霧がベールのように薄く真っ白に溶け出した朝、彼女は退院した。

いつの間にやら病院中の職員と仲を深め、バンジークス家の面々やヤードの刑事達さえも懐柔し、毎日孤独の時間を慈しんでいた女の子が、ロンドンの街を久しぶりに闊歩していた。
艶やかな黒い髪を靡かせながら何処となく覚束無い様子で歩く横顔を見つめて、ボクは彼女を形づくる名前を呼んだ。

「名前」
「ん? どうしたの、ホームズくん」

ひどく柔らかく笑う顔を見ていると、自然と胸の奥が緩むような気がした。この笑顔を守ることが出来て良かった等と、らしくない思考を巡らせながら髪を片手で撫で付ける。

「一応言っておくが、寄り道は禁止だ」
「えー、出来れば職場周りは寄っておきたかったんだけどな」

そんなことを言いながら、ボクに対して反抗する気がないことなど分かりきっていた。出会ったばかりの時期に比べたら意思や願望を表に出すようにはなったが、彼女の言動の中心にあるのはあくまで他人だった。
すなわち他者の喜びこそが彼女の喜びなのだ。自分の心の飢えを満たすように科学や事件に齧り付くボクとは対照的で、だからこそ一人の人間として惹かれたのかもしれないと思う。
ならばボクは、彼女自身の喜びをこの手で少しでも生み出したいと思った。呆れるほどいつの間にか、自然とそう考えるようになってしまっていた。

人の心は不可解で絶えず移り変わり、しかし論理による推理さえ組み立てれば紐解くことが出来る。友人たるミコトバさえ分析対象として見ることがあったが、彼女の心を理屈で解き明かすのは無粋だと感じていた。ボクの名前に対する想いは理屈ではなく本能的なものに近しいから。彼女の想いを誠実に受け取る上で、既存の論理で心を言語化するなんて困難だと痛感したから。

「ホームズくん、今晩は何が食べたい? やっぱりステーキパイ?」

ボクが初めてリクエストした料理を事細かに覚えている様を見て、ぐっと息が詰まる。肉親にさえ向けられなかった無償の愛情とはこういう些細な日常から培われるのか、と諦めに似た気持ちで眉を上げた。

「キミが作るものなら何でもいい、と言いたいところだが。今日はまだ休んでいた方がいいだろう」
「え? でも、今日は御琴羽くんが夜勤だから二人分だし……そこまで負担はないよ」

自然と視線が彼女から離れて地面へと落ちていくのを自覚する。己の心情をこうもあからさまに表すのは探偵失格だが、プライベートの時間くらい許されるだろう。軽く息を吸ってから彼女と目を合わせた。

「……今晩はレストランを予約してある」
「え?」
「退院祝いでね。少し離れた場所にある店だからホテルの部屋も取ってある」
「そうなんだ……?」
「ああ」

彼女の視線が地面へと落ちていくのを見て、ボクも再び目線を下げた。心の内側から湧き上がる羞恥心を隠すように振る舞うなんて、まるで子どもみたいだ。けれどそんな自分のことは嫌ではないのがまた不思議だった。

「……ありがとう、シャーロック」

己の名前が、こんなにも特別な響きを持つだなんて知らなかった。胸を掻き乱す感情を少しでも解きほぐすべく髪をぐしゃりと撫で付ける。

「……どういたしまして。名前」

拙い言葉にも柔らかくはにかんでくれる、その表情がただ愛しいと思った。



ボクの年齢や立場では高級レストランを予約することなど出来なかったが、それでも大層喜んでくれた。
料理をする立場故なのかメニューの内容や作り方を分析する様が何とも彼女らしく、その根底にはボクやミコトバに喜んでほしいという思いがあるのも理解していた。

料理を味わい、アルコールを嗜んで、会話を楽しんでいく。
些細な世間話なんてくだらないとさえ感じていたのに、彼女を笑わせられる話題ならば、どんな些末なことさえも大事な出来事のように思えるのだから不思議だった。

レストランを出てから予め呼んでおいた馬車に乗り、二人でホテルへと向かう。嬉しそうに料理の内容や今日の会話について言及する姿に相槌を打ちながらも、ボクの思考は別の場所に存在していた。
彼女の口を閉ざすようにその柔らかな手を握り、指を絡めていく。はっと息を呑んでから視線を逸らそうとする彼女の頬に、もう片方の手を添えた。

「……ホームズくん?」
「ああ、そのままで動かないでいい」

夜の街を走る暗い馬車の中でも、睫毛が頬に落ちていることにはすぐに気付いた。指先で払えば自然と視線が重なる。赤く色付く顔が初々しくて笑いそうになった。
窓のカーテンを引いて外界を閉ざし、暗がりの中で顔を寄せて、ボク達は何度目かも分からないキスをした。



「……ホームズくん、擽ったいよ」
「悪いが少し我慢してくれ」

ベッドの上で晒された彼女の背中に指を這わせる。外気に触れて粟立つ肌の柔らかさに触れながら、彼女がこの世界で負った初めての傷をなぞった。
当たり前だが間近で観察するのも初めてだった。周囲に比べて赤くなった瘡蓋は、彼女の心を守るように丸く盛り上がっている。

そして改めて確信を得た。やはり急所から外れており、致命傷となるような傷ではなかったと。あれは殺すための刃物ではなかった。死亡する確率もゼロではなかったが、……犯人は彼女を生かすために刃を振るったのだろう。
ならば自ずとその正体も絞られる。彼女にとっては残酷な真実であるかもしれないし、無意識の内に勘づいている事実なのかもしれない。だとすればボクの思惑など余計なお世話でしかないのかもしれなかった。

それでもボクはボクなりに、彼女を誠実に愛するために行動を起こしたかった。欲望や打算に塗れたエゴではなく、ただ目の前のひとを大切に守るための無垢な愛情があることを、他でもない彼女から教わったから。

「……名前」
「ん。なあに、ホームズくん?」

額を彼女の背につけて、二度と元に戻らない傷痕にそっと口付ける。微笑みながら擽ったそうに身をよじる背中をまるごと抱き締めて、温もりも心も逃がさないように息を吸い込んだ。
キミの香りも、体温も、呼吸も、鼓動も、全てを慈しみ守れる男になりたいと思った。

「これから先どんな出来事が待ち受けているとしても。ボクはキミを守るよ、名前」

くす、と柔らかな笑い声が溢れてボクの頭上に降り注ぐ。まるで子ども扱いだなと苦笑しながら、さらに彼女を柔く抱き留めていく。人から甘やかされるのも悪くないと、生まれて初めて思えたような気がした。

「わたしもホームズくんを守るよ。この命が続く限り、ずっと」

自らの死を願っていたキミがようやく夢見た未来を、何よりも明るく美しいものにしていきたい、だなんて。らしくない思考が浮かぶ程、既にボクの身体は隅々までキミから注がれた愛で満たされていた。