世界の万物はこちらに無関心で、ボクもまた彼らに興味を寄せることはなかった。

信頼、愛情、激情、平穏。どれも縁がなかったし、意識的に全て遠ざけてきた。そうすれば自然と人間という生物に対して客観的でいられた。
他者を理解するためのプロセスを踏むだけならば、共感という行為は不要だ。
加害者の生々しい感情がトリガーとなる殺人や傷害事件を論理的に紐解く上で、自らの感情は余計なノイズになり得る。

だからこそ科学は質の良い時間潰しだった。
一見すると摩訶不思議に見える事象から、確固たる理論を炙り出す。前提となるロジックを、様々なヒントを拾い上げながら見つけ出していく。
そこには単に事実のみが転がっていて、形而上けいしじょうの曖昧な物事が紛れ込むこともなかった。

化学実験も事件捜査も、ボクにとっては同一線上にある余暇の過ごし方でしかない。

気の合うルームメイト───生まれて初めて誰かを友人と呼んだ───と出会っても、探偵としてのスタンスは変わらなかった。
そもそも自分の在り方と密接に関わる価値観であるため、他者との出会いで何かが変わる訳もない。

そんなバイアスに僅かながらヒビを入れたのは、ボロ雑巾のように赤く打ち捨てられていた彼女だったのかもしれない。

当初はよくある傷害事件だと判断し、現場の状況と物的証拠からすぐに犯人を洗い出した。ついでに駆け出しの探偵としてスコットランドヤードに恩を売ろうともした。
普段ならば探偵としての役目はすぐ終わり、血に塗れた彼女とは全くの無関係になる筈だった。

しかしボクの捜査は呆気なく潰された。一から編み上げた推理も理論も言葉も、何もかもが無かったことにされた。

原因はただ一つ、差別だ。権力、人種、性別を起因とする、社会的弱者に対する蹂躙だった。
彼女は何の地位も持たない民間人であるというだけで、英国人ではないというだけで、男ではないというだけで、死の間際にあっても尊厳を奪われ尽くされていた。

国家が犯罪の被害者を守らないなんて、司法が整備しきっていない国ではザラにある。
だから彼女だけが特別哀れな存在という訳ではない。
それでも、ボクが遭遇した中で最も悲惨で孤独な境遇であるのは間違いがなかったし、警察が形だけの捜査でさえも実施しないなんて初めて見た。

権力は人間を簡単に狂わせるソーシャルな概念であり、人種や性別は利己的な正義を一個人に与えてしまう区分だ。
世界最高の栄華を誇る我が国では、権力のために善悪の線引きを放棄する存在が掃いて捨てるほどいる。
薄らと認識していた目に見えない悪意が、初めて巨大な闇として眼前に迫ってくるようだった。

差し出された結果に対する理解は出来た。裏にある思惑も推測出来た。しかし当然ながら微塵も納得はできなかった。

だから助けたい等という崇高な意思は全くなく、同情する気なんて更々なかった。
それはボクの探偵としてのプライドであったのかもしれないし、この国では間違いなく異物であろう彼女の思考に興味があったからなのかもしれない。
今となっては、彼女が別の世界から来たことも判明し───衣服の成分がこの世に存在しなかったことも決め手だった───後者の説得力も増している。

友人に対して彼女の保護を持ちかけたのは、おそらく、目に見えない大きな闇に対するささやかな反抗心だったのだろう。それだけではないことも薄らと理解してはいたが、即座に結論を出そうとする程に軽率なつもりはなかった。
自らの思考に対して答えのない推察を繰り返す日がくるだなんて、夢にも思っていなかったというのに。




「ホームズさん、おはようございます」

朝日が射し込む部屋の中心で、彼女が小さく微笑んでいる。
昨晩闇夜に暗く沈んでいた横顔と目の前の姿が上手く重ならず、何と返すのが正解なのかと一瞬考えてしまう。
そうやって逡巡していたことを悟られないように、髪を片手で撫で付けた。

「おはよう、ミス・ナマエ」
「御琴羽さんは先程出ていかれましたよ」
「もうそんな時間か」
「すみません。昨晩わたしが遅くまで付き合わせてしまったばかりに……」

視線がよく下を向くのは彼女の癖だった。
自己肯定感の低さの根源にあるものは理解しているため、特に話を広げることなく「別に」と返す。
下手に擦り寄るような振る舞いをするより、一定の距離を置いた方が彼女は心地好いらしい。
ボクの元々の性質も他者に気を遣う方ではないため、機嫌を損ねる心配はなかった。

「お詫びと言ってはなんですが、コーヒーを淹れたのでもし良ければどうぞ」
「ああ、ありがとう。キミは飲まないのか?」
「……そうですね。少し飲もうかな」

時折、彼女の言葉が少し砕けることがある。外国語では敬語を使い分けるのが難しいのは感覚として分かるため、英語学習が順調な証なのだろう。

日本人は勤勉らしいと耳にしていたし、実際目の当たりにもしていたが、彼女も例に漏れずマジメな質だった。
何事にも懸命に取り組むあまり、周囲の狡猾さに付け込まれるタイプだと踏んでいる。
今も尚、他者の気分を害することに対して人一倍怯えているようだった。

ボクとはまるで正反対の価値観だった。だが、だからこそ彼女の思考は手に取るように分かった。

ソファに腰をかけつつ、マグカップにコーヒーを注ぐ音をふたつ聞く。靴と床が擦れる音が少し響いて、隣が僅かに沈んだ。
ボク達の間にあるのは、眠る前と何も変わらない距離感だった。

テーブルに置かれたマグカップを手に取り、ゆっくり喉に流し込む。熱すぎず温すぎない程よい温度だ。
人の好みを把握するのが上手なのは、生来のマジメさにより育まれたのだろう。
だが、彼女自身は自分の好みを明確に把握しているのかは疑問だった。
食べ物の嗜好だけでなく、自分が何をしたいのかという意思を持つことさえ無意識に避けているような素振りを見せる。

出会ったばかりの頃、ボクらに世話になりっぱなしなのは嫌だという意思を見せたものの、基本的にはそれだけだ。
しかも厳密に言えば彼女の意思ではなく、こちらへの恩返しという理由が大半だった。

唯一片鱗を見せた場所と言えば、フレスノ街のガラス工房だが……まあ、これはいずれ持ち出す手段としておこう。

「もし良ければ、なんだが」

口を開けば、すぐに彼女の瞳がこちらを向いた。
以前はその奥に恐れが見えていたが、今はフラットな温度を宿している。

「キミに頼み事があるんだ」
「はい。わたしに出来ることなら何でも」
「なら端的に言おう。警察に手紙を出してほしい」

虚をつかれた様に目がまるくなる。彼女も徐々に感情を表に出すようになったようだ。
その変化をいささか興味深く思いながら、予め組み立てていた言葉に意識を向ける。
普段と何も変わらない、呼吸に等しい行為だった。

「ボクたちの味方を増やしたいんだ」

彼女は笑った。こちらの意図を察している気配はなかったが、それでも安堵したように空気が緩む。

今まで何度も目を合わせたことはあるのに、朝日を取り込むだけでその瞳は全く見覚えのない色に見えた。
ゆっくりと交わした視線の中に、ボクは、彼女を死の海に引きずり込んだ朝日と同じ匂いを見つけていた。