透き通る朝日を吸い込むように、深く大きく息を吐き出した。
肌を刺すような冷たい空気に全身を晒しながら、ナッペ山ジム近くのフェンスに身体を預けて、ぼんやりとパルデアの大穴を見つめる。知識としては頭に入れていても、実際にまじまじと眺めるのは初めてのことだった。パルデアの中央に神秘的な空気で聳え立つその場所と、海と山と大地とが美しく溶け合う光景を見つめていれば、不思議と心が凪いでいく。

私の学生時代は全て勉学に捧げてしまったし、アカデミーを卒業してからもこの生き方が大きく変わることはないだろう。フィールドワークにもう少し出れば良かったかなと考えつつも、そうすれば彼に出逢うことも無かったかもしれない。

「ナマエ先輩、悪い! 待たせちまったよな?」

雪をさくさくと踏みしめる足音と共に、耳馴染みの良い温かい声が降ってくる。振り返りながら、焦ったような顔をする後輩に向けて微笑んだ。

「ううん、今来たところ。呼び出したのは私の方なんだし、ペパーくんはゆっくり来ても良かったのに」
「大事な女の子をこんな寒い場所で待たせるのは、男としてやっぱり良くないだろ」
「……お互い対等な関係値でいたいから、そういうのは気にしなくていいんだけどな」

熱くなった顔を見られないように目線を下げると、私の頬を彼の両手が包んでいく。冷たさが溶け合って互いの境界線さえも緩まっていくような気がした。

「あー、ほら。やっぱり冷えてる」
「……ペパーくんの手も冷たいよ。ほら、早く行こ」

彼の手を振り払うように距離を置いて、くるりと背を向ける。柔らかな太陽の光が雪に反射してきらきらと光っていた。……ここは幼い頃、かつての相棒と辿った思い出の場所だったのに。今までは足を向けることも怖くて敬遠してしまっていた。
肺の奥まで澄んだ空気で満ちていくのが分かって、全身が軽やかになっていくような気がする。こんなにも穏やかな気持ちで此処に立てているのは、他でもない背後にいる男の子のお陰だった。

「ナマエ先輩、そういえば今日は何をするんだ?」
「ペパーくん、目的の確認もしないままよく来てくれたね」
「そりゃ先輩からの呼び出しだからなあ」
「……あのね」

野生のポケモンが飛び出してくるエリアの直前で足を止めてから、身体を反転させて彼に向き合った。

「今日は私のパートナーを捕まえようと思って」
「……そっか」
「驚かないんだね?」
「何となくそんな気がしてたからさ」

不思議なくらい柔らかな顔で微笑む後輩が、私に近寄ってから頭をぽんぽんと撫でてくる。まるで子ども扱いだなと感じつつも、ポケモンの育成においては彼の方が先輩だから甘んじて受け止めた。

相棒を亡くして以来、私が自分だけのポケモンを持つことは無かった。必要であればアカデミーからポケモンを借り受けることが出来たし、勉強に集中して自分の生活さえもままならない状態で大事なパートナーを育成しようだなんて、身勝手にも程があると感じていたから。
けれど私は目の前の彼を見て、自分も成長しなければならないと痛感した。バトルの腕を磨き、自分の心に真っ直ぐ向き合い、周囲との交流も広げながら勉学に励み、大きな夢を明るく語る笑顔があまりにも眩しくて、憧れてしまったから。

研究者として自分の夢を志すならば、自信を持って彼の隣に並びたいならば、己のポケモンを大切に育てるくらいの度量を持たなければならない。そんな背景までは口にするつもりはないけれど、いつか伝えることが出来たら良いなと思っている。

「私にとって、ナッペ山は思い出の場所だから。この場所でもう一度始めようと思ったんだ」
「捕まえるポケモンも決まってるんだよな?」
「うん、ずっと何度も悩んだけど。ボチをお迎えしようと思う。あの子の代わりじゃなくて、私自身のパートナーにするために」

再び無言で頭を撫ぜられる。以前にも増して食事や睡眠のサポートを細やかにしてもらっているから、まるでお父さんみたいだと思うことさえあったけれど、本人に言ったら傷付きそうなので黙っていた。

「そうだ。実はこの件をクラベル先生にお話ししたら、ポケモンのたまごを譲って頂いたんだけど」

背負っていたリュックから大事に取り出せば、さすがに彼もぎょっとした顔をする。そんな様を微笑ましく見守りながら胸元のたまごを抱き締めれば、温かくて硬くて中で誰かが動いている気配がした。

「もうすぐ産まれそうな気配がするんだけど、良ければペパーくんと一緒に見守りたくて」
「そりゃ勿論構わねえけど……オレで良いのか?」
「うん、ペパーくんが良い。あ、噂をすれば」

左右に揺れる動きが大きくなり、殻にどんどんヒビが入っていく。生命の誕生はいつ見ても神秘的で、命が散る瞬間までこの子は美しく生きていくのだろうと確信を持ちながら見つめてしまった。
殻を脱ぎ捨てながら現れたのは、全体的にピンクで丸いフォルムが印象的な愛らしい子。お腹に真っ白でまんまるの石を抱えながら、きょとんと無垢な様子で私を見上げてくれるピンプクだった。
不意に胸がぐしゃぐしゃになって泣きたくなった。死を看取ることは辛いけれど、いつかその未来が訪れてしまうことは怖くて仕方ないけれど、それでも私はこの子と出逢えて幸せだと思ったから。

「生まれてきてくれてありがとう、ピンプク。これからよろしくね」

きゅう! と力いっぱい返事をしてから、私の手のひらに擦り寄ってくれる。恐る恐る丁寧に胸に導いてから、生まれたばかりのその子を抱き締めた。母親に甘えるようにぐりぐりと額を押し付けてくれて、自然と笑みが溢れた。

「ナマエ先輩にピッタリちゃんだよな、ピンプク」
「え?」
「見てるだけで癒されるし可愛いだろ」
「……ん。ありがと」

全身で幸福感を浴びている最中だと、彼の照れくさい言葉さえも真っ直ぐに受け止められるらしい。確かに私のピンプクは大層かわいくて癒されるのだから。

「よし! じゃあピンプク、さっそく行こう!」
「きゅう!」
「おいおい待て待てナマエ先輩! この辺りは強敵揃いだから、まずはピンプクと仲良くなりつつ対策を練らねえと! オレも手伝うから!」
「あ、そっか」
「もー、意外と抜けてんだから……いやそこが良いんだけど……」

結局その日は一日、雪山の中で一緒にピクニックやバトルをしながら過ごした。ピンプクを育成することが目的だったため、焦らずじっくり進めようと考えたのも大きかったが、それだけではない。……ふたりきりで出掛けるのが初めてだからゆっくり過ごしたい、と恥ずかしそうに言ってくれた姿に絆されてしまったのだ。
せっかくだから夜もキャンプをしようと決まって、皆で雪山を降りることにした。

「ナマエ先輩、今日もちゃんと本は持ってきてるのな……」

彼が持参してくれたテントの中で読書をしていると、若干呆れたような声が降ってくる。何を今更と笑いながら、足元に擦り寄ってくれたピンプクの頭を撫でていた。

「そりゃ時間は無駄に出来ないから。今の内に読んでおかないと、卒業したら研究に明け暮れる予定だし」
「せめて一日一回で良いから飯は食えよ? 固形物じゃなくても何か口に入れて、少しでも良いから寝ること。良いな?」
「ん、努力する。これからはご飯も睡眠も一人じゃないし、あの子もいるからね。無責任なことは出来ないよ」

テントの外でマフィティフと戯れ始めたピンプクの姿を目で追いかける。胸の奥が柔く温まるような心地がして擽ったくなった。ピンプクのことはまだ一度もモンスターボールに入れていないから、自由に外を動き回って楽しんでいるようだった。

「ペパーくん。明日、起きたらすぐナッペ山に登ろうと思うけど良いかな?」
「もちろん。そのためにナマエ先輩は一日ずっと頑張ってたわけだしな」
「どっちかと言えばペパーくんの方が頑張ってくれたと思うけど。なら早めに寝ないとね」
「そうだな。……ナマエ先輩、ちょっとこっちに来てくれるか?」
「ん? いいよ」

本を大切にリュックに仕舞い込んでから、手招きしている後輩の隣に座る。テントの中はそこまで広い訳では無いから、近くに寄れば自然と肩も触れ合って互いの体温を感じて照れくさかった。
そのまま片手で肩を抱き寄せられて、隣り合わせのまま頭もくっつく形になる。若干混乱しつつ視線だけ彼の顔を窺えば、妙に神妙な面持ちで下を向いていた。

「……ペパーくん?」
「夜にナマエ先輩に会うとさ、やっぱりどっかオレの知らない場所に行っちまうんじゃないかって……ちょっと不安になる」
「むしろ、少し前まで勝手に音信不通になってたのはペパーくんの方じゃなかった?」
「ぐっ……いやまあそうなんだけど……」
「知らない場所に行かない、なんて無責任な約束は出来ないけど」
「……おう」
「この先何か大事な選択をする時は、ちゃんとペパーくんに相談するよ。それじゃ安心できない?」
「そんなことはねえよ。……分かった、オレも約束する。ナマエ先輩が困った時は、出来る限りそれを受け止められる男になる」
「ありがと、そこはお互い様ってことにしようね。……あとペパーくん。私もうすぐ先輩じゃなくなるんだけど、そろそろ呼び方くらい変えても良いんじゃない?」
「え。……あー、」

身体がパッと離れて、真正面から向き合う形になる。あわあわと両手を動かしながら慌てている様子には愛らしさがあって、つい微笑んでしまう。

「…………ナマエ?」
「うん。ペパー」

互いに笑いながらそっと手を握り合う。出会った頃からずっと私たちは不器用なままだったけれど、時が流れるにつれて互いに様々な出会いと試練の中で成長していった。今ならその事実を素直に実感できたから。
自らのポケモンを腕に抱いて、誰かと手を取り合いながら眠るなんて、生まれて初めての経験だった。間違いなく一生の思い出となる夜だった。

翌朝。昨日と同じく澄んだ青空の下、私達は煌めく雪山をマイペースに登った。るんるんと浮き足立ったように進むピンプクが先導する形で、彼と共に景色を楽しみながら時折バトルをして頂上を目指す。

その道中、急勾配の坂で私は見つけた。純白の雪と光にどこまでも真っ直ぐ覆われた山の中で、小さく煌めく一本の蝋燭を。私達の気配を感じたのか、地中に潜り込んでいたそのポケモンが、どこか嬉しそうにパッと地上に顔を出してくれた。真っ白な長い体毛をふわふわと揺らしながら、愛らしくトコトコと移動している横顔を見つめる。

───私は一目であなたに目を奪われた。かつて真夜中のアカデミーで、薄れゆく意識の中で君のアイスブルーの瞳を見つめたように。

モンスターボールを取り出して胸に抱える。ピンプクと目配せし合っていると、温かくて大きな手に背中をぽんと押されるのが分かった。

「がんばれ、ナマエ」
「うん。行ってくるね、ペパー」

力強い声に励まされながら大きく一歩を踏み出した。するとあなたが振り返る。きょとんと不思議そうに見つめた後、こちらに歩み寄ってバトルを挑んでくれた。

「初めまして、ボチ。私はナマエ。あなたに認めてもらうために頑張るから! 見ててね」

あなたは吠えた。やさしく温かい唯一無二の声で。
それはきっと、私たちの物語が始まる合図だった。わくわくと弾む胸に従うように、私はピンプクと共に戦いに挑む。
きらきらと光る空気を深く吸い込んだ。病める時も健やかなる時も、あなた達の幸せを祈るように。私たちが一緒に幸せになれるように。

出逢ってくれてありがとう。産まれてきてくれてありがとう。ただそれだけを伝えたかったから。