「やあ、ご苦労」

真っ白な空間の中で、男性の声が脳内に響いていく。相手の姿が見えないまま会話を交わすのはやはり何度経験しても慣れなかった。

「一度くらいは、君からの疑問に答える時間も設けようかと思ってね。想定以上によくやっているようだから」
「ありがとうございます……?」

どこか高圧的な言葉をどう受け止めて良いのか分からず首を傾げる。しかしそれよりも何よりも気になることがあった。周囲を見回してもペパーくんの姿が見当たらない。何かあったのだろうか。

「あの、今日はペパーくんは……」
「眠っている。夢を見ない程ぐっすりとね」
「そう、ですか」
「それで、何か質問は? 僕の時間も有限だから最低限の応答になると思うが」
「あ、それならいくつかお尋ねしたいことが」

この空間の成り立ちやあの子との関係性など気になることは正直無限にあったが、やはり最初のコミュニケーションはここから始めるべきだろう。

「まずお名前を教えて頂いても宜しいですか?」
「……フトゥーだ」
「フトゥーさんですか。私は苗字名前と申します。ペパーくんからは、つい先日からナマエちゃんと呼んでもらっています」
「その程度の情報ならば知っているんだが?」
「それでも私からフトゥーさんへ直接名乗ったことはありませんでしたから。挨拶は大事です。ペパーくんだって初対面の時は自己紹介してくれましたよ?」

渾身の笑顔で告げれば、ほんの僅かばかり面食らったような沈黙が落ちた。あの子があんなにも寂しそうにしているのはきっと、このひとの言動によるものが大きいだろうから。多少の無礼な態度は許されるだろう。

「……他に質問は?」
「ペパーくんに直接会いに行ってあげないんですか?」
「今は研究が佳境に入っていてね。そんな暇はないんだ」
「成程、研究者の方でしたか。そんなにお忙しいのに、この空間を作るだけの余裕はあるんですね?」
「君はもっと大人しい女性かと想像していたが」
「それはそれは。ご期待に添えず大変申し訳ございません」

正義感だけで、詳しい事情も知らない親子関係に口を出す気はないのだけれど。私にとってあの子の苦しみは、最早自分の苦しみに等しいものだった。

「この場所を作ったのは、ペパーくんのためなんでしょう?」
「……否定はしない」
「フトゥーさんは随分と不器用な方でいらっしゃるんですね」
「何もかも知ったような言い方をするんだな」
「だって貴方が何も教えてくださらないから。こちらは勝手に推測するしかないじゃないですか」

研究者相手に知識で勝てるとは夢にも思わないが、私にだって考える頭くらいはある。あの子の寂しさを言語化して、目の前の男性の思惑を探ることくらいは出来る。
にっこりと笑顔を崩さずにいれば、フトゥーさんは深々と溜め息を吐いたようだった。表情は見えないがきっと呆れたような顔をしているのだろう。

「それでは時間も迫ってきたからね。僕は失礼する」

ああ、やはり親子なんだろうなあ。だって「ぼく」の言い方がそっくりだもの。
言葉に表せない切なさに胸を衝かれながら、私もまた瞳を閉じる。たとえ夢の中とはいえど、いつも意識が落ちていく瞬間は怖かった。自分がこの世界でたった独りだと痛感してしまうから。



「こんばんは、フトゥーさん」

透明人間と会話するのも慣れてきた。膝の上ですやすやと眠るペパーくんの頭を撫でていると、呆れたような溜め息が降ってくる。

「……こんばんは、ナマエ」

渋々ではあるが、素直に挨拶を返してくれるようになったのも大きな進歩だった。

フトゥーさんとの対話により判明した事実も多くある。たとえば、私とペパーくんは住んでいる世界が異なるだとか。平たく言えば異世界、並行世界、別世界などと呼ぶみたいだけれど、難しい話はよく分からなかった。要は文化が全く異なる世界にそれぞれ暮らしているそうだ。
確かに、ペパーくんの話で分からないことは多々あった。まずポケモンと呼ばれる生物は私の世界には存在しない。飼っているペット同士を戦わせて勝敗を決める……所謂バトルなんて娯楽があると聞いた時は、内心ひっくり返りそうだった。
無垢な顔でオラチフというのポケモンについて話すペパーくんは楽しそうで、現実でこの子の傍に寄り添ってくれる子がいるのは喜ばしかったけれど。炎や水を日常的に吐き出す生命体がいるだなんて大変な世界だなあと驚くばかりだった。

「フトゥーさんって、好きな料理はあります?」
「随分と唐突だな」
「いえ。ペパーくんと顔を合わせるのを避けたいなら、せめて何かご馳走させて頂こうかなと」
「…………」
「すみません。不快にさせてしまったでしょうか?」
「いや。……単に少し懐かしくなっただけだ。ならペパーが好きなメニューを頼めるだろうか」

すげなく断られると思っていたから、一瞬言葉に詰まってしまった。やはりこの子は───私と違って───確かに愛されているのだと実感する。努めて明るい声を出しながら下手くそな笑顔を作った。

「分かりました! そうだな、オムライスやハンバーグも気に入ってもらえたみたいなんですけど……一番嬉しそうに食べてくれたのはあれかな」
「ふむ?」
「親子丼です。ご存知ですかね?」
「ああ、観測はしていた。なにやら生物の肉とタマゴを使っていた料理だったかな」
「ああ、鶏肉のことですね。私の世界では食用の卵を産むのは鳥という生き物特有の生態なので、親子丼という名前なんですけど」
「成程。死後も共にいられるとは随分と果報者だな」

声音に無機質な色が滲んだような気がした。フトゥーさんの意図は分からなかったけれど、ペパーくんを独りぼっちにしているのが本心でないことくらいは薄らと理解していた。

「いつかペパーくんと一緒に食べれたら良いですね」
「……それをペパーが望むかどうかは分からないが」

狡いひとだなあ、と思いながら私は微笑んだ。自分がペパーくんから求められていることを分かっているくせに。自分がこの子に孤独と寂寞を注いでいることを認識しているくせに。
肉親の愚かさを知らないペパーくんの穏やかな寝息だけが、二人の間にそっと緩やかに横たわっていく。



「ああ、悪くはないな」

忘れ去られても不思議でなかった約束は、意外にも数日後に果たされた。フトゥーさんは思いの外あっさりと姿を現して、当然のようにペパーくんはこの場にいなかった。
上品にスプーンを使って親子丼を食べる様を横目に、私はデザートの和菓子を準備していた。既にいちご大福は完成しているから最後に盛り付けるだけだ。日本茶を淹れた急須と一緒にトレイで運べば、フトゥーさんは片眉をくいっと上げて興味深そうにこちらを見遣る。

食事中の様子を眺めるのは不躾で失礼だからと、私はフトゥーさんの斜め前に座って日記を書き始めた。今日の日付と嬉しかった出来事と、今の私の気持ちと未来への展望を。
いつの間にかペパーくんとの思い出で埋め尽くされたページの中に、あの子の父親と対面した事実を書けるのだ。いつかペパーくんがフトゥーさんの真意を知るその時に、今日綴った言の葉が少しでも手助けになったら喜ばしいと思う。

「……そちらが尋ねてこないなら、敢えて言わせてもらおうか」
「え?」

顔を上げる。視線が重なる。片眉をくいっと上げたフトゥーさんの口の端には大福の白い粉がついていた。可愛いところもあるのだなあと微笑ましく思いつつ、背筋をぴんと伸ばしていく。

「君をここに招き入れた理由だ。ペパーと……その母親の精神に最も共鳴する人間を探した。それが君だった。ただそれだけだ」
「そう、でしたか」

奥様はどうされたんですか、とか。どのような方法で私を探り当てたんですか、とか。そんなことをする暇があればペパーくんに顔を見せてあげればいいのに、とか。言えそうなことはたくさんあった。けれど何も口に出来なかった。
だってこの人がここまで手の内を晒すのは、きっと少しくらいは私を信頼してくれた証だろうから。

「話してくれてありがとう、フトゥーさん。せっかくならもっとお互いのことを話しませんか?」

きょとんと幾度か瞬きを繰り返す様を見て、今度こそ笑い声を上げてしまう。すっきりと澄み渡る青空のようなペパーくんの瞳と、夜の訪れをゆったりと待つ夕空のようなフトゥーさんの瞳が、あまりにもそっくりな無垢さを帯びていたから。

羨望を超越した愛おしさと虚しさが降り積もっていくようで、私はただ口角を上げることしか出来なかった。