「やあ、ナマエ」

何気ない朝の挨拶を交わすように片手を挙げた友人に向けて、いつも通り同じ仕草を返す。今は一分一秒でも顔を合わせられる事実が嬉しかった。

「さっきぶり、フトゥー」

フトゥーの背後には見覚えのある転校生くんがいたから、少しでも安心させられるようにと精一杯微笑みを向ける。

エリアゼロの最奥にある部屋で、転校生くんは突如現れた私という第三者に驚いていた。当然だと思ったけれど、どうやら見知らぬ人間という理由ではないらしい。アカデミーでペパーくんと共に私を見かけたことがあるからだ、と言う。

「そっか。いつもペパーくんと仲良くしてくれてありがとうね」

親代わりのようなものだからと口を挟めば、「こちらこそ!」と元気な返事をしてくれる。想像通りに明るい男の子だった。

「彼女は助手のようなものだから気にしなくていい」
「まったくもう……。ごめんね、まずは彼の話を聞いてあげて?」

子ども扱いはやめろ、とでも言いたげな視線に肩をすくめる。ここまできたら少しくらいのユーモア親心は許してほしいのだけれど。

そして、いよいよタイムマシンについての解説が始まった。
フトゥーの目的は、フトゥーさんが生み出したタイムマシンを止めること。マシンの停止を試みようとすれば、フトゥーの意思はプログラムに乗っ取られて、単なる戦闘マシーンと化してしまうこと。
一度プログラムに支配されたフトゥーは、もう二度と彼自身の意思で私たちと交流する機会を喪うこと。

改めてその事実を突き付けられても、私は俯くことも顔を歪めることもしなかった。不器用で下手くそでも笑顔を浮かべて、せめて大切に想い続けてきた友の野望を応援したかった。

「ナマエ」

転校生くんが、タイムマシンの停止に必要なバイオレットブックを台座に置く直前のことだった。フトゥーは私に背中を向けながら、たった一言、凛とした声で最後の言葉を言い遺した。

「……今までずっと、ありがとう」

呼吸が止まる程の衝撃に襲われる。
嗚呼、フトゥー。やはりあなたはフトゥーさんとは違うひとなんだね。限りなくよく似ているけれど、ふたりは間違いなく家族だったんだね。友人のように兄弟のように親子のように、互いに異なる価値観を持つからこそ成長して巣立っていった、立派な男の子なんだね。

あなたがこの場所で私たちのために生きてくれたこと、これから先も絶対に忘れないから。

そう決意した次の瞬間、プログラムに乗っ取られたフトゥーと転校生のポケモンバトルが始まった。
流氷を注ぎ閉じ込めたような冷たく真っ青な瞳を宿したフトゥーが、淡々と任務を遂行するための勝負をこなしていく。

その目にはもう私など映ってはいなかった。タイムマシンを排除する敵を捕捉するためだけに佇んでいた。

胸が軋むのを堪えながら、転校生くんのバトルセンスにも目を見張る。未知なるパラドックスポケモンの弱点さえも見抜き、ポケモン達との信頼関係を遺憾無く発揮する手腕が光っていた。さすがペパーくんのお友達だ。
私は自らの意志で、片時も目を離さぬよう真っ直ぐに立ちながら最後のバトルを見守っていた。激闘の末、勝敗は残酷にも明確に決まっていく。

フトゥーの敗北。すなわち彼自身の意思はプログラムに支配されたまま、タイムマシンと共に停止する運命を辿っていく。本人が望んでいることだと私は知っていたのに、それでも心臓を捻じ切られるような感覚がした。

今まさに死の淵にいる筈の友が、全てから解放されたような空気を纏った瞬間。この部屋にペパーくん達がやって来た。バトル好きで有名な噂の生徒会長の子と、見覚えのない赤髪の女の子も一緒だった。
俯くフトゥーの隣に歩み寄り、真正面からペパーくんの鋭い視線を受け止める。

「……ナマエちゃん」
「うん」
「ソイツは……父ちゃんじゃない、よな」

険しい顔でなんて無垢で惨い質問をするのだろう。けれどペパーくんを意図的に騙し続けてきたのは私達の方で、彼の言葉に傷付く資格なんてなかった。

「……そうだね。ここにいるフトゥーはあなたの実の父親じゃない」
「ナマエ、ソノ先は、ボクガ」

AIとしての性質が強くなっているのか、喋り方が機械じみたものになっている。目を合わせて頷いてからフトゥーの一歩後ろに下がり、全てを見守る立場としての役目を果たそうとした───その時だった。

視界が一面、紫に染まっていく。部屋の天井から壁に至るまでの全てがバイオレットカラーに包まれていく。
人工的で暴力的なまでの鮮烈さを纏う光景に、フトゥーもペパーくん達も慌てたように周囲を見回した。

楽園防衛プログラムが起動したと、タイムマシンに内蔵された音声が無機質に告げていた。これがマシンの破壊を防ぐための最終手段か、と私は一人納得しながら天井を仰ぐ。

恐らくこの中では私が一番冷静だったのかもしれない。だってあのフトゥーさんが、一度負けたくらいで研究の成果を諦める訳がないことくらいは悟っていたから。

かつてフトゥーさん意地っ張りな友は言った。真実は君の目で確かめてくれと。タイムマシンの研究が、単なる研究者としての理想と好奇心を満たすものなのか否か。はたまた、父親としてのエゴや一個人としての願望を満たすものであるのかどうか。
そんなの問うまでもなく分かりきったことだったのに、彼は何故あんなことを言ったのか、ずっと考えていた。

「……私もあなたも、最後まで身勝手だったね」

大切な家族を愛せる自信がなかったから、代わりに彼らを愛してくれる人間が欲しかった。同じ世界の人間だとフトゥーさんの名声にばかり着目して、畏怖するかゴマをするかだろうから、別世界の人間を試しに呼び寄せた。自らの目的を果たすために、いつか自分がいなくなっても構わないように、自らの意志を継ぐ存在を残した。

あなたを大切に想う私たちの想いなんて全て無視して。

人のことは言えないんだけど、なんて自嘲しながらフトゥーの真正面に立った。珍しく慌てた顔を前面に出しつつ、必死にこちらへ手を伸ばしてくれる。

「ナマエ! 子供達ヲ連レテ、早く逃ゲルんダ!」
「逃げないよ、フトゥー。私は今までずっと全てに背を向け続けてきたんだから、せめて見送りくらいはさせてほしいな」
「何ヲ言ッテ……!?」

そっと柔く慈しむように、目の前の友人をぎゅっと強く抱き締めた。親への反抗方法さえ知らない幼さと、自分の在り方に葛藤する成熟さを併せ持つ男の子を。
彼の身体が徐々に強張って硬くなっていき、最終防衛プログラムに侵食されていく様を全身で感じながら。今まで彼と共に紡ぎ織り上げてきた思い出という名の宝物を胸に、爪先から脳にまで至る程の熱く迫り上がる想いを形にした。

「フトゥーのばか。何もかも一人で抱え込まないでよ」

耳元で息を呑むような声がした。それでいいと、フトゥーさんが背中を支えてくれたような気がした。……自分は全てを知り尽くしていますなんて考えていそうな、達観した気配なんか見せちゃって。本当は、あなたにも全く同じことを伝えたかったんですけどね。

バチッとせいでんきのような音がした後、強く弾き飛ばされて尻もちをつく。どうやらフトゥーの周囲にはバリアのようなものが張り巡らされていて、直接触れることが叶わないようだった。硬い床に叩き付けられたのだから当然身体の節々は痛んだけれど、そんなことよりも私の心を呼吸をまるごと奪い去る光景が広がっていた。

「ナマエちゃん! 怪我はねえか!?」
「……うん、ペパーくんありがとう。私は大丈夫だよ」

素早く駆け寄って肩を摩ってくれる特別な男の子の掌に、自分のそれを重ねていく。ペパーくんも戸惑っているのだろう。私もまた、眼前の友から目を離すことが出来なかった。

楽園防衛プログラムに支配されたフトゥーの瞳は、先程とは異なり純白に染まりきっていた。虹の結晶をかき集めたようにキラキラと光が乱反射した、かつて共に過ごした真っ白な夢を想起する色。私たちを繋ぐ最後のか細い糸がそこには映っていた。

「コノ楽園ニ、キミ達ハ必要ナ■ンダ」

拒絶の言葉を口にしながら、瞳の淵から泪が零れ落ちているだなんて。恐らく本人も自覚していないのだろう。
私達のかつての出会いを全て洗い雪いでいくように、目の前の男の子はさめざめと泣いていた。

それからの展開はまさに怒涛だった。
その場にいた全員のモンスターボールが封じられ、プログラムに支配されたフトゥーが楽園の守護竜たるミライドンを繰り出して。あわや窮地かと思われた時、唯一対抗し得る転校生くんのミライドンが、起死回生のテラバーストを放って。

フトゥーさんの楽園防衛プログラム執念は、実の息子たちによって打ち破られる結果となった。

けれどフトゥー自身がタイムラインを存在するためのプログラムの一部となっているから、彼がこの世界に存在する限りマシンを完全に停止させることが出来ない。だからこそ未来の世界へと旅立っていくのだと、清々しく宣言していた。

決意を固めた友の顔は晴れやかなもので、遙か頭上で私達を見下ろしながら、まるで父親のような温かな表情を浮かべているように見えた。
喉の奥がきゅっと締まっていくような感覚に襲われながら、私はフトゥーを見つめ続ける。

「ナマエ!」

ペパーくんや転校生くん、ミライドンに向けて語りかけていく穏やかな顔を見守っていると、唐突に名前を呼ばれた。本当にこれで最後になるんだなあと胸を衝かれるようで、だからこそ私は大きく笑った。

「なあに?」
「何もかも一人で抱え込むのはキミも同じだろう。これからは、パンクする前に周りをきちんと頼るといい」
「……今まで頼っていた相手と、これからお別れしなきゃいけないんだけどね!」

フトゥーは微笑んでいた。ひどく優しく愛おしむような顔で、今まさに未来へ向けて旅立とうとしていた。

「ナマエ」
「なあに?」
「ボクはキミを愛していた。この世界でただ一人、ボクをボクとして慈しんでくれたキミを。だから……どうか幸せになってくれ」

何で最後にそんな優しいことを言うの。聞き分けのない子どものように駄々を捏ねてしまいたいけれど、そんなことは出来なくて。一生忘れられない温かくて美しいきずが鮮烈に心臓を貫いていく。
一人の友人として祝福しながら見送りたいのに、私は上手く笑えているだろうか。分からなかったけれど、今の全力を言の葉の一つ一つに込めていく。

「私もあなたを愛してる。たとえこの先二度と会えることが無くとも。いつかフトゥーが私を忘れても。たとえあなたが私より先に死んだとしても」
「ああ、知っているとも。……ペパーを頼んだぞ」

ペパーくんと直接相見えるのが初めてでも、フトゥーはフトゥーさんが胸に抱き続けてきた愛情をありのままの形で受け継いでいるから。
たとえ全く同じ感情でなくとも、彼なりに大切にこの子を見守っていたことを私は知っているから。

「うん! 任せて。フトゥーも自分の旅を楽しんで!」
「……ああ!」

ボン・ボヤージュ! と清々しい笑顔で告げたフトゥーが、いよいよ一人で旅立っていく。彼と共に紡いだ、約数ヶ月の濃密で儚い思い出を必死に胸の内に仕舞い込みながら。
その姿が消えた後もずっと、ずっと、エリアゼロを見守るように吹き抜ける青空を見つめていた。

「ナマエちゃん」
「……ペパーくん」

呼ばれて振り向けば、困ったような顔で一人の男の子が立ち尽くしていた。気付けばいつの間にか、転校生くん達はこの部屋から去ってしまったようだった。それさえも気付かない程にフトゥーのことを考えていたのかと苦笑する。

「あのさ。ナマエちゃんにずっと伝えたいことがあったんだ」

互いの間に、一陣の風が吹き抜ける。スカイブルーの瞳が、柔らかく地上を照らす月みたいに瞬いた。ペパーくんはようやく、重たい荷物を下ろしたかのように温かな微笑みを見せた。

「オレ、やっぱりナマエちゃんのことが好きだ」