視界が真っ赤に燃えていた。肌の表面を焼き焦がすように熱い炎が、部屋をぐるりと取り囲んでいた。
城が燃やされた。奉公人が殺された。夫たる城主は行方知れずだった。もう何も残されていない空っぽのハリボテの中で、我が城の誇りを守れるのは既に私一人のみだった。

華やかな金の刺繍で覆われた赤い着物を脱ぎ捨てれば、かつて纏っていた忍装束が表れる。年月が経過して色褪せた桃色は、年老いて女としても落ちぶれた自分によくお似合いだった。
懐に忍ばせていた苦無を手にかけたところで、……からんと音を立てながら何かが床に落ちていく。緑と桃をあしらった花の簪。かつて慕った男からの贈り物。未練がましく肌身離さず持っていた唯一の思い出だった。けれど、いよいよ潮時なのかもしれない。

頭についた絢爛豪華な髪飾りを全て解いた上で、軽く結い上げただけの髪に簪をきつく刺した。あの頃のように。

周りから見れば、私は幸せな女だったのだろう。
たとえ実家に居場所がなくとも、学園生活で多くの仲間と恩師に恵まれた。身も心も捧げても良いと思える男に出逢えた。無二の男に生きる意味を教えてもらった。
学園を退学したとはいえ名の知れた城主に嫁いだ。子宝には恵まずとも、妾やその子らを可愛がる時間は好きだった。お忍びで城下にこっそりと通い続け、領民とやりとりするのは楽しかった。
結果的にかつての仲間も家族も守ることが出来たと、そう信じていたのは独り善がりだったかもしれないけれど。

此度の戦は、複数の城から挟み撃ちの急襲を受けた結果だった。今まで数々の恨みは買ってきたし、同じだけ報復もしてきた。土地と領民を守るためには他の城と戦火を交えることも必要だったとはいえ、無辜むこの民の命や故郷を奪ってきたのもまた事実だった。因果応報なのだろう。
ならば元くのたまとして潔く散ってやろうではないか。段々と近付いてくる気配を探り当てながら、襖の端に身を潜める。大きな音を立てて開いた入口から顔を出した敵方の、その喉元に。私は勢いよく刃を突き立てて、そして。



気が付けば、私の全身はふわふわと宙に浮いていた。温かく大きな背中に背負われているようで、かつての遠く懐かしく愛しい日々を想起させる。……もしかして、此処は死後の世界なのだろうか。
そこまで考えたところで、幾度も焦がれた若葉のような香りが鼻を掠め、つい息が止まる。たとえ見覚えのない真っ黒な装束でも一目で分かった。私という女を唯一掬い上げた身勝手な男の正体は。
身体中が引き裂かれるように痛むことに顔を歪めるよりも前に、必死に声を出してその名を呼んだ。

「もんじろう……?」

一瞬、ぴたりと足が止まる。そのまま何事も無かったかのように歩みを再開させながら、男は口を開いた。

「久しいな、名前」
「一体、なぜ?」
「今は寝てろ。怪我を伊作に見てもらう」

かつての級友の柔和な笑みが脳裏に浮かぶ。心も身体も限界を迎えていたのか、そのまま意識が闇へと誘われていった。まるで子ども扱いだった。この男の前では、いつも幼く未熟な女になってしまうのだろうか。

次に気が付いた時、私は横に寝転がっていた。薬草の香りと共に、薬剤を磨り潰すための薬研の音がごりごりと鳴っているのを感じる。この一定のリズムは昔から変わらない。
目元にまで包帯が巻かれているため、まずは状況を把握すべく口を開いた。

「伊作……?」
「名前! 気が付いたんだね。痛みはどうだい?」

第一に患者を労る素直さは相変わらずだ。口内も潤っているため、定期的に薬を飲ませてくれていたのだろう。
全身に傷をこさえていた筈なのに、今は微かな痛みしか感じない。

「痛み止めが効いているみたいだわ、ありがとう」
「良かった……。本当に酷い怪我だったから心配で」
「伊作、腕を上げたのね」
「文次郎の応急処置が適切だったお陰でもあるよ。今は席を外しているけど、あとでお礼を言ってあげて」
「……聞きたいことが山程あるのだけれど」

声を出すことにようやく慣れてきた段階で、すぱんと元気な音を立てて襖が開くのが分かった。野性的でしなやかな足音もまた、ひどく懐かしい友のものだと分かる。

「……小平太?」
「当たりだ! さすがに勘は衰えていないようだな、名前」

どかりと近くに座り込む気配がした。風の噂で級友達は別々の城へ散ったと聞いていたのに、何故こうも勢揃いしているのか不思議で仕方がない。

「見張りは仙蔵と交代したからな、安心していいぞ」
「もしかして、全員此処にいるの?」
「ああ、留三郎も長次もいる。今は外に出ているがな」
「……そう、なの」
「全容は察しているだろう。あとは当事者同士で話し合えばいい。ちょうど本人も来たようだしな!」

足音を消すのが巧みになっても、文次郎の気配だけは本能的にすぐ分かる。「ではまたな!」と明るく去っていく小平太と入れ替わるように座る様を感じながら、じっと硬く息を潜めた。

「文次郎、ぼくも席を外すよ。痛み止めと包帯はここにあるから、何かあったら呼んでくれ」
「ああ。悪いな伊作、ありがとう」

音の反響から察するに小さな小屋のようだから、二人はこのまま外に出ていくらしい。戸が閉まる音がしても沈黙したままの文次郎の様子を窺っていると、頭を柔く撫ぜる熱を感じた。言葉も無しに温もりを与えてくる男の身勝手さに、私はいつも振り回されてばかりだった。

「おれは、生きろと言っただろう」
「ええ、そうね。私なりに懸命に生き抜こうとしたわ」
「だからこそ、逃げることよりも城主の妻としての誇りを優先したと」

かっと燃えるように胸が熱くなる。責めるような口調ではなく、単に客観的な事実を整理しているだけなのに、下手に責められるよりも衝撃が大きかった。
気付いてしまったのだ。私があの場で刃を振るったのは、己の誇りを守るためだけではなかったと。夫のことも民のことも城のことも度外視した、他ならぬ私という女の意思があったことを。あのまま無様に逃げた末に初恋を忘れるくらいならば、文次郎との約束も反故にして死んでも良いと考えてしまったのだと。───嗚呼、私は昔からなんて愚かな女なのだろう。

「だって私は、あなたの香りも温もりも、……今の今まで忘れてしまっていた。守る者たちを失って、あなたのことも忘れかけた今、せめて潔く散るしかないと思ったの」
「それで良かったんだ。……おれも心の底からそう思えたら楽だったんだがな」

常に熱く前ばかり向いていた男が、いつの間にか哀愁を帯びた声を出すようになっていた。年月の経過を痛感して自然と軋む胸にゆっくりと手を添えれば、文次郎のそれに力強く包まれていく。

「おまえの城が狙われていると知ったのは偶然だった。別の忍務をこなしている時に情報を得てな」
「そのまま放っておけば良かったのに」
「おれにも多少の迷いはあったんだ。今のおまえの生き様をこの目で見てから決めようと思った。……さすがに城に入り込むのは危険があったから避けたが、城下で民と交流する姿は何度も見ていたぞ」
「え……?」

城下へのお忍びは、学園時代の技術を唯一発揮できる場だったから気晴らしによく行っていた。けれど距離があったとはいえ文次郎の気配にさえ気付かないとは、やはりあの頃の技術は失われてしまったらしい。現役の忍と比べたら劣っているのは百も承知だったから落胆はしないが、時の流れと己の脆弱さを実感する。

「無論、変装して遠くからな。あの頃と変わらず、誰であっても対等に真っ直ぐ向き合う横顔を見ていたら……改めて悟ったんだ。名前が戦の最後に何を選ぶのかを」
「……文次郎は昔から、私より私のことを分かっていた気がするわ」
「ばかを言え。分からないから知りたいんだ。おまえが必死に全てを隠そうするから暴きたくなるし、弱さも痛みも何もかもおれにだけ見せればいいのにと思った」
「と、突然なに……?」
「突然じゃない。あの頃からずっとそう考えていた。……名前が先に約束を反故にしようとしたんだ。ならばおれも踏み込むことを許されるだろう」

包帯に覆われた頬を、文次郎の掌がざらざらと撫でていく。まるで私の心臓の奥底までも握り潰すような言葉を投下した男は、何かを押し殺したような声で喋り続けていた。

「これはおれの我儘だ。名前のいない世で生きていたくなかった」
「文次郎には、声をかければ駆け付けてくれる仲間たちがいるのに?」
「惚れた女はたった一人きりしかいないだろうが」
「…………ばかね。本当にばかなひと」

互いの心臓に杭を打ち込んだ夜以来、私は一歩も前に進めていなかったのかもしれない。闇の中で一身に受け止めた男の熱に、自ら囚われ続けていた愚劣さを呪ってしまう。
ここにきて私の全てを奪い去ろうとするならば、こちらも己の弱さを全て曝け出してみせようではないか。

「文次郎。私ね、きっと子を成せない身体なの。私だけずっと子どもを産むことが出来なかったもの」
「だからどうした。おれは名前さえいればそれでいい」
「此度の戦で、あなたが属する城の立場は敵方ではなかった? 私を助けたとあらば報復を受けるでしょう」
「だから事前に辞めてきた。忍であることに拘らずとも構わないからな」

がつんと再び頭を殴り倒されたような衝撃を受ける。忍術学園で一番忍者をしていると言われていた、あの潮江文次郎が、よりにもよって忍を辞めた?

「……学園で最も忍者らしく生きることに拘っていたくせに?」
「おれにとっては、忍であることが大事なんじゃない。忍として正しき心を学び、やれることはやりきった。大切な存在を守るために忍の立場が邪魔をするならば、捨てても構わなかったんだ」
「だからって、私のために人生を棒に振って良いと本当に思っているの!?」

忍としての技術を失い、仲間も家族も民も守る力を持たず、女としての役目さえも満足に果たせない。そんな出来損ないの人間のために、慕った男が全てを捨ててしまう。その事実が、腹の底を熱く煮えたぎらせていく。

「名前」

荒々しく波立った私の心に飛び込むように、文次郎は静かにそっと名を呼んだ。

「おれは、おまえと共に生きていきたい。もう他には何も望まないんだ」
「……私の意思は聞かないのね」
「あんな傷んだ簪を身に付けていたくせによく言う」
「…………、後悔しても知らないわよ」
「おまえを手放した方が後悔する。おれの方こそ、今は甲斐性も無ければ頑固で融通の利かない男だろう」

どことなく拗ねたような声音を感じ、僅かだけ心が解けてゆく。文次郎を対等な立場で罵れるのは、髪をサラサラと靡かせるあの男しかいないだろう。

「それ、仙蔵に言われたんでしょう」
「その通りだが、言い当てられると癪に障るな」
「昔から、熱くなるあなたを諌めてきたのが仙蔵だもの。……でも、そう。仙蔵が認めたのなら、文次郎のこの選択も無鉄砲なだけではないということね」
「何故おれの言葉ではなく仙蔵を信じるんだ!? 納得がいかん!」
「だって仙蔵には、もし万が一文次郎が道を踏み外すようなことがあれば全力で止めて頂戴ってお願いしたもの。……私たちは頑固で猪突猛進な質だし、慕う男の主観性よりも友人の客観性を信頼するのは当然でしょう?」

ぐっと文次郎が言葉を詰まらせる様を感じ、ようやく小さく笑みが溢れていく。

「文次郎。これからも、こうして手を握っていてくれる?」
「当たり前だろう」

互いの手のひらが重なり、指がゆっくりと絡まっていく。かつてより傷も増えて何もかも喪った女を未だに望んでくれる男の向こう見ずさに、私は確かに救われてしまっていた。
包帯で閉ざされた視界の先で、文次郎が仄かに笑ったのを知る。かつての夜闇に浮かんでいた望月を想わせる気配に釣られて微笑めば、唇に柔らかな熱が降ってきた。互いの心も体温も溶かすように何度も交わっていく。

もしかしたら私は、あなたを愛するために生まれてきたのかもしれないだなんて。恋を知ったばかりの少女のように熱に浮かされながら。



やがて私の身体も回復し、一人でも問題なく活動できるようになった頃。友人たちの行動がそれはもう呆れる程に迅速丁寧なものであったことを知る。

彼らは小屋を見張り私の手当てをしながら、文次郎と二人で住めるだけの土地を探し、家を建て、家財道具も準備し、私の家族や民のお墓まで作ってくれていた。
学園時代の委員会活動を思い出したと語る彼らは、確かにそれぞれの得意分野を遺憾無く発揮したようだった。
長次が土地を探すために治安や住民の情報を集め、小平太が建築に必要な材料を収集し、留三郎が家や小屋など必要な建物を作れば、仙蔵が生活に必要な道具を見繕い、伊作は出来る限り遺品を探して家の近くに墓を作ってくれたのだとか。
学園時代は時折彼らの委員会活動を手伝っていたから手際が良いのは知っていたつもりだったけれど、これは予想以上だった。

文次郎からの一声で、怨みを一身に背負う城の関係者を匿うだなんて。
お人好しすぎてつい昔のように澄ました顔を取り繕っていると、彼らは私の作る料理を対価に望むと言う。相変わらず全員あまりにも無欲で思い遣りがあって、私は諦めて笑うことしか出来なかった。

「名前」
「なに、文次郎?」

友人たちを見送って、二人きりになった時。正面から不格好に抱き留めてくる男の熱を浴びながら、胸に顔を埋めた。懐かしい若葉の香りがする。

「これからは自由に生きろ」
「ええ。だから私は、この家であなたと生きていくの」

命ある限り。死がふたりを分かつまで。
かつて素直になれず終いだった私達が今こうしていられるのは、いつだってあなたがこの手を掴んでくれていたから。

文次郎の顔を見上げて、その瞳に映るやさしい光を浴びる。互いに歳を重ねて傷をこさえて多くを失った。けれど、今こそが一等幸せなのかもしれないと恥ずかしながら思う。
夜に忍ぶ必要が無くなったあなたを照らせるような月に、いつか私もなれるだろうかと。そんな淡い願いさえ抱いてしまった。

家の外を覆う夜闇がいつまでも、いつまでも、寄り添う私たちをやさしく照らし続けてくれていた。