は明るい夜ね、文次郎」
「そうだな」
だらりと天を向いた手のひらに、彼のそれが荒々しく重なった。手の皺と皺が重なって、互いの冷たい熱が密やかに溶け合っていく。十本の指がゆるりと絡まり、無骨な指先が私の指の付け根を微かに撫ぜた。
女を抱く男の手だ、と思った。それなのに欲も激情も感じさせない。それどころか慈愛さえも感じさせるものだから、妙に心の臓がざわめいて仕方がなかった。
「名前」
月が翳り、視界が文次郎の顔で満たされる。私の両手を大きく硬い手で縫い付けて、組み敷くように伸し掛ってきた男をそっと見上げた。
「ねえ文次郎。私のことをちゃんと忘れてくれる?」
「愚問だな」
「……ばかなひと」
私には忘れろと言うくせに、自分は忘れる気がないだなんて。
両腕を夜空に伸ばして、星を掴むように彼のうなじに指先を添えた。髪の生え際から首元までを辿りながら生傷や黒子をなぞり、肌の内に隠された張りのある筋肉を感じる。
今まで言葉にしたことはなかったけれど、潮江文次郎は紛れもなくいい男だ。戦のない平和な世の中であれば、温かい家庭を築く子煩悩な父親にでもなれただろうに。
けれど自らの幸福を度外視して一心に己を鍛え抜く男だからこそ、文次郎の瞳はこんなにも真っ直ぐで鋭くて柔らかいから。
もう二度と会えなくなってしまう男に、これから先も心臓を掴まれながら生きていかなければならないなんて。こんなにも残酷なことはないだろうと頭のどこかで考えながら、私は小さく笑った。
「今夜のことは全て忘れてあげるわ」
「ああ、そうしろ」
嘘で塗り固められたやり取りを尻目に、若く青い男の香りが身体にまとわりついて、自分の香りがかき消えていくのを感じる。いつか文次郎の匂いも温もりも、全て私の中から消えてしまう瞬間が訪れたならば。
その時に、苗字名前という名の女は死ぬのだろう。
朝がきた。未だ学園中が寝静まった時刻に、私は門の前で深々とお辞儀をする。先生方や後輩達への挨拶は既に済ませているため、後腐れなく颯爽と立ち去りたかったというのに。
門の脇にもたれ掛かる級友が、髪をサラサラと靡かせながら腕を組み、鋭い目を私に向けていた。無視して立ち去っても構わないのだが、実行したら私を刺してでも留めようとする気迫を感じる。さすがにその覚悟を無下にすることは出来なかった。
「なあに、仙蔵? 私そろそろ出発したいのだけれど」
「名前、このまま全てを諦めるのか」
「諦めるも何も、元から私達は何も手にしていなかったわ」
「よく言う。文次郎はいつも以上に隈をこさえて忍務に発ったぞ」
「あらそう。せいぜい無事でも祈ってあげようかしら」
「……本当に、後悔はないんだな」
揃いも揃って酷い男達だ、と内心息を吐きながら手をひらひらと振った。
「私、一度決めたことを簡単に覆すほど甘っちょろい女じゃないの」
見定めるように冷静にじっと見詰めてきた仙蔵は、やがて愉快そうに唇にそっと笑みを乗せた。
「だろうな。文次郎も同じことを言っていた」
「それは奇遇ね」
「お前たちが決めたことならば、これ以上は何も言わん」
「ええ、そうして。ねえ仙蔵」
「何だ?」
静けさと情熱を湛えた瞳を見上げた。一年生の頃は誰よりも小さくか弱かった少年が、こんなにも強くしなやかな男に成長したことを誰よりも喜んでいるのは、きっと同室の彼なのだろうと当たりをつける。
「私、あなたのこと結構好きだったわ」
「……言うべき相手が違うだろう」
「あら。友人への手向けにはこれ以上ない言葉じゃない?」
「さすがに気が引けるんだ」
「……嫌なのよ、身勝手に重荷を背負わせるのは」
人からの言葉を何もかも背負う男に、これ以上荷物を押し付けるようなみっともない真似はしたくない。
本音と建前を織り交ぜなから肩を竦めれば、仙蔵は全てを承知したように苦笑した。
同級の忍たま達は皆が皆情に厚すぎるものだから、私はつんと澄ました顔を取り繕うのが癖になっていた。しかしそれも最後になるだろう。私の不格好な笑みを受け止めてくれた男にくるりと背を向けてから、右手の人差し指を天に向けた。
「文次郎は昔から『同じ空の下にいれば、いつだっておれたちの心は繋がっている』だなんて言ってたわ」
「ああ。誰かが後ろ向きになる度、率先して鼓舞してくれたな」
「けれどね、仙蔵。激励は呪いにもなり得るのよ」
「……名前」
何をしていても私の心に染みを残す男への想いを弔うために、何を遺すべきなのか。幾度も考えを巡らせては頭を振るばかりだったけれど。
「あの男が道を外すような過ちを犯すとは思えない。だからこそ仙蔵、もし万が一のことがあったら全力で止めて頂戴」
「……心得た」
「安心したわ。あなたが引き受けてくれるなら間違いはないもの」
彼が最も信頼する友へと、永遠の別れを告げてみせよう。
「───それでは、さようなら」
「ああ。達者でな」
今度こそ、私は勢いよく地面を蹴った。戦場で足音を立てずに生きる生活は終焉を迎え、ごく普通の女としての生命が芽吹いていくのを感じる。
当初思い描いていた人生と差程変わらぬ道を歩むことになってしまったけれど、それでも後悔は無かった。
私は、私の心臓に強く杭を打ち付けた男の胸に、綺麗な思い出のまま遺ることが出来るのだから。
くのたま長屋の屋根に座り込みながら忍者の天敵を見上げていると、見知った気配が隣に降り立つ。腕を組みながら仁王立ちする級友が険しい顔で私を見下ろしていた。
いつもとは立場が逆だ、等と考えつつ唇に弧を描く。
「いらっしゃい、文次郎」
つい零れた笑みを握り潰すように、彼は鋭い気配を纏わせた。
「まさか、おまえに歓迎されるとはな。名前」
「あら。私はいつでも丁重に温かく持て成してきたでしょ」
「まあ、実際おまえとの攻防は良い鍛錬になっていたが」
「珍しく素直だこと」
「……これが最後になるからな」
終わりを示す言葉が他でもない彼から飛び出た事実に、驚きながらも肩を竦める。掌で右隣を軽く叩けば、豪快にどかりと座り込んできた。相変わらず気難しそうに見えて素直な男だった。
学園の中でこうして隣り合わせに座って話をするなんて初めてのことだから、なんとも不思議な感覚である。
明日、私は忍術学園を辞める。家の事情でどこぞのお殿様と結婚せねばならなくなったから。言葉にすれば簡単な理由で、私は今まで学園で学んできたことを自らの手で台無しにしてしまう。
「別に二度と会えない訳ではないわ」
「分かっているだろう。もう会わない方がいい」
城主に嫁いだ女がプロ忍者と会う機会なぞ、たった一つしかない。戦だ。敵を殲滅させるために依頼する瞬間に立ち会うか、自らの命を狙われる場面で遭遇するか。味方であれ敵であれ、顔を合わせない道を選んだ方が良いのは当然だと言える。
私たちは戦を起こすために忍を志したのではない。戦乱の世を生き延びるために忍を目指すしかなかったのだ。
「私はくのいちになれないまま、半端者として装束を脱ぎ捨てるんだもの。一般の未熟者が心を抑え込むなんて出来ると思う?」
「出来なくてもやれ」
「文次郎ってば横暴」
「……名前」
諭すような硬い声が降ってくる。まるで子ども扱いだ。ならば期待に応えようじゃないかと屋根に横たわり、両腕をぐっと空に突き上げた。
両手で月を覆い隠しても光が隙間から溢れ出る。今の心情と重なるような光景に思えたから、己の気持ちごと投げ捨てるために両腕を脱力させて真横に下ろした。
「今日は明るい夜ね、文次郎」
「そうだな」
だらりと天を向いた手のひらに、彼のそれが荒々しく重なった。手の皺と皺が重なって、互いの冷たい熱が密やかに溶け合っていく。十本の指がゆるりと絡まり、無骨な指先が私の指の付け根を微かに撫ぜた。
女を抱く男の手だ、と思った。それなのに欲も激情も感じさせない。それどころか慈愛さえも感じさせるものだから、妙に心の臓がざわめいて仕方がなかった。
「名前」
月が翳り、視界が文次郎の顔で満たされる。私の両手を大きく硬い手で縫い付けて、組み敷くように伸し掛ってきた男をそっと見上げた。
「ねえ文次郎。私のことをちゃんと忘れてくれる?」
「愚問だな」
「……ばかなひと」
私には忘れろと言うくせに、自分は忘れる気がないだなんて。
両腕を夜空に伸ばして、星を掴むように彼のうなじに指先を添えた。髪の生え際から首元までを辿りながら生傷や黒子をなぞり、肌の内に隠された張りのある筋肉を感じる。
今まで言葉にしたことはなかったけれど、潮江文次郎は紛れもなくいい男だ。戦のない平和な世の中であれば、温かい家庭を築く子煩悩な父親にでもなれただろうに。
けれど自らの幸福を度外視して一心に己を鍛え抜く男だからこそ、文次郎の瞳はこんなにも真っ直ぐで鋭くて柔らかいから。
もう二度と会えなくなってしまう男に、これから先も心臓を掴まれながら生きていかなければならないなんて。こんなにも残酷なことはないだろうと頭のどこかで考えながら、私は小さく笑った。
「今夜のことは全て忘れてあげるわ」
「ああ、そうしろ」
嘘で塗り固められたやり取りを尻目に、若く青い男の香りが身体にまとわりついて、自分の香りがかき消えていくのを感じる。いつか文次郎の匂いも温もりも、全て私の中から消えてしまう瞬間が訪れたならば。
その時に、苗字名前という名の女は死ぬのだろう。
朝がきた。未だ学園中が寝静まった時刻に、私は門の前で深々とお辞儀をする。先生方や後輩達への挨拶は既に済ませているため、後腐れなく颯爽と立ち去りたかったというのに。
門の脇にもたれ掛かる級友が、髪をサラサラと靡かせながら腕を組み、鋭い目を私に向けていた。無視して立ち去っても構わないのだが、実行したら私を刺してでも留めようとする気迫を感じる。さすがにその覚悟を無下にすることは出来なかった。
「なあに、仙蔵? 私そろそろ出発したいのだけれど」
「名前、このまま全てを諦めるのか」
「諦めるも何も、元から私達は何も手にしていなかったわ」
「よく言う。文次郎はいつも以上に隈をこさえて忍務に発ったぞ」
「あらそう。せいぜい無事でも祈ってあげようかしら」
「……本当に、後悔はないんだな」
揃いも揃って酷い男達だ、と内心息を吐きながら手をひらひらと振った。
「私、一度決めたことを簡単に覆すほど甘っちょろい女じゃないの」
見定めるように冷静にじっと見詰めてきた仙蔵は、やがて愉快そうに唇にそっと笑みを乗せた。
「だろうな。文次郎も同じことを言っていた」
「それは奇遇ね」
「お前たちが決めたことならば、これ以上は何も言わん」
「ええ、そうして。ねえ仙蔵」
「何だ?」
静けさと情熱を湛えた瞳を見上げた。一年生の頃は誰よりも小さくか弱かった少年が、こんなにも強くしなやかな男に成長したことを誰よりも喜んでいるのは、きっと同室の彼なのだろうと当たりをつける。
「私、あなたのこと結構好きだったわ」
「……言うべき相手が違うだろう」
「あら。友人への手向けにはこれ以上ない言葉じゃない?」
「さすがに気が引けるんだ」
「……嫌なのよ、身勝手に重荷を背負わせるのは」
人からの言葉を何もかも背負う男に、これ以上荷物を押し付けるようなみっともない真似はしたくない。
本音と建前を織り交ぜなから肩を竦めれば、仙蔵は全てを承知したように苦笑した。
同級の忍たま達は皆が皆情に厚すぎるものだから、私はつんと澄ました顔を取り繕うのが癖になっていた。しかしそれも最後になるだろう。私の不格好な笑みを受け止めてくれた男にくるりと背を向けてから、右手の人差し指を天に向けた。
「文次郎は昔から『同じ空の下にいれば、いつだっておれたちの心は繋がっている』だなんて言ってたわ」
「ああ。誰かが後ろ向きになる度、率先して鼓舞してくれたな」
「けれどね、仙蔵。激励は呪いにもなり得るのよ」
「……名前」
何をしていても私の心に染みを残す男への想いを弔うために、何を遺すべきなのか。幾度も考えを巡らせては頭を振るばかりだったけれど。
「あの男が道を外すような過ちを犯すとは思えない。だからこそ仙蔵、もし万が一のことがあったら全力で止めて頂戴」
「……心得た」
「安心したわ。あなたが引き受けてくれるなら間違いはないもの」
彼が最も信頼する友へと、永遠の別れを告げてみせよう。
「───それでは、さようなら」
「ああ。達者でな」
今度こそ、私は勢いよく地面を蹴った。戦場で足音を立てずに生きる生活は終焉を迎え、ごく普通の女としての生命が芽吹いていくのを感じる。
当初思い描いていた人生と差程変わらぬ道を歩むことになってしまったけれど、それでも後悔は無かった。
私は、私の心臓に強く杭を打ち付けた男の胸に、綺麗な思い出のまま遺ることが出来るのだから。