「おい苗字名前! 弱いものいじめをするのはやめろ!」

潮江文次郎は吠えていた。青空色に井桁模様を散りばめた装束を、自ら切り裂かんばかりの勢いで。
真新しい桃色の制服に身を包んだ一年生の私は、腕を組みながらことりと首を傾げる。

「弱いものいじめ、ですって?」
「仙蔵や伊作が、おまえの罠にかかってまた怪我をした。今週で何回目だと思っている!」
「お言葉ですけれど、潮江文次郎。実技訓練を真面目にこなしていれば避けられる範囲でしょう。現に今週あなたは一回しか引っかかっていない訳ですし」

一瞬怯んだ様子の文次郎を見て、私はそっと目を細める。こちらとて新入生なのだから高度な罠など仕込める訳もない。
再び拳を力強く握り締めた同級生は、一体どのような反駁を用意しているというのか。

「だが、学び舎の中で仕掛けられたら鍛錬する時間も減るだろう! あいつらが学ぶ機会をおまえが奪っているんだ!」
「だから弱いものいじめだと? 自分が守ってあげている同級生が怪我をしているから?」
「何が言いたい?」
「あなたは今、仙蔵や伊作を弱いと断言した上で自分は強いと豪語している。自ら仲間を貶めている事実を認識できているの?」
「ぐっ、……論点をすり替えるな! それにあいつらが強いことは誰よりもおれが知っている!」
「実力を向上させるには実践が一番だから、やめる気はないわ。それに、私はあなたの正義を否定はしない。だからこそ私を否定されるのも真っ平御免なの」

尚も言い返そうと口を開いた文次郎を置いて、私は忍たま長屋の屋根に飛び乗った。地面に立ったままの同級生は、一瞬びくりと肩を震わせた後にこちらを見上げて険しい顔を作る。

「せいぜい鍛錬にでも励むことね。みんなのお兄ちゃん?」

ぽかんと大きく口を開く様が愉快だった。つい笑いながら走り去った直後、背後から大きな怒声を浴びる。
名前から察するに次男坊だろうから、お兄ちゃんと呼ばれたらどう反応するのかと思い付いたが、予想以上の反応が返ってきたものだから可笑しくて堪らない。

なんともまあ揶揄い甲斐のある男だ。生真面目で心根が真っ直ぐで、あらゆることを信じ抜く素直さがあるのに視野が狭い同い年の少年。
い組に入学した生徒は家柄が良い傾向があると耳に挟んだが、きっと彼もそうなのだろう。基本的な振る舞いは礼儀正しいし、頭も舌もよく回ると感心するばかりだったし。

「名前、楽しそうね」

くのたま長屋の敷地に降り立つと、担任の山本シナ先生が笑顔で出迎えてくれる。
妙齢の姿と老体の格好を使い分ける変装術の達人なのだが、今は後者を選ばれているようだ。授業後のため柔らかく微笑まれているが、指導してくださる際は一転して厳しい表情も浮かべることが多い。だがそれも私たちの安全や成長を考えてのことだと分かるから、シナ先生はとても優しい方なのだと痛感するばかりだった。
年上の女性に優しくされることに慣れていないため不格好な笑みしか作れなかったが、自分なりに精一杯の敬意は込めたまま頭を下げる。

「どうやら忍たまは、活きがいい方ばかりのようで」
「今年も明るくよい子達のようね。特に文次郎くんと話した後の貴女の顔が明るいこと」

揶揄う訳でもなく、純粋に喜んでくださっている様子を見て苦笑した。ちょっかいを出して楽しむだなんて子どもみたいだと自覚していたから、叱られるのも覚悟していたのだけれど。

「それに、忍たま達も貴女とのやり取りを楽しそうにしていると先生方から報告を受けているわ」
「そうは見えないですし、楽しまれても困るんですが」
「あら、良いことじゃない。学び舎の生徒同士が垣根を越えてお互いを高め合っているんだもの。それに、名前は特に周りに頼ることをしないから心配していたの。もっと年相応にはしゃいでほしいくらい」
「はい。精進いたします」
「いつも賢くいい子であろうとしなくても良いのよ。もっと学園生活を楽しんで頂戴ね」

はい、と返事をしてから深く頭を下げる。華麗に俊敏に立ち去るシナ先生を見送ってから、ぼんやりと己を見直す時間を持つことにした。

「……学園生活を楽しむ、か」

実家における私の存在は、戦場に生える雑草のようなものだった。誰彼構わず踏み荒らされて、邪魔者扱いをされるだけの使い捨ての女。
ならば一人で生きていく力を蓄えるために家を出ようと決意し、行儀見習いとして入学したのが忍術学園だったのだけれど。

くのたまとして優秀な成績を残すことしか考えていなかったから、同級の忍たま達を利用しているだけのつもりだった。しかしシナ先生は私が楽しそうだと仰る。果たして、私は楽しんでいるのだろうか。問いかけても答えは出ずに首を捻る。
彼らを罠にかければ達成感を得られたし、感情を爆発させる場面に遭遇すれば愉快に感じるのは事実だったが、純粋に楽しんでいるかと問われると自信が無かった。
誰かと関わる瞬間に喜びを感じられたことなど、今までに一度もないのだから。

「……まあいいわ。授業の復習をしなければ」

目的を果たすために自室へと足を進める。非力な今の私には、無駄な時間など一切ないのだから。



しくじった、と苦々しく歯噛みした。左足を引きずりながら草むらに身を潜めて、周囲に敵対する忍がいないことを確認する。
一年生の実習なんて簡単なものだろうと高を括っていたのが仇になった。帰りがけに忍術学園を敵対視するプロ忍者に遭遇してしまうだなんて。

悔しさに歯噛みする私の頭を、何者かが上から力強く押さえ付ける。見つかったか。背筋を凍らせながら必死に声を殺し、目線だけ持ち主を見遣る。
井桁模様が散りばめられた青空色の忍装束に、鋭い目線を覗かせる同級生。潮江文次郎だった。
ひとまず敵でないことに安堵しつつ、彼がここにいる理由が分からずに内心首を傾げる。周囲の様子を窺いながら息を潜める文次郎は、やがて人気が無くなった頃合いにゆっくりと口を開いた。

「行ったようだな。歩けるか?」
「……ええ、問題ないわ」

痛みを我慢すればの話だけれど。心の中で付け足しながら、忍たまの手など借りられないと膝立ちになり、恐る恐る両足に体重を乗せていく。
やはり左足に鋭い痛みが走るものの、これくらいで怯んでいてはプロのくのいちなどなれはしない。きつく歯を食い縛りながら一歩踏み出したところで、水色の小さな背中が目の前に現れる。
彼は片膝を立てたまましゃがみこんで、両腕を伸ばしながら指先だけ緩やかな弧を描いている。

「苗字名前、早く乗れ」
「潮江文次郎、冗談はやめて頂戴。あなた一人で帰れるでしょ」
「その足で山を越えるつもりか?」
「別に平気よ。だいたい私に親切を振りまく理由なんてないくせに」
「理由が無ければ人を助けてはいけないのか? 少なくともおれは違うと思う。だから早く乗れ」

いつもとは立場が逆なのに、文次郎はこちらを貶める意図など一切ないようだった。無償の優しさなど受け取ったことがない私は狼狽えた。

「……後悔しても知らないわよ」

恐る恐る両手を彼の肩に添えてから、体重をその背中に預けた。予想以上に力強く私を背負った文次郎は、ゆっくりと歩を進めていく。
今日は忍たまと実習場所が近いとは聞いていたけれど、まさかこんなことになるだなんて。シナ先生からもはぐれてしまったし、学園に戻ったら叱られることを覚悟しなければ。
内心肩を落としながら、無言で私を背負い続ける同級生に意識を向ける。小さいけれど温かい背中だった。まるで彼自身の心の色を表しているような。

「……文次郎」
「なんだ?」
「…………ありがとう」
「……別に、構わん」

何かを楽しむ感覚は未だによく分からなかったけれど、私はこの男に誠実に向き合っていく必要があることは感じていた。
二人して沈黙したまま、深い影を落とす木々の間から夕焼けを見つめる。こんなにも空が綺麗だなんて、私は今まで知らなかったというのに。