05:揺りかごを飲みほした夜
世界を飛び越えて以来、久しぶりに夢を見た。
わたしの全てを否定する言葉の刃をただひたすらに受け止め続けていた。いつも通りの光景だった。
───生きている価値がない。愚図。容姿も中身も他人より劣っている。鈍臭い。人間として恥ずかしい。
部屋の隅で糸の切れた人形のように身体を丸めながら、血の繋がった家族から与えられる痛みを見つめていた。
抗う気力など元々なかった。怒りや悲しみといった、当たり前に湧く筈の感情さえも既に萎みきっていた。
涙を流しても自分の考えを語っても無駄だと分かっているから、期待なんてものはハナからしない。
家の外では何事もなかったかのように笑わなければいけないから。わたしは愚図で鈍臭くて誰かの役に立てる訳ないのだから……、せめて迷惑にならないように機嫌を損ねないように笑顔でいなければ。
けれど何故だろう。どんなに辛くても、どんなに惨めでも、どんなに情けなくとも、わたしはあの人を嫌いになりきることが出来なかった。
常に怒り散らす訳ではなかったから。時折優しい時もあったから。昔はおそらく、たしかに、きっと、……すきだったハズだから。
ここまで怒らせてしまうのは、わたしが悪いのだと。ひたすらに謝ってから、思いつく限り言動を改善しなければならないと。そう認識するのが最も楽で手っ取り早かった。
身体を引きずるように毎日を過ごす中、頭の中でぶちりと何かが千切れる音が響いたのは、一体いつのことだっただろうか。
目が覚めた。
心臓だけ宇宙の彼方に飛び去ってしまったような激しい動悸が止まらず、慌てて瞬きを繰り返す。
瞼の裏にべったりと焼き付いた不安感は消えず、みっともなく全身に汗をかいていた。
わたしに宛がってもらった部屋は、屋根裏に近いこじんまりとした空間だった。
必要最低限のベッドとサイドテーブル以外は何もない殺風景さが気に入っていたが、今だけはこの空虚さに塗れていたくなかった。怖いというよりも、人恋しいような気持ちだったのかもしれない。
結局わたしは、あの頃と何も変わっていなかった。
水分補給も兼ねて客間に行こうと思い、ドアを開けてから階段をのろのろと降った。
ホットミルクを作ろうか、と霞がかった頭で考える。ベッドに入る前、夜遅く帰ってきた二人に振舞ったばかりなのでちょうど良い。
入口の正面に位置する大きなソファに辿り着き、密やかに息を吐く。ゆったりと体重を預けながら天井を見上げた。
全身の骨が溶けてしまったみたいに、自分の境界線が曖昧になっていく。このまま夜の吐息になれたら良かったのに。
「わたし、……ばかみたい」
自傷するための言葉が宙に溶けてゆく。灯りをつけないままの空間は視界いっぱい薄暗いのに、どことなく温かい気がした。
誰かの気配が近くにあるだけで、喉の奥が僅かばかり緩んでいくのが不思議だった。誰でもいい訳じゃないと分かってはいるけれど。
「意外と独り言が多いんだな、キミは」
「えっ」
先程とは違う意味で心臓が跳ね上がり、慌てて上体を起こした。
廊下と客間を繋ぐ扉から顔を出したホームズさんがゆっくりと歩み寄ってくる。表情は暗くて見えないものの、声音からは常と変わらぬ硬質さを感じた。それにほんの少し安心する。
「すみません、煩かったですか?」
「いや、別に。ただ、自分と対話し続けるのは疲れるだろうと思ってね」
「……そういうことになるんですかね」
「おそらくは。あるいは、対話にさえなっていないのかもしれないな」
それから先の言葉は続かなかった。名探偵が語ろうとしないならば続きを促すのは野暮だろう。
一人分ほど距離を開けて、ソファの隣にホームズさんが座った。疎ましいと思われたかな、なんて想像してしまい指先が冷える。
「ホームズさん、眠れないんですか?」
「答えはノー、だな。キミと違って意図的に眠ることもできる」
「……わたしも、前はちゃんと寝れていたんですよ」
闇に紛れて表情が見えにくいにもかかわらず、咄嗟に下手くそな笑顔を作ってしまう。
このひとの前で取り繕う必要など無いと分かっていても、瞼の裏がぴくりと痙攣した。
「キミは、自分を刺した人物について聞かないんだな」
意外にも、話題を降ってきたのはホームズさんだった。中身が物騒とはいえ、その突拍子のなさが有難い。
受け取った質問の答えは、最近の生活を省みると自ずと浮かんできた。
「だってホームズさん、わたしにずっとヒントを与えてくださっているでしょう」
「ほう」
「今日はナイフを使った傷害事件。この間は外国人を狙ったスリ。その前は朝方に目撃された女性の失踪事件。……全部、あの時の状況に関連していますから」
「そこまで理解していて、何故それ以上踏み込もうとしない?」
シャーロック・ホームズという男性は、わたしという人間をつぶさに観察し続けているのだろう。
わたしがどのような価値観を持っているのか、どんな思考で物事を組み立てるのか、どういった形で感情を発露するのか。
探偵として客観的な材料を集めて、色眼鏡も無しに分析してくれていた。
脳裏に霧がかった朝日が浮かぶ。この国に来て、初めて死を最も近く感じた瞬間。
わたしのことを知る人など誰もいない環境だと理解し、真新しい瑞々しい空気を真っ直ぐに浴びて、ひどく情けなく安堵した夜明けのひと時。
「わたしの痛みはわたしのものだから。誰かを恨む気持ちを持つのは嫌なんです」
「その痛みをひとりで抱えきれないのに?」
はっと弾かれたように隣を見つめると、透き通った瞳がこちらを見定めていた。
捨てきれなかった醜い思考や感情の形をありありと感じてしまいそうで、咄嗟に膝へと視線を落とす。
「キミは、苗字で呼ばれるとひどく傷付いたような顔をする。食事を取る時も睡眠前も外出をする時でさえ、周りの視線を気にしてばかりいる」
「そう、……ですね。さすがホームズさん」
「観察しなくとも理解したよ。見覚えがあったからね」
「……?」
「価値観が異なる世界の養育であったとしても、血の呪いというものは等しく作用するらしい。ボクはキミと背景が近しいようだ」
息が詰まった。再び視線がぶつかり合う。
もしも、先程の夢のような光景をホームズさんも経験してきたのだとしたら。わたしの様子を見てその事実を察していたのだとしたら。
「だからわたしを助けてくださったんですか?」
「別に助けたつもりはないがね。興味があったんだ。この時代では考えられない、高い教育水準で得られる知識や思考というものに」
「ご期待に添えなかったでしょう」
「ハナからしていない。前提条件をもとに推察し、結論から考察することが実験の醍醐味だ」
ばっさりと清々しく言い切られた。このひとは人間という生き物の性質を分かっているのだ、と痛感する。
ホームズさんが考え事をする時を真似て、両手の指先だけをそっと重ね合わせる。手の甲を浮かせたまま、人差し指と親指で作ったまるい円を見下ろした。
海の底からぼろぼろの錨 を引き上げるように、思考がするすると整理されていくような気がした。
「…………、そっか」
延々と自分の痛みを見つめ続けた結果、わたしは一つの結論に至っていた。
人が他人に対して怒りを覚えるのはどんな時か。───ずばり、期待を裏切られた時だ。
たとえば相手のために何かをして、礼の一つも言ってもらえなかったら酷くガッカリするだろう。必ずしもそうではないけれど、落胆は自然と怒りに転じる場合が多い。
落胆が積み重なると余計に期待値は上がり、思い通りにいかなかった時の怒りの沸点も低くなる。
目の前の人間は、暴力的な物言いをしないと期待にも応えられない存在なのだ、と認識する。
そうした暴言が日常となり、相手が従順なサンドバッグだと認識し始めた段階で、怒りの理由が相手ではなく自分へと転じていく。
自分が苛立っていた時に目の前にいたから。誰かに冷たく当たられた怒りを即座に発散したいから。
虫を無邪気に殺す子どものような理不尽さで、気軽に暴力的な振る舞いをする。
人が誰かを傷付けるのは、期待が裏切られて傷付いたことに対する復讐だ。そこには正当な理由も相手への敬意もない。
期待こそが全ての元凶であり、感情の墓場として選ばれた人間が忌むべきものだった。少なくともわたしはそう理解していた。
気持ちを落ち着かせるために、大きく深呼吸をする。内臓のあちこちに針が刺さったみたいに痛かった。
もう身体を丸めて自分を守る必要はない筈なのに、息をするのも辛くなる。わたしはまだあの夢に囚われていた。
だからこそ、期待はハナからしないと断言してくれた無関心さに助けられる。
誰かに嫌われたからといって、自分で自分を傷付ける必要はないと。
無理やり笑顔を取り繕って、誰かの機嫌を伺う必要はないと。
日常生活の何かもを完璧にこなす必要はないと。
まるで、そう言ってもらえているようで。
「誰かに期待してもらえないのは、とても残念なことのはずなのに。……わたし、安心してます。不思議ですよね」
「それがキミの在り方、というハナシだろう。別に不可思議なことでもない」
ホームズさんの言葉が、過去の瘡蓋 をそっと揺らす。
無理やりこちらに寄り添う訳でもなく、慰める訳でも同情する訳でもなく。淡々と事実だけを述べてくれる姿勢が有難かった。
「誰にも期待されない喜びを得たいなら、自分にだけ期待すればいい。誰も信じられなくなっても、自分だけは最後まで信じればいい。……少なくともボクは、そうやって生きてきた」
ホームズさんが背中を丸めて、真っ直ぐに前を見つめる。暗闇の中でもふわふわとした金色の髪が揺れているのが分かった。
それがまるで落ち葉のようで、星のようで、月のようで、太陽のようで。
「ホームズさん、とてもきれい」
「ボクはナイフと同じ扱いか?」
事件現場でのわたしの発言を覚えていたのだろう。でも、同じではない。そうではなかった。
「ホームズさんの在り方が、わたしにはとても美しく見えます」
「…………そうか」
「はい」
「ならキミも、その美しさとやらを持っているんじゃないか?」
「ん……? その理論はいささか無理がありませんか」
「まあね」
「ホームズさんが軽口なんて珍しい」
「なかなか無いから有難く受け取っておくといい」
「ふふ、そうします」
自然と喉の奥が緩んだ。やわらかくなった身体の奥から笑い声が零れた。
ホームズさんもまた、唇に柔く弧を描いている。その事実が何故だか胸に刺さった。
「キミは、キミらしく自由に在ればいいさ」
大きく頷いた。今声を出せば、声だけでなく顔も全身も濡れてしまいそうだった。
もう一人で泣かなくてもいいことを本能的に痛感して、酷く安堵してしまう。
わたしをこの世界に繋ぎ止めているのは、他でもないわたし自身だった。
安心という気持ちを初めて呑み込めた夜のことを、きっと一生忘れることはないのだろう。
わたしの全てを否定する言葉の刃をただひたすらに受け止め続けていた。いつも通りの光景だった。
───生きている価値がない。愚図。容姿も中身も他人より劣っている。鈍臭い。人間として恥ずかしい。
部屋の隅で糸の切れた人形のように身体を丸めながら、血の繋がった家族から与えられる痛みを見つめていた。
抗う気力など元々なかった。怒りや悲しみといった、当たり前に湧く筈の感情さえも既に萎みきっていた。
涙を流しても自分の考えを語っても無駄だと分かっているから、期待なんてものはハナからしない。
家の外では何事もなかったかのように笑わなければいけないから。わたしは愚図で鈍臭くて誰かの役に立てる訳ないのだから……、せめて迷惑にならないように機嫌を損ねないように笑顔でいなければ。
けれど何故だろう。どんなに辛くても、どんなに惨めでも、どんなに情けなくとも、わたしはあの人を嫌いになりきることが出来なかった。
常に怒り散らす訳ではなかったから。時折優しい時もあったから。昔はおそらく、たしかに、きっと、……すきだったハズだから。
ここまで怒らせてしまうのは、わたしが悪いのだと。ひたすらに謝ってから、思いつく限り言動を改善しなければならないと。そう認識するのが最も楽で手っ取り早かった。
身体を引きずるように毎日を過ごす中、頭の中でぶちりと何かが千切れる音が響いたのは、一体いつのことだっただろうか。
目が覚めた。
心臓だけ宇宙の彼方に飛び去ってしまったような激しい動悸が止まらず、慌てて瞬きを繰り返す。
瞼の裏にべったりと焼き付いた不安感は消えず、みっともなく全身に汗をかいていた。
わたしに宛がってもらった部屋は、屋根裏に近いこじんまりとした空間だった。
必要最低限のベッドとサイドテーブル以外は何もない殺風景さが気に入っていたが、今だけはこの空虚さに塗れていたくなかった。怖いというよりも、人恋しいような気持ちだったのかもしれない。
結局わたしは、あの頃と何も変わっていなかった。
水分補給も兼ねて客間に行こうと思い、ドアを開けてから階段をのろのろと降った。
ホットミルクを作ろうか、と霞がかった頭で考える。ベッドに入る前、夜遅く帰ってきた二人に振舞ったばかりなのでちょうど良い。
入口の正面に位置する大きなソファに辿り着き、密やかに息を吐く。ゆったりと体重を預けながら天井を見上げた。
全身の骨が溶けてしまったみたいに、自分の境界線が曖昧になっていく。このまま夜の吐息になれたら良かったのに。
「わたし、……ばかみたい」
自傷するための言葉が宙に溶けてゆく。灯りをつけないままの空間は視界いっぱい薄暗いのに、どことなく温かい気がした。
誰かの気配が近くにあるだけで、喉の奥が僅かばかり緩んでいくのが不思議だった。誰でもいい訳じゃないと分かってはいるけれど。
「意外と独り言が多いんだな、キミは」
「えっ」
先程とは違う意味で心臓が跳ね上がり、慌てて上体を起こした。
廊下と客間を繋ぐ扉から顔を出したホームズさんがゆっくりと歩み寄ってくる。表情は暗くて見えないものの、声音からは常と変わらぬ硬質さを感じた。それにほんの少し安心する。
「すみません、煩かったですか?」
「いや、別に。ただ、自分と対話し続けるのは疲れるだろうと思ってね」
「……そういうことになるんですかね」
「おそらくは。あるいは、対話にさえなっていないのかもしれないな」
それから先の言葉は続かなかった。名探偵が語ろうとしないならば続きを促すのは野暮だろう。
一人分ほど距離を開けて、ソファの隣にホームズさんが座った。疎ましいと思われたかな、なんて想像してしまい指先が冷える。
「ホームズさん、眠れないんですか?」
「答えはノー、だな。キミと違って意図的に眠ることもできる」
「……わたしも、前はちゃんと寝れていたんですよ」
闇に紛れて表情が見えにくいにもかかわらず、咄嗟に下手くそな笑顔を作ってしまう。
このひとの前で取り繕う必要など無いと分かっていても、瞼の裏がぴくりと痙攣した。
「キミは、自分を刺した人物について聞かないんだな」
意外にも、話題を降ってきたのはホームズさんだった。中身が物騒とはいえ、その突拍子のなさが有難い。
受け取った質問の答えは、最近の生活を省みると自ずと浮かんできた。
「だってホームズさん、わたしにずっとヒントを与えてくださっているでしょう」
「ほう」
「今日はナイフを使った傷害事件。この間は外国人を狙ったスリ。その前は朝方に目撃された女性の失踪事件。……全部、あの時の状況に関連していますから」
「そこまで理解していて、何故それ以上踏み込もうとしない?」
シャーロック・ホームズという男性は、わたしという人間をつぶさに観察し続けているのだろう。
わたしがどのような価値観を持っているのか、どんな思考で物事を組み立てるのか、どういった形で感情を発露するのか。
探偵として客観的な材料を集めて、色眼鏡も無しに分析してくれていた。
脳裏に霧がかった朝日が浮かぶ。この国に来て、初めて死を最も近く感じた瞬間。
わたしのことを知る人など誰もいない環境だと理解し、真新しい瑞々しい空気を真っ直ぐに浴びて、ひどく情けなく安堵した夜明けのひと時。
「わたしの痛みはわたしのものだから。誰かを恨む気持ちを持つのは嫌なんです」
「その痛みをひとりで抱えきれないのに?」
はっと弾かれたように隣を見つめると、透き通った瞳がこちらを見定めていた。
捨てきれなかった醜い思考や感情の形をありありと感じてしまいそうで、咄嗟に膝へと視線を落とす。
「キミは、苗字で呼ばれるとひどく傷付いたような顔をする。食事を取る時も睡眠前も外出をする時でさえ、周りの視線を気にしてばかりいる」
「そう、……ですね。さすがホームズさん」
「観察しなくとも理解したよ。見覚えがあったからね」
「……?」
「価値観が異なる世界の養育であったとしても、血の呪いというものは等しく作用するらしい。ボクはキミと背景が近しいようだ」
息が詰まった。再び視線がぶつかり合う。
もしも、先程の夢のような光景をホームズさんも経験してきたのだとしたら。わたしの様子を見てその事実を察していたのだとしたら。
「だからわたしを助けてくださったんですか?」
「別に助けたつもりはないがね。興味があったんだ。この時代では考えられない、高い教育水準で得られる知識や思考というものに」
「ご期待に添えなかったでしょう」
「ハナからしていない。前提条件をもとに推察し、結論から考察することが実験の醍醐味だ」
ばっさりと清々しく言い切られた。このひとは人間という生き物の性質を分かっているのだ、と痛感する。
ホームズさんが考え事をする時を真似て、両手の指先だけをそっと重ね合わせる。手の甲を浮かせたまま、人差し指と親指で作ったまるい円を見下ろした。
海の底からぼろぼろの
「…………、そっか」
延々と自分の痛みを見つめ続けた結果、わたしは一つの結論に至っていた。
人が他人に対して怒りを覚えるのはどんな時か。───ずばり、期待を裏切られた時だ。
たとえば相手のために何かをして、礼の一つも言ってもらえなかったら酷くガッカリするだろう。必ずしもそうではないけれど、落胆は自然と怒りに転じる場合が多い。
落胆が積み重なると余計に期待値は上がり、思い通りにいかなかった時の怒りの沸点も低くなる。
目の前の人間は、暴力的な物言いをしないと期待にも応えられない存在なのだ、と認識する。
そうした暴言が日常となり、相手が従順なサンドバッグだと認識し始めた段階で、怒りの理由が相手ではなく自分へと転じていく。
自分が苛立っていた時に目の前にいたから。誰かに冷たく当たられた怒りを即座に発散したいから。
虫を無邪気に殺す子どものような理不尽さで、気軽に暴力的な振る舞いをする。
人が誰かを傷付けるのは、期待が裏切られて傷付いたことに対する復讐だ。そこには正当な理由も相手への敬意もない。
期待こそが全ての元凶であり、感情の墓場として選ばれた人間が忌むべきものだった。少なくともわたしはそう理解していた。
気持ちを落ち着かせるために、大きく深呼吸をする。内臓のあちこちに針が刺さったみたいに痛かった。
もう身体を丸めて自分を守る必要はない筈なのに、息をするのも辛くなる。わたしはまだあの夢に囚われていた。
だからこそ、期待はハナからしないと断言してくれた無関心さに助けられる。
誰かに嫌われたからといって、自分で自分を傷付ける必要はないと。
無理やり笑顔を取り繕って、誰かの機嫌を伺う必要はないと。
日常生活の何かもを完璧にこなす必要はないと。
まるで、そう言ってもらえているようで。
「誰かに期待してもらえないのは、とても残念なことのはずなのに。……わたし、安心してます。不思議ですよね」
「それがキミの在り方、というハナシだろう。別に不可思議なことでもない」
ホームズさんの言葉が、過去の
無理やりこちらに寄り添う訳でもなく、慰める訳でも同情する訳でもなく。淡々と事実だけを述べてくれる姿勢が有難かった。
「誰にも期待されない喜びを得たいなら、自分にだけ期待すればいい。誰も信じられなくなっても、自分だけは最後まで信じればいい。……少なくともボクは、そうやって生きてきた」
ホームズさんが背中を丸めて、真っ直ぐに前を見つめる。暗闇の中でもふわふわとした金色の髪が揺れているのが分かった。
それがまるで落ち葉のようで、星のようで、月のようで、太陽のようで。
「ホームズさん、とてもきれい」
「ボクはナイフと同じ扱いか?」
事件現場でのわたしの発言を覚えていたのだろう。でも、同じではない。そうではなかった。
「ホームズさんの在り方が、わたしにはとても美しく見えます」
「…………そうか」
「はい」
「ならキミも、その美しさとやらを持っているんじゃないか?」
「ん……? その理論はいささか無理がありませんか」
「まあね」
「ホームズさんが軽口なんて珍しい」
「なかなか無いから有難く受け取っておくといい」
「ふふ、そうします」
自然と喉の奥が緩んだ。やわらかくなった身体の奥から笑い声が零れた。
ホームズさんもまた、唇に柔く弧を描いている。その事実が何故だか胸に刺さった。
「キミは、キミらしく自由に在ればいいさ」
大きく頷いた。今声を出せば、声だけでなく顔も全身も濡れてしまいそうだった。
もう一人で泣かなくてもいいことを本能的に痛感して、酷く安堵してしまう。
わたしをこの世界に繋ぎ止めているのは、他でもないわたし自身だった。
安心という気持ちを初めて呑み込めた夜のことを、きっと一生忘れることはないのだろう。