18:ビスクドールもかく笑う
「ナマエ、きたよ!」
サザーランド工房の扉を勢いよく開けたのは、すっかり常連さんになった下町の少女だった。ふふんと鼻を鳴らしながら腕を組む様も、奥の窯にて渋い顔をしているであろう師匠も随分と微笑ましい。
「ジーナちゃん、おはよう! 今日もガラスを売りに来てくれたの?」
「まあね。スリするついでにやってきた!」
「そっかそっか。どっちも上手くいってるみたいだね」
わたしは亜双義くんのような正義感がある訳でもないし、幼い女の子がスリとして生きていくことを止められる訳もなかった。現在進行形でこの国が生む負の連鎖をこんな子どもまでもが背負わざるを得ないのは、自分たち大人の、ひいては社会の責任だったから。
「イロのついたガラス! きっとたかーくうれるでしょ?」
「お。紫やピンクは確かに珍しいな……ん?」
ホームズくんお手製の手袋を嵌めつつ、机の上に並べてもらった破片を検分していく。違和感を覚えたのは、それらがやけに精巧で見覚えのある造りをしていたからだった。未だに半人前とはいえ、さすがに師匠が作ったものか否かくらいは即座に判断できる。
いくつかイニシャルらしきアルファベットも刻まれていた───これは恐らく「V」だろう。思い当たるのはバンジークス家あたりだけれど。
深く詮索するつもりはないが、最低限の情報収集くらいはしておきたいと考えながら口を開く。
「ねえジーナちゃん、これはどこで拾ってきたの?」
「え? うーん……たしかショクニンガイ、だったとおもうけど」
「なるほど。だとしたら、あまり目立たない路地裏辺りかな。少なくとも陽のあたる場所ではなかったよね?」
「まあ、やけにジメジメしたトコではあったかな。セマかったしオトナはムリかも。……それがどうかしたの? もしかしてアタシ、なにかやっちゃった?」
「ううん、その逆! 高く売れる材料を持ってきてくれたから、参考にしたいと思って」
「え! ホント!?」
素直に瞳をキラキラさせる様子を見て、うんうんと頷いてから手袋を外し、素手で彼女の頭を撫でる。数ヶ月前までは無造作に放ったらかされていた金髪が、いつの間にか上手なシニヨンとして結われているのが嬉しかった。甘やかされることに慣れていないのか、途端に黙ってから深く俯く不器用さを慈しむようにそっと語りかけていく。
「ジーナちゃん、髪の毛まとめるの上手になったね」
「それは……ベツに、ナマエがおしえてくれたコトだし」
「それはそうだけど、一人でここまで出来るんだから、やっぱりジーナちゃんは器用なんだね」
「……ん。まあね」
はにかみながら胸を張る様が愛らしい。ぽんぽんと最後に軽く撫ぜてから、いつもより色をつけた現金を手渡した。ジェームズさんは下町の住人とは思えないくらいケチとは無縁のひとだから、どのような客相手でも気を遣うなと厳命されている。客観的な視点で査定した結果だった。
「え。ホントにいいの!?」
「もちろん。かなり量もあったし、重くて大変だったでしょ。正当な対価だよ」
ジーナちゃんは、パッと華やいだ笑顔で噛み締めるように受け取った後、ぶんぶんと手を振りながら工房を立ち去った。最近またイーストエンドに幼い少女がやって来たと言っていたから、その子のためのご飯や服を調達に行くのかもしれない。
どんなに自分の生活が苦しくとも他者を思いやれる彼女の強さを、わたしは心から尊敬していた。少しでも大人として力になれれば良いのだけど。
「……さて」
この硝子片は、きっとジェームズさんに見せない方が良いだろう。その他の材料と同様に麻袋に詰め直してから、部屋の片隅にあるわたしの荷物に紛れさせた。
今は一旦思考を放棄して、工房の弟子としての役目を果たそう。深く大きく深呼吸をした。
工房の奥、高温の窯がある作業場へと足を踏み入れる。ジェームズさんと目が合ったので黙礼した。長年使い古された工具の鉄臭さと窯の熱気を浴びながら、すっかり身体に馴染んだ自分の椅子に座る。
───ここからは、わたしだけの時間だ。
脳内で描いた作品を形にすべく、今日も今日とて頭と全身を動かしていく。クリムトくんと共に計画を進めるためには全力を尽くさねばならないし、何より私は工房での作業が好きだった。
吹き竿を通じて、熱した真っ赤なガラスに慎重に少しずつ息を吹き込めば、生きているかのようにぐるぐると丸くうねり、やがて設計図通りの形へと変化していく。
細かく砕けた傷だらけのガラスを溶かし、繊細で鮮やかな細工を生み出すなんて魔法のようだと、先日ベリルちゃんが微笑んでくれた顔を思い出した。
「ナマエ」
「はい、どうしましたか? ジェームズさん」
一日の作業を終えた後、私の作ったワイングラスをじっと見つめる背中に問いかける。
「もうワシの力が無くとも、それなりの形にはなるな」
「……それでも私がまだ未熟な半人前であることくらい、ジェームズさんは理解されているでしょう?」
「それはそうだが」
あの硝子片を買い取った当日に離別を匂わされるとは、なんとも背筋が凍るような偶然だった。いつまでもお世話になろうなんて図々しいことは思わないけれど、まだ自分は教育が必要な人間であることくらいは自覚していたから。
「……ジェームズさんは、わたしが此処に来ることは迷惑ですか?」
「迷惑ならとっくに言ってる」
「そう、ですか。なら明日も来ますので、またアドバイスをお願いします!」
「ふん、……仕方がない」
拒絶されなかったことに安堵しつつ、深々と頭を下げてから工房を立ち去っていく。
ジーナちゃんから受け取った硝子片はまず間違いなくジェームズさんが作ったもので、この事実から組み立てられる仮説はいくつかあるだろう。しかし私はサザーランド工房への思い入れがあまりにも深すぎるから、主観的で感情的な結論を出してしまう恐れがあった。
───ジェームズさんの過去、素性、わたしに世話を焼いてくれる理由。それらの謎を、このまま無遠慮に突き止めて良いものだろうか。
馬車で帰宅する途中にも我が家の名探偵を真似て推論を組み立ててみるものの、どうにも上手くいかない。ホームズくんはジェームズさんについて何やら勘づいているようだったし、尋ねれば答えてはくれるだろう。けれど、その優しさに胡座をかいて師匠に対して不誠実な振る舞いをするのは嫌だった。他者のデリケートな部分に踏み込むのであれば、相当の覚悟を持って一対一で臨むべきだろう。
ベーカー街に足を踏み入れてからはなるべく気持ちを切り替えて、221Bのドアを開けた。
ここ数日、名探偵と相棒は事件の捜査に出かけているため、今晩も一人きりだった。真っ暗な部屋の中、暖炉に火をつけようとして手を止める。このまま一人で残っていても思考がマイナスの方向に傾いてしまいそうだから、気分転換に大通りのパブでも行こう。
ホームズくんや御琴羽くんの香りを感じるいつもの店ではなくて、せっかくだし新規開拓でもしようか。そうやって足を向けた先で、わたしは予想外に偶然の再会を果たした。
「……サイモン先生?」
「あら、ミス・ミョウジ。お久しぶりね。お加減はいかが?」
ビスクドールを思わせる透き通った青白い肌が、大衆酒場の鈍い光に照らし出される。グラスを傾けながら目を細める様は優雅で美しく、大英帝国の女性にしては珍しいパンツスタイルを見事に着こなしていた。
彼女───コートニー・サイモンは、約半年前に入院していた頃にお世話になったお医者様の一人だ。この時代に女性のドクターが立派に活躍している様を見て勝手に励まされていたけれど、あの頃は御琴羽くんやワトソン先生が担当医だったから個人的な交流は無かった。それでもこちらの名前を覚えてくれている事実が素直に嬉しい。
「ええ、お陰様で元気です。サイモン先生は……」
「ここは病院の外よ。コートニーで構わないわ」
「ではお言葉に甘えて。コートニーさんは、お仕事帰りですか?」
「そうね。お宅の留学生サマがいないお陰もあって、ただでさえ人手不足なのに余計大変なの」
「あー、それは……わたしが謝罪するのも変ですが、申し訳ないです……」
「いいえ? あなたって本当に素直なのね。少し意地悪を言ってしまったわ」
くすりと微笑んでから、「お詫びに一杯いかが?」とスマートに誘ってきたので瞠目する。正直なところ、コートニーさんからは嫌われていると思っていた。
遠目からこちらを窺う瞳は冷たく鋭い印象だったし、男社会で生きる彼女のポーカーフェイスからは一線を引かれているように感じた。あくまで勘だけれど、周囲の手助けが無いと何も出来ない無力な女と蔑まれているのでは、と予想していたくらいだ。
「ええ、わたしで良ければぜひ」
「あらそう? いえ、あなたが断るとは思っていなかったけれど」
「……もしかして、内心は嫌がっているでしょう、なんて考えてます?」
意外そうに幾度か瞬きを繰り返した後、コートニーさんは口元に上品な笑みを浮かべる。
「正解。けれどお互い様なんじゃない?」
「……苦手だと思われているのでは、と心配はしていましたけど。わたしがコートニーさんの気持ちを勝手に決め付けるのは失礼なことでしたよね。ごめんなさい、せっかく誘ってくださったのに」
「あら、人間なんてそんなものでしょう。他者の思考や感情も、自分にとって都合よく解釈すれば楽だもの。……そういう意味では私もあなたに謝罪しなければいけないわね」
「え?」
「あなたは私を嫌がってない、なんて嘘を吐かれるものだとばかり考えていたの。私の方があなたを見誤っていたみたい」
「……本当に、嫌がってはないんですよ?」
「ええ、どうやらそうみたいね」
コートニーさんはそのまま、近くを通りかかった店員さんに注文をする。アルコールやおつまみを一通り頼んだ後、さらりとわたしに目配せをしてきた。先程までなら遠慮して何も頼まなかったと思うが、互いの胸の内をほんの少しでも曝け出した今ならばと口を開く。
「シェパーズパイもお願いします」
意外そうに瞬く様を見て、負けじと笑顔を作って見つめ返した。本当に居心地が悪ければ、提供にも食べるのにも時間がかかるパイは選ばないでしょうと内心胸を張る。
「もし良かったら食事に付き合ってくれませんか?」
「構わないけれど……。慰めを求める相手が、名探偵じゃなくて私で良いの?」
「慰めはいりませんから。わたし、前からコートニーさんにお仕事の話とか伺いたかったんですよ」
「へえ?」
わたし達の戦場は恐らく似ている。女であるというだけで見下される環境の中、せめて自分の手腕を発揮できるようにと抗っている点で。コートニーさんの方が余程高度な技術を有しているが故に、苦難の度合いは桁違いだろうけれど。
「馴れ合いや傷の舐め合いも必要ありませんよ。お互い、社会的なステータスを取っ払った上で話がしたいなと思いまして」
「それなら、バンジークス家のご夫人が相応しいのではなくて?」
「貴族であることを誇りに思っている人の前で、身分なんてかなぐり捨てて話をしましょう、とはさすがに言えないんですよね。彼女の生き方を否定しかねない物言いですし」
ベリルちゃんは大切な友人だが、だからこそ踏み入れてはいけない領域も承知していた。信頼を築く上で互いの全てを曝け出す必要は無いのだと、教えてくれたのはルームメイト達だったから。
「……あなた、意外とハッキリものを言うのね」
「恐縮です」
くすり、と二人して笑った後に、運ばれてきたワイングラスをカランと鳴らす。透明な硝子が重なる音はいつ聞いても心地好く清々しい。
だが同時に自然と、このパブへ足を踏み入れる原因となったジェームズさんのことを思い出してしまう。師匠の作った硝子の音はもっと繊細で美しいのに、等と。
「それで、ミス・ナマエは何を悩んでいるの?」
「え?」
「此処へ来た時も今も、渋い顔をしていたから」
敢えてはぐらかす選択肢もあったけれど、アルコールで気が緩んだ上に、今まで嫌われていたと思い込んでいた人と距離が縮んだ喜びもあり、躊躇いもなく胸の内を晒せた。
「……そうですね。端的に言えば、恩人に対してどこまで踏み込んで良いものか分からない、といった感じで」
「あなたって、呆れる程に素直なのね」
言葉とは裏腹に喜色を帯びた顔を受けて、思わず瞬きを繰り返す。
「ミス・ナマエを見ていると、娘を思い出すわ。……意外に思うかもしれないけれど」
パブの暗い照明に照らされたコートニーさんは、幼子を見るように静かに目を細めていた。我が子を想う母親の顔をしている、と思った。
「いいえ、むしろ納得しました。だからコートニーさんは強いんですね。守りたい大切なひとがいるから」
「強くなんてないわよ。……せめて、周りに残ってくれた人を取りこぼさないように必死なだけ」
「……分かります、なんて軽率には言えないですけど。誰にとっても完璧で誠実なままでいられる人間なんていないですから」
「そうね。……自分の思考や感情は言葉にしないと他人に伝わらないのだから、たとえ相手を傷付ける結果になっても口にしなければいけない時はあるのよね」
あなたは既に分かっているようだけれど、とコートニーさんは肘をつきながらグラスを傾ける。
「あなた自身が後悔するくらいなら、形にすべき想いは大切になさい。けれど焦りは禁物よ」
「……コートニーさんは、優しいんですね」
「そうやって誰にでもいい顔をしていると、いつか痛い目を見るわ」
「ふふ、肝に銘じます」
無理やりすぐに答えを決めなくても良いのだ、と一見逃避にも思える選択がすんなりと腑に落ちた。わたしはジェームズさんを追い詰めるような真似はしたくないから、今まで通りの距離感で師匠と向き合って、来るべき時に素直な気持ちを語り合おうと思った。
「もうしばらく、自分で考えてから伝えてみます」
「そう」
素っ気なく感じる返事に、仄かに柔らかさが宿っているのをわたしは既に知っていた。つい笑い声を上げながらワインを流し込み、温かなパイを口にしながら、穏やかな夜を過ごしていたわたしはまだ知らなかった。
来るべき時は、思いのほか早く訪れるのだということを。
サザーランド工房の扉を勢いよく開けたのは、すっかり常連さんになった下町の少女だった。ふふんと鼻を鳴らしながら腕を組む様も、奥の窯にて渋い顔をしているであろう師匠も随分と微笑ましい。
「ジーナちゃん、おはよう! 今日もガラスを売りに来てくれたの?」
「まあね。スリするついでにやってきた!」
「そっかそっか。どっちも上手くいってるみたいだね」
わたしは亜双義くんのような正義感がある訳でもないし、幼い女の子がスリとして生きていくことを止められる訳もなかった。現在進行形でこの国が生む負の連鎖をこんな子どもまでもが背負わざるを得ないのは、自分たち大人の、ひいては社会の責任だったから。
「イロのついたガラス! きっとたかーくうれるでしょ?」
「お。紫やピンクは確かに珍しいな……ん?」
ホームズくんお手製の手袋を嵌めつつ、机の上に並べてもらった破片を検分していく。違和感を覚えたのは、それらがやけに精巧で見覚えのある造りをしていたからだった。未だに半人前とはいえ、さすがに師匠が作ったものか否かくらいは即座に判断できる。
いくつかイニシャルらしきアルファベットも刻まれていた───これは恐らく「V」だろう。思い当たるのはバンジークス家あたりだけれど。
深く詮索するつもりはないが、最低限の情報収集くらいはしておきたいと考えながら口を開く。
「ねえジーナちゃん、これはどこで拾ってきたの?」
「え? うーん……たしかショクニンガイ、だったとおもうけど」
「なるほど。だとしたら、あまり目立たない路地裏辺りかな。少なくとも陽のあたる場所ではなかったよね?」
「まあ、やけにジメジメしたトコではあったかな。セマかったしオトナはムリかも。……それがどうかしたの? もしかしてアタシ、なにかやっちゃった?」
「ううん、その逆! 高く売れる材料を持ってきてくれたから、参考にしたいと思って」
「え! ホント!?」
素直に瞳をキラキラさせる様子を見て、うんうんと頷いてから手袋を外し、素手で彼女の頭を撫でる。数ヶ月前までは無造作に放ったらかされていた金髪が、いつの間にか上手なシニヨンとして結われているのが嬉しかった。甘やかされることに慣れていないのか、途端に黙ってから深く俯く不器用さを慈しむようにそっと語りかけていく。
「ジーナちゃん、髪の毛まとめるの上手になったね」
「それは……ベツに、ナマエがおしえてくれたコトだし」
「それはそうだけど、一人でここまで出来るんだから、やっぱりジーナちゃんは器用なんだね」
「……ん。まあね」
はにかみながら胸を張る様が愛らしい。ぽんぽんと最後に軽く撫ぜてから、いつもより色をつけた現金を手渡した。ジェームズさんは下町の住人とは思えないくらいケチとは無縁のひとだから、どのような客相手でも気を遣うなと厳命されている。客観的な視点で査定した結果だった。
「え。ホントにいいの!?」
「もちろん。かなり量もあったし、重くて大変だったでしょ。正当な対価だよ」
ジーナちゃんは、パッと華やいだ笑顔で噛み締めるように受け取った後、ぶんぶんと手を振りながら工房を立ち去った。最近またイーストエンドに幼い少女がやって来たと言っていたから、その子のためのご飯や服を調達に行くのかもしれない。
どんなに自分の生活が苦しくとも他者を思いやれる彼女の強さを、わたしは心から尊敬していた。少しでも大人として力になれれば良いのだけど。
「……さて」
この硝子片は、きっとジェームズさんに見せない方が良いだろう。その他の材料と同様に麻袋に詰め直してから、部屋の片隅にあるわたしの荷物に紛れさせた。
今は一旦思考を放棄して、工房の弟子としての役目を果たそう。深く大きく深呼吸をした。
工房の奥、高温の窯がある作業場へと足を踏み入れる。ジェームズさんと目が合ったので黙礼した。長年使い古された工具の鉄臭さと窯の熱気を浴びながら、すっかり身体に馴染んだ自分の椅子に座る。
───ここからは、わたしだけの時間だ。
脳内で描いた作品を形にすべく、今日も今日とて頭と全身を動かしていく。クリムトくんと共に計画を進めるためには全力を尽くさねばならないし、何より私は工房での作業が好きだった。
吹き竿を通じて、熱した真っ赤なガラスに慎重に少しずつ息を吹き込めば、生きているかのようにぐるぐると丸くうねり、やがて設計図通りの形へと変化していく。
細かく砕けた傷だらけのガラスを溶かし、繊細で鮮やかな細工を生み出すなんて魔法のようだと、先日ベリルちゃんが微笑んでくれた顔を思い出した。
「ナマエ」
「はい、どうしましたか? ジェームズさん」
一日の作業を終えた後、私の作ったワイングラスをじっと見つめる背中に問いかける。
「もうワシの力が無くとも、それなりの形にはなるな」
「……それでも私がまだ未熟な半人前であることくらい、ジェームズさんは理解されているでしょう?」
「それはそうだが」
あの硝子片を買い取った当日に離別を匂わされるとは、なんとも背筋が凍るような偶然だった。いつまでもお世話になろうなんて図々しいことは思わないけれど、まだ自分は教育が必要な人間であることくらいは自覚していたから。
「……ジェームズさんは、わたしが此処に来ることは迷惑ですか?」
「迷惑ならとっくに言ってる」
「そう、ですか。なら明日も来ますので、またアドバイスをお願いします!」
「ふん、……仕方がない」
拒絶されなかったことに安堵しつつ、深々と頭を下げてから工房を立ち去っていく。
ジーナちゃんから受け取った硝子片はまず間違いなくジェームズさんが作ったもので、この事実から組み立てられる仮説はいくつかあるだろう。しかし私はサザーランド工房への思い入れがあまりにも深すぎるから、主観的で感情的な結論を出してしまう恐れがあった。
───ジェームズさんの過去、素性、わたしに世話を焼いてくれる理由。それらの謎を、このまま無遠慮に突き止めて良いものだろうか。
馬車で帰宅する途中にも我が家の名探偵を真似て推論を組み立ててみるものの、どうにも上手くいかない。ホームズくんはジェームズさんについて何やら勘づいているようだったし、尋ねれば答えてはくれるだろう。けれど、その優しさに胡座をかいて師匠に対して不誠実な振る舞いをするのは嫌だった。他者のデリケートな部分に踏み込むのであれば、相当の覚悟を持って一対一で臨むべきだろう。
ベーカー街に足を踏み入れてからはなるべく気持ちを切り替えて、221Bのドアを開けた。
ここ数日、名探偵と相棒は事件の捜査に出かけているため、今晩も一人きりだった。真っ暗な部屋の中、暖炉に火をつけようとして手を止める。このまま一人で残っていても思考がマイナスの方向に傾いてしまいそうだから、気分転換に大通りのパブでも行こう。
ホームズくんや御琴羽くんの香りを感じるいつもの店ではなくて、せっかくだし新規開拓でもしようか。そうやって足を向けた先で、わたしは予想外に偶然の再会を果たした。
「……サイモン先生?」
「あら、ミス・ミョウジ。お久しぶりね。お加減はいかが?」
ビスクドールを思わせる透き通った青白い肌が、大衆酒場の鈍い光に照らし出される。グラスを傾けながら目を細める様は優雅で美しく、大英帝国の女性にしては珍しいパンツスタイルを見事に着こなしていた。
彼女───コートニー・サイモンは、約半年前に入院していた頃にお世話になったお医者様の一人だ。この時代に女性のドクターが立派に活躍している様を見て勝手に励まされていたけれど、あの頃は御琴羽くんやワトソン先生が担当医だったから個人的な交流は無かった。それでもこちらの名前を覚えてくれている事実が素直に嬉しい。
「ええ、お陰様で元気です。サイモン先生は……」
「ここは病院の外よ。コートニーで構わないわ」
「ではお言葉に甘えて。コートニーさんは、お仕事帰りですか?」
「そうね。お宅の留学生サマがいないお陰もあって、ただでさえ人手不足なのに余計大変なの」
「あー、それは……わたしが謝罪するのも変ですが、申し訳ないです……」
「いいえ? あなたって本当に素直なのね。少し意地悪を言ってしまったわ」
くすりと微笑んでから、「お詫びに一杯いかが?」とスマートに誘ってきたので瞠目する。正直なところ、コートニーさんからは嫌われていると思っていた。
遠目からこちらを窺う瞳は冷たく鋭い印象だったし、男社会で生きる彼女のポーカーフェイスからは一線を引かれているように感じた。あくまで勘だけれど、周囲の手助けが無いと何も出来ない無力な女と蔑まれているのでは、と予想していたくらいだ。
「ええ、わたしで良ければぜひ」
「あらそう? いえ、あなたが断るとは思っていなかったけれど」
「……もしかして、内心は嫌がっているでしょう、なんて考えてます?」
意外そうに幾度か瞬きを繰り返した後、コートニーさんは口元に上品な笑みを浮かべる。
「正解。けれどお互い様なんじゃない?」
「……苦手だと思われているのでは、と心配はしていましたけど。わたしがコートニーさんの気持ちを勝手に決め付けるのは失礼なことでしたよね。ごめんなさい、せっかく誘ってくださったのに」
「あら、人間なんてそんなものでしょう。他者の思考や感情も、自分にとって都合よく解釈すれば楽だもの。……そういう意味では私もあなたに謝罪しなければいけないわね」
「え?」
「あなたは私を嫌がってない、なんて嘘を吐かれるものだとばかり考えていたの。私の方があなたを見誤っていたみたい」
「……本当に、嫌がってはないんですよ?」
「ええ、どうやらそうみたいね」
コートニーさんはそのまま、近くを通りかかった店員さんに注文をする。アルコールやおつまみを一通り頼んだ後、さらりとわたしに目配せをしてきた。先程までなら遠慮して何も頼まなかったと思うが、互いの胸の内をほんの少しでも曝け出した今ならばと口を開く。
「シェパーズパイもお願いします」
意外そうに瞬く様を見て、負けじと笑顔を作って見つめ返した。本当に居心地が悪ければ、提供にも食べるのにも時間がかかるパイは選ばないでしょうと内心胸を張る。
「もし良かったら食事に付き合ってくれませんか?」
「構わないけれど……。慰めを求める相手が、名探偵じゃなくて私で良いの?」
「慰めはいりませんから。わたし、前からコートニーさんにお仕事の話とか伺いたかったんですよ」
「へえ?」
わたし達の戦場は恐らく似ている。女であるというだけで見下される環境の中、せめて自分の手腕を発揮できるようにと抗っている点で。コートニーさんの方が余程高度な技術を有しているが故に、苦難の度合いは桁違いだろうけれど。
「馴れ合いや傷の舐め合いも必要ありませんよ。お互い、社会的なステータスを取っ払った上で話がしたいなと思いまして」
「それなら、バンジークス家のご夫人が相応しいのではなくて?」
「貴族であることを誇りに思っている人の前で、身分なんてかなぐり捨てて話をしましょう、とはさすがに言えないんですよね。彼女の生き方を否定しかねない物言いですし」
ベリルちゃんは大切な友人だが、だからこそ踏み入れてはいけない領域も承知していた。信頼を築く上で互いの全てを曝け出す必要は無いのだと、教えてくれたのはルームメイト達だったから。
「……あなた、意外とハッキリものを言うのね」
「恐縮です」
くすり、と二人して笑った後に、運ばれてきたワイングラスをカランと鳴らす。透明な硝子が重なる音はいつ聞いても心地好く清々しい。
だが同時に自然と、このパブへ足を踏み入れる原因となったジェームズさんのことを思い出してしまう。師匠の作った硝子の音はもっと繊細で美しいのに、等と。
「それで、ミス・ナマエは何を悩んでいるの?」
「え?」
「此処へ来た時も今も、渋い顔をしていたから」
敢えてはぐらかす選択肢もあったけれど、アルコールで気が緩んだ上に、今まで嫌われていたと思い込んでいた人と距離が縮んだ喜びもあり、躊躇いもなく胸の内を晒せた。
「……そうですね。端的に言えば、恩人に対してどこまで踏み込んで良いものか分からない、といった感じで」
「あなたって、呆れる程に素直なのね」
言葉とは裏腹に喜色を帯びた顔を受けて、思わず瞬きを繰り返す。
「ミス・ナマエを見ていると、娘を思い出すわ。……意外に思うかもしれないけれど」
パブの暗い照明に照らされたコートニーさんは、幼子を見るように静かに目を細めていた。我が子を想う母親の顔をしている、と思った。
「いいえ、むしろ納得しました。だからコートニーさんは強いんですね。守りたい大切なひとがいるから」
「強くなんてないわよ。……せめて、周りに残ってくれた人を取りこぼさないように必死なだけ」
「……分かります、なんて軽率には言えないですけど。誰にとっても完璧で誠実なままでいられる人間なんていないですから」
「そうね。……自分の思考や感情は言葉にしないと他人に伝わらないのだから、たとえ相手を傷付ける結果になっても口にしなければいけない時はあるのよね」
あなたは既に分かっているようだけれど、とコートニーさんは肘をつきながらグラスを傾ける。
「あなた自身が後悔するくらいなら、形にすべき想いは大切になさい。けれど焦りは禁物よ」
「……コートニーさんは、優しいんですね」
「そうやって誰にでもいい顔をしていると、いつか痛い目を見るわ」
「ふふ、肝に銘じます」
無理やりすぐに答えを決めなくても良いのだ、と一見逃避にも思える選択がすんなりと腑に落ちた。わたしはジェームズさんを追い詰めるような真似はしたくないから、今まで通りの距離感で師匠と向き合って、来るべき時に素直な気持ちを語り合おうと思った。
「もうしばらく、自分で考えてから伝えてみます」
「そう」
素っ気なく感じる返事に、仄かに柔らかさが宿っているのをわたしは既に知っていた。つい笑い声を上げながらワインを流し込み、温かなパイを口にしながら、穏やかな夜を過ごしていたわたしはまだ知らなかった。
来るべき時は、思いのほか早く訪れるのだということを。