「ペパーくん!」

アカデミーに入学して、数週間経ったとあるお昼のこと。
偶然食堂の入口ですれ違った腕を、私は咄嗟に両手で掴んでいた。ジニア先生に与えてもらった勇気を無駄にする訳にはいかなかったけれど、冷たく返ってきた氷のような瞳に怯みそうになる。

「突然ごめんね。もし良かったら、少しだけ時間を貰えないかと思って」
「……オレなんかより、話すべき相手は別にいるだろ」
「私が話したいのは、他の誰でもないペパーくんだよ。もしペパーくんが私のことを嫌いでも、私にとってペパーくんは今でもずっと大事な男の子だから」

ハッと息を呑む気配が伝わってきた。透き通るような真っ青な瞳と目が合う。あの頃と同じ、どこか切なさを湛えた光はやはり……かなしいくらいフトゥーさんによく似ていた。
アカデミーに来てから初めて私の言葉が通じたような気がしたから、胸に去来する痛みを誤魔化すように、さらに畳み掛けるように口を開いた。

「どうしても私と話すのが嫌で、顔を合わせるのも無理だって言うなら悲しいけど諦める。でも、ほんの少しでも私の話を聞いてもいいって思ってくれたら……二人でお喋りしたいと思ってる。どう、かな?」

乱暴にそっぽを向いた横顔から自然と、かつて本音をなかなか言い出せなかった幼いペパーくんを想起する。嗚呼、もしかして認識が間違っていたのは私の方だったのかもしれない。
ペパーくんは寂しさや悲しみを表に出す術を知らない子だったから。成長してもなお分からないままなのだとしたら、単に私がこの子の寂寞を感じ取れていなかっただけなのかもしれない。

「…………別に、いいけど。オレの部屋にでも来るか?」
「えっ良いの?」
「……おう」
「ッ、ありがとう!!」

喜びのままに目の前の男の子にぎゅっと抱き着くと、うわっと大きな声が上がって耳元が赤く色付いていくのが見えた。身体が成長しても純朴なところは変わらないなあと微笑んでいると、「さっさと離れろよ!」と慌てたように押しやられてしまう。

「前は一晩中ずっとぎゅってしてくれたのに……」
「いやいやいや誤解を生む表現はやめろよな!?」
「誤解? でも嘘はついてないよ?」
「……オレ、アンタには一生勝てない気がしてきた」

がっくりと肩を落とす姿を前に首を傾げていると、明るく快活な笑い声が正面から飛び込んでくる。

「やはりペパー青年とナマエさんは仲良しなのだな!」

体格がよく笑顔が愛らしいのが印象的な、家庭科のサワロ先生だった。仲良しと素直に言われると面映ゆく、けれど今は肯定する自信も無かったから一言御礼を言うだけに留める。予想通り、満面の笑みが真っ直ぐに返ってきた。
グレープアカデミーの先生方は皆とても優しくて温かくて、一人一人の個性を伸ばそうとしてくれるのを感じた。恵まれた環境で学べていることを痛感して胸が温かくなる。

しかし、そういえばここはお昼時の食堂だったことを思い出した。周りの生徒さん達から興味津々な目線を向けられていて、何やら噂話もされているようだ。さすがに若い学生さん達はエネルギッシュだなあとしみじみ感じる。

「サワロ先生も皆さんもごめんなさい! せっかくの休み時間にお騒がせしました!」
「……オレ、ますます学校に来たくなくなったわ」
「ペパーくん、あんまり学校来てなかったの? 道理で全然会えないと思った」
「うっせえ……。ナマエちゃ……、アンタは先生方に会いに来るために毎日通ってるんだって?」
「先生と会うも何も、アカデミーに通うのが楽しくて来てるんだけどな。誰かからそんなこと聞いたの?」
「ばっ、ちが……」
「ああ! ペパー青年がやけにナマエさんのことを気にしている様子だったので、ワガハイが日々報告して差し上げていたのだ!」

サワロ先生が力強く握った拳で胸をどんと叩くのを横目に、ペパーくんがどんどん項垂れて次第に蹲ってしまった。食堂の床で膝を抱えて完全に顔を隠してしまっている。

「…………オレもうやだ」
「えっ、どうしたの? 私、ペパーくんから気にしてもらえるの嬉しいよ?」
「そういう問題じゃねえっての……」

か細い声で喋るペパーくんの頭を慰めるようによしよしと撫でれば、弱々しく振り払われる。先程に比べて拒絶の色が薄くなっているのを見て、ついはにかんでしまった。

「もー! 仕方ねえから行くぞ!」
「うん。ありがとう」

だって私はペパーくんに見捨てられたら、この世界で守るべき存在と永遠に触れ合えなくなってしまうのだから。



「あ」

ペパーくんの部屋に辿り着いた時、私のお腹がきゅるきゅると音を立てた。そういえば昼食を取るために食堂へ行ったのに結局何も食べず終いだったから。

「あー、悪い。オレのせいで食いっぱぐれたんだよな。今なにか作るから」
「え。でも……良いの?」
「当然だろ。……いつかアンタに料理を振る舞うのは、オレの夢の一つだったからな」

部屋に備え付けられたキッチンでしゃがんだ背中は、かつての幼い後ろ姿と重なるものがあった。ペパーくんと共に思い出を刻み、フトゥーさんと静かに語らい合っていた、あの真っ白な夢の中での日々が脳裏に蘇る。愛おしくて切ない二度と戻らない宝物。

「何が食いたい?」
「んー、そうだな。それじゃ……サンドウィッチで」
「……おう。ならオレも小腹が空いたから、シチューも一緒に作っていいか?」

立場は逆だったけれど、かつてのやり取りを彷彿とさせる返答だった。胸が詰まって息が出来なくなる。
だってこの子はきっと知らないままなのだ。実の父親からあんなにも愛されて守られて、ずっと未来を願われていたこと。その本人が既に亡くなっていること。
それなのにペパーくんはこんなにも懸命に、たった一人きりで私を思い遣ってくれようとしていた。

「……? やっぱりシチューは嫌だっ、」

無言のままの私が気になったのだろう。しゃがんだまま振り返ろうとしていたペパーくんの背中に駆け寄って、私は目の前の子を力強く抱き締めた。いつの間にか筋肉がついて髪も伸びて、青年らしい甘酸っぱい香りを纏うようになっていた私の大事な愛しい男の子を。

「ごめんね、ペパーくん」
「……何のことだよ」

二人して両膝を立ててから床に座り込んだ。この子の誠実さに報いるためには、ぐるぐると胸の内側を渦巻くように巡る悔悛を、一つずつ言語化しなければ気が済まなかった。
ねえ、フトゥーさん。あなたがもうこの子を抱き締めてあげられない分、私が精一杯温もりを注ぐから。

「寂しい思いをさせてごめん。一人にさせてごめん。ペパーくんは私が寂しい時に傍にいるって言ってくれたのに、他でもない私がその優しさを裏切ってごめん。……好きって言ってくれたのに、同じ想いを返せなくてごめんね」
「……別に、もういい」
「でも、」
「もういいって言ってんだろ!」

部屋の空気が震える。激情のまま叫ぶ背中からは明確な拒絶が感じられたけれど、それでも私は諦めてはいけなかった。どんなにペパーくんから呆れられても嫌われても、フトゥーさんはもう二度とこの子と直接言葉を交わすことさえ出来ないのに。

「あのさ、その謝罪って誰のためなんだよ」
「……え?」
「父ちゃんに言われたからか? オレの傍にいろって?」
「…………あ、そんな」

そんなことはない、と言ってしまうのは簡単だった。事実私は心からの謝罪をペパーくん本人へ捧げているつもりだった。
しかしこの世界に来てからの私はずっと何を考えていた? ───フトゥーさんの代わりになろうと必死で、自分の本当の気持ちを抑え込んではいなかっただろうか。

「……やっぱり、どうせ父ちゃんに言われたからオレに話しかけてるだけだろ」
「ち、違うよ。ちがうの、ペパーくん!」
「言い訳なんていらねえ!」

必死に伸ばした手を振り払われる。こちらに振り向いてさえくれない背中に見えたのは、かつてと似ているようで絶対的に異なる諦念だった。
自分のことなんて誰も見てくれない、愛してくれない、だからこそ誰のことも信じられない。どんなに頑張っても誰も私のことを好きになんてなってくれない。
かつてフトゥーさんは言った。私とペパーくんの精神性が似ていると。……そっか、そういうことだったのか。と納得する。

私は、私の孤独に寄り添ってくれたこの子に嫌われるのが怖かった。だからペパーくんから向けられる好意に応えることを恐れていた。最初から何も無かったことに出来れば、いつか離れ離れになったとしても傷付くことなんて無いから。彼に好きになってもらう資格なんて無いと思い込んで、心の壁を作っておけば楽だから。
けれどそれは単なる逃避でしかなかった。ペパーくんはあんなにも真っ直ぐに真摯に想いを伝えてくれたのに、私は結局、自分可愛さにこの子の心を乱暴に手酷く扱ってしまっていた。

「言い訳じゃないの。本当に。たとえ私達が出会ったキッカケがフトゥーさんだったとしても、あなたを一人の人間として愛おしく想っているのは紛れもなく私の本心だよ」
「……オレはもう父ちゃんには何年も会ってねえ。今オレに擦り寄ったところで、アンタには何のメリットもねえだろ」

こちらの言葉を信じてもらえないのは当然のことだろう。ならば今出来る限りの誠実さを私だって見せなければならない。分かってはいてもその方法が分からなくてもどかしくて、私はただ言葉を重ね続けることしか出来なかった。

「メリットなんて考えてもなかった! もちろんフトゥーさんは大切な友達だけど……ペパーくんとの関係性は唯一無二の大事なものだって思ってるから!」
「とも、だち……?」
「そうだよ。友達! フトゥーさんが私のこと何て思っていたかは分からないけど!」
「で、でも……それでも! 結局父ちゃんもナマエちゃんもオレのことを置いていくんだろ!」

昔の呼び方をしてもらって初めて、ペパーくんのありのままの感情の片鱗に触れたような気がした。確かにフトゥーさんがペパーくんを置いていくというのは───その通りだ。けれど今、この事実だけは私一人の胸に仕舞っておくべきものだった。
深く深く息を吸ってから、私も嘘偽りのない純白の言の葉を重ねていく。

「私がこれからもずっと傍にいるなんて、無責任な約束は出来ないよ。ペパーくんの人生はペパーくんだけのもので、あなたがこれから歩む道と私の道がずっと交わったままだとは限らないから」
「でもオレは……ッ、それでも、オレは! 他でもないアンタにも! 今までもずっと!! 傍に居てほしかったんだよ……!!」

ペパーくんの言葉尻が徐々に涙で濡れていくのが分かった。心臓が捻じ切れそうに痛む。頭の天辺から爪先に至るまで激しく突き抜けていくばかりの感情が、私の目の縁からぼろぼろと溢れ落ちていく。

誰からも愛されず必要とされず周囲からは色眼鏡で見られて指を差される苦しみを、私は知っていたから。フトゥーさんがこの世界においてどれ程高名な博士なのかは、アカデミーにいるからこそよく分かった。ならば息子のペパーくんは、博士の息子として噂の的になることだってあっただろう。頼れる肉親も友人もいない学校に来るのはどれほど大変なことだろう。それなのにこの子は度々私の様子を見に来てくれた。私個人のことを心から気遣ってくれた。

「私だって本当は……ずっと傍にいたかったよ!!」
「なら日記だけじゃなくて!! ナマエちゃん自身が一緒にいてくれなきゃ意味ねえだろ!!」

嗚咽が漏れて、それ以上は意味のある言葉を口にすることが出来なかった。今まで生きてきた中で、私自身をこんなにも強く求めてくれるひとなんて初めてだった。
心臓に一筋、光の矢が鮮烈に突き刺さるようで。愛おしいという一言では言い表せないくらい、ペパーくんというひとに対する愛で全身が穿かれていった。

私達はあの頃のように抱き合いながら、ふたりきりで涙を分かち合っていく。互いの体温も心臓の鼓動も香りも溶かし合いながら。深く暗く澱み沈んでいた心の溝が、ゆっくりとそっと優しい清廉な光に包まれていくようだった。