「ナマエ」

それはある日突然のことだった。いつも通り眠りの淵に現れた夢の中で、フトゥーさんは一人きりでぽつんと立っていた。
けれど周囲の景色も目の前の人の姿も、いつもとはまるで異なる様相だった。空間全体が電脳世界であるかのごとく未知の機械や色とりどりの光線でびっしりと覆われていて、フトゥーさんも暗く重たい電子の亀裂が無数に入った姿をしていた。
ジリジリとノイズのような音が絶えず耳の奥を刺激する。この世界は崩壊の一途を辿っているのだろうと自ずと理解できた。

「端的に言おう。タイムマシンの実験に失敗した。爆発に巻き込まれて、僕はもうすぐ死ぬ」
「はい」

フトゥーさんが何を研究しているのか。研究の目的が何であるのか。それらの概要は以前少しだけ聞いていた。……彼が実施している実験の危険性についても。
だからこそ内心とても動揺していたけれど、私は片時も無駄にしないために素早く頷いた。

「今ならば一つだけ。君の持ち物か君自身を、僕たちの世界へ送り出すことが出来る。ナマエは何を選ぶ?」
「では、これを」

迷う暇など無いことくらい理解していたから、いつの間にか手元に出現していた日記帳を手渡した。きっと私の願いがそのまま反映されたのだろう。今もまだ孤独に喘ぐペパーくんに必要なのは、精神的に空っぽな私などではない。父親の痕跡を少しでも辿れる物体だろうから。
フトゥーさんの指先が私の手の甲に触れても、今は何の感触も感じられなかった。その事実が永遠の離別を痛感させて胸がぐしゃぐしゃになりそうだった。

「これからは、僕の姿を模したAIが僕の願いを引き継いでくれる筈だ。が、彼がこの空間の重要性を理解するには相当の時間を要すると予想している。少なくともペパーとは会えなくなるだろう」
「はい。いつかのお別れはずっと覚悟していましたから。大丈夫です」
「……すまない」

本当にそれを言うべき相手が別にいることくらい、頭脳明晰なフトゥーさんなら分かっている筈なのに。最後の最期まで素直になれない不器用なひと。

「仕方ないから許してあげます」
「ああ、頼んだよ」

互いに不格好な微笑みを見せる。意識が徐々に闇へと滑り落ちていくのを感じながら、私は最後に精一杯手を伸ばしながら彼を見送るための言葉を紡いだ。

「さよなら、不器用な友達フトゥーさん
「さようなら、寂しさを秘めた友ナマエよ」



「ね、ねえ……ナマエちゃん」

もじもじと私に声をかけてきたペパーくんに向けて、私はことりと首を傾げる。先程まで嬉しそうにご飯を食べていたし、オラチフとの出来事も楽しそうに話してくれていたのに、急に何か思うことでもあったのだろうか。

「どうしたの、ペパーくん?」
「その……ナマエちゃんに言いたいことがあって」
「そっか。遠慮しないで大丈夫だよ」
「う、うん。……あの、あのね」

グッと拳を握り締めたペパーくんは、何やら覚悟を決めたように私を見上げた。顔が見たことないくらい真っ赤に染まっている。

「ボク、……ナマエちゃんのことがすき!」

何を言われたのか分からずに一瞬呆けた後、その意味を理解して心がバラバラになりそうだった。
孤独に喘ぎながら人に甘えることさえ知らず、それなのに涙を流す人間には真っ直ぐ手を差し伸べることの出来る、そんな素敵な男の子が───意を決して口にしてくれた二文字の想いを。今の空虚な私では上手く受け取ることさえ出来なかった。

いつかこの子とお別れすることになる私が───実験の結果に関わらず私はいずれ用無しになるのだから───、彼を再び一人きりにしてしまう人間が、無責任に同じ言葉を贈るだなんて赦される訳が無い。

両膝を床について、目線を合わせてからペパーくんをぎゅっと抱き締める。
わたわたと手を動かしながら慌てるこの子を愛しいと感じる。幸せになってほしいと心から願っている。これから先の未来で、たくさんの素敵な出会いがあることを祈っている。今後どんなに辛く悲しい出来事が待ち受けていたとしても、最後には明るく笑っていてほしいと思う。

「ありがとう、ペパーくん。……嬉しいよ、とっても」
「…………うん」

嗚呼。この子はきっと悟ってしまった。私がペパーくんに対して同じ想いを返せないという事実を。かなしい程にやさしくて、切ないくらい聡明な子だから。ねえフトゥーさん、この子は親譲りの素晴らしい子に育っていますよ。
そのまま私たちは二人して無言で抱き合っていた。騒がしかった鼓動が緩やかに穏やかにひとつに溶けていくその時まで、ずっと。ずっと。そっと。きゅっと。まるで永遠のような一瞬の時間だった。



朝、目が覚めた。いつの間にか夢を見ていたようだった。フトゥーさんにお別れを告げた、あの晩の前日の出来事。ペパーくんの想いを無下にしてしまった夜のこと。
ギリギリと痛む心臓を抑え込むように胸に手を当てる。一人きりの部屋の中で、私はさめざめと泣いていた。肉親から愛されず都合の良い時にだけ利用され、まともに友人さえも作れない憐れな女は……今度こそ本当に独りぼっちになってしまった。

あなた達の世界に連れて行ってほしいと、一瞬でも考えてしまった自分が嫌になる。
夢のような温かな日々から背を向けて、私はこれからも自身の疵と向き合いながら一人で己の人生を生きていかなければ。本当に、心からそう決意していた筈だったのに。



「…………え?」

ぽつりと虚空に溶けていった音は、私から発されたものでは無かった。
視界が透き通る程の真っ青な青空で満たされる。花の甘い香りが肺いっぱいに広がっていく。草原に横たわる身体はやけに重たくて、辛うじて視線だけで声の主を辿った。

ミルクティーに所々ブラックコーヒーを流し込んだような───先日よりもずっと伸びたふわふわの髪、凛々しくて太めの眉、ぱっちりとしたスカイブルーの瞳。心底ビックリしたような顔で見下ろしてくるその顔は、もう涙に濡れてなんていなかった。
こちらの体感としては一週間しか経過していないけれど、目の前の子は既に立派な男の子に成長していた。ちょうど思春期の年頃に見えるから、彼の中では十年くらい経っているのかもしれない。

「……ペパーくん、久しぶり」

へにゃりと不格好な笑みを見せる。死人でも見たような顔で、頭上の男の子は腰を抜かしながら私を見つめていた。

「…………ナマエ、ちゃん?」
「うん。ここは……ポケモンがいる世界、なのかな」
「そりゃ、そうだけど……」
「そっか。そうだよねえ。ごめんね、私ちょっと疲れて上手く動けなくて」

ハッと驚いたような顔をしたペパーくんに向けて指先を伸ばし、頬にそっと手を添える。かつて幼く丸く柔らかかったほっぺたも、いつの間にか、フトゥーさんに似た立派な青年の輪郭になっていた。
もっと色々な話をしたいのに、瞼がくっつきそうな程の疲労感に全身が襲われる。

フトゥーさんは言った。君の持ち物か君自身を、一つだけ僕たちの世界へ送り出すことが出来る、と。
けれどきっと、それは半分嘘だった。最初からフトゥーさんは、たとえ何を選んだとしても私をこの世界に送り届けるつもりだったのだろう。

最後までどこまでも不器用なひとだった。私に泣く資格なんて無いからぐっと奥歯を噛み締めつつ、力の抜けた掌を地面へと投げ出した。

「ナマエちゃん!」

慌てたように私の名前を呼ぶペパーくんの声が聞こえる。以前よりも低くて、前と変わらずに柔らかくて優しい声だった。

ごめんね。私なんかが此処へ来てしまって。あなたに再び会えたことを喜んでしまって。
みっともない謝罪の数々が、闇へと落ちていく意識の中に沈んでいく。やはり私はどこまでも愚かで空虚な人間でしかないと痛感するばかりだった。