19:甘やかな叡智の庭で
世界の中心である華々しい大英帝国には、叡智の結晶と呼ぶべき場所もいくつもある。わたしが今まさに足を運んでいる倫敦大学図書館もその一つだ。
入館の手続きを済ませてから高い天井を見上げ、鼻をくすぐる本の香りに頬を緩ませる。今回は娯楽が目的ではなかったけれど、元にいた時代と何ら変わりない書物の気配が味わえる図書館は好きだった。
かつての苦い思い出が心臓を締め付けても、あの痛みがあったからこそ得られた価値観や思考も確かにあるのだと、わたしはこの世界で知ったから。
真っ青なカーペットを足早に歩きつつ、心当たりのある棚をひょっこりと覗く。真っ先に見つけたのは目的の本ではなく、すっかり知り合いとなった一人の男の子だった。とはいえ、彼もホームズくんと年齢はあまり変わらないのだけれど。
クリムトくんをもう少し幼くした風貌の、ラベンダー色の髪が目を惹く青年。背筋を真っ直ぐ伸ばしながら真剣な顔でページを捲り、時折右手の指先を上品な仕草で顎に当てていた。
「……バロックくん?」
「ッ! ミス・ミョウジ、ご無沙汰しています」
不意をつかれたように顔を上げてから礼をする様を見て、つい眉を下げてしまう。
「わたし相手にそんなに畏まらなくても良いのに」
「兄と義姉の大切な御友人ですから。何かお探しですか?」
クリムトくんとベリルちゃんを心から敬愛する言葉だからこそ、それ以上口を挟むことも出来なかった。法学に関する書物が上までびっしりと詰まった棚を見上げつつ、お言葉に甘えて良いものかと首をゆっくり横に傾ける。
「うん、刑事裁判への知見を深められそうな書籍を探してて。出来れば過去の具体的な事例が載っているものが良いんだけど……。バロックくん、何かオススメとかあるかな?」
「成程。……でしたら、そうですね。こちらはいかがでしょうか」
バロックくんは元々読んでいた本を小脇に抱えてから、天井に程近い最上部に位置する背表紙を長い指先で捕らえた。ハードカバーに覆われた分厚いそれを恭しく受け取り、その場で目次や本文を確認する。タイトルや内容を見ても中級者向けといった具合であり、今の自分にはちょうど良さそうだった。
「……うん、まさにバッチリだから借りてみるね。ありがとう、さすがバロックくん」
「いえ、そんな。私も入学したての頃によく使った文献だったので。ミス・ミョウジは様々な分野の造詣が深いと伺っていたので、お役に立てるか少し不安でしたが」
「いやいや。わたしなんて広く浅く色々手を出しすぎてるだけだから」
「ご謙遜を。近頃スコットランドヤードにも捜査協力を頼まれていると耳にしましたよ」
つい頬をかきつつ目線を落としてしまう。ホームズくんの口車に乗せられる形で、グレグソンさんを通じて筆跡鑑定の依頼を受け始めたのは確かに事実だった。科学捜査さえ整備されていない時代に部外者が協力できる体制を整えるのはそれ相応の苦労があった筈なのに。返したい恩が毎日どんどん積み重なっていくから、たとえ心無い言葉を浴びる機会が増えても、努力することは苦じゃないと強く思えた。
「わたしの実力というより、周りのひとに恵まれているお陰だから。クリムトくんの口添えもあったみたいだし」
「……そういえば、本日は兄と会う予定がおありなんですよね?」
「そうそう。新聞社のメンバーとしてアポを取っているから、その前に改めて勉強しなきゃとも思って。バロックくん、邪魔しちゃってごめんね」
「いえ、むしろお会い出来て良かったです。……その、ミス・ミョウジ」
「うん。どうしたの?」
「…………、これからも兄のことをよろしくお願いします」
どこか神妙な面持ちを浮かべた後、それらを掻き消すように深々と頭を下げてくれる。お辞儀に隠された真意が明確には分からなかったけれど、未来ある若者から言葉を託されて覚悟を決められない程に腐ってはいなかった。
「もちろん。バロックくんも、何かあればいつでも声をかけてね」
大志を抱く青年は、ゆるりと背筋を伸ばした後あどけなく照れくさそうに微笑む。クリムトくんのように大英帝国の法廷で活躍したい、とかつて打ち明けてもらった夢を大切に思い返しつつ、去り際には固い握手を交わした。
「そういえば、午前中にバロックくんに会ったよ。司書さんも顔負けのレファレンスをしてもらっちゃった」
いつもよりカジュアルな服装に身を包んだクリムトくんが、瞬く間に花が咲くように柔らかく笑んだ。自分が褒められた時よりもずっと嬉しそうな様子が微笑ましく、わたしもまた頬を緩ませる。
取材という名目で狭い個室を使っているけれど、司法界を背負う名門貴族の当主にかかればどのような場所も豪華なお屋敷のような風格が漂うのだから流石だった。
「そうか。貴女に大層感心していたから、バロックもさぞ喜んだだろう」
「やっぱりあれこれ吹き込んだのはクリムトくんでしたか」
「一つ訂正をしておこうか。私だけではなく、妻やグレグソンもだ」
「まあ……照れるけど。わたしが目立つことで、少しでもクリムトくんから目を逸らせていれば良いんだけどね」
バンジークス家を狙う巨大な悪意の正体は、未だに分からず終いだった。目の前の友人は薄らと推測はしているらしいが、それを打ち明けられる程に確証を得ている訳ではないと言う。
「さてクリムトくん、本題に入ろうか?」
「ふむ。まずはインク販売の件だが、予想通り順調だ。ナマエの名前も貴族社会には随分と浸透しただろう」
「ありがとう。こっちは新聞社で世論調査をする案が何とか通りそうかな。それとなくわたし達の味方は増やしているつもりだけど、表立って動きすぎると目をつけられそうなのが難しいね」
「それでいい。友人に危害が及ぶのは本意ではないからな。本来はここまで巻き込むつもりも無かったんだが……」
「わたしが自らの意思で出来ることをしたいだけだから。クリムトくんのためっていうより、自分で成果を上げて出世したいのも大きな理由だし」
「……勿論分かっている。が、何かあれば必ず連絡してくれ」
司法界だけでなく貴族社会全体に蔓延る巨大な課題。それこそが権力者の私利私欲による汚職だ。イーストエンドの存在が象徴するように、わたしを刺した犯人が世間に公表されなかったように。社会的な弱者を搾取することで保たれている栄光がこの国にも数多くある。
わたしが元いた時代だって同じようなものだった。だからこそ社会的強者に対抗すべく密かに様々な計画を練っている訳で。
わたしが職人としてそれなりの地位を得るために動くことも、警察への捜査協力者として協力することも、新聞社の記者として民意を味方につける働きかけをすることも、全てはそのためだった。
しかし、目の前の友人はあまりにも清廉潔白で判官贔屓すぎるから密かに心配だった。いつか一人きりで全てを抱え込んで、心が壊れてしまうのではないかと。だからこそ今出来ることは何でもしておこうと改めて思えたのだけれど。
「ねえ、クリムトくん」
「何だ、ナマエ?」
「……午前中バロックくんから勧めてもらった本を読んでたんだけど、証拠隠滅や証言偽装を防ぐための方策について少し考えてて」
「ほう」
温かなブルーアイの色がサッと変わる。やはり責務に対して真摯に向き合うクリムトくんは素敵だなと思う。
たとえ的外れなことであろうとも真剣に耳を傾けてくれると知っているから、何も恐れずに自分の考えを口にすることが出来た。
「裁判長も検事も弁護士も、今や誰が不正を働いているか分からない状態だって言ってたでしょ? ならその三すくみにさえならなければ、多少の抜け穴は作れるんじゃないかと思って。……たとえば、検事側が正式に召喚した証言者なら例外的に裁判で異議を唱えられるとか。どうかな?」
「成程。現状は裁判内容に異議を申し立てられるのは検事と弁護士のみ。第三者を協力者として仕立てるのは実に良い案だが……、対等な立場として扱うことを明記した法案は問答無用で却下されるだろうな」
「うーん、だよね。素人意見で申し訳ない」
「いや、そこに抜け道があるのは確かに事実なんだ。……私の方でも改めて案を煮詰めるからまた話をしよう、ナマエ」
「うん、ぜひ」
「そういえばこちらも、ガラス細工のデザインについて提案があるのだが───」
その後も小一時間ほど、飽きることなく今後の計画やアイデア出しをした。クリムトくんも夕方には中央刑事裁判所 で仕事があると言うし、わたしもスコットランドヤードへと赴く用事があったからお互い馬車に乗って行くことにする。
「……ナマエ」
わたしの目的地が間近に迫ったところで、クリムトくんに名前を呼ばれる。いつになく弱々しい声だったからこそ、いつものように明るく答えた。
「なに? クリムトくん」
「……もしもの話だが」
「うん」
「私が貴女さえも守れなくなった時は、容赦なく見捨ててくれて構わない」
「もしもそんな時が訪れたら。……その時は、わたしがあなた達を守るよ」
馬車が止まったので一人で降りた。ひどく驚いた様子の友人に最大限の笑顔を向けていく。
「またね、クリムトくん」
「……ッ! ああ、また会おう。ナマエ」
窓越しに目が合った。硝子一枚越しに隔てられた距離の中、わたしはこれからも彼に向けて手を差し伸べ続けようと決意する。たとえいつか、袂を分かつことになろうとも。
そのまま堂々と背筋を伸ばしつつヤードへと向かった。この社会の闇へ立ち向かう検事に対する尊敬の念を込めて。
「ナマエさん! お疲れ様です」
身分証明を含めた手続きを終えた後、真っ先に署の中で出迎えてくれたのはグレグソンさんだった。相変わらず英国紳士としての振る舞いがスマートで、お辞儀さえも優雅に感じる。バンジークス家の面々とはまた種類の異なる上品さだ。
「お疲れ様です、グレグソンさん! 本日もよろしくお願いします」
「ええ、こちらこそ。今回ご協力頂く事件の捜査概要については、また後程ご説明しますので……」
「はい、ありがとうございます」
脳内で過去に尽力した事件について洗い出していると、先導してくれていたグレグソンさんがふと立ち止まる。どうしたのだろうと隣を見遣れば、困ったように眉を下げている表情が見えた。
「……その、ナマエさん」
「はい、何でしょう?」
「不躾で申し訳ないのですが、……何か悩んでいらっしゃいますか?」
「え?」
本気で驚いて思考も顔も止まってしまった。こちらの様子を窺うように細まるグレーアイに、今わたしはどのように映っているのだろうか。
人間は生きていれば常に悩みを抱え続ける生き物だ。実際いくら周りに恵まれているとはいえ、人間関係だって仕事だって今後のことだって不安は尽きない。けれどグレグソンさんが言いたいのはそういう漠然としたことではないのだろうなあと、首を横に傾けながら思案する。
己の責務に対して常に真っ直ぐなひとだから。目の前で何やら困っている様子の知人を放っておけないのだろう。
「……悩んでいる、と言いますか」
「はい」
「勝手に一人で色々なことについて考え込んでしまっているみたいで」
「成程。詳しくお話を伺いたいところなのですが、この後に捜査もありますので」
「はい」
「終わった後にでも、一緒にご飯へ行きませんか」
ぱちりと瞬きを繰り返しながら、グレグソンさんの柔らかな声を受け止めた。ホームズくんも御琴羽くんもまだ調査のため帰宅しておらず、早くとも会えるのは明日になるだろうから願ったり叶ったりではあるのだけれど。それでも不思議だった。
「グレグソンさんは何故、そんなにいつも優しくしてくださるんですか?」
「……別にそんなことはないんですがね。私のこの身勝手な振る舞いを、優しさと解釈してくださるナマエさんの方こそ優しいなと思いますよ」
身勝手だなんて、グレグソンさんからかけ離れた言葉だと感じたけれど。自分をどう解釈するかは個々人の自由なのだから、口を出すのもどうかと思うし。等とぐるぐる考えていると仄かに笑われた気配がした。
「私は、貴女の傍にいられるだけで充分ですから。……それでは行きましょうか」
言葉の真意を問う前に颯爽と歩いて行ってしまった。わたしがすぐ追いつける程の速度なのに、何故だかいつもより距離が遠くなったようにも思える。
心の内を全て曝け出すことだけが信頼の証でないと分かってはいても少し寂しくて、弱気な心がそうっと顔を出してしまった。これ以上踏み込む勇気もないわたしは大層臆病者で、けれどグレグソンさんが引いた境界線を無視するような無礼者にもなりたくなかった。
───あの時もっとあなた達に踏み込んでいれば良かった。そんな後悔をするよりも前に、自分なりの全力を尽くさなければならないのに。
わたしは今日も、彼らの意思を繋ぐべく不器用に生き続けることしか出来なかった。
入館の手続きを済ませてから高い天井を見上げ、鼻をくすぐる本の香りに頬を緩ませる。今回は娯楽が目的ではなかったけれど、元にいた時代と何ら変わりない書物の気配が味わえる図書館は好きだった。
かつての苦い思い出が心臓を締め付けても、あの痛みがあったからこそ得られた価値観や思考も確かにあるのだと、わたしはこの世界で知ったから。
真っ青なカーペットを足早に歩きつつ、心当たりのある棚をひょっこりと覗く。真っ先に見つけたのは目的の本ではなく、すっかり知り合いとなった一人の男の子だった。とはいえ、彼もホームズくんと年齢はあまり変わらないのだけれど。
クリムトくんをもう少し幼くした風貌の、ラベンダー色の髪が目を惹く青年。背筋を真っ直ぐ伸ばしながら真剣な顔でページを捲り、時折右手の指先を上品な仕草で顎に当てていた。
「……バロックくん?」
「ッ! ミス・ミョウジ、ご無沙汰しています」
不意をつかれたように顔を上げてから礼をする様を見て、つい眉を下げてしまう。
「わたし相手にそんなに畏まらなくても良いのに」
「兄と義姉の大切な御友人ですから。何かお探しですか?」
クリムトくんとベリルちゃんを心から敬愛する言葉だからこそ、それ以上口を挟むことも出来なかった。法学に関する書物が上までびっしりと詰まった棚を見上げつつ、お言葉に甘えて良いものかと首をゆっくり横に傾ける。
「うん、刑事裁判への知見を深められそうな書籍を探してて。出来れば過去の具体的な事例が載っているものが良いんだけど……。バロックくん、何かオススメとかあるかな?」
「成程。……でしたら、そうですね。こちらはいかがでしょうか」
バロックくんは元々読んでいた本を小脇に抱えてから、天井に程近い最上部に位置する背表紙を長い指先で捕らえた。ハードカバーに覆われた分厚いそれを恭しく受け取り、その場で目次や本文を確認する。タイトルや内容を見ても中級者向けといった具合であり、今の自分にはちょうど良さそうだった。
「……うん、まさにバッチリだから借りてみるね。ありがとう、さすがバロックくん」
「いえ、そんな。私も入学したての頃によく使った文献だったので。ミス・ミョウジは様々な分野の造詣が深いと伺っていたので、お役に立てるか少し不安でしたが」
「いやいや。わたしなんて広く浅く色々手を出しすぎてるだけだから」
「ご謙遜を。近頃スコットランドヤードにも捜査協力を頼まれていると耳にしましたよ」
つい頬をかきつつ目線を落としてしまう。ホームズくんの口車に乗せられる形で、グレグソンさんを通じて筆跡鑑定の依頼を受け始めたのは確かに事実だった。科学捜査さえ整備されていない時代に部外者が協力できる体制を整えるのはそれ相応の苦労があった筈なのに。返したい恩が毎日どんどん積み重なっていくから、たとえ心無い言葉を浴びる機会が増えても、努力することは苦じゃないと強く思えた。
「わたしの実力というより、周りのひとに恵まれているお陰だから。クリムトくんの口添えもあったみたいだし」
「……そういえば、本日は兄と会う予定がおありなんですよね?」
「そうそう。新聞社のメンバーとしてアポを取っているから、その前に改めて勉強しなきゃとも思って。バロックくん、邪魔しちゃってごめんね」
「いえ、むしろお会い出来て良かったです。……その、ミス・ミョウジ」
「うん。どうしたの?」
「…………、これからも兄のことをよろしくお願いします」
どこか神妙な面持ちを浮かべた後、それらを掻き消すように深々と頭を下げてくれる。お辞儀に隠された真意が明確には分からなかったけれど、未来ある若者から言葉を託されて覚悟を決められない程に腐ってはいなかった。
「もちろん。バロックくんも、何かあればいつでも声をかけてね」
大志を抱く青年は、ゆるりと背筋を伸ばした後あどけなく照れくさそうに微笑む。クリムトくんのように大英帝国の法廷で活躍したい、とかつて打ち明けてもらった夢を大切に思い返しつつ、去り際には固い握手を交わした。
「そういえば、午前中にバロックくんに会ったよ。司書さんも顔負けのレファレンスをしてもらっちゃった」
いつもよりカジュアルな服装に身を包んだクリムトくんが、瞬く間に花が咲くように柔らかく笑んだ。自分が褒められた時よりもずっと嬉しそうな様子が微笑ましく、わたしもまた頬を緩ませる。
取材という名目で狭い個室を使っているけれど、司法界を背負う名門貴族の当主にかかればどのような場所も豪華なお屋敷のような風格が漂うのだから流石だった。
「そうか。貴女に大層感心していたから、バロックもさぞ喜んだだろう」
「やっぱりあれこれ吹き込んだのはクリムトくんでしたか」
「一つ訂正をしておこうか。私だけではなく、妻やグレグソンもだ」
「まあ……照れるけど。わたしが目立つことで、少しでもクリムトくんから目を逸らせていれば良いんだけどね」
バンジークス家を狙う巨大な悪意の正体は、未だに分からず終いだった。目の前の友人は薄らと推測はしているらしいが、それを打ち明けられる程に確証を得ている訳ではないと言う。
「さてクリムトくん、本題に入ろうか?」
「ふむ。まずはインク販売の件だが、予想通り順調だ。ナマエの名前も貴族社会には随分と浸透しただろう」
「ありがとう。こっちは新聞社で世論調査をする案が何とか通りそうかな。それとなくわたし達の味方は増やしているつもりだけど、表立って動きすぎると目をつけられそうなのが難しいね」
「それでいい。友人に危害が及ぶのは本意ではないからな。本来はここまで巻き込むつもりも無かったんだが……」
「わたしが自らの意思で出来ることをしたいだけだから。クリムトくんのためっていうより、自分で成果を上げて出世したいのも大きな理由だし」
「……勿論分かっている。が、何かあれば必ず連絡してくれ」
司法界だけでなく貴族社会全体に蔓延る巨大な課題。それこそが権力者の私利私欲による汚職だ。イーストエンドの存在が象徴するように、わたしを刺した犯人が世間に公表されなかったように。社会的な弱者を搾取することで保たれている栄光がこの国にも数多くある。
わたしが元いた時代だって同じようなものだった。だからこそ社会的強者に対抗すべく密かに様々な計画を練っている訳で。
わたしが職人としてそれなりの地位を得るために動くことも、警察への捜査協力者として協力することも、新聞社の記者として民意を味方につける働きかけをすることも、全てはそのためだった。
しかし、目の前の友人はあまりにも清廉潔白で判官贔屓すぎるから密かに心配だった。いつか一人きりで全てを抱え込んで、心が壊れてしまうのではないかと。だからこそ今出来ることは何でもしておこうと改めて思えたのだけれど。
「ねえ、クリムトくん」
「何だ、ナマエ?」
「……午前中バロックくんから勧めてもらった本を読んでたんだけど、証拠隠滅や証言偽装を防ぐための方策について少し考えてて」
「ほう」
温かなブルーアイの色がサッと変わる。やはり責務に対して真摯に向き合うクリムトくんは素敵だなと思う。
たとえ的外れなことであろうとも真剣に耳を傾けてくれると知っているから、何も恐れずに自分の考えを口にすることが出来た。
「裁判長も検事も弁護士も、今や誰が不正を働いているか分からない状態だって言ってたでしょ? ならその三すくみにさえならなければ、多少の抜け穴は作れるんじゃないかと思って。……たとえば、検事側が正式に召喚した証言者なら例外的に裁判で異議を唱えられるとか。どうかな?」
「成程。現状は裁判内容に異議を申し立てられるのは検事と弁護士のみ。第三者を協力者として仕立てるのは実に良い案だが……、対等な立場として扱うことを明記した法案は問答無用で却下されるだろうな」
「うーん、だよね。素人意見で申し訳ない」
「いや、そこに抜け道があるのは確かに事実なんだ。……私の方でも改めて案を煮詰めるからまた話をしよう、ナマエ」
「うん、ぜひ」
「そういえばこちらも、ガラス細工のデザインについて提案があるのだが───」
その後も小一時間ほど、飽きることなく今後の計画やアイデア出しをした。クリムトくんも夕方には
「……ナマエ」
わたしの目的地が間近に迫ったところで、クリムトくんに名前を呼ばれる。いつになく弱々しい声だったからこそ、いつものように明るく答えた。
「なに? クリムトくん」
「……もしもの話だが」
「うん」
「私が貴女さえも守れなくなった時は、容赦なく見捨ててくれて構わない」
「もしもそんな時が訪れたら。……その時は、わたしがあなた達を守るよ」
馬車が止まったので一人で降りた。ひどく驚いた様子の友人に最大限の笑顔を向けていく。
「またね、クリムトくん」
「……ッ! ああ、また会おう。ナマエ」
窓越しに目が合った。硝子一枚越しに隔てられた距離の中、わたしはこれからも彼に向けて手を差し伸べ続けようと決意する。たとえいつか、袂を分かつことになろうとも。
そのまま堂々と背筋を伸ばしつつヤードへと向かった。この社会の闇へ立ち向かう検事に対する尊敬の念を込めて。
「ナマエさん! お疲れ様です」
身分証明を含めた手続きを終えた後、真っ先に署の中で出迎えてくれたのはグレグソンさんだった。相変わらず英国紳士としての振る舞いがスマートで、お辞儀さえも優雅に感じる。バンジークス家の面々とはまた種類の異なる上品さだ。
「お疲れ様です、グレグソンさん! 本日もよろしくお願いします」
「ええ、こちらこそ。今回ご協力頂く事件の捜査概要については、また後程ご説明しますので……」
「はい、ありがとうございます」
脳内で過去に尽力した事件について洗い出していると、先導してくれていたグレグソンさんがふと立ち止まる。どうしたのだろうと隣を見遣れば、困ったように眉を下げている表情が見えた。
「……その、ナマエさん」
「はい、何でしょう?」
「不躾で申し訳ないのですが、……何か悩んでいらっしゃいますか?」
「え?」
本気で驚いて思考も顔も止まってしまった。こちらの様子を窺うように細まるグレーアイに、今わたしはどのように映っているのだろうか。
人間は生きていれば常に悩みを抱え続ける生き物だ。実際いくら周りに恵まれているとはいえ、人間関係だって仕事だって今後のことだって不安は尽きない。けれどグレグソンさんが言いたいのはそういう漠然としたことではないのだろうなあと、首を横に傾けながら思案する。
己の責務に対して常に真っ直ぐなひとだから。目の前で何やら困っている様子の知人を放っておけないのだろう。
「……悩んでいる、と言いますか」
「はい」
「勝手に一人で色々なことについて考え込んでしまっているみたいで」
「成程。詳しくお話を伺いたいところなのですが、この後に捜査もありますので」
「はい」
「終わった後にでも、一緒にご飯へ行きませんか」
ぱちりと瞬きを繰り返しながら、グレグソンさんの柔らかな声を受け止めた。ホームズくんも御琴羽くんもまだ調査のため帰宅しておらず、早くとも会えるのは明日になるだろうから願ったり叶ったりではあるのだけれど。それでも不思議だった。
「グレグソンさんは何故、そんなにいつも優しくしてくださるんですか?」
「……別にそんなことはないんですがね。私のこの身勝手な振る舞いを、優しさと解釈してくださるナマエさんの方こそ優しいなと思いますよ」
身勝手だなんて、グレグソンさんからかけ離れた言葉だと感じたけれど。自分をどう解釈するかは個々人の自由なのだから、口を出すのもどうかと思うし。等とぐるぐる考えていると仄かに笑われた気配がした。
「私は、貴女の傍にいられるだけで充分ですから。……それでは行きましょうか」
言葉の真意を問う前に颯爽と歩いて行ってしまった。わたしがすぐ追いつける程の速度なのに、何故だかいつもより距離が遠くなったようにも思える。
心の内を全て曝け出すことだけが信頼の証でないと分かってはいても少し寂しくて、弱気な心がそうっと顔を出してしまった。これ以上踏み込む勇気もないわたしは大層臆病者で、けれどグレグソンさんが引いた境界線を無視するような無礼者にもなりたくなかった。
───あの時もっとあなた達に踏み込んでいれば良かった。そんな後悔をするよりも前に、自分なりの全力を尽くさなければならないのに。
わたしは今日も、彼らの意思を繋ぐべく不器用に生き続けることしか出来なかった。