ミントじかけのランデヴー
とん、と柔らかな物が頭にぶつかる感覚があった。反射的に顔を上げれば、アイスブルーの瞳がいつも通り呆れたように私を見下ろしていた。
こんな真夜中までアカデミーのエントランスに居座っている生徒なんて滅多にいないのに、彼は毎度懲りずに最上階まで足を運んでくる。徹夜しがちな先輩をわざわざ心配してくれるなんて、相変わらず出来た後輩だと苦笑した。
「ナマエ先輩、また無茶してるだろ」
パステルカラーの可愛らしい布で包まれたものが差し出されて、美味しそうなスパイスの香りがふわりと鼻を擽る。それがお手製のサンドイッチだと理解するのは一瞬だった。
勉強机に置いていた山積みの書籍とノートには一旦背を向けて、大人しく後輩を真正面から見上げる形で座る。そういえば晩ご飯を食べていなかった、と自覚した途端に腹の虫が鳴るのだから我ながら現金な身体だった。
「食べるよな?」
「んー、もう少しで薬学の論文を読み終わりそうだったんだけどな」
「それはどうしても今やらなきゃいけない急ぎのことなのか? 腹が減ってるのに?」
「……残念ながら急ぎじゃない」
「なら食え」
横暴な口調とは裏腹に優しい手つきで隣の席の椅子を引き、彼はどかりと座った。本を汚すにはいかないため立ち上がり、私には不釣り合いなくらいに愛らしい包みを受け取る。
「行儀が悪くて申し訳ないんだけど、立ったまま頂いても良い?」
「もちろん。オレはそんな細かいことは気にしねえし。座りっぱなしも身体に良くないからな」
「ん。ありがと、ペパーくん」
「おう、どういたしまして」
なるべく食事は簡素に手っ取り早く済ませたいタイプだが、せっかくの好意をあっという間に平らげてしまうのも勿体ない。ランチクロスを丁寧に外していると、オラチフが吠える様子が全面にあしらわれたデザインであることにようやく気付く。つい微笑ましくなって笑い声を上げてしまうと、怪訝そうな顔を向けられた。
「ごめんごめん。本当にマフィティフが大好きなんだなと思って」
「そりゃまあ……小さい頃からの相棒だからな」
「うん。なんかね、私もそうだったなって少し思い出して」
「……ナマエ先輩」
そういえば、祖父母から受け継いだハカドッグが亡くなったのは、ちょうど彼と出会ったばかりの時期だっただろうか。既にこの世から旅立ってしまった二人を追うように静かに息を引き取る様は、幸いなことに穏やかなものではあったのだけれど。
しかしやはり、物心ついた時からずっと一緒に過ごした友人を喪った穴は何者にも埋められなかった。だからこそ以前の私は何かに取り憑かれたように机に齧り付いていたし、エントランスの最上階で倒れる私を見つけたのが彼のマフィティフだった。
医学や薬学を勉強して、ポケモンや人間が少しでも長く穏やかに、健やかに生きられる技術の発展に貢献したい。そんな夢を先生方以外に語ったのは、恩人である後輩が初めてだった。
両親とは離れて暮らしている境遇であったり───私の場合は祖父母と同じ理由だったが、彼には複雑な事情があるようで詳しくは聞いていない───、マフィティフを抱き締めた時の温もりがかつての相棒に似ていたり、家事が苦手で食事をサボりがちな私と異なり彼は料理が大好きであったり、と。お互い似ているようで正反対な部分も多く、心の欠けた部分をひっそりと共有できるような関係値なのかもしれなかった。
血の繋がりをどこにも感じられない私にとっては、いつでも遠慮なく真っ直ぐに叱ってくれる後輩の距離感が、時折目頭が熱くなるくらいには心地好かった。
口いっぱいにサンドイッチを頬張って、一口ずつゆっくりと噛み締めていく。口当たりの良いパンにまろやかなバター、新鮮なお野菜にタンパク質たっぷりのお肉。栄養バランスと思い遣りがたくさん詰まったご飯だと噛み締めつつ、脳内では先程読みふけっていた論文の内容を噛み砕いていく。難解な箇所がいくつかあったから、次の休み時間にでもジニア先生に質問に行こうか。
「ナマエ先輩、また勉強のこと考えてただろ」
食べ終わるまで何かの本を読んでいたらしい彼は、さすがによく私のことを理解しているようだった。
「当たり。ご馳走様でした、今日もすごく美味しかったよ」
「それはどうも。……たださ。一緒に過ごしてる時くらい、少しはオレのこと考えてくれてもいいんじゃね?」
「え? ペパーくんのことも考えてるけど。君は本当に優しい子だなって」
「そういうことじゃなくて……いやそれでもいいんだけど……」
葛藤するように項垂れる様を見て、先程オラチフを見つけた時のような微笑ましさを覚えてしまった。人のことは言えないが、彼もなかなか甘え下手なところがある。マフィティフも限界まで相棒のために努力する頑張り屋さんだから、なんともそっくりなパートナーだった。
「それじゃペパーくん。今日の私は更に欲しいものがあります」
「へ?」
「ほら、立って立って」
訳が分からない様子で言われるがままに立ち上がった後輩を、そのままゆっくりと抱き締めていく。かつての相棒のように、彼のマフィティフのように。大きくて温かな胸に耳を当てれば、彼の心臓の鼓動が私の全身に共鳴していく。
年頃の男の子だと感じられるしっかりとした筋肉と骨格の下で、暴れ太鼓みたいなリズムが彼の命を繋いでいた。その事実が何よりも尊く嬉しいことだと素直に思う。
息を呑んで固まっている後輩の耳が僅かに赤く染まっているのを見て、ついからからと笑ってしまった。じとりと睨まれたような気配がするのに、後輩の大きな手のひらは私の背中に恐る恐る回っていく。
いつも私に優しさを届けてくれる温かな両手に、今まさに全身が包まれている。その事実だけで、こちらの心臓の鼓動さえも熱く跳ね上がっていくような気がした。
「私が寂しい時、いつも駆け付けてくれてありがとう。……マフィティフに抱き着くのも大好きなんだけど、ペパーくんともハグしたいなってずっと思ってた」
「突然すぎるだろ。……まあいいけど」
不自然なくらいの沈黙が落ちて、さすがに羞恥心が湧き上がってくる。互いの熱がどこまでもじわじわと溶け合っていくようで。誰かとこんな風に抱き合うなんて久しぶりで。
しかしこれ以上甘えてしまうと自分が自分でなくなりそうで怖かったから、咄嗟にいつも通りの私を取り繕う。
「あっ! そういえば、滋養強壮に効果的な独自ブレンドのお茶を調合したばかりだった。ペパーくん、今から私の部屋に来て試してみない?」
「ナマエ先輩さあ、オレの言いたいことやっぱり分かってないよな!?」
気分を切り替えるための提案だったが、我ながら良いアイデアだった。実際、学生としての探究心が頭をもたげて溢れて止まらなくなってきた。大切な家族や友人達が気付かせてくれた将来の夢は、いつだって私の背中を強く優しく温かく支えてくれたから。
「もー、仕方ねえなあ。こうなりゃとことん付き合ってやるよ!」
「ありがとう! ペパーくんの作るサンドイッチにも合うと思うんだ、楽しみにしてて」
私たちがこれからどんな道を歩むのだとしても、君にだけは少しでも長生きしてほしいから。言葉にせずとも顔に乗せた本音を汲み取ってくれたであろう後輩は、照れくさそうに目を細めて笑ってくれる。
他でもない君と過ごす夜の温かさを、私はいつまでも抱き締めながら生きていくのだろう。アカデミーの天井を突き抜けた、更にそのずっと上の夜空から、私達に向けて柔らかな視線がいくつも降り注いでいるような気がした。
こんな真夜中までアカデミーのエントランスに居座っている生徒なんて滅多にいないのに、彼は毎度懲りずに最上階まで足を運んでくる。徹夜しがちな先輩をわざわざ心配してくれるなんて、相変わらず出来た後輩だと苦笑した。
「ナマエ先輩、また無茶してるだろ」
パステルカラーの可愛らしい布で包まれたものが差し出されて、美味しそうなスパイスの香りがふわりと鼻を擽る。それがお手製のサンドイッチだと理解するのは一瞬だった。
勉強机に置いていた山積みの書籍とノートには一旦背を向けて、大人しく後輩を真正面から見上げる形で座る。そういえば晩ご飯を食べていなかった、と自覚した途端に腹の虫が鳴るのだから我ながら現金な身体だった。
「食べるよな?」
「んー、もう少しで薬学の論文を読み終わりそうだったんだけどな」
「それはどうしても今やらなきゃいけない急ぎのことなのか? 腹が減ってるのに?」
「……残念ながら急ぎじゃない」
「なら食え」
横暴な口調とは裏腹に優しい手つきで隣の席の椅子を引き、彼はどかりと座った。本を汚すにはいかないため立ち上がり、私には不釣り合いなくらいに愛らしい包みを受け取る。
「行儀が悪くて申し訳ないんだけど、立ったまま頂いても良い?」
「もちろん。オレはそんな細かいことは気にしねえし。座りっぱなしも身体に良くないからな」
「ん。ありがと、ペパーくん」
「おう、どういたしまして」
なるべく食事は簡素に手っ取り早く済ませたいタイプだが、せっかくの好意をあっという間に平らげてしまうのも勿体ない。ランチクロスを丁寧に外していると、オラチフが吠える様子が全面にあしらわれたデザインであることにようやく気付く。つい微笑ましくなって笑い声を上げてしまうと、怪訝そうな顔を向けられた。
「ごめんごめん。本当にマフィティフが大好きなんだなと思って」
「そりゃまあ……小さい頃からの相棒だからな」
「うん。なんかね、私もそうだったなって少し思い出して」
「……ナマエ先輩」
そういえば、祖父母から受け継いだハカドッグが亡くなったのは、ちょうど彼と出会ったばかりの時期だっただろうか。既にこの世から旅立ってしまった二人を追うように静かに息を引き取る様は、幸いなことに穏やかなものではあったのだけれど。
しかしやはり、物心ついた時からずっと一緒に過ごした友人を喪った穴は何者にも埋められなかった。だからこそ以前の私は何かに取り憑かれたように机に齧り付いていたし、エントランスの最上階で倒れる私を見つけたのが彼のマフィティフだった。
医学や薬学を勉強して、ポケモンや人間が少しでも長く穏やかに、健やかに生きられる技術の発展に貢献したい。そんな夢を先生方以外に語ったのは、恩人である後輩が初めてだった。
両親とは離れて暮らしている境遇であったり───私の場合は祖父母と同じ理由だったが、彼には複雑な事情があるようで詳しくは聞いていない───、マフィティフを抱き締めた時の温もりがかつての相棒に似ていたり、家事が苦手で食事をサボりがちな私と異なり彼は料理が大好きであったり、と。お互い似ているようで正反対な部分も多く、心の欠けた部分をひっそりと共有できるような関係値なのかもしれなかった。
血の繋がりをどこにも感じられない私にとっては、いつでも遠慮なく真っ直ぐに叱ってくれる後輩の距離感が、時折目頭が熱くなるくらいには心地好かった。
口いっぱいにサンドイッチを頬張って、一口ずつゆっくりと噛み締めていく。口当たりの良いパンにまろやかなバター、新鮮なお野菜にタンパク質たっぷりのお肉。栄養バランスと思い遣りがたくさん詰まったご飯だと噛み締めつつ、脳内では先程読みふけっていた論文の内容を噛み砕いていく。難解な箇所がいくつかあったから、次の休み時間にでもジニア先生に質問に行こうか。
「ナマエ先輩、また勉強のこと考えてただろ」
食べ終わるまで何かの本を読んでいたらしい彼は、さすがによく私のことを理解しているようだった。
「当たり。ご馳走様でした、今日もすごく美味しかったよ」
「それはどうも。……たださ。一緒に過ごしてる時くらい、少しはオレのこと考えてくれてもいいんじゃね?」
「え? ペパーくんのことも考えてるけど。君は本当に優しい子だなって」
「そういうことじゃなくて……いやそれでもいいんだけど……」
葛藤するように項垂れる様を見て、先程オラチフを見つけた時のような微笑ましさを覚えてしまった。人のことは言えないが、彼もなかなか甘え下手なところがある。マフィティフも限界まで相棒のために努力する頑張り屋さんだから、なんともそっくりなパートナーだった。
「それじゃペパーくん。今日の私は更に欲しいものがあります」
「へ?」
「ほら、立って立って」
訳が分からない様子で言われるがままに立ち上がった後輩を、そのままゆっくりと抱き締めていく。かつての相棒のように、彼のマフィティフのように。大きくて温かな胸に耳を当てれば、彼の心臓の鼓動が私の全身に共鳴していく。
年頃の男の子だと感じられるしっかりとした筋肉と骨格の下で、暴れ太鼓みたいなリズムが彼の命を繋いでいた。その事実が何よりも尊く嬉しいことだと素直に思う。
息を呑んで固まっている後輩の耳が僅かに赤く染まっているのを見て、ついからからと笑ってしまった。じとりと睨まれたような気配がするのに、後輩の大きな手のひらは私の背中に恐る恐る回っていく。
いつも私に優しさを届けてくれる温かな両手に、今まさに全身が包まれている。その事実だけで、こちらの心臓の鼓動さえも熱く跳ね上がっていくような気がした。
「私が寂しい時、いつも駆け付けてくれてありがとう。……マフィティフに抱き着くのも大好きなんだけど、ペパーくんともハグしたいなってずっと思ってた」
「突然すぎるだろ。……まあいいけど」
不自然なくらいの沈黙が落ちて、さすがに羞恥心が湧き上がってくる。互いの熱がどこまでもじわじわと溶け合っていくようで。誰かとこんな風に抱き合うなんて久しぶりで。
しかしこれ以上甘えてしまうと自分が自分でなくなりそうで怖かったから、咄嗟にいつも通りの私を取り繕う。
「あっ! そういえば、滋養強壮に効果的な独自ブレンドのお茶を調合したばかりだった。ペパーくん、今から私の部屋に来て試してみない?」
「ナマエ先輩さあ、オレの言いたいことやっぱり分かってないよな!?」
気分を切り替えるための提案だったが、我ながら良いアイデアだった。実際、学生としての探究心が頭をもたげて溢れて止まらなくなってきた。大切な家族や友人達が気付かせてくれた将来の夢は、いつだって私の背中を強く優しく温かく支えてくれたから。
「もー、仕方ねえなあ。こうなりゃとことん付き合ってやるよ!」
「ありがとう! ペパーくんの作るサンドイッチにも合うと思うんだ、楽しみにしてて」
私たちがこれからどんな道を歩むのだとしても、君にだけは少しでも長生きしてほしいから。言葉にせずとも顔に乗せた本音を汲み取ってくれたであろう後輩は、照れくさそうに目を細めて笑ってくれる。
他でもない君と過ごす夜の温かさを、私はいつまでも抱き締めながら生きていくのだろう。アカデミーの天井を突き抜けた、更にそのずっと上の夜空から、私達に向けて柔らかな視線がいくつも降り注いでいるような気がした。