16:生傷だらけのアイラブユー
わたしを蔑むその瞳は、嫌という程によく知ったものだった。
「……という訳で、お分かり頂けただろうか。ミス・ミョウジ?」
相手は、確かに腰を下ろして目線を合わせてくれている筈だった。互いに言葉を交わして意思疎通を図ってくれている筈だった。それなのにわたしは今、一方的に見下されて命令をされているのだと本能的に理解する。
わたしを刺した犯人が新聞社の人間であるという事実を、司法の上層部は何としても隠しておきたいらしい。
お見舞いという名目でやって来た検事さんが厳重に口止めをしようとするものだから、わたしは全てを察して笑うことしか出来なかった。
先日、わざわざ一個人に個室が宛てがわれた理由を御琴羽くんへ尋ねた時、何故だかはぐらかされたのだが、答えはそういうことなのだろう。
英国人が外国人を襲ったスキャンダルであり、国民への影響が強いメディア関係者が起こした事件。犯人は黙秘を続けて動機さえも不明らしく、わたしも編集長とは一度顔を合わせただけでまともに会話した記憶がなかった。
確かに外国人への差別意識が強い人ではあったが、正直なところ、あんな犯行をする度胸がありそうには思えなかったのだ。教会で出会った時にはかなり人相が変わっていて、それこそイーストエンドにて限界を迎えた人々と同じくらい切羽詰まった様子にも見えた。彼を凶行に駆り立てたものは一体何だったのだろうか。
もしも何者かに脅されていたのだとしたら。もしも貴族に何かしらの恨みを抱いていたのだとしたら。もしもメディア業界の評判を落としたかったのだとしたら。
考えても答えは出ないが、いくつか推論を組み立てることは出来る。ホームズくんに問えば明瞭になるかもしれないが、自分で思考する自由を放棄したくはなかった。探偵が謎を開示しない段階ならば、関係者の一人として答えを模索していくべきだろう。
大英帝国のマスメディアが、司法と癒着した組織ばかりであることは重々承知していた。彼らは少しでも自分たちの汚点を無くすべく、下町の人々に責任を押し付けたいのだろうと推察できる。
要は、このまま目を瞑れば今まで通りに仕事が出来るが、そうでない場合はメディア業界から追放すると。遠回しな脅しを受けているのだろう。
望まれるままに従順な人間を演じることが得意である事実を、今だけは感謝しておこうと思う。たとえ傍から見れば無様でも、自分なりに胸を張ってみたかった。
カリグラフィー作家として生んだ広告も、新聞社のメンバーとして作成した記事も。好きなことを仕事として引き受けられる喜びを、自らの手で手放すことなんてしたくは無かったから。
「はい、自分の立場は弁えております。口外などしても誰にも信じてもらえぬでしょうから。……心配せずとも問題ございません、ヴォルテックス卿」
現在は席を外しているホームズくんから受けたアドバイス通り、ひたすら腰を低くしながら自分の役割を言語化していく。出会い頭に信頼してもらえなかったのはクリムトさんと同じだったけれど、目の前の検事さんとは圧倒的な違いがあった。
クリムト・バンジークスの警戒には愛があった。ベリルちゃんやバロックくん───クリムトさんの弟さんで礼儀正しい素敵な子だ───を守るため、思い遣りで形づくられた盾だった。
しかし目の前のヴォルテックス卿は、鋭く冷たい鉄製の斧を連想させる。どことなく既視感を覚えるのは、過去の自分と重なる部分があるためだろうか。
周囲の誰も信用せず、自分自身さえも信頼できず、一人で分厚い壁を作り殻に閉じ篭もるような頑なさを、勝手に感じてしまっていた。
形式的な応答はそのまますぐに終わり、ヴォルテックス卿は貴族らしい威厳を携えながら颯爽と去っていく。扉が閉まって気配が遠ざかっていくのを確認したところで、ようやく深々と息を吐いた。
あの瞳で見詰められると、過去の傷を混ぜっ返されるような気がして落ち着かなかった。未だに本調子でない身体を自分でさすっていると、コンコン、と聞き慣れたノックの音がする。すると不思議な程に心臓が柔く緩んで、自然と笑顔が溢れた。
「どうぞ。ホームズくん」
「失礼するよ、名前」
律儀に挨拶を返した探偵は、ベッド脇の椅子にゆったりと座ってくれる。先程の威圧感を上書きするような言動に擽ったさを覚えている間に、大きな掌がわたしの頬を撫ぜていくものだから息を呑んだ。ひどく何かを慈しむようなグリーンが眩しくて、つい目を逸らしてしまう。
「ボクに報告すべきことは?」
「んー、……基本的にはホームズくんの想定通りだったから特にはないかな」
「残念ながら、今ここで嘘を吐くのは悪手だ」
「別に嘘ってわけじゃ」
両手を柔く包まれながらようやく自覚する。わたしはいつの間にか、驚く程に全身が震えていた。ぎゅっと強く目を閉じて大きく深呼吸をして、寄り添ってくれるホームズくんの温かさを感じて。ようやく徐々に収まっていくのを認識してから、ゆっくりと顔を上げていく。
「名前、キミはよく頑張った。今日はもう休むといい」
「……うん。ありがとう」
「どういたしまして。他にも面会を希望する人間は絶えないが、ミコトバとも相談してしばらくは予定を調整しておく」
「お手数かけてごめんね」
「名前のために時間を割くのは嫌じゃない」
さらりと真っ直ぐ落とされた言葉に動揺する。わたしの気持ちなんて見透かしているだろうに、何も察していないかのような顔で微笑むのが少々憎らしかった。負けじと目を合わせて澄ました顔を取り繕えば、触れるだけのキスが降ってくる。今度こそ息が止まった。
「……ホームズくん、あの」
「名前。ボクのファーストネームを知っているだろう?」
「それはもちろん。シャーロック?」
「愛称が好ましいならそれでも構わないが、キミの好きなように呼んでくれ」
いつもより幼い顔で堂々と胸を張っていた。ようやくわたしも御琴羽くんのように、ホームズくんの遠回しなワガママの伝え方が分かってきたのだけれど。
「……名前で呼んでほしいの?」
「せめて二人きりの時くらいは」
慣れない空気に胸が詰まりそうだった時、再びノックの音がしてホッとする。この個室に訪れるのは、主治医であるワトソン先生か大切なルームメイトだけだったから。
不満そうな様子を隠そうとしないホームズくんに苦笑しつつ、ジェスチャーで謝罪を表した。
「御琴羽くん、どうぞ!」
「失礼します。ああ、ホームズ。もしかして邪魔をしましたか」
「分かっているなら聞かないでくれ」
「これは失敬。名前、様子はどうです?」
「うん、悪くないよ。ありがとう」
「それは良かった。……今日は少し報告がありまして」
手元のカルテらしき書類に一瞬目を通してから、御琴羽くんは意識的に神妙な顔を作った。その誠実さに答えるべく、こちらも覚悟を決めてから言葉を待つ。
「前にも言いましたが、後遺症は特に見られません。ですが、今回も傷跡は残ってしまうというのが我々の見解です」
「……うん。さすがに自業自得だからね、そこは全然気にしないよ」
わたし達が襲われたこと自体は不可抗力だが、意識的に刃を深く突き立てたのは己自身だ。元から覚悟はしていたから、安心させるように意識的に微笑む。けれど以前とは異なり、背中も脚も傷だらけな事実に少しだけ胸が痛んだ。
「ボクも気にしないから問題ない」
「ホームズくん、そういうの恥ずかしいからやめて」
諌めるように腕を軽く叩けば、御琴羽くんは困ったように微笑みつつ肩を竦める。
ホームズくんのそれは、私の内心を見透かした故の言動な気もするし、彼の素直な心が表れた言葉である気もする。どちらも正解なのかもしれないなと思考しながら顔の熱を冷ましていた。
「ホームズ、思った以上に吹っ切れましたね」
「ここで腹を決めなければ、自分自身を許せないと思ったからね」
「……なるほど。今日はもう診察もないですから、どうか二人でごゆっくり」
「え。御琴羽くん、もう行っちゃうの……?」
「すみません、私も仕事があるもので。ああでも、一点だけアドバイスを。ホームズは名前に関してはいつだって誠実な男ですから。何を言われても、無理のない範囲で素直に受け止めてあげてください」
「一言余計だ」
「的確でしょう? それでは」
言葉通りさっさと立ち去ってしまった御琴羽くんを見送った後、不機嫌な様を隠そうともしないホームズくんに向けて苦笑する。腕を組み脚を組み横柄にさえ見えるけれど、そこにあるのは拒絶ではなかった。
「……シャーロック?」
「ん」
腕を解いてゆっくりこちらを見詰めてくる。どうやらお気に召したようだと安心しながら、言葉を続けていく。
「愛称は、綴りを縮めてシャーとかシャールとか?」
「まあ、そうだろうね」
「そっか、なら一番しっくりくるのはシャーロックかなとは思うんだけど。……あのね、わたしにとってホームズくんっていう呼び方は特別なんだ」
「ほう?」
「ほら、まだ出会ったばかりの頃。ホームズくんが急にキミは他人行儀すぎるなんて言い出して、そこから御琴羽くんの提案で決まった呼び方だったじゃない?」
「ああ。もう二年も前になるのか」
「そうだね。あっという間だ」
視線を重ねて小さく笑い合った後、今まで培ってきた想いを自らの言葉に込めていく。
「ホームズくんは、わたし達が一緒に決めた初めての呼び方だから。ベーカー街のあの家がわたしの居場所なんだって、ようやく思えたキッカケでもあるから。ホームズくんって呼ぶ度にね、わたしはあなたが自分にとって特別なひとだって感じられるんだ。名前で呼ぶのは構わないんだけど、少し時間を貰えると嬉し……?」
こちらを真っ直ぐに射抜いていたグリーンが、何故か徐々にホームズくん自身の手の甲によって隠されていく。両手で自らの顔を覆い出し、ついには項垂れ始めた意図が分からず言葉が途切れてしまった。
「ホームズくん、どうかした?」
「どうもこうも……。いや、キミがそういう人間だと分かってはいたんだが」
「うん?」
「名前、今のキミの言葉を直訳するとだ。愛の告白 にしか聞こえなかった」
ゆっくりと顔を上げたホームズくんは、何かを逡巡するような顔でわたしを見つめていた。キスまでしたくせに、愛の言葉を受け取ることを躊躇うのか、と面映ゆさを抱いてしまう。いじらしくて不器用なわたしの大切な男の子に対して、胸に渦巻く熱をもった感情を今すぐに届けたかった。
「だってわたしは、あなたを愛しているから。ホームズくんへ贈る言葉に自然と愛情が込もるのは仕方がないよ」
虚をつかれたような顔で、ホームズくんはわたしを見つめていた。
インクが紙に染み込んでいくように、心からの笑みが顔にゆるりと広がっていく。嬉しさを感じた時の笑い方も、幸福感を胸に仕舞い込む方法も、すべてこの世界であなたと共に思い出したことだった。
成人を迎えたばかりなのに大英帝国に蔓延る闇に立ち向かおうとする探偵の隣には、確かに御琴羽くんという頼もしい相棒がいるけれど。孤独を背負ってばかりの聡明な男の子に向けて、自分なりに手を伸ばすことくらいは許されたかった。
「……名前」
「うん」
「ボク自身の言葉でキミの誠意に応える前に、話さなければならないことがある」
先程の御琴羽くんの言葉やホームズくんの言動から、容易に推察できる展開だった。既に覚悟を決めていたため深く頷けば、決意を秘めた力強い視線が返ってくる。
「名前。ボクはキミにずっとウソをついていた」
「嘘?」
「ああ、まずは話を整理しよう。出会った当初、キミが別の世界から来たことをすぐに言い当てた。覚えているだろう?」
「うん。わたしの衣服の成分がこの時代には存在しなかったことが決め手だった、よね」
「ご明答。だがそれはあくまで推論の材料でしかなかった。確信を得たのは別の事象だったんだ」
さすがにそこまで話が遡るとは思わず、つい呆けてしまった。与えられた情報を噛み砕くべく脳内をフル回転させていく。
「ボクは、別の世界の人間がこのロンドンへやって来る理由に、唯一心当たりのある存在だった」
「……それは、つまり。ホームズくんは、別の世界から人間がやって来ることをあらかじめ知っていた?」
「知っていた、と言うと少し語弊があるな。その可能性がゼロではないことを思いつくのが、この世界には一人しかいなかった、という話さ」
「なら、……わたしがこの大英帝国にやって来たのは」
「まず間違いなく、このボクの責任だと思っている」
確信をもって紡がれる言葉から受ける衝撃は大きかった。けれど早合点して誤解を自ら生む前に、ホームズくんの言葉を全て受け止めようと耳を澄ましていく。
「ボクの余暇の過ごし方は、ご存知の通り科学実験だ。その頃はまだ探偵業も駆け出しで、実験に明け暮れる時間は無限にあったからね。現在の地球では到底不可能とされる理論であっても、この地球外まで前提条件を広げたならば実現できるのではないか、と。……そう考えて、二年前にとある装置を作った」
「それが、わたしをこの世界に呼んだ?」
「恐らくは。仮称として電気式瞬間移動装置と呼んでいたが、生命体を瞬間移動させるための技術でね。……キミに遭遇するまで忘れていたんだ。気まぐれに、あの日あの場所を設定して装置を作動させた事実を」
片時も目を逸らさないまま、ホームズくんは懺悔するように語っていく。いつだって自信を持って話を展開していく青年の姿は鳴りを潜めていた。だからこそ疑問がたった一つ思い浮かぶ。
「ホームズくんは、何でそのことをわたしに隠していたの?」
探偵として確信を得た事実ならば、いつも通り華麗に披露すれば良い話だった。わたしの抱える傷も痛みも把握しているホームズくんならば、むしろ出会えたキッカケを生んでくれて感謝することは予想できる筈なのに。
「そうだな、我ながら自分らしくないとは自覚しているんだが。……ボクの無責任な好奇心がキミを危険に晒してしまった。その事実にケジメをつけるまでは感謝の言葉を受け取りたくなかったんだろう、と思う」
ぽつりぽつりと、思考を整理するように慎重に言葉を紡ぐ様は初めて見る姿だった。だからこそ相槌と頷きを丁寧に返しながら、ホームズくんの想いをしっかりと受け取っていく。
「……ボクは、」
髪を片手でぐしゃぐしゃと撫で付けながら、あどけない少年のように照れくさそうに眉を下げる。こそばゆさを覚えつつ、わたしはその様を真っ直ぐに見つめていく。
「他人なんてどうでもいいと思っていた。ミコトバに出会った後でさえ、あくまで自分の中で友人というカテゴリーが生まれただけで、人間は単なる観察対象でしかなかったんだ」
「……うん」
「だが、名前。キミに関してだけはボクは無関心でいる訳にはいかなかった。このロンドンで死の淵を彷徨う程の傷を負ったのは、元はと言えばボクの責任だからね。同居の話を持ちかけた時のミコトバの驚いた顔はなかなか見物だったな」
「そっか、確かルームシェアも御琴羽くんから提案したって話だったよね」
「ああ、口裏を合わせてもらった。ここまできたら白状するが、キミの入院費や手術費用は全てボクが肩代わりしている。今まで実施していた大規模な研究は取りやめて、設備も色々売り払ってね。さすがに他人に無関心とは言っても、一人の人生を滅茶苦茶にしたツケを払う必要はあるだろう」
「もしかして、わたしが来てからやたらと探偵業をこなしていたのも……?」
「まあボクの名が売れてきたお陰でもあるんだが、その予想も半分は正解だ」
よく事件現場に連れて行かれた時期があったのも、半分は実益を兼ねていたのかと納得する。言動の根本に合理的な側面もあるのがやはりホームズくんらしかった。
「それなのにキミときたら。入院に関わる費用は全て返すなんて言い出すし」
「え」
雰囲気が一転して、心底呆れた顔で眉を上げながら人差し指を立て始めた。御琴羽くんと過ごす時に近い、プライベートで無邪気な男の子としての側面は好きだったけれど、自分ひとりに向けられるのはいつまでも慣れない。
「まだ他人が怖いくせに頑張って周りに関わろうとして、実際に近場の人間とはすぐに顔見知りになるし。ボクも街に出たらキミの知り合いってことで声をかけられることが増えたし」
「え。でも人脈が広がるのは探偵として良いことだよね……?」
確かにベーカー街付近の知り合いに限らず、下町の人々やバンジークス家経由で顔を合わせた貴族の方々には、それとなくホームズくんの宣伝をしていたけれども。探偵としては優秀でもわたし以上に人と関わろうとしないから、勝手なお節介で実行していたことも迷惑だったのだろうか。
「……まあキミの言うことも一理あるから、それはいいとして。ヤードの刑事くん達とやたらと親しくなって文通やお茶まで始めるし、貴族にまで目をかけられて仕事を依頼されるし」
「え。グレグソンさんも亜双義くんも素敵なひとで学ぶ側面が多いし、わたしの仕事が増えたら返済も上手くいくからホームズくんにとって悪い話じゃないよね……?」
「悪くはないが良くもない。名前、ついこの間なんてどこの馬の骨かも分からない男から求愛の手紙まで受け取っていただろう」
「求愛って……。確かに、妻に迎えたいくらいだなんて書いてあったけど、リップサービスで褒めてくれただけなんじゃないかな」
「甘いな。ベリル・バンジークス嬢が笑顔で握り潰してくれなかったら、本気で実行に移されていた危険がある。彼女と手を組んで色々根回しするのも苦労したんだぞ」
「二人ともいつの間にそんなに仲良くなってたの……?」
「ボクは、男を引っかけるために護身術を教えた覚えはないんだが」
「ホームズくん、言い方に悪意があるよね!?」
「……こうしてまた、勝手に一人で傷付いて離れていこうとするし」
支離滅裂に思えた言葉の数々が、ようやく一つの形を成していくように感じた。一連の流れが全てホームズくん自身の感情の発露だったことを悟る。
論理を組み立てることを何よりも重視する探偵が、一個人に向けてありのままの気持ちを露わにしてくれているのだろうか。だとすれば大人として一人の人間として、ここまで喜ばしいことはない。
「わたし、これからもホームズくんと一緒に生きていきたいと思ってるよ」
「その気持ちを疑っている訳ではないんだが。いや、そうだな、うん。……単にボクが、キミを失うことを怖れてしまったんだろうと今なら分かる。もっと早く名前と呼んで、自分の気持ちに答えを出しておけば良かったのに、と。何度も考えた」
奇しくもその恐怖は、教会で意識を失う直前のわたしの思考と似通っていた。心臓が引きちぎられるように胸が締め付けられる。
ホームズくんは憑き物が落ちたようにスッキリとした顔をしていた。
「キミが意識の無かった三日間はずっと、この二年間の日々を思い出していた。それでようやく、自分の感情に名前をつけることが出来たんだ」
「……うん」
「キミと共に生活をして、互いに言葉を交わして、優しさと呼べるものをたくさん受け取って。ボクはキミの精神に惹かれて、キミと重ねる時間に居心地の良さを感じて、キミを大事にしたいと考えるようになっていた。……だからこそ、名前。キミが自らの意志でこの世界で生きていきたいと思えるようになる日までは、キミの背中をただ見守っていたかった」
「…………、そっか」
「だがそんな綺麗事ばかりでもないんだ。同時にボクは名前を危険に晒し続けた自分自身を許せなくなっていた。それに、怖かったのかもしれない。キミに嫌われるのが」
ばかだなあ、と彼に対して思うのは初めてかもしれない。わたしがホームズくんを嫌いになるなんてある訳ないのに、けれど人間の感情が移ろいゆくものであることを誰よりも知るのが名探偵だろうから。
この際、わたしも胸の内を全てさらけ出してしまいたかった。
「確かにホームズくんって、出会ったばかりの頃から言い方がキツくて怪我人相手にも容赦なかったよね。あれ結構傷付くんだからね」
「え」
「さっき話してくれたことも、倫敦で起こった事件の数々も、その裏に潜むこの国の闇も全部一人で背負い込んで何でもないような顔して。わたしと御琴羽くんがどんな思いでホームズくんを心配して見守ってるか分かってる?」
「……認識はしているんだが、別にボクは一人で背負い込んでいるつもりはないさ」
「なら辛い時は辛いって言ってよ。悲しい時は遠慮せずに悲しんでいいし、嬉しい時はもっと素直に喜んでほしいし、寂しい時は寂しいってちゃんと口にしてほしい。出来る限り、わたしがいつでも受け止めるから」
溢れる感情のままに言葉を紡げば、次第に言葉が涙で濡れていくのが分かった。何故だろうか。それでも今しか形にできない想いを必死にかき集めるわたしを、ホームズくんは静かに見つめてくれていた。
「……わたしがいなくなるのは嫌なんだよね?」
「ああ」
「だったらもう、他人に無関心な人間だなんて悲しそうに言わないで。自分の可能性を狭めないでよ。ホームズくんはね、今も倫敦のたくさんの人達と関わりを持ちながら、探偵として大勢の人を救ってきたんだよ。わたしは、事件の被害者としても一人の人間としてもあなたの優しさに救われたの。だからもうこれ以上、あなたがあなたの優しさを否定しないで。わたしの大好きな男の子をその言葉で傷付けないで」
「……名前」
「なに?」
「キミを抱き締めてもいいかな」
「…………うん」
全身がゆっくりと、ホームズくんの熱で包まれていく。傷に響かないように配慮してか腕の力は弱かった。いつだってわたしを支えてくれるその優しさを全身で享受しながら、魂の奥底から溢れ出す感情のままに微笑んだ。
「名前、さっきの返事をさせてくれ」
今の自分に出来る精一杯の力で抱き締め返したら、わたしの背中を傷を撫ぜるように温もりが降ってくる。夕焼けが射し込む病室の中で、あの朝日の下で欠けたわたしの命が、孤独を抱えた男の子の熱い優しさで満たされていった。
「ボクも、キミを愛している」
「……という訳で、お分かり頂けただろうか。ミス・ミョウジ?」
相手は、確かに腰を下ろして目線を合わせてくれている筈だった。互いに言葉を交わして意思疎通を図ってくれている筈だった。それなのにわたしは今、一方的に見下されて命令をされているのだと本能的に理解する。
わたしを刺した犯人が新聞社の人間であるという事実を、司法の上層部は何としても隠しておきたいらしい。
お見舞いという名目でやって来た検事さんが厳重に口止めをしようとするものだから、わたしは全てを察して笑うことしか出来なかった。
先日、わざわざ一個人に個室が宛てがわれた理由を御琴羽くんへ尋ねた時、何故だかはぐらかされたのだが、答えはそういうことなのだろう。
英国人が外国人を襲ったスキャンダルであり、国民への影響が強いメディア関係者が起こした事件。犯人は黙秘を続けて動機さえも不明らしく、わたしも編集長とは一度顔を合わせただけでまともに会話した記憶がなかった。
確かに外国人への差別意識が強い人ではあったが、正直なところ、あんな犯行をする度胸がありそうには思えなかったのだ。教会で出会った時にはかなり人相が変わっていて、それこそイーストエンドにて限界を迎えた人々と同じくらい切羽詰まった様子にも見えた。彼を凶行に駆り立てたものは一体何だったのだろうか。
もしも何者かに脅されていたのだとしたら。もしも貴族に何かしらの恨みを抱いていたのだとしたら。もしもメディア業界の評判を落としたかったのだとしたら。
考えても答えは出ないが、いくつか推論を組み立てることは出来る。ホームズくんに問えば明瞭になるかもしれないが、自分で思考する自由を放棄したくはなかった。探偵が謎を開示しない段階ならば、関係者の一人として答えを模索していくべきだろう。
大英帝国のマスメディアが、司法と癒着した組織ばかりであることは重々承知していた。彼らは少しでも自分たちの汚点を無くすべく、下町の人々に責任を押し付けたいのだろうと推察できる。
要は、このまま目を瞑れば今まで通りに仕事が出来るが、そうでない場合はメディア業界から追放すると。遠回しな脅しを受けているのだろう。
望まれるままに従順な人間を演じることが得意である事実を、今だけは感謝しておこうと思う。たとえ傍から見れば無様でも、自分なりに胸を張ってみたかった。
カリグラフィー作家として生んだ広告も、新聞社のメンバーとして作成した記事も。好きなことを仕事として引き受けられる喜びを、自らの手で手放すことなんてしたくは無かったから。
「はい、自分の立場は弁えております。口外などしても誰にも信じてもらえぬでしょうから。……心配せずとも問題ございません、ヴォルテックス卿」
現在は席を外しているホームズくんから受けたアドバイス通り、ひたすら腰を低くしながら自分の役割を言語化していく。出会い頭に信頼してもらえなかったのはクリムトさんと同じだったけれど、目の前の検事さんとは圧倒的な違いがあった。
クリムト・バンジークスの警戒には愛があった。ベリルちゃんやバロックくん───クリムトさんの弟さんで礼儀正しい素敵な子だ───を守るため、思い遣りで形づくられた盾だった。
しかし目の前のヴォルテックス卿は、鋭く冷たい鉄製の斧を連想させる。どことなく既視感を覚えるのは、過去の自分と重なる部分があるためだろうか。
周囲の誰も信用せず、自分自身さえも信頼できず、一人で分厚い壁を作り殻に閉じ篭もるような頑なさを、勝手に感じてしまっていた。
形式的な応答はそのまますぐに終わり、ヴォルテックス卿は貴族らしい威厳を携えながら颯爽と去っていく。扉が閉まって気配が遠ざかっていくのを確認したところで、ようやく深々と息を吐いた。
あの瞳で見詰められると、過去の傷を混ぜっ返されるような気がして落ち着かなかった。未だに本調子でない身体を自分でさすっていると、コンコン、と聞き慣れたノックの音がする。すると不思議な程に心臓が柔く緩んで、自然と笑顔が溢れた。
「どうぞ。ホームズくん」
「失礼するよ、名前」
律儀に挨拶を返した探偵は、ベッド脇の椅子にゆったりと座ってくれる。先程の威圧感を上書きするような言動に擽ったさを覚えている間に、大きな掌がわたしの頬を撫ぜていくものだから息を呑んだ。ひどく何かを慈しむようなグリーンが眩しくて、つい目を逸らしてしまう。
「ボクに報告すべきことは?」
「んー、……基本的にはホームズくんの想定通りだったから特にはないかな」
「残念ながら、今ここで嘘を吐くのは悪手だ」
「別に嘘ってわけじゃ」
両手を柔く包まれながらようやく自覚する。わたしはいつの間にか、驚く程に全身が震えていた。ぎゅっと強く目を閉じて大きく深呼吸をして、寄り添ってくれるホームズくんの温かさを感じて。ようやく徐々に収まっていくのを認識してから、ゆっくりと顔を上げていく。
「名前、キミはよく頑張った。今日はもう休むといい」
「……うん。ありがとう」
「どういたしまして。他にも面会を希望する人間は絶えないが、ミコトバとも相談してしばらくは予定を調整しておく」
「お手数かけてごめんね」
「名前のために時間を割くのは嫌じゃない」
さらりと真っ直ぐ落とされた言葉に動揺する。わたしの気持ちなんて見透かしているだろうに、何も察していないかのような顔で微笑むのが少々憎らしかった。負けじと目を合わせて澄ました顔を取り繕えば、触れるだけのキスが降ってくる。今度こそ息が止まった。
「……ホームズくん、あの」
「名前。ボクのファーストネームを知っているだろう?」
「それはもちろん。シャーロック?」
「愛称が好ましいならそれでも構わないが、キミの好きなように呼んでくれ」
いつもより幼い顔で堂々と胸を張っていた。ようやくわたしも御琴羽くんのように、ホームズくんの遠回しなワガママの伝え方が分かってきたのだけれど。
「……名前で呼んでほしいの?」
「せめて二人きりの時くらいは」
慣れない空気に胸が詰まりそうだった時、再びノックの音がしてホッとする。この個室に訪れるのは、主治医であるワトソン先生か大切なルームメイトだけだったから。
不満そうな様子を隠そうとしないホームズくんに苦笑しつつ、ジェスチャーで謝罪を表した。
「御琴羽くん、どうぞ!」
「失礼します。ああ、ホームズ。もしかして邪魔をしましたか」
「分かっているなら聞かないでくれ」
「これは失敬。名前、様子はどうです?」
「うん、悪くないよ。ありがとう」
「それは良かった。……今日は少し報告がありまして」
手元のカルテらしき書類に一瞬目を通してから、御琴羽くんは意識的に神妙な顔を作った。その誠実さに答えるべく、こちらも覚悟を決めてから言葉を待つ。
「前にも言いましたが、後遺症は特に見られません。ですが、今回も傷跡は残ってしまうというのが我々の見解です」
「……うん。さすがに自業自得だからね、そこは全然気にしないよ」
わたし達が襲われたこと自体は不可抗力だが、意識的に刃を深く突き立てたのは己自身だ。元から覚悟はしていたから、安心させるように意識的に微笑む。けれど以前とは異なり、背中も脚も傷だらけな事実に少しだけ胸が痛んだ。
「ボクも気にしないから問題ない」
「ホームズくん、そういうの恥ずかしいからやめて」
諌めるように腕を軽く叩けば、御琴羽くんは困ったように微笑みつつ肩を竦める。
ホームズくんのそれは、私の内心を見透かした故の言動な気もするし、彼の素直な心が表れた言葉である気もする。どちらも正解なのかもしれないなと思考しながら顔の熱を冷ましていた。
「ホームズ、思った以上に吹っ切れましたね」
「ここで腹を決めなければ、自分自身を許せないと思ったからね」
「……なるほど。今日はもう診察もないですから、どうか二人でごゆっくり」
「え。御琴羽くん、もう行っちゃうの……?」
「すみません、私も仕事があるもので。ああでも、一点だけアドバイスを。ホームズは名前に関してはいつだって誠実な男ですから。何を言われても、無理のない範囲で素直に受け止めてあげてください」
「一言余計だ」
「的確でしょう? それでは」
言葉通りさっさと立ち去ってしまった御琴羽くんを見送った後、不機嫌な様を隠そうともしないホームズくんに向けて苦笑する。腕を組み脚を組み横柄にさえ見えるけれど、そこにあるのは拒絶ではなかった。
「……シャーロック?」
「ん」
腕を解いてゆっくりこちらを見詰めてくる。どうやらお気に召したようだと安心しながら、言葉を続けていく。
「愛称は、綴りを縮めてシャーとかシャールとか?」
「まあ、そうだろうね」
「そっか、なら一番しっくりくるのはシャーロックかなとは思うんだけど。……あのね、わたしにとってホームズくんっていう呼び方は特別なんだ」
「ほう?」
「ほら、まだ出会ったばかりの頃。ホームズくんが急にキミは他人行儀すぎるなんて言い出して、そこから御琴羽くんの提案で決まった呼び方だったじゃない?」
「ああ。もう二年も前になるのか」
「そうだね。あっという間だ」
視線を重ねて小さく笑い合った後、今まで培ってきた想いを自らの言葉に込めていく。
「ホームズくんは、わたし達が一緒に決めた初めての呼び方だから。ベーカー街のあの家がわたしの居場所なんだって、ようやく思えたキッカケでもあるから。ホームズくんって呼ぶ度にね、わたしはあなたが自分にとって特別なひとだって感じられるんだ。名前で呼ぶのは構わないんだけど、少し時間を貰えると嬉し……?」
こちらを真っ直ぐに射抜いていたグリーンが、何故か徐々にホームズくん自身の手の甲によって隠されていく。両手で自らの顔を覆い出し、ついには項垂れ始めた意図が分からず言葉が途切れてしまった。
「ホームズくん、どうかした?」
「どうもこうも……。いや、キミがそういう人間だと分かってはいたんだが」
「うん?」
「名前、今のキミの言葉を直訳するとだ。
ゆっくりと顔を上げたホームズくんは、何かを逡巡するような顔でわたしを見つめていた。キスまでしたくせに、愛の言葉を受け取ることを躊躇うのか、と面映ゆさを抱いてしまう。いじらしくて不器用なわたしの大切な男の子に対して、胸に渦巻く熱をもった感情を今すぐに届けたかった。
「だってわたしは、あなたを愛しているから。ホームズくんへ贈る言葉に自然と愛情が込もるのは仕方がないよ」
虚をつかれたような顔で、ホームズくんはわたしを見つめていた。
インクが紙に染み込んでいくように、心からの笑みが顔にゆるりと広がっていく。嬉しさを感じた時の笑い方も、幸福感を胸に仕舞い込む方法も、すべてこの世界であなたと共に思い出したことだった。
成人を迎えたばかりなのに大英帝国に蔓延る闇に立ち向かおうとする探偵の隣には、確かに御琴羽くんという頼もしい相棒がいるけれど。孤独を背負ってばかりの聡明な男の子に向けて、自分なりに手を伸ばすことくらいは許されたかった。
「……名前」
「うん」
「ボク自身の言葉でキミの誠意に応える前に、話さなければならないことがある」
先程の御琴羽くんの言葉やホームズくんの言動から、容易に推察できる展開だった。既に覚悟を決めていたため深く頷けば、決意を秘めた力強い視線が返ってくる。
「名前。ボクはキミにずっとウソをついていた」
「嘘?」
「ああ、まずは話を整理しよう。出会った当初、キミが別の世界から来たことをすぐに言い当てた。覚えているだろう?」
「うん。わたしの衣服の成分がこの時代には存在しなかったことが決め手だった、よね」
「ご明答。だがそれはあくまで推論の材料でしかなかった。確信を得たのは別の事象だったんだ」
さすがにそこまで話が遡るとは思わず、つい呆けてしまった。与えられた情報を噛み砕くべく脳内をフル回転させていく。
「ボクは、別の世界の人間がこのロンドンへやって来る理由に、唯一心当たりのある存在だった」
「……それは、つまり。ホームズくんは、別の世界から人間がやって来ることをあらかじめ知っていた?」
「知っていた、と言うと少し語弊があるな。その可能性がゼロではないことを思いつくのが、この世界には一人しかいなかった、という話さ」
「なら、……わたしがこの大英帝国にやって来たのは」
「まず間違いなく、このボクの責任だと思っている」
確信をもって紡がれる言葉から受ける衝撃は大きかった。けれど早合点して誤解を自ら生む前に、ホームズくんの言葉を全て受け止めようと耳を澄ましていく。
「ボクの余暇の過ごし方は、ご存知の通り科学実験だ。その頃はまだ探偵業も駆け出しで、実験に明け暮れる時間は無限にあったからね。現在の地球では到底不可能とされる理論であっても、この地球外まで前提条件を広げたならば実現できるのではないか、と。……そう考えて、二年前にとある装置を作った」
「それが、わたしをこの世界に呼んだ?」
「恐らくは。仮称として電気式瞬間移動装置と呼んでいたが、生命体を瞬間移動させるための技術でね。……キミに遭遇するまで忘れていたんだ。気まぐれに、あの日あの場所を設定して装置を作動させた事実を」
片時も目を逸らさないまま、ホームズくんは懺悔するように語っていく。いつだって自信を持って話を展開していく青年の姿は鳴りを潜めていた。だからこそ疑問がたった一つ思い浮かぶ。
「ホームズくんは、何でそのことをわたしに隠していたの?」
探偵として確信を得た事実ならば、いつも通り華麗に披露すれば良い話だった。わたしの抱える傷も痛みも把握しているホームズくんならば、むしろ出会えたキッカケを生んでくれて感謝することは予想できる筈なのに。
「そうだな、我ながら自分らしくないとは自覚しているんだが。……ボクの無責任な好奇心がキミを危険に晒してしまった。その事実にケジメをつけるまでは感謝の言葉を受け取りたくなかったんだろう、と思う」
ぽつりぽつりと、思考を整理するように慎重に言葉を紡ぐ様は初めて見る姿だった。だからこそ相槌と頷きを丁寧に返しながら、ホームズくんの想いをしっかりと受け取っていく。
「……ボクは、」
髪を片手でぐしゃぐしゃと撫で付けながら、あどけない少年のように照れくさそうに眉を下げる。こそばゆさを覚えつつ、わたしはその様を真っ直ぐに見つめていく。
「他人なんてどうでもいいと思っていた。ミコトバに出会った後でさえ、あくまで自分の中で友人というカテゴリーが生まれただけで、人間は単なる観察対象でしかなかったんだ」
「……うん」
「だが、名前。キミに関してだけはボクは無関心でいる訳にはいかなかった。このロンドンで死の淵を彷徨う程の傷を負ったのは、元はと言えばボクの責任だからね。同居の話を持ちかけた時のミコトバの驚いた顔はなかなか見物だったな」
「そっか、確かルームシェアも御琴羽くんから提案したって話だったよね」
「ああ、口裏を合わせてもらった。ここまできたら白状するが、キミの入院費や手術費用は全てボクが肩代わりしている。今まで実施していた大規模な研究は取りやめて、設備も色々売り払ってね。さすがに他人に無関心とは言っても、一人の人生を滅茶苦茶にしたツケを払う必要はあるだろう」
「もしかして、わたしが来てからやたらと探偵業をこなしていたのも……?」
「まあボクの名が売れてきたお陰でもあるんだが、その予想も半分は正解だ」
よく事件現場に連れて行かれた時期があったのも、半分は実益を兼ねていたのかと納得する。言動の根本に合理的な側面もあるのがやはりホームズくんらしかった。
「それなのにキミときたら。入院に関わる費用は全て返すなんて言い出すし」
「え」
雰囲気が一転して、心底呆れた顔で眉を上げながら人差し指を立て始めた。御琴羽くんと過ごす時に近い、プライベートで無邪気な男の子としての側面は好きだったけれど、自分ひとりに向けられるのはいつまでも慣れない。
「まだ他人が怖いくせに頑張って周りに関わろうとして、実際に近場の人間とはすぐに顔見知りになるし。ボクも街に出たらキミの知り合いってことで声をかけられることが増えたし」
「え。でも人脈が広がるのは探偵として良いことだよね……?」
確かにベーカー街付近の知り合いに限らず、下町の人々やバンジークス家経由で顔を合わせた貴族の方々には、それとなくホームズくんの宣伝をしていたけれども。探偵としては優秀でもわたし以上に人と関わろうとしないから、勝手なお節介で実行していたことも迷惑だったのだろうか。
「……まあキミの言うことも一理あるから、それはいいとして。ヤードの刑事くん達とやたらと親しくなって文通やお茶まで始めるし、貴族にまで目をかけられて仕事を依頼されるし」
「え。グレグソンさんも亜双義くんも素敵なひとで学ぶ側面が多いし、わたしの仕事が増えたら返済も上手くいくからホームズくんにとって悪い話じゃないよね……?」
「悪くはないが良くもない。名前、ついこの間なんてどこの馬の骨かも分からない男から求愛の手紙まで受け取っていただろう」
「求愛って……。確かに、妻に迎えたいくらいだなんて書いてあったけど、リップサービスで褒めてくれただけなんじゃないかな」
「甘いな。ベリル・バンジークス嬢が笑顔で握り潰してくれなかったら、本気で実行に移されていた危険がある。彼女と手を組んで色々根回しするのも苦労したんだぞ」
「二人ともいつの間にそんなに仲良くなってたの……?」
「ボクは、男を引っかけるために護身術を教えた覚えはないんだが」
「ホームズくん、言い方に悪意があるよね!?」
「……こうしてまた、勝手に一人で傷付いて離れていこうとするし」
支離滅裂に思えた言葉の数々が、ようやく一つの形を成していくように感じた。一連の流れが全てホームズくん自身の感情の発露だったことを悟る。
論理を組み立てることを何よりも重視する探偵が、一個人に向けてありのままの気持ちを露わにしてくれているのだろうか。だとすれば大人として一人の人間として、ここまで喜ばしいことはない。
「わたし、これからもホームズくんと一緒に生きていきたいと思ってるよ」
「その気持ちを疑っている訳ではないんだが。いや、そうだな、うん。……単にボクが、キミを失うことを怖れてしまったんだろうと今なら分かる。もっと早く名前と呼んで、自分の気持ちに答えを出しておけば良かったのに、と。何度も考えた」
奇しくもその恐怖は、教会で意識を失う直前のわたしの思考と似通っていた。心臓が引きちぎられるように胸が締め付けられる。
ホームズくんは憑き物が落ちたようにスッキリとした顔をしていた。
「キミが意識の無かった三日間はずっと、この二年間の日々を思い出していた。それでようやく、自分の感情に名前をつけることが出来たんだ」
「……うん」
「キミと共に生活をして、互いに言葉を交わして、優しさと呼べるものをたくさん受け取って。ボクはキミの精神に惹かれて、キミと重ねる時間に居心地の良さを感じて、キミを大事にしたいと考えるようになっていた。……だからこそ、名前。キミが自らの意志でこの世界で生きていきたいと思えるようになる日までは、キミの背中をただ見守っていたかった」
「…………、そっか」
「だがそんな綺麗事ばかりでもないんだ。同時にボクは名前を危険に晒し続けた自分自身を許せなくなっていた。それに、怖かったのかもしれない。キミに嫌われるのが」
ばかだなあ、と彼に対して思うのは初めてかもしれない。わたしがホームズくんを嫌いになるなんてある訳ないのに、けれど人間の感情が移ろいゆくものであることを誰よりも知るのが名探偵だろうから。
この際、わたしも胸の内を全てさらけ出してしまいたかった。
「確かにホームズくんって、出会ったばかりの頃から言い方がキツくて怪我人相手にも容赦なかったよね。あれ結構傷付くんだからね」
「え」
「さっき話してくれたことも、倫敦で起こった事件の数々も、その裏に潜むこの国の闇も全部一人で背負い込んで何でもないような顔して。わたしと御琴羽くんがどんな思いでホームズくんを心配して見守ってるか分かってる?」
「……認識はしているんだが、別にボクは一人で背負い込んでいるつもりはないさ」
「なら辛い時は辛いって言ってよ。悲しい時は遠慮せずに悲しんでいいし、嬉しい時はもっと素直に喜んでほしいし、寂しい時は寂しいってちゃんと口にしてほしい。出来る限り、わたしがいつでも受け止めるから」
溢れる感情のままに言葉を紡げば、次第に言葉が涙で濡れていくのが分かった。何故だろうか。それでも今しか形にできない想いを必死にかき集めるわたしを、ホームズくんは静かに見つめてくれていた。
「……わたしがいなくなるのは嫌なんだよね?」
「ああ」
「だったらもう、他人に無関心な人間だなんて悲しそうに言わないで。自分の可能性を狭めないでよ。ホームズくんはね、今も倫敦のたくさんの人達と関わりを持ちながら、探偵として大勢の人を救ってきたんだよ。わたしは、事件の被害者としても一人の人間としてもあなたの優しさに救われたの。だからもうこれ以上、あなたがあなたの優しさを否定しないで。わたしの大好きな男の子をその言葉で傷付けないで」
「……名前」
「なに?」
「キミを抱き締めてもいいかな」
「…………うん」
全身がゆっくりと、ホームズくんの熱で包まれていく。傷に響かないように配慮してか腕の力は弱かった。いつだってわたしを支えてくれるその優しさを全身で享受しながら、魂の奥底から溢れ出す感情のままに微笑んだ。
「名前、さっきの返事をさせてくれ」
今の自分に出来る精一杯の力で抱き締め返したら、わたしの背中を傷を撫ぜるように温もりが降ってくる。夕焼けが射し込む病室の中で、あの朝日の下で欠けたわたしの命が、孤独を抱えた男の子の熱い優しさで満たされていった。
「ボクも、キミを愛している」