未知なるポケモンから襲撃を受けて怪我をしたマフィティフが、どんな方法を使っても回復しない。
悲痛な顔で報告してくれたペパーくんは、しかし何故か相棒に傷を負わせるキッカケになった私を恨んではいないようだった。

「あそこに行くって決めたのはオレだからな。ナマエちゃんのせいにするほど器が小せえつもりはないし。……まあ、父ちゃんに会えなかったのは残念だったけどさ」
「……ペパーくんは強いね」

すっかり慣れたハグを交わしながら、私たちはペパーくんの部屋のベッドで寝転がっていた。一人分のスペースしかないから当然狭くて密着する形になるけれど、心に大きな穴が空いた青年には羞恥心を感じる余裕さえないようだった。

「……父ちゃんの研究室からさ、古い本を見つけたんだよ」
「本?」
「ん。なんか紫色の表紙をした古くて分厚いやつ。……そこに多分唯一の、マフィティフを元気にするための手掛かりが載ってたんだ」
「……そっか、凄いな。ペパーくんは」
「いや、凄いのはオレじゃないだろ。そんな未知の方法を見つけた父ちゃんで……」
「それもそうなんだけど、フトゥーさんの話じゃないよ。自分に精神的な傷を与えた身内を思い出す場所に行くのは辛いだろうから。……私には、それが想像できるから」
「そっか。……そうだな、うん。もしかしたらオレ、まだ傷付いてんのかなあ」

ぽつりと呟いたペパーくんがまるで母親に甘えるように、もぞもぞと私の首筋に顔を埋めた。乾いた唇が肌にそっと触れる度、胸の奥がぐずぐずと溶けていくような熱く滑らかな感情で満たされていく。
やはり私は、どうしようもなくこの子が愛おしいのだと痛感した。寂しさに泣いていた幼い頃も、不器用な意地を張るようになった青年期も。体温も吐息も鼓動も涙も笑顔も全て。フトゥーさんに頼まれたからという理由ではなくて、私という人間が全身でペパーくんへの愛を紡ごうと必死に喘いでいるようにさえ思えた。

きっと今の私の感情を、既存の言葉に当てはめるのは難しいだろう。恋でも愛でも信仰でも執着でもないけれど、そのどれにも当てはまるような祈念。ペパーくんの幸せを全力で祈る想いは確かにあって、だからこそフトゥーさんと交わした嘘を最後まで貫き通さなければならないのだと思った。

手の届かない場所へ突然一人で行ってしまったフトゥーさんを想いながら、私は考える。
エリアゼロからいなくなってしまった一匹のミライドンのことを。あの子を見事に懐柔してみせたという、アカデミーにやって来た転校生のことを。
未だにエリアゼロの最奥にて、孤独を抱えながら実験を続けているフトゥーのことを。

全ては、フトゥーさんの実験が生んだタイムマシンを破壊する計画の内なのだということを。

その夜。互いの心臓の輪郭さえも緩めていくような体温に私は身を任せ続けることになった。目覚めた時、二人とも身体がガチガチに固まっていて笑ってしまったけれど。こんな狭いベッドで無理やり添い寝したら当然だろう。
その怠ささえ心地好くて、ただ自嘲することしか出来なかった。全てを知りながら何も分からないフリをする愚かな私を、どうか誰も赦さないでほしかった。



最近もっぱら噂の的である転校生くんは、二年生に進級した私もあらゆる授業で見かけた。先生から指名されたとき積極的に発言する様子を見ても、明るくて素直で元気な男の子のようだと分かる。
そんな彼とペパーくんは最近よく行動を共にしているようで、ヌシポケモンと呼ばれる強敵を相手に二人で立ち回っているのだと、毎晩のように嬉しそうに共有してくれた。

秘伝スパイスのお陰でマフィティフが少しずつ元気になっていくと報告を受ける度に。転校生とペパーくんの距離が確実に近づいて行く度に。当然私だって心の底から嬉しかった。

けれどその一方で、着実に彼らが近付きつつある真実を想って身が引き裂かれそうになってしまう。
フトゥーさんが既に亡くなっている。この事実が詳らかにされる時が近付いているのだろう。

そんな恐怖を抱え続ける日々もついに終わりを迎えると知ったのは、他でもないフトゥーの言葉だった。

「……ナマエ」
「うん、分かってるよ」

五匹目のヌシポケモンを倒したペパーくんと転校生くんに向けて「エリアゼロで待っている」と語りかけた直後のAIは、どこか哀愁を帯びた表情で微笑む。この子もいつの間にか、こんなにも人間らしい顔をするようになったのか。

「何を笑っているんだ」
「んーん、なにも。ねえ、フトゥー」
「ああ」
「……たとえこの先なにが起こったとしても。私は全部受け止めてみせるから」
「そんなことくらい、ボクたちは分かっているとも」

うん、と頷きながらラボの隅っこで膝を抱える。まるで悪いことをして怒られるのを怖がる子どもみたいだった。だがいつまでもこのままでいる訳にはいかない。

一瞬ぎゅっと目を閉じてからゆっくりとラボの中を見回して、威嚇するようにぐるりと旋回した一匹のミライドンに歩み寄る。興奮しているのか吼え続けていたが、宥めるように顎の下を撫ぜれば段々と鳴き声が落ち着いてきた。

「よしよし、いい子いい子」

ギュン、としょぼくれた顔をしながら掌にふわふわと擦り寄ってくる。もう一匹の子を外に追い立てるまで攻撃したことに対して、私から叱られるとでも考えているのだろうか。

「大丈夫だよ、今日できっと全部終わるから。でもミライドンあの子が来たら一緒に謝ろうね」

それだけはイヤだ、とでも言うようにそっぽを向いてから、ミライドンは勢いよく外に飛び出していく。やっぱり同じ種族とはいえ性格は全然違うし、何よりこの子はフトゥーさんが無理やり未来の世界から連れてきてしまった子だ。苛立ちや怒りを感じやすく神経質になっていても仕方がない。
違う世界からやって来た存在としてみれば同胞とも言えるから、あの子たちミライドンのことはつい気にかけてしまうんだよなあと笑いながら。

「ねえ、フトゥー」
「……なんだ?」

ラボの入口手前で、くるりと振り返ってから再び舞い戻る。私から見つめられていることなんて分かりきっているだろうに、無関心を貫くように背を向けるその優しさが、苦しい程にかなしかった。

「最後にちょっとだけ、抱き締めてもいい?」
「……キミは本当に仕方がないな」
「私がどうしようもない女だってことは、よーく知ってるでしょ」
「どうしようもないと言うならボクもそうなんだが。……そんなキミだったからこそ、なんだろうな」

ひんやりとした大きな背中に、そっと身体を預ける。お腹のあたりに腕を回せば、恐る恐る互いの手のひらが重なっていく。
この先にどんな未来があろうと、全てを受け止めると決意したのは私なのだから。どれ程に心が軋んで悲鳴を上げようとも、この一瞬の抱擁を胸に仕舞い込めるだけでも充分だと白衣にふんわり口づける。少しでもあなたに祝福がありますように、と願いを込めて。

「……またね、フトゥー」
「ああ。また後で、ナマエ」

玲瓏な空気を思いきり吸い込むように深呼吸をしてから、予定通り一人で向かった。タイムマシンのある地下へと。




それは、いつかの記憶。在りし日の果敢はかない夢の中での出来事。

『フトゥーさんの研究目的って、本当に楽園を作りたいから、なんですか?』
『何故急にそんなことを?』

ペパーくんに似て───あの子はまだ幼いから納得だけれど───意外と子供舌なフトゥーさんは、オムライスやハンバーグなどお子様ランチで定番のメニューを好んだ。その日は、初めて披露したエビフライを満足そうに口にしていたことを覚えている。

『だって、ペパーくんのためにこんな空間まで作って、わざわざ私を探して招いてくれるような……愛情深さがあなたにはあるから。タイムマシンの研究なんて相当な労力が必要でしょう? もしかしたら研究者としてだけじゃなくて、一個人としての願いがあるのかも、なんて考えまして』
『…………』
『あ。もちろん勝手な憶測ですし、無理に答える必要は、』
『……ペパーに会わせるため、だ』
『会わせる?』
『ペパーに必要なのは、父親ではなく母親だろう。諸事情あって、彼女に会うためには時を渡らなくてはならないんだ』
『……なら、フトゥーさん個人の願いはどこにあるんですか?』
『……何が言いたい?』
『今は一旦、研究者としての顔も父親としての仮面も剥がして良いです。……フトゥーさんご自身が奥様にお会いしたいから、だからタイムマシンの研究をしていらっしゃるんじゃないですか?』
『随分と、人を勝手に評価しているようだが』
『向こう見ずで頑固なフトゥーさんなら、自分の目的のためだけに世界を飛び越えるくらいしそうだって、付き合いの短い私でも分かりますよ』
『……成程。やはり君たちの精神が似ているというのは本当らしい』

呆れたように息を吐いたフトゥーさんが仄かに微笑んだ顔を、私は一生忘れることはないだろう。

『何が真実なのか。それは君自身の目で確かめてくれ』