残業中は、液晶画面の光がひどく目に染みる。それでも私には眉を寄せつつ作業を進めるしか道がなかった。パルデア地方のポケモンリーグで働くならば、身を粉にして組織のために全力を尽くす覚悟を決めなければいけないから。

チャンピオンや四天王たちのポケモンと触れ合えるならばいくらでも頑張れるのに、等と叶わぬ願いを頭に描きながら事務作業を進めていく。トレーナーを続ける道を諦めて社会人として生きることを決めたのは自分なのだから、甘えたことばかり言ってられない。
面接試験の報告書類に目を通している最中、とある名前に目が止まった。私以上に負けず嫌いで努力家な彼女は、今日こそ四天王として勝負を楽しむことが出来ただろうか。ぼんやりと考えつつ手が止まったところで、首筋に温かい何かがぐりぐりと押し付けられるのを感じた。

「うわ!?」
「何やもう。大きな声なんて出して」

左肩に彼女の顎が乗り、綺麗にセットされた艶々の髪が首筋を撫ぜていった。幼い子どものように愚図る声音を出す女の子を宥めるように、左手で頭をぽんぽんと撫でていく。

「まったく、誰のせいだと思ってるの」

そのまま椅子ごと後ろから抱き締められて、振り返ることさえ出来ない状態になっていた。こうなった時のこの子は甘えん坊モードなんだよな、と内心微笑ましく思いつつもあくまで澄ました顔を取り繕う。

「チリ、お疲れさま」
「ん、ナマエもお疲れさん。……なーなー、もっと名前呼んで?」
「別にいいけど。チリ、何かあった?」
「そういう訳ちゃうけど、なんかな。色々疲れたわ」

これは何かあったな、と今までの経験から直感する。けれど彼女から開示されない情報をわざわざ深掘りする気もないため、そっか、と返事をしつつ頭を撫ぜていく。
ポケモンリーグに勤め始めてからそれなりの年月は経つし、今まで何度か四天王の入れ替わりにも立ち会ってきたけれど、ここまで一個人として深く関わったのはこの女の子だけだった。
当初はリーグ職員として最低限の関わりだけを持とうとしていたのに、彼女は私のパーソナルスペースに遠慮なく踏み込んで、いつの間にやら心にするりと割り入ってくるのだから困ってしまう。

外では飄々と振る舞うばかりの女の子が、少しでも本音をさらけ出せる場所になれているならば良いのだけれど。

「チリ、コーヒーでも飲む?」
「……飲む」
「そういえば、ドオーデザインの新作マグカップの試作品が届いたの。感想も聞かせてほしいから淹れてくるね。ここで待っててくれる?」
「イヤや。うちも一緒に行く」
「いつになく甘えたさんだね」
「こんなチリちゃんもかわええやろ?」
「チリはいつでも可愛いよ。ほら、時間は無駄に出来ないからキビキビ動く」

腕が緩んだ隙に、作業中のパソコンにロックをかけて画面を閉じる。ストレッチのために伸びをしつつ振り向けば、いつになく不満そうな瞳と真正面からかち合った。
端正な顔立ちの彼女が表情を削ぎ落とすと普通に怖いんだけどな、と苦笑する。

「どうかした?」
「うちばっかり甘やかされるのが納得いかん」
「いやいや、そんなこと言われても」
「ナマエも黙ってうちに抱かれときや」
「……もう。また語弊のある言い方して」

さっきまで背面で受け止めていた熱が、今度は真正面から覆い被さってくる。それでも腰に回る指先は優しさを宿していて、慎重に繊細に触れようとしてくれるのが分かったから、なんとも面映ゆくて仕方がない。

「……情けない話なんやけどな?」
「うん」

首筋に吐息がかかる距離で、ぽつりと軽やかに言葉が降ってくる。

「……バトルに負けて悔しくてムシャクシャしてた」
「そっか。何となく、そうかなって思ってた」
「これでうちの弱音はもう終わり! ナマエも何か吐き出しいや」
「えー、突然言われても……。ああでも、そうだな。そうやって悔しがれるチリがちょっと羨ましいかも」
「ナマエ、バトルもポケモンも好きやもんな」
「それはチリもでしょ?」

私にはバトルの才能が無く、けれど負けを楽しめるだけの精神的な強さも無かった。私がここで働き始めたのはそんなありふれた理由でしかない。
けれど事務員としての私はトップチャンピオンのお眼鏡に叶うレベルだったらしく、実際ここでの仕事は楽しかった。後輩の育成や業務マニュアルの作成、外部組織との連絡調整や書類の処理など、様々な経験をする内に社会人として成長できたことも実感している。

私が輝ける場所はあくまでフィールドの外であったというだけで、悔しがっている暇なんて無いのだけれど。ポケモン達と共に努力してバトルに臨んで全力で悔しがれるトレーナー達の姿が、つい眩しく映ってしまうのもまた事実だった。

「ナマエ」
「ん?」
「今度、一緒にピクニックしよか」
「いいね。お互いサンドイッチ作りも練習しなきゃいけないし」
「げ。あんなぎょうさんの具材を綺麗に挟むとか無理やろ」
「どんなに見た目が悪くても効果はあるのが不思議だよね。まあ、あくまで主目的は一緒にバトルや冒険を楽しむってことで」

四天王の証でもある手袋を外した彼女の指先が、私のそれとゆるりと絡まっていく。他でもないただ一人の女の子として無邪気に微笑む彼女は、やっぱりどこまでも可愛くて美しくてカッコよかった。

「なに笑っとるん?」
「いや。チリは綺麗だなと思って」
「ナマエも美人さんやけど。大人の女の子は、精神の美しさが顔に出るんやなっていつも実感する」
「わー、私ってば口説かれてる」
「うちが本気出したらナマエが困るやろ。だから今はまだお預けな」

指先が解けた後、私の頭を撫ぜた彼女の唇が掌越しに落とされた。弾けた心臓の熱を覆い隠すように笑えば、彼女の柔らかな瞳と目が合う。

「少しくらいは息抜きせえへんと、ナマエちゃん警察のチリちゃんがやって来るからな。覚悟しいや」

確かに、あのアオキさんからも何もかも抱え込むのが悪い癖だと指摘されたばかりだった。結局いつも、私の方が甘えてばかりだと諦めのような柔らかな気持ちが湧き上がる。
隣に並んでから、再びそっと手を繋いだ。一緒にゆっくりとコーヒーを飲んで、お互いの弱さや痛みを吐き出すために。私たちは軽やかにダンスをするように、共に一歩を踏み出した。