一人きりでシーツの海に沈むわたしの心を満たしてくれたのは、ホームズくんが差し入れてくれた一冊の画集だった。
世界各地の風景画を集めたハードカバーのアルバムは、地球の美しさを全て閉じ込めたような儚さと美しさを湛えている。
星空、田園、山並み、海辺。繊細なタッチで描かれる景色は素人目にも心が掴まれて、ベリルちゃんと話した時のように世界中の好きな場所へ旅に出たい気持ちになった。

そんなことをホームズくんに言えば、さらりと何でもないようにこう答えた。キミが望むならどこへでも、と。
確かにいつか実現したら素敵だと思う。大切なひとと共に初めての場所に飛び込んで、その場の景色や食事を味わって、たくさんの思い出を紡いでいけたらだなんて遠い夢を描いてしまう。

───コンコン。

画集を閉じ、社会情勢を把握するために複数の新聞に目を通し終えた頃、上品さを帯びた硬いノック音がした。

飽きもせず定期的にお見舞いに訪れてくれていたホームズくんにも、今日だけは遠慮するようにお願いした甲斐があるというものだ。今のわたしは静かな気持ちで相手を迎えることが出来ていた。
ルームメイト達は思いの外すんなりと面会の許可を出してくれたから、きっと心配しすぎることはないだろうと確信もしている。

「……ミス・ナマエ。お加減はいかがだろうか」

オールバックのラベンダーがふわりと揺れる。神妙な面持ちでいらしてくださることは予想がついていたから、こちらも彼女をリスペクトした笑顔を浮かべた。

「こんにちは、クリムトさん。お陰様で順調に回復していますよ」
「そうか。ならば安心したが……」
「それより、ベリルちゃんの調子はいかがですか? 怪我はしていないと伺ってはいるんですが」
「ああ、妻は心配ない。お気遣いに感謝する」

やはり硬い空気になってしまうなと内心肩を落としつつ、クリムトさんに笑顔を届けてあげられる優しい友人を想う。バロックくんも含めてバンジークス家は責任感の強い方が多いから、少しでも力になりたいのだが……わたしではやはり難しいだろうか。

「ミス・ナマエ」
「はい」
「この度は誠に、」
「クリムトさん。少し待って頂けませんか」

入口近くで頭を下げようとした様子を見て、咄嗟に手を挙げて制止する。

「クリムトさんを立たせたままお話ししただなんて、ベリルちゃんやグレグソンさんに知られたら叱られてしまいますから。まずはこちらに来て、椅子にお掛け頂けませんか?」
「……そうだな。私としたことが失礼した。レディに気を遣わせてしまうとは」

ベッドの傍にある椅子へと優雅に腰かける姿を眺めながら、同じ貴族でもヴォルテックス卿とは雰囲気がまるで違うなと痛感する。わたしのような社会的弱者にも敬意を払ってくれようとすることは、初対面の時から分かっていたけれど。

「ねえクリムトさん。もしかして、わたしに謝ろうとしてくださいました?」
「ああ、仰る通りだが」
「でしたら、差し出がましいのは承知しているのですが。謝罪はお控え頂きたいのです」
「……理由を伺っても?」
「もしわたしがクリムトさんの謝罪を受け取ってしまったら、ベリルちゃんと共に固めた決意を否定されることになる。……きっとあの子が知ったらそう考える。またクリムトさんの役に立てずに迷惑をかけたって、一人きりで傷付くと思うんです」

正直ここまで踏み込んだ発言をして良いものか悩んだが、クリムトさんならば友人の想いを踏み躙るようなことはしない筈だから。

「そうか。……貴女がこうして傷付いたことは、二人の決意の結果であると。そう言ってくださるのか」
「もちろん。なのでベリルちゃんに会えた時も謝罪はいらないと伝えるつもりです。きっとあの子はわたしのために泣いてくれるから。可愛い女の子の涙は嬉しい時に取っておくべきでしょう?」
「それを言うならば貴女にも同じことが言えると思うのだが。……いや、これ以上余計なことを口にすれば騎士ナイトに叱られそうだな。やめておこう」
「……もしかして、ホームズくんから何か言われました?」
「さあ、どうだったかな」

ふわりと曖昧な笑みではぐらかされる。何か失礼なことを仕出かしていないだろうかと頭が痛くなった。次に顔を合わせたら本人に追求して真相を突き止めておかねば。

「本当にごめんなさい……。探偵の性なのか、彼は時々言動が刺々しくなることがありまして」
「構わないとも。貴女のことが余程大切なのだろう。あそこまで素直になれるのは羨ましくもある。私は貴女達と違って、大事な人々を傷付けてしかいないのだからな」

自虐するように笑う顔が、教会でステンドグラスに照らされた友人の姿と重なった。詳しい事情を知らない部外者がかける言葉は見当たらず、ただ口を噤むしかない。

「……クリムトさん」
「すまない、ミス・ナマエ。貴女にはご迷惑をおかけしてばかりだ。お詫びに何か私が出来ることはないだろうか」
「いえ、そこまでして頂く程のことでは。……今回は暴漢が襲ってきただけの誰にも予想出来なかった傷害事件、という話ですよね。もし誰かの差し金だったとしてもクリムトさんが責任を感じる必要はないと思いますよ」
「だが貴女は、妻の代わりに怪我を負っただろう」
「それも自分で決めたことです。たとえクリムトさんと言えど、わたしの決断を否定できる権利はない筈です。それでも頑なに贖罪なさろうとするのは、今回の件にはご自身が関与していると……何か心当たりでもあるのでしょうか」

クリムトさんが一瞬だけ息を呑む気配がした。半ば確信を得たわたしは、名探偵の姿を脳裏に思い浮かべながら口を開く。

単に謝罪するだけならベリルちゃんを伴ってくれば良い話だし、忙しいスケジュールの間を縫ってまでわたしに会う必要性があるとも思えない。個人的な関係性が深い訳でもないし、事件に関する聞き取りをするなら亜双義くんを連れて来ても良かった筈だ。
きっとクリムトさんは何かを確かめに来ているのだろう。近頃バンジークス家が何者かにより悪意を持った嫌がらせを受けている件と関係があるように思えてならなかった。

一通り推論に基づく仮説を述べれば、クリムトさんは何やら満足そうに薄らと微笑んだ。途端に空気が緊張感に満ちたものに変わったのを感じて、相変わらず品格と華があるひとだと素直に感心する。

「その問いに答える前に、私からも貴女に質問して良いだろうか?」
「勿論、どうぞ」
「私が本件に関与していると、そう考えるに至った客観的な根拠が他にもあれば教えて頂きたい」
「分かりました。……そうですね、最初に違和感を覚えたのはこの傷です」

包帯を巻かれた自らの脚を掌で指し示す。クリムトさんは眉をぴくりと動かしてから、ゆったりと腕を組んだ。

「編集長……犯人は、真っ先に脚を狙ってきたんです。普通、理性を無くした暴漢は手っ取り早く上半身を傷付けるものじゃないですか? ましてやわたしの仕事が手作業を主体にしていることを向こうは知っていた。致命傷を狙うかわたしに精神的なダメージを負わせるための襲撃なら、下半身を狙うのは不自然だと考えました」
「…………」
「相手の目的はわたしを殺すことではなかった。しかしベリルちゃんではなくわたしを狙った。彼女を狙いたくはなかったけれど目的はベリルちゃんだった。ならばクリムトさんに精神的な負荷をかけるための襲撃だった可能性が高い、と考えるのが自然です。……それに前から疑問だったんですよ。バンジークス家に届く嫌がらせをクリムトさんが黙認している事実について」
「黙認、か。つまり私が敢えて対策をせずに妻を傷付けていると?」
「……わざと傷付けている訳では無い、と思います。ベリルちゃんはきっとクリムトさんが何かを隠せばそれに勘づいてしまう。これはあくまで仮説でしかありませんが、現状維持をすれば、貴方が晒されている悪意は屋敷に届いたものだけだと錯覚してくれる……なんて期待があったのでは?」
「つまり。私がもっと巨大な悪意に立ち向かっている、とでも?」
「そう考えればしっくりくるんです。わたしが怪我をしたことに対してお一人で謝罪にいらしたのも、クリムトさんが抱えているものをベリルちゃんに隠しておきたかったから。わたしが何かを勘づいたり知っていたりすれば口封じをしたかったから。亜双義くんは正義感が強いからそんな真似は許さない、だから誘わなかった。グレグソンさんには協力関係を仰いでいるから別行動でも問題ない。……違いますか?」

くつり、と喉を鳴らして笑う声がした。わたしの言葉を真っ直ぐに受け止めてくれていた青い瞳が、クリムトさん自身の大きな手のひらによって隠されていく。顔を俯せながらも背筋がぴんと凛々しく伸びているのが印象的だった。
あくまで客観的な証拠のない推論でしかないから、否定されれば全て水の泡となる。けれどクリムトさんが無慈悲に全てを拒否することはしないだろうと、わたしは既に悟っていた。

「……ミス・ナマエ。もし私がそれを認めたとして貴女はどうする?」
「一つ尋ねるでしょうね。何かあなたの力になれることはございませんか、と」

クリムトさんは勢いよく顔を上げてから、唖然としたように幾度か瞬きをする。その澄んだブルーは倫敦の早朝に満ちた鋭い空気を彷彿とさせた。ジェームズさんやモルターさんやジーナちゃんのように、社会の闇に対してもがき苦しみ努力する下町の市民達を想起させるような、そんな静かな瞳だった。

「貴女が怪我を負った原因が私にある、と告白しているというのに?」
「あくまで間接的にキッカケを生み出したというだけで、犯人をけしかけた訳ではないでしょう? いえ、もしそうだとしてもきっと何か理由はある筈だと考えますが」
「……貴女は随分とお人好しのようだ」
「ええ? あんなに一方的な推論を展開して押し付けたのに、そんなことを言ってくださるクリムトさんの方が優しいと思いますよ」
「いや。……披露してくれた推理はおおむね当たっている。さすがは名探偵のパートナーだ」
「ふふ、何よりも有難いお言葉です」

空気がゆるりと緩んで、二人して視線を重ねて笑い合う。初めて一対一で対等に笑い合えたような気がして、自然と心も浮遊した。
ひとしきり笑い声を噛み殺した後、クリムトさんがそっと、にこやかに口を開く。

「では改めて提案させて頂きたいのだが」
「はい?」
「貴女の友人として何か力になれることがあれば、遠慮なく仰って頂きたい」

軽やかな口調で受け取った提案に、今度はこちらが唖然としてしまう。
この時代、大英帝国の貴族の方が身分や人種を越えて友情を築くことは、かなりハードルが高く困難なことだと知っていたから。ノブレス・オブリージュ───地位の高い者は、弱き者を守り社会的な責任を果たす義務があるという価値観───を生まれながらに体現してきた彼が、社会的な弱者に対して膝を折るのは、相当な覚悟あってのものだと理解していたから。

ならばわたしは、自身の常識を越えて踏み出してくれたその一歩を、同じく覚悟を持って受け取らなければいけないだろう。差し出された手を取って握手を交わせば、子どもを見守るような温かな視線が向けられた。

「……あー、その、クリムトさん」
「ナマエ。友人に対する口調にしては随分と他人行儀だと思わないか?」
「うっ。なら、ええと…………、クリムトくん?」

ふわりと柔らかく笑う顔に、ベリルちゃんと似た無邪気さが宿るのを感じた。やはり二人ともそっくりだった。どうしようもないくらいに優しくて真面目で、人知れず自分を追い込みすぎているところなんて特に。

「それじゃ、……クリムトくん。お言葉に甘えて、少し頼りたいことがあるんだけど」
「ああ、何でも言ってほしい」

力強い瞳の煌めきを浴びて、わたしは自然と画集のとある一ページを想起していた。水平線がどこまでも真っ直ぐに伸びていくような朝焼けに満ちた海岸で、緑色の太陽が───グリーンフラッシュが、眩く光っている様を。ベリルちゃんの瞳のように柔らかく温かなグリーンが、暗く重たく満ちたブルーの空を切り裂くように照らす様を。

わたしもまた、自分の中で温めていた夢に一歩踏み出すべき時がきたのかもしれない。クリムトくんがわたしに優しく手を差し伸べてくれたように、勇気を持って前に進みたいという感情が湧き上がってくる。

「実は、この間オリジナルの緋色スカーレットのインクを作ったんだ。もし良ければ使ってほしくて、その感想を聞かせてもらえないかと思って」
「インクを? 確かアソウギもミョウジの作ったスミは質が良い、と褒めていたが」
「うん、亜双義くんがそう褒めてくれたから踏み出せた部分も大きかったな。……ずっと、自分だけが生み出せる何かをこの世界に残したいと思ってきたから。わたしにとって罪と贖罪の証である───朝焼けの緋色スカーレットの色をこの世に残したかったんだ」

自らの命を摘み取ろうとした罪。それを贖うべく、この世界の皆と共に生きていくための贖罪けつい。その第一歩として形に残したいと考えたのは、やはり倫敦にやって来て初めて目にしたあのあかい太陽の色だった。

「何故、ホームズ氏やグレグソンではなく私に?」

クリムトくんは何かを考え込むように腕を組んでいた。わたしの中では自然な流れだったけれど、確かに傍目から見ると不思議に感じるだろうか。

「忌憚なく意見を伝えてくれると思ったから。あの二人はね、多少わたしに気を遣う可能性があるかなと思って」
「成程。その予想は的確かもしれないな」

先日ホームズくんに工房から持ってきてもらったインク瓶は、ベッドサイドのテーブルに箱に包んだ状態で置いている。手を伸ばしてそれを取り、胸の前に大事に抱えた。

「身分も人種も性別も社会的に不利なわたしが、この国で大事なひと達を守るためには力がいるって……今回のことでハッキリと分かったから。もし良ければその手助けをしてもらえたら嬉しいな、と思っているのだけれど」

目の前の友人は微笑んだ。雪解けの中で花の種が芽吹くように、そっと優しく綻ぶような顔で。

「分かった、約束しよう。私は出来る限り貴女の誠実さに報いると」

大袈裟だなあ、と笑いながら交わした約束は温かくて優しかった。
部屋中が夕焼けの海で満たされる時間まで、わたし達はずっと、未来を明るく照らし出すためのアイデアを出し合い続けていた。