※社会人設定


「俺と別れてくれ」

付き合って六年目の彼氏に振られた。どこか予感はしていたから驚きは無かったけれど、目の前に突きつけられた現実に少なからずショックを受けたし、やはり動揺もした。

「悪ィな。他に好きなヤツが出来たんだヨ。じゃあな」

指先がすっと冷えていく感覚を押さえ込みながら、私は虚勢で作った笑顔で了承の意思を示す。高校時代に私から別れを切り出した時も、彼はこんな気持ちになったのだろうか。
───いや。あの時は決して、気持ちが冷めたから決別したのではない。本気で全国優勝を目指す靖友くんの重荷になりたくなかったから、自分勝手だったけれど友人の関係でいようと言ったのだ。実際、自転車も恋愛も両立できるほどに彼は器用ではなかったし、私もそんな彼を受け入れられるほど大人じゃなかった。

ここ最近、靖友くんはどこか余所余所しかった。前ならば飲みに誘えば嫌々ながらも付き合ってくれたし、お互いの家を気軽に行き来していたのに、最近は何かと理由をつけて避けられていた。何より、一緒にいても抱きしめてくれなくなった。キスが出来る距離まで近づくことが出来たのは、いったいどれ程前のことだろう。
お互い就職してから約三年が経ち、ようやく新社会人としての生活に慣れてきた頃だったから、会社の人達との付き合いが増えているのだろうと無理やり理由を見つけていた。けれどそれは、ただ単に見ないフリをしていただけだったのだろう。

大好きだった。初めて、自分の全部を捧げてもいいと思えた人だった。二十数年生きただけの小娘が何を言っているんだと思われるかもしれないけど、私は至って本気だった。苦手だった料理も裁縫も、靖友くんのために努力した。いつも誰より遠くを見据えながら生きている背中に追いつきたくて、彼にとって安心できる居場所になりたくて、いつの間にか私までガムシャラに生きていた。
そりゃ私は容姿も性格も特別イイわけじゃないし、一途すぎてキモチ悪いと思われるのも仕方ないのかもしれない。それでも、不器用ながらもずっと大切にしてきた存在だったから、キッパリ諦めるのは難しかった。

友人との酒の肴に出来るほど、簡単な想いではなかった。だから暫くはひたすら仕事に打ち込んで、家に帰ってから一人で彼との思い出をひとつひとつ心の奥に仕舞い込み、時折思い出したように泣いていた。その甲斐あってか半年経った頃には、部屋の中も頭の中もスッキリし始めていた。口の減らない彼氏をずっと相手にしてきたからか、他人より気配りが出来ると評価されていた私は、職場における上司からの評判も上々だった。段々と重要な仕事を任されるようになり、靖友くんのことも少しずつ忘れかけていた、そんな時のこと。

「あ、名前。携帯鳴ってるよ」
「ん? ああ……、最近ずっと知らない番号からくるんだよね」
「なにそれ怖いね。着信拒否したら?」
「その方がいいよね。どうせ悪戯だろうけど」
「……もしかしたら、名前のことが未だに好きな昔の男からかもよ?」

友人の言葉に一瞬ドキリとした。頭の片隅にふわりと浮かんだ影に気付かないフリをしながら、それはないよと軽く返す。昔の男と言われたら、私には一人しか思い浮かばない。けれど、彼は恋人と別れたからと言って連絡先を変えるような矮小な行動はしないだろう。と、ここまで考えて自分に呆れる。未練がようやく美しい思い出に変わりつつあるところだったのに、未だに誰かの言葉ひとつで心が浮き沈みするのだ。まったく女々しいと自戒の念も込めて心の中でつぶやくと、手元の携帯に一瞬ちらりと目線を配る。今日、家に帰ったら着信拒否しよう。ついでに、靖友くんのことは綺麗さっぱり忘れて新しい恋をしよう。一度決意したら、なんだか心が軽くなった気がした。

後輩のミスから、しなくてもいい残業をさせられるハメになった。家の冷蔵庫で待っているプリンが待ち遠しかったので小言の一つもいいたくなったが、あまりにも泣きそうな表情をしている彼にそんな気も失せた。だいたい、後輩のミスすらカバー出来なくて何が先輩だ。いざとなったら私も一緒に上司へ頭を下げよう。そう思いながら、後輩と二人でひたすらパソコンに向かい合っていた。

「なんとか終わったね」
「苗字さん、本当にありがとうございました……!  俺、今度何か奢ります! 何がお好きですか?」
「そんな気を使わなくても大丈夫だよ。でもついでに言っておくと、私の大好物は卵料理です」
「なるほど、少し意外ですね。苗字さんはもっと大人っぽいものが好きなんだと思ってました。フォアグラとかキャビアが大好物って言われても多分驚きませんよ、俺」
「私のイメージってそんななの……? ちょっとショック」
「ごめんなさい、冗談です。───そういえば、知り合いの彼女さんにも卵料理が大好物だって人、いたなあ」

普段は爽やかな笑顔ばかり振りまく後輩が、最後の言葉を発する時はやけに優しく笑っているから、少し気になった。私は人間関係は狭く深く築くタイプであり、普段はそこまで人の話を根掘り葉掘り聞く方ではなかった。けれど、その時は何となく気になったのだ。自分と好物が同じだからという親近感が湧いたからだろうか、と一旦納得してみてから、後輩に話しかける。

「その知り合いの人って、大切な人なんだね」
「え?」
「見たことないくらい優しい表情してたからさ、何となく思っただけ」
「……そうですね、俺にとっては大切です。すごく。闘病生活を支えてもらった人なので」
「闘病生活って……、あ、ごめん。私が立ち入っていい話じゃないよね」
「……いえ。苗字さんにならいいかな。俺、少し前まで死ぬ寸前の病気だったんですよ」

何でもない口調で紡がれた台詞に、頭を鈍器で殴られたかのような衝撃を受ける。同時に、心臓が何故だかどくりと嫌な音をたてた。

「ごめん、辛いことを思い出させて」
「そんなに気を使わないでください。俺、今は一応完治してるんですから。それに、俺が世話になった人も、ようやくドナーが見つかったって連絡きたんです」
「そうなんだ……!  それは良かったね。おめでとう」
「はい。荒北さん、元気かなあ。口調は凄く乱暴な人なんですけどね、根は凄く真面目で優しくて……」

笑って聞いていられたのは、そこまでだった。顔からサッと血の気が引くのが自分でも分かった。後輩は目を大きく見開くと、心配そうにしながら素早く身支度を始めた。バクバクと心臓が鳴り響く音と、吹き出る冷や汗を心配してくれる彼の声を遠くに感じながら、私は携帯電話をぎゅっと強く握りしめる。こみ上げる吐き気を抑えながら笑うのに必死で、後輩に尋ねる事すら出来そうになかった。本人に確かめなければならないと、ただそれだけを思っていた。

結果的に、荒北くんは連絡先を全て変えていた。メールを送るもエラーで返ってきたし、電話をしても現在使われない番号だと無情にも告げられた。暫く呆然と液晶画面を眺めていると、後輩からメールが来ている事に気付いた。先輩として最低限の返事はしなければとノロノロした動きで受信ボックスを開くと、私の体調を心配する旨がまず目に飛び込んできた。ありがとう、心配しなくて大丈夫だよ、また明日、と返信の文言を考え始めたところで、メールに続きがあるのがようやく見えた。私、何も考えられなくなってるな、と呆れたところで、再び心臓がドッドッと脈打ち始めるのを感じる。

そこには、最近見慣れ始めてきた携帯電話の番号と、短く名前のみが書いてあった。番号の羅列の後に目に飛び込んできたのは随分と懐かしい名だ。東堂尽八と、ただそれだけ。ただの同級生くらいの関係性でしかなかったけれど、靖友くんを通じて話くらいはする仲だった。
私は考える間もなく、近頃ずっと着信履歴を埋めていた知らない番号に電話をかける。自分の心臓の音を全身で感じながら、正座をした状態で繋がるのを待っていた。お願い、お願いだから出て。強く思ったその瞬間に、耳元で大きな声がした。

「苗字さん……!  苗字名前さんで間違いはないか!?」

はい、と返事をした私の声は、とてもか細かった事だろう。

「荒北靖友のことで話がある。今からしばらく、貴女の時間を貰ってもいいだろうか」
「はい、はい……。もちろんです!」
「良かった……! 本当に、ありがとう」

東堂くんの涙声が耳を打つ。高校時代への郷愁にかられる間もなく、私はただただ彼からの言葉を享受した。

靖友くんは、私でも知っている重い病気に罹っていた。ようやくドナーが見つかったものの、状態は悪く手術の成功率は五割を切っている。治療のために入院したのは、彼が私に別れを切り出した翌日の事だったという。

靖友くんが入院しているという病院の住所と病室番号をメモして電話を切ると、私はその場に突っ伏して泣いた。長時間の正座により足が痺れていたけれど、そんなことはどうでも良かった。靖友くんに会いたい。ただその一心だった。

翌日、仕事を休んで病院に駆けつけた。後輩には、ただ一言ありがとうと返事を送った。
半年ぶりに面会した靖友くんは、私の姿を見てぽかんと口を開けていた。どうしてオマエが此処にいるんだヨ、とでも言いたげに。無菌室のガラス越しにだけれど、彼が以前にも増して白く、そして細くなったのが見てとれた。本当は泣きながら怒鳴るつもりだったけれど、靖友くんの顔を見たらその気も失せた。今はただ、対面できただけでも嬉しくて、言葉にならない想いが溢れて、不自然に表情が強ばってしまうのを感じた。彼はそんな様子の私を見て、これ以上ないほどに眉間に皺を寄せて、ゆっくりとそっぽを向く。とうとう、堪えていた涙がボロボロと零れ落ちた。靖友くんはいつだってそうだ。私に弱みを見せてくれなくて、勝手に一人で全部決めてしまって、いつまでもずっと先を一人きりで歩いている。それを寂しいと感じていた反面、そんなところがたまらなく愛しかった。だからこそ支えてあげたいと、そう思っていたのに。

手元の鞄に入っていた手帳から、無地の用紙を一枚引き剥がす。ボールペンでただ一言、ありったけの想いを綴り、胸元に抱えた。今日は直接会ってくれないだろうから、受付の看護師さんに渡しておこうと、そう思った。

「靖友くん、また来るね」

小さくつぶやいた声に、返事など返ってこない。それでも良かった。これは、私の独り善がりな宣言だったから。

それから手術までの二週間、私は毎日靖友くんの元へ通い続けた。直接会ってくれることはなく、目線を合わせることすら拒絶されていたけれど、それでも顔が見られるだけで満足だった。近くに靖友くんがいると実感するだけで、泣きそうなくらいに嬉しい気持ちだった。時折、東堂くんをはじめとして、お見舞いにやってきた人にも会った。その度に、靖友くんはこんなにも素敵な友人に恵まれているのかと嬉しい気持ちになる。彼自身が素敵だからこそ、周囲の人もこんなに優しい人たちばかりなのだろう。

そして、いよいよ手術が翌日に迫ったとき。今日も一方的なコミュニケーションを終えて、名残惜しくも靖友くんとお別れをしてから廊下を歩いていると、看護師さんに呼び止められた。靖友くんを担当している方だった。

「苗字さん、これだけはお伝えしておかなければならないと思って」
「はい。何でしょうか……?」

彼女の笑顔がとても優しいものだったので、肩の力を抜いていられた。

「苗字さん、毎日荒北さんにお手紙を差し上げているでしょう」
「あ、はい。お恥ずかしながら可愛い便箋とかじゃなくて、手帳の切れ端なんですけど」
「ふふ。荒北さんね、苗字さんからの手紙を枕の横に置いて、毎日眺めてらっしゃいますよ」

え、と静かに言葉が零れ落ちる。それを微笑ましそうに見遣った看護師さんは、さらに続けた。

「荒北さん、少し前までは、一日中ただ窓の外をぼんやり眺めているばかりだったんです。でも、苗字さんが来るようになってからは、時々優しく笑ってくださるようになりました」

その言葉を聞いて、靖友くんにもう一度会いたくてたまらなくなった。けれど、面会時間がもう来ているから帰るところなのに、今から引き返しても迷惑をかけるだけだろう。音にならない声を喉の奥で押し殺していると、看護師さんはちらりと手元の腕時計に目線を配った。

「あと五分くらい、なんて事ないですよ」
「あ、ありがとうございます!」

時間には口うるさい上司がいると以前話してくれた彼女の気遣いに、涙が出そうな思いがした。なるべく音は立てないように、しかし半ば駆け足になりながら、私は病室までの道を引き返す。最後に顔を見て、それからすぐ帰ろうと思っていた。

相変わらず、靖友くんは真っ白な病室の中にいた。彼の視界に映らない位置から病室を覗くと、微動だにしないまま、何かを抱えて蹲っているように見えた。私はハッとして、思わずその場にしゃがみこむ。靖友くんは、泣いていた。私が乱雑に、けれど最大限の想いを込めて書いた「大好き」の一言を胸に抱えながら、ひっそりと涙をこぼしていた。その様子を捉えて、ハンカチで嗚咽を必死に堪えながら、私は静かに泣き崩れる。不器用な彼の想いが痛いくらいに伝わってきて、悲しくて、切なかった。そしてそれ以上に、荒北靖友という人を愛せている自分を、誇らしく思ったのだ。

翌日、私は仕事を休んで病院に駆けつけていた。幸いにも手術は無事に成功した。靖友くんのご家族と共にお医者様から説明を受け、経過を慎重に見なければならないこと、抗生物質を飲み続けなければまだ安心出来ないことを知った。けれど希望はあると言い切ってくださったから。私は、その言葉と靖友くん自身のことを信じている。

その後、待合室で力なく座り込む私に、東堂くんは優しく微笑んでくれていた。

「苗字さん、これからどうするつもりなのだ?」
「まずは働かないとね。給料三ヶ月分は常に貯蓄があるくらいにしておかないと」
「そうか。何か力になれる事があれば言ってくれ。助力は惜しまない」
「……何から何まで、ありがとね」
「だが苗字さん、未だに捨てきれないただの未練から、アイツのために生きようとするのだけは、やめた方がいいぞ」

厳しく、けれど思いやりに溢れた言葉に胸が温かくなる。東堂くんは、表情を崩さない私の様子を見て、少し目を丸くしていた。

「私、そんな中途半端な覚悟でこの場にいるつもり、ないよ」
「……フッ、そうか。悪かった、試すような事を言ってしまったな」
「ううん。ありがとう、東堂くんは優しいね」
「いや、そんな事はないさ」
「あ、でも一つ聞きたいんだけど、女の子からプロポーズされるのって、どう思う?」

東堂くんは、いよいよその綺麗な瞳を大きく見開く。暫く驚いたように瞬きしていたかと思うと、いつの間にか掌で顔を覆いながら笑いを堪えていた。そして、成功したらうちの旅館で式をやろうと、冗談まじりの約束までしてくれた。その日は、とにかく東堂くんと笑いながら色々と話をした。一緒に苦しみや喜びを分かち合える人がいる事は、とても幸せなのだと実感できた気がした。

私は、手術後も病院に通い続けた。相変わらず言葉すら交わしてくれなかったけれど、徐々に顔色が良くなっていく様子を見られるだけでも嬉しかった。見舞いに来ていた会社の後輩とも何度か顔を合わせたので、改めてお礼を言い、いつか三人で一緒に食事に行こうと約束をする。叶うのはいつになるか分からないが、未来に希望を持つのも悪くない。
あとは、靖友くんの妹さん達とも仲良くなった。今時の大学生らしく可愛く着飾っている子達に相手にしてもらえるだろうかと不安だったが、心根がとても優しい子たちなので心配はいらなかった。不器用ながらも兄を心配している彼女達に、彼の一生傍にいたいのだとありのままの想いを吐露すると、「ただのノロケじゃん」と涙声でからかってくれた。靖友くんが風邪で寝込む私の看病をしようとして、炊飯器で意図せずにお粥を作ってしまった出来事を話すと、クスクスとおかしそうに笑ってくれたこともある。

そして、いよいよ退院の日を迎えた。靖友くんは、定期的な通院や薬の服用は必要なものの、日常生活を送れるまでに回復できたのだ。私は、追い返されても構わないという気持ちで病院にまで足を運んだのだが、妹さんが病院の入口で私を待って、ロビーまでの道のりを案内してくれた。

「まだ手続きが必要だから、あそこで待っててって伝えてあるの。靖兄も、あと十五分くらいしたら出発しなきゃいけないんだけど……」
「充分だよ、ありがとう」
「ありがとうはアタシ達の台詞だよ、名前ちゃん。靖兄のこと、ヨロシクね」

片手で軽くハイタッチしてから別れて、私は靖友くんの元へと足を進める。まるでバージンロードを歩いているような気持ちだ、と見当違いな事を思う自分がおかしかった。突飛なことを口にしては彼に柔らかい口調でバカだと罵られていた日々が、遥か遠くの出来事のように感じる。けれど、それをまた掴みたいと、強く思っているから。

彼は、その細い身体でそっと椅子に腰掛けながら、綺麗に磨かれた真っ白な床を見つめていた。サラサラとした指通りの良さそうな黒髪と、日に焼けていない白磁のような肌、喉に浮かぶ小さな喉仏と、鋭くて繊細な顎のライン。私が大好きな荒北靖友が、変わらずそこにいる。言葉を伝えることが出来る。全力で愛すると伝えることが出来る。それはすべて、彼が生きているからなのだ。

「退院、おめでとう」
「………、」

無言ながらも、彼は私が差し出した花束を素直に受け取ってくれた。視線すら合わないけれど、それでもいいと思った。

「靖友くん。今日は、あなたに結婚を申し込みにきました」

私の言葉に、彼はとうとう弾かれたように顔を上げた。全身で驚愕を表現した彼と、ようやく視線がそっと重なる。黒曜石のような瞳だ、と惚れた弱みで支配された思考に一人で笑った。女は度胸、当たって砕けろ。その言葉が頭に浮かぶ。

「こうして会えたら、まずはごめんなさいと、ありがとうを伝えたいと思ってたの。でも考えてみたら、それはこの先、ずっと一緒に生きていけば幾らでも機会はあるでしょう?」
「オマエ、本当に、バカじゃねえの……?」
「バカでいいよ。それで一生靖友くんの傍にいられるなら」
「俺みてえな男と結婚して、幸せになれるわけねえだろうが」
「あなたの隣が、私の幸せだよ」
「この先、どうなるかも知れねえ身体だ」
「何があっても、私が働くから。これでも、同期一の出世頭なんて言われてるんだよ」
「オマエの両親だってきっと、反対するだろうがヨ」
「結婚は、一生一人の人生を背負っていくのと同義だよ。結婚する覚悟が出来てて、親を説得する覚悟が出来てないわけないじゃない」

靖友くんは、頑張って一生懸命に言葉を絞り出そうとしている。けれど、もう待ちきれない。

「靖友くん。私が一生守ってあげるから。結婚してください」

薄い桜色の唇が、微かに震えている。返事を紡いでくれるであろうそれに視線を向けていると、彼は一瞬うつむき、意を決したように立ち上がる。

「結婚するなら、オマエしかいねえって、思ってた」
「うん」
「こんなことになって、誰かに頼ることでしか生きられない身体になっちまった。誰かの人生を、世界で一番幸せになってほしいヤツの人生を、背負うなんて、もう出来ねえと思ってたんだヨ」
「……うん」
「でもよォ、俺はずっと未練がましく、飽きもせず、オマエのことばっか考えてたみてえだ。───名前」

そっと近づいてきた靖友くんは、私の腰に手を触れた瞬間、力強く抱き寄せてきた。有無を言わせないかのような乱暴な動作だったのに、伝わる熱はどこまでも温かくて、優しかった。このまま溶け合ってしまいたいとさえ思った。縋り付くように背中に手を回して、込み上げる熱と想いを口に出す。

「すき。大好きだよ、靖友くん」
「……バカヤロ」

ほっそりとした指先が、温かな掌が、私の顔を包み込んで、そっと上を向けさせる。至近距離で重なった視線に、胸の奥が熱くなる思いがした。ちらりと覗く八重歯も、不機嫌そうに眉間に寄る皺も、前と何も変わっていない。

「俺はな、名前。オマエのことを、どうしようもなく愛しちまったんだヨ」
「ふふ、知ってる」
「……俺が死ぬその時まで、ずっと、愛してくれンのか」
「ううん。靖友くんが死ぬまでなんて早いよ。私が死ぬまでは、全力で愛し続けてみせる」

きっと、それが合図だった。ぐっと乱暴に引き寄せられて、荒々しく唇が重なる。けれど、触れ合った瞬間から胸が痛くなるほどに優しく、愛しむように柔らかく、彼の唇が私の唇を包み込んだ。思うままに貪ればいいのに、もっと激しくしてもいいのに、靖友くんはいつも優しく私を愛してくれた。角度を変えて、もっと深く繋がろうとするだけの動きが、あまりにも優しくて甘やかで、身体中の力が抜ける感覚がする。そっと顔が離れると、彼は照れたように眉を下げて言う。

「俺と、結婚してください」

聞きなれない敬語に瞠目すると、照れ隠しからかもう一度キスされた。トキメキに胸が押しつぶされそうになるのを堪えながらぎゅっと彼に抱きつくと、同じだけの力が返ってくる。やっぱり私のしあわせは、いつも彼と共にあったのだ。



───それから約三年後。東堂尽八は、唐突にかかってきた電話に驚くことになった。

「と、ととと、東堂くん!」
「もしもし名前さん? どうしたんだ、そんなに慌てて」

高校時代の同級生、荒北靖友とその彼女苗字名前が結婚したのは、およそ二年前のことだった。荒北の見舞いに初めて行った際、すべての事情を聞いて、口止めをされて、それでも我慢できずに彼女に連絡をとってしまったあの頃。今となっては荒北に一生分の感謝をされる立場となってしまったが、尽八は幸せそうな二人を見ているだけで満足だった。
荒北夫婦とは年賀状や暑中見舞いといったハガキによるやり取りは勿論のこと、こうした電話のやり取りも時折していた。

「できたの!」
「何がだ? まさか、」
「できたの、あかちゃんが……!」
「そ、れは本当か!  おめでとう!  荒北は今どこに? もちろん知っているんだよな?」
「靖友くん、さっきから泣いちゃってまともに話せる状態じゃなくて……」

うるせえ、と覇気のない怒鳴り声が遠くに聞こえた。「ね?」とおかしそうに同意を求める声に何度も頷きながら、尽八は込み上げる感情を噛み締める。彼らの結婚は親族から強く反対され、子どもの誕生も難しいと言われたと聞いていた。ゆっくりと、自分たちのペースでいくから大丈夫、と落ち着いた声音で話していた名前さんの言葉を聞く度に、遣る瀬無い気持ちになっていたものだった。

荒北には幸せになる権利がある。もちろん名前さんにも。
かつて、自分の進むべき道は自分で決めると言ったのは荒北自身だった。だから俺は、少しだけその手伝いをさせてもらっただけなのだ。この喜ばしい知らせは箱根学園のかつての同級生たち総出で祝わねばならないな、と意気込んでから、尽八は電話口の向こうに楽しそうに問いかけた。

「誕生祝いは、やはり肌着がいいのだろうか? ハッ、いやしかしベビーカーや絵本も捨てがたいな。ありったけの物を贈らせてもらう!」

あんなに素敵な二人の元に生まれてくるんだ、お前は幸せだな。とまだ見ぬ子どもにそっと囁く。世界はこんなにもしあわせに溢れているのだと、尽八は自信をもって言えた。