「苗字先輩、助けてください! 潮江先輩がまたわたし達に無理難題を仰るんです……!」

学園の門の前で必死な形相で待ち受けていた忍たまの後輩を見て、実習帰りの身体がさらに重たくなった気がした。

「三木ヱ門、そのために門でわざわざ待っていたの?」
「潮江先輩からは許可を頂いてきました! わたしたちの体力がもう限界で死活問題なんです!」

上級生になった三木ヱ門が、自分だけでなく後輩を心から慮っていることが分かる叫びだった。確かに目の下にこさえた隈は真っ黒で痛々しく、何日眠れていないのか考えるだけで頭が痛かった。
腕を組みつつ小さく息を吐き、騒ぎの元凶である男を思う。可愛い後輩たちに迷惑をかけるだなんて、相変わらず呆れる程の石頭だ。

「分かったわ。実習の報告を終えて、シナ先生から許可を頂いたら手伝いに行く。三木ヱ門、それで良い?」
「さすがは苗字先輩! よし、これで今日は寝れるぞ!」
「……まだどうなるか分からないのだけれど」

勢いよく学園の敷地に戻っていく後輩には、こちらの呟きは耳に入らなかったようだ。やれやれと肩を竦めてから、私もくのたま長屋へと素早く身を翻す。
案の定、シナ先生から満面の笑みで忍たま長屋へと送り出された私は、重たい足を会計委員会の活動場所へと向ける羽目になった。

こうなればいっそ開き直るしかない、と襖を勢いよく開ければ、部屋中の濁った目がこちらへ向けられてから輝き出す。一年生達まで涙を流す勢いで腕を上げ始めるのだから相当だ。まだ遊びたい盛りだろうに、何日もこんな男に拘束されて可哀想に。
最奥で算盤を弾く同級の男だけは目線を上げずに作業を続けていたが、いつも通りのため構わずにズカズカと隣まで歩み寄ってから仁王立ちした。

「会計委員会委員長、潮江文次郎。忍たまとくのたまが共同で使用する忍具に関する報告書を持ってきたのだけれど」
「くのたま六年生、苗字名前。そこに置いておけ。おまえが見たなら間違いはないだろうが、念のためこちらでも確認する」
「冗談じゃないわ。たった一枚に何日かけるつもり? 私も早く帰りたいから、ついでに他の書類を作業しても文句なんて言わないわよね」
「勝手にしろ」
「最上級生が二人で作業するんだもの。今日は可愛い後輩たちの手なんて必要ないでしょう?」
「……そうだな。会計委員会一同、各自部屋に戻って待機しておけ!」
「素直に感謝と労りを伝えられないのかしら。みんな、お疲れさま。今日はもう早く部屋に帰って休みなさい」

ひらひらと手を振れば全員から一斉に両手を取られ、ぶんぶんと勢いの良すぎる握手をされた。大袈裟な、と思いつつ感謝の言葉を丁寧に受け取り、彼らの背中に手を添えて部屋の外まで送り出していく。
忍のたまごらしからぬドタドタとした足音が響き、やがて波が引くように遠ざかっていった。静寂に満ちていく部屋の中で、私は三木ヱ門が使っていた算盤を持ち、文次郎から距離を置いた向かいの机に座る。
そろそろ忍たま達の予算会議がある時期だと知ってはいたが、書類の山が何個も聳え立つ様を見て深々と息を吐いた。今夜は徹夜間違いなしだろう。

「名前」
「ええ、いつも通り優先順位の高い山から片付けていくわ。もし間違っていたら指摘して頂戴」
「ああ、分かった。……町での実習帰りか」

委員会の作業中に私語とは珍しい。目線は上げずに指先は珠を弾く姿は相変わらずだったけれど。こちらも負けじと書類に目を通し、作業概要を把握しながら算盤に向き合った。

「よく分かったわね」
「……いつもと違う香りがした」
「ああ、少しお香を焚く機会があったのよね。そもそも普段は特に何もつけていないけれど、そんなに違うかしら」
「さあな。だが、…………何でもない」
「なによ」
「何でもない!」
「だったら思わせ振りなことを言わないで頂戴。ああそうだわ、文次郎。そんなに気になるならちょうど匂い袋があるから今あなたにつけてあげる」
「は!? 何故そうなる!」
「どうせ何日も眠らずお風呂に入らず作業しているんでしょう。なら気分転換に雅な香りでも嗅いでみた方が頭がすっきりするわよ」

素早く立ち上がり文次郎の背後に歩み寄ってから、懐に忍ばせていた匂い袋を取り出す。ようやくこちらを見遣った男の忍装束の胸元に手を伸ばすものの、手首をぐっと掴まれ阻まれた。
さすがに男女の力の差に抗える年齢じゃなくなったため、真正面から挑めば返り討ちにされることは分かっていた。敢えて一瞬だけふっと力を抜けば、徹夜続きの男は案の定自ら隙が生む。
怯んだように目を白黒させる顔を横目に首筋に鼻を近付けて、くんと香りを嗅いだ。いつも通り、墨と汗と鉄と若い男の匂いが入り交じっている。例えるならば、芽吹いたばかりの若草のような。

「文次郎の香りがする」
「……ッ、当たり前だろう!」
「私に押し負けるくらいには眠っていないんでしょう。少し仮眠を取ってから作業した方が効率的なんじゃないかしら」

何やら俯いた文次郎の瞳に右手を添えて、瞼に触れる。そのまま手のひらを下に滑らせて視界を閉ざせば、ようやく観念したように口元を引き結んだ。
いつになく素直な男の頭を自らの膝に導いて、身体を横たえさせる。眉間に皺を寄せて固く目を閉じている様を確認して手元の匂い袋に唇を寄せた。直後、彼の口に押し当ててから鼻先へ持っていく。

「良い香りでしょう。ほら、私が作業を続けるから四半刻ほど経ったら起こしてあげる」
「…………名前」
「なに?」
「おれは、お前に調子を崩されてばかりだな」

不本意ながら迫り上がった顔の熱を冷ますために、手の甲を頬に押し当てた後に口元を覆う。……ばかね、そんなのお互い様でしょう。



男の寝息を耳にしながら辿るのは、かつての拙い記憶だった。

「おまえは何故そんなに意地を張る」

一年生の頃、左足を挫いて文次郎に背負われながら山を越えていた時のことだった。むっつりと互いに黙り込んでいた私達の静寂を裂いたのは、囁くような小さい声で紡がれた問いかけだった。周囲に敵がいる可能性を考えての振る舞いに、やはり頭は回るようだと再認識する。
嫌っているであろう相手と会話を試みるだなんて、やはり真面目な男だと呆れたけれど。

「私には張る意地なんてないわよ」
「よくもそんなことが言えるな」
「本音よ。私は空っぽな人間だから何も無いの」

怪我をして、心がいつもより弱っていたせいだろうか。くのたまの同級生でも先生でもなく、いつも揶揄ってばかりの忍たま相手にこんなことを言ってしまうだなんて。

「どういう意味だ?」

私の言葉に真正面から対等に耳を傾けようとしてくれる人が、この学園には大勢いる。そんなことは分かっているのに、私は人から差し伸べられた手を素直に受け取る術を知らないままだった。
何故なら私自身が他者を拒み続けてきたから。それ以外に自分の心身を守る方法が無かったから。
私はなんと寂しい人間なのだろうか、と忍たま達を見ていると尚更感じてしまうことがあった。

「そのままの意味。家で厄介者扱いをされて、今まで誰にも必要とされることがなくて、学園でもこうして失敗をして。何処に行っても何の成果も残せない。私は空虚な人間なの」
「…………名前!」
「え? な、なに?」

突然声を張り上げて、先程までの自らの振る舞いを無駄にするだなんて。それに下の名前を呼び捨てにされるのも初めてな気がした。周りに人の気配は感じないし、学園にも近い場所だから多少大声で話しても問題はないと思うけれど。

「仙蔵と伊作が、実技の授業で以前よりも成果を上げるようになってきた」
「……そう、良かったじゃない。あなたが面倒を見てあげたお陰でしょう」
「いや、今回は違う。おまえが仕掛けた罠があいつらを助けたんだ。苗字名前」

先日まで弱いものいじめをするなと吠えてばかりいたのに、まるで違う主張を始めたのを見て混乱する。実際、助けている自覚など全く無かった。

「何を根拠にそんなことを言うの?」
「山本シナ先生が教えてくださったのだ。名前はいつも、忍たまの授業内容や成績を把握した上で罠を仕込んでいる、と」
「それは……別に彼らのためでは無いわ。私自身の成長のために実践しているだけで」
「それでも、助けることだけが正義や優しさではないと学べたんだ。名前、おまえもまた仙蔵や伊作を助けていたのではないかと」

随分と美化してくれるではないか、と逆に腹が立ってきた。
そんなに素直に褒めないでほしい。温かい言葉を真っ直ぐに向けないでほしい。私まであなたに優しくしたいだなんて、らしくないことを考えてしまいそうになるから。

「正義や優しさなんて日々移ろうものよ。受け取った相手がどう解釈するかによって変わる曖昧なものなの」
「ならば、この潮江文次郎がおまえの正義と優しさを受け取ろう」
「はあ?」
「名前、おまえは空っぽな人間ではない! 不器用だが勤勉で思い遣りのある、立派な忍術学園のくのたまだ!」

堂々と大声で宣言をする同級生を見て、深々と息を吐いた。腹の底から迫り上がる熱い何かが、目頭まで辿り着くのが憎らしくて仕方がない。

「……ばかね。文次郎に言われなくたって、私は自分を誇りに思ってみせるわ」
「ああ、そうしろ。だがまた、もし空っぽだと感じることがあったならば」

───おれのところに来い。

小さな肩に顔を埋めたまま受け取った言葉に、私はいつまでも縛られ続けていた。呆れるほどにいつまでも、苗字名前は馬鹿な女だった。