※大学生荒北さんと小学生の女の子


ぼたぼたと、鈍臭い音を立てて降り注ぐ雨粒が視界を遮っていた。ぬるま湯に浸っているかのような蒸し暑さに耐え切れず、荒北は手の甲で乱暴に額の汗を拭う。折り畳み傘の中で不恰好に身体を丸めながらも、スニーカーに染み出した雨水の不快さに大きく顔を顰めた。

雨はまだ、止みそうにない。

訳もなく心が粟立つ。抱えきれない苛立ちが、頭のてっぺんから爪先まで満ちていくような感覚。

梅雨は嫌いだ。思い出さなくて良いことばかり脳裏に浮かんでは消えていく。大学生になり、肉体的には大人になってもやはり俺は精神的に未熟で、情けないガキでしかないのだ。

今朝実家からの電話をとる時にも、叱咤の言葉を予想して内心舌打ちしたものだった。部活ばかりやっていて勉強は大丈夫なの。ご飯はしっかり食べなきゃだめよ。お友達とは上手くやっているの。降り注ぐ生温い言葉の数々に生返事をする息子に呆れたのか、母親は最後にひとつ、ぽんと爆弾を落としていった。

「靖友。今日は一日、名前ちゃんの面倒を見てちょうだい」



徒歩二十分の道のりを経て、ようやく目的地に到着した。視線を滑らせて辺りを観察すると、屋根がついた駅前のベンチにちょこんと座る姿を見つける。荒北は深々と溜息を吐いて、その小さな子どもに大股で歩み寄った。途端にぱっと表情を明るくしたチビ助は、膝に抱えていた荷物をいったんベンチに置き、あっという間に荒北の足元に駆け寄ってくる。

「やすともくん、おひさしぶりです!」
「……オウ。とっとと行くぞ」
「はい!」

嬉しさを隠しきれない様子でソワソワするチビに背を向けて、荒北はベンチに置かれていた荷物を手に取る。見た目に反して軽い。必要な物が全て入っているのか、疑わしく思ってしまうほどだった。

「ご、ごめんなさい! わたしがもちます!」
「ハイハイ。ガキは黙ってろ」

荒北は、自身の腰あたりに位置する頭を軽くはたく。もちろん本気なわけはない。そこまで大人気ないつもりはないのだ。

「ありがとう、です。あの、やすともくん」
「ン、なんだヨ」
「い、いっしょの傘に、入ってもいいですか……?」

怯えている、というよりは遠慮している匂いだ。顔を赤らめたまま俯くガキをちらりと一瞥して、荒北は言った。

「ならもっと近くに寄れ。名前」
「は、はいっ」

自分に対して打算も悪意も恐怖も何ももたない相手は、これだから調子が狂うのだ。おずおずと足元に近寄ってきたちっこい身体から漂う、柔らかくて甘い香りが鼻を擽った。その瞬間、抑え込んでいた苛立ちから少しだけ目を逸らしていられたことに荒北自身は気付いていなかったのか。はたまた目を逸らしていただけなのか。

このチビの名前は、苗字名前という。母親の知り合いの娘で、荒北が中学生の頃には彼女とその母親が家に遊びに来てよく顔を合わせていたものだった。
家の裏庭で素振りをしたり、部屋で教本を読む荒北の横にちょこんと座っては、いつもニコニコ笑い、時折安心したように背中を預けて眠るのだ。アイツらもこれくらい大人しけりゃ楽なのになァ、と妹と比較して本気で考えていたような気もする。

しかし、中学で肘を壊して逃げるように箱根学園へ進学してからは全く会っていなかったし、コイツだって俺のことなんか忘れているモンだと思ってた。実際、俺自身も忘れていたくらいだ。

「ひろい、お部屋ですね」
「オマエから見りゃどこでも広いだろ。おら、テキトーに座れ」
「し、しつれいいたします……」
「じゃ、少し待ってろ」

部屋に着いてからずっと、小さい背中を更にまるく縮こめていた名前は、ハッとしたように勢いよく立ち上がる。

「あ、あの! わたし、お茶いれられます! 家事はがんばって修行したんです」
「修行だァ? つか別にいい。初めて使う台所だと勝手が分かんねエだろ」
「う……。それじゃ、やすともくんがいれるところ、横からみてていいですか?」
「構わねーケド……。今時の小学生は家事の修行すんのが当たり前なワケ? てか何のための修行だよ」
「……は、はなよめ修行、です」
「ふーん。ガキのくせにマセてんなァ」

昔と変わらず、俺の背中にひっついてはいちいち表情をキラキラさせるモンだから、その度に胸の奥がムズムズするような感覚に襲われる。だから俺ァ、自分を真っ直ぐに見つめてくる視線が大の苦手なんだ。

「やすともくん。きょうは、自転車で走りにいかないんですか?」

部屋の中を一通り見て回ってから、こてんと首を傾げてチビが言った。心の奥底を引っ掻き回されるような不快感に、荒北はぐっと眉を顰める。

「うるせエ。外見りゃ分かんだろ、雨の時にゃ走んねえヨ」
「……晴れていれば、太陽がでていれば、やすともくんは走ってくれましたか?  わたしに、その姿をみせてくれましたか?」

拙く回りくどい言葉だからこそ、心にくるものがあった。
そしてぼんやりと思い出す。高校の頃は、雨だろうがなんだろうがひたすらに外を走り回っては、身体を冷やすなと東堂のヤツに怒られてたっけな。僅かばかりの郷愁を感じてしまった。俺も年とったっつーことか。

「走らねーヨ。……オマエの前じゃ、特にな」

そうですか、ごめんなさい。名前は、他人行儀な声音でそう小さく呟いた。それからすぐ夕飯を作ろうと意気込み始めた小さな笑顔を見て、荒北はほっと安堵する。子どもに泣かれるのは、やはり苦手だ。



荒北は思い出す。電話口で、痛ましそうな声を上げていた母親が口にしていた内容を。

「名前ちゃん、あなたに会いに行ったみたいなのよ」
「ハァ?  俺に?」
「……ご両親がね、離婚することになったのよ。それでショックだったみたい」
「ふーん。……ったく、俺に何も予定が無くて良かったなァ。で、俺はなにすりゃ良いんだヨ」
「ふふ、別に何もしなくて良いわ。昔みたいに、……ただ傍にいてあげるだけで良いの。それで、最後は抱き締めてあげてね」
「するか」
「はいはい。……また今度、家に帰ってらっしゃい。靖友の大好きな唐揚げを作って待ってるから」


名前とスーパーに行って、夕飯の食材を手に入れて帰ってきた。
買い物の最中、迷いなく商品を籠に入れていく様子に感心しつつ、棚の上にある物は俺が取ってやったりした。その度照れ臭そうに俯く様子は、まァ世間一般的な愛らしい子どもっつー感じだった。

そして現在。目の前でカリカリと香ばしく揚がっていく鶏肉に、口の中で唾液がじわりと溢れ始めている。狐色より更に深みを増した褐色の衣、皮までしっかりついた大振りなサイズ。昔よく実家で食べていたそれと酷似していて、期待値はぐんと高まる。
ガキっぽく摘み食いをしようとした俺を見て、名前は安心したように笑っていた。曰く、俺の好物であることを母親から聞いていたのだとか。油の処理すら完璧にこなす姿に何も言えないまま、俺は横でもそもそと唐揚げを口にしていた。とても懐かしい味がした。

その後、二人でテレビを見ながら夕飯を食べ、各々で風呂に入った。一緒に入るかと軽い気持ちで聞いたところ、予想通り顔を真っ赤にしながらぶんぶんと首を横に振っていた。俺は笑いながら、慌てたように着替えを準備する名前に背を向けて風呂場へ向かったのだった。


「明日、迎えに来るってヨ。オマエの両親」
「……ふたりとも、来てくれるんですか?」
「俺はそう聞いたケド」
「ありがとう、ございます。……それと、まきこんでしまって、ごめんなさい。やすともくん」
「別にィ。……つか、他に行くとこ無かったわけェ?」
「行けるところは、他にもありました。でも、行きたいところはやすともくんの家だったんです」

二人して別々の布団に寝っ転がりながら、俺たちは背を向けて言葉を交わす。顔が見えないからこそ、言いたいことが素直に言えた。

「わたし、一年前の夏、見にいきました。やすともくんのインターハイ」
「……アッそう。俺カッコ悪かっただろ」
「だれよりもステキでした。やっぱり、やすともくんは昔から変わらないんだと思いました。バットをもって、ボールをさわって、グローブをはめてキラキラしていた、あの時と」

ぐっと息が詰まる。しかし、先ほど感じたような不快感は覚えない。自分の心と真正面から向き合うような感覚がして、じわりと額に汗が滲む。

「昔っからガキのままなんだよなァ。俺も」
「そんなことないです。やすともくんはずっと、わたしのヒーローでした」
「……あんがとネ、名前」

そして、荒北は言った。明かりのない暗闇の中に、そっと心の内を吐露する。

「俺さァ、一ヶ月前にあるヤツを怪我させたんだヨ。オマエくらいの妹がいた、男子高校生だったか」
「……」

言葉はなくとも、そっとうなずく気配がした。変に何か喚かれるより余程有難い。

「はっきり言えば向こうが悪かった。交通ルールも知らないまま原チャをブッ飛ばして、ロードに乗る俺にイチャモンつけてきたんだヨ」

パツパツのパンツとかカッコ悪ぃ、自転車が何で車道を走るんだよバーカ。等と得意げに鼻を鳴らした学ランのガキを、俺は相手にしなかった。

「俺が応えないって分かった途端、今度は勝手に勝負をしかけて、一人でかっ飛ばしていきやがった。……運悪く、そこの交差点は車通りも多くてよく事故が起こる難所だったんだなァ。案の定、左から突然現れたトラックに衝突して、バーンだ」

幸いなことに、ソイツの命に別状は無かった。

「そしたらいきなり、ソイツの妹が血相変えて飛んできたんだヨ。それで俺を見て言うんだ。人殺しってな」

深くは無かったものの、血の量が多かったから勘違いしたのだろう。兄の方も気を失っていたし。そういや近くに小学校があるんだっけな、とぼんやり頭の隅で考えてから、救急車を呼んで、俺は病院まで付き添った。

その日から俺は、自転車に乗るのが怖くなった。

「はじめは普通に走れるんだヨ。でも、ペダルを踏んで加速しようとすると、途端に足が竦む。……はは、情けねエよな」

じわりと、枕がなにかで濡れている。夜でも湿気が凄えから、汗でもかいてんのか。……本当に、情けねえ。

「やすともくん」

背中にぴったりと張り付いた柔らかな温み。ちっこくて、けれどどこか頼もしささえ感じるその背中を、俺は今日改めて知ってしまった。

「がんばったね。つらかったね。……いい子、いい子。だいじな子。やすともくんは、わたしにとって、世界でいちばん、たいせつな人だよ」

短い腕を一生懸命俺の腹に回しながら、とんとんとリズムに合わせて掌を寄せてくれる。その柔らかな熱に、喉の奥からじわりと滲む激情に駆られ、俺はそっと嗚咽を押し殺した。枕が濡れてんのは、汗なんかじゃなかった。泣いてんだ、俺。……ほんと、情けねえな。

その夜は、名前に抱き締められながらそっと眠りに落ちた。深くて優しい、長い長い夜だった。


次の日の朝。お互い照れ臭そうに顔を見合わせながら、名前の作った朝食を食べた。お腹に優しい味噌汁と焼き魚。文句のつけようがない美味しさだった。

「なあ、名前。今度は俺から会いに行ってやるヨ」
「ほ、本当ですか?」
「あァ、……またいつか、自転車に乗って会いに行ってやる。ただ二人乗りは出来ねえから一緒には乗れねえけど」
「全然構いません! 嬉しいです!」
「……だから、それまでさよならな」

花が綻ぶように笑った名前と、そっとゆびきりを交わす。それはきっと、ふたりにとって、希望に満ちたさよならだった。