玄関のベルが鳴った。朝方、新聞社へ出向くための身支度を終えたばかりのことだった。
神経質な一方でひどく心地好いノック音も響き、それだけでこの部屋は賑やかで温かな気配を帯びていく。喜びと驚きにより慌ててパタパタとドアまで駆けていった。確か二人とも、早くても今日の午後になると言っていた筈だけれど。

慎重に、けれど心躍らせながらドアを開けていく。

「おかえりなさい!」
「ただいま、名前」
「ただいま戻りました」

わたしの居場所たる二人が、朝靄を帯びた太陽の光を背に朗らかに笑っていた。

「ホームズくんも御琴羽くんも疲れたでしょう。二人の分のご飯も作ってあるから、良かったら食べ……」

クリスマスプレゼントを前にした子どものように喋っていたところで、わたしはいつの間にか物理的に喋れなくなってしまう。
ぎゅうっと、全身が力強く抱き締められていた。わたしの首筋に顔を埋めるように覆いかぶさったホームズくんが、くつりと耳元で無邪気な笑い声を上げる。

「……本物の名前だ」
「え。偽物のわたしでもいたの?」
「キミが二人いるのも悪くはないが、今回は期待に応えられるような奇妙な出来事は無かったな」
「別に期待した訳じゃないんだけどね……?」

ホームズくんが顔を上げて視線が重なる。実に一週間ぶりだろうか。相変わらず綺麗な顔をしている男の子だと思った。出会った当初は見つめられる度に落ち着かない気持ちになったけれど、今やわたしの心を誰よりも優しく撫ぜてくれる。
きらきらと朝日を反射しているように輝く緑の瞳が、ひどく何かを慈しむように熱を帯びていった。

「名前、この食事は食べても大丈夫ですか?」

背後から聞こえてきた御琴羽くんの声に驚いて、慌てて振り向いた。お味噌汁に白米、焼き魚に卵焼きにお漬物。まだ出勤までは時間があるからと、かつての故郷を思わせる献立を作り終えていたのだった。
御琴羽くんはいつの間に一人で家に入っていたのだろうか。気付かないくらいホームズくんの動向に夢中だった事実が急に恥ずかしくなる。

「うん、勿論! あー、そういえば今回のおにぎりはどうだった?」
「そうそう。会ったら感想を伝えようと思っていたのに番犬に阻まれたところでした。とても美味しかったです。何より塩加減が抜群で」
「やっぱり御琴羽くん、あまり濃い味付けって得意じゃないよね。お弁当の内容も次からは遠慮なくリクエストしてね」
「サンドイッチも捨て難いですね、ありがとう。さて、私のことは良いので拗ねた犬に餌を与えてやってください」
「誰が犬だと?」
「自覚しているならば何より。それではお二人とも、ごゆっくりどうぞ」

御琴羽くんは、にっこりと笑ってからひらりと手を振る。どうやらお盆に載せた朝食を自室へと運ぶようだった。せっかくなら温かいお茶でも淹れてあげたかったけれど、職場へ向かうまで時間に余裕もないため我慢する。何から何まで世話を焼いたらさすがに鬱陶しいかもしれないし。

「名前」
「ん?」
「ボクに何か話があるだろう」

真っ直ぐに見つめられる。柔さを帯びた声で紡がれたのは、問いかけではなく確認だった。
たしかに、話したいことはたくさんあった。ジーナちゃんが見つけてきた硝子のこと、ジェームズさんに対する自分の考え、コートニーさんと知り合いになったこと、バロックくんやクリムトくんやグレグソンさんとの交流について。

……ホームズくんと会えなくて、一人きりの家がとても寂しかったこと。

「……うん」
「今晩は迎えに行く。午後は工房に行くんだろう?」
「ん、そのつもり。……いつもごめんね、ありがと」
「今のボクに、キミを守ることより優先すべき事象なんて無いからね」

指先で髪を梳かれて毛先に薄い唇が寄せられる。気恥ずかしさを覚えつつも、うん、と素直に頷けば満足そうな笑みが返ってきた。ホームズくんの温かな肩に額を寄せながら、自分の中に湧き上がる不明瞭な焦燥感を自覚する。考えるべきことがたくさんありすぎて、けれどそれを目の前の男の子にどこまで打ち明けて良いものかと思索を巡らせる。
けれどホームズくんはそんな思考はお見通しなんだろうし、わたしもまた、彼に自分の弱さを晒すことを望むようになっていた。

「……そろそろ時間だろう。行ってくるといい」
「うん、いってきます」

頭を撫でられて、キスをしてから、新聞社へ出向くために身を翻す。
正直なところ課題は山積みだ。特に今は友人に降りかかる悪意を振り払う力さえ持たない。それでも前を向いて歩いていくと決めたのはわたしだった。



そうしていつも通り、穏やかな日常が過ぎていくのだと思っていた。

「……ナマエちゃん」

泣きそうな顔でベリルちゃんが工房へやって来たのは、すっかり日も暮れた夕方のことだった。小さく柔らかな両掌が爪痕がつきそうな程に強く握り込まれて、いつもは華やかに色付く唇が青く恐ろしい程に震えていた。
ジェームズさんの帰還がいつもより遅かったのは、不幸中の幸いだったのだろうか。彼女に触れた時に汚れをつけないようにと、急いで手袋を脱ぎ捨てながら駆け寄った。

「どうしたの、ベリルちゃん!?」
わたくし……ッ、ごめんなさい! ナマエちゃんに会わせる顔が無いと考えていたのに、貴女にしか頼ることが出来ないだなんて……」
「謝る必要なんてないから! わたしはあなたの力になりたいだけだから! 今は何も心配せずに話を聞かせて?」

力の入った彼女の指先を一本ずつ解きながら、優しく包み込んでいく。若草を想起させる美しい瞳がひどく翳りを帯びて、徐々に涙の膜で覆われていった。

「私は……罪を、犯してしまったの……」

掠れた声で発せられた告白に息を呑む。ただ彼女の言葉を受け止めるために、小さく頷いた。

「最近、屋敷で新しい使用人を雇ったと……話したと思うのだけれど……」
「うん。クリムトくんはお仕事で、ベリルちゃんは社交界のお付き合いで前より忙しくなったから……負担を減らすために自分で選別した、んだよね?」
「ええ。クリムトさまの手を煩わせたくなかったから、無力な私でも出来ることを成さねば。……そう、思っていたのに……」

毅然と振る舞おうとしているのだろう。背筋をぴんと伸ばしたまま指先を震わせている。

「今日、屋敷に戻ったら……私は、メイドの一人に、刃を向けられたの……」
「っ、怪我は?」

慌てて語りかければ、彼女は力無く首を振った。見たところ傷を負っているような気配は無いけれど。

「いいえ、無いわ……。それは自己保身のために、相手の要求を……呑んだからなの」

百合のように真っ白な手が、わたしの指先にそっと縋り付く。

「あの者は、こう言ったわ……。バンジークス家およびバスカビル家が……過去に行ってきた不正を暴かれたく無ければ、とある人物の居場所を教えろと」

バスカビル家とはベリルちゃんの生家だ。バンジークス家に負けず劣らずの名家で、司法界に留まらず各界隈に強いコネクションを持っているのだという。だからこそバスカビル家に産まれた女は名家に嫁ぐ使命を持っているのだと、儚げに語ってくれた時に感じた痛ましさをよく覚えていた。

ならばと、わたしもまた真っ直ぐに背筋を伸ばして、出来る限り柔らかく言葉を紡いでいく。

「クリムトくんならただでさえ目立つし、わざわざ居場所を聞く必要なんてないよね。グレグソンさんも亜双義くんも、ホームズくんや御琴羽くんだって、大英帝国から見れば特殊で目立つひとばかりだし」

ベリルちゃんの目を真っ直ぐに見つめながら、自分の考えを着実にまとめていく。先日ジーナちゃんから買い取った硝子と、バロックくんから勧めてもらった本の内容を噛み締めながら。
諦めたように微笑む彼女に向けて、二つの手のひらを通じてそっと熱を分け与えていく。

「バンジークス家に入り込める程のコネクションがあっても容易に探せないひと。……たとえば、過去に華々しい表舞台から消えていたとしたら。かつての名誉も地位も全てを捨てて、名前や格好を変えて、身分社会における弱者を装っている人間であるならば。……確信を持つために、第三者を利用するかもしれない」
「……ナマエちゃんは、凄いのね。探偵さんみたいに何でもお見通しみたい」

ようやく、彼女の心が微かに緩んだ気がした。

「ねえ、教えてベリルちゃん。───ジェームズさんに何があったの?」

彼女は覚悟を決めたように唇を引き結んでから、力強く見つめ返してくる。ほろりと一筋伝った涙さえ、花に恵を与える水のように美しいと思った。

「……貴女と探偵さんが出会った、あの病院にいらっしゃるわ」



すっかり病院の常連客となっていたわたしは、思いの外すんなりと本人の病室に通された。一階でコートニーさんと遭遇したのも幸運だったな、と扉の前で振り返る。
眉を吊り上げながら呆れたように目を細めたお医者様は、わたし達がすぐに病室へ来れるよう取り計らってくれたから。

コンコン、と力強くドアをノックする。返事は無かったけれど、いつも通りだから構わずに足を踏み入れる。
ジェームズさんはベッドの中で横たわり、苦しげに瞳を閉じていた。先日のわたしと似た状況の怪我らしく、どうやら経過は順調らしい。今すぐに話を出来る状態ではないものの、また何度でも面会に訪れれば良いだろう。

わたしよりも一歩前で俯くベリルちゃんは、懺悔するような薄暗い影を身にまとっている。

「……ベリルちゃん」
「ナマエちゃん、あのね。わたくしはずっと……貴女が羨ましかったの」

彼女の儚げな後ろ姿から、ほろりと心情が吐露されていく。ベッドサイドの椅子に腰を掛けたベリルちゃんが何を思いどのような言葉を紡ぐのか、全身を研ぎ澄ませて耳を傾けていった。

「ナマエちゃんはとても自由に生きているように見えたわ。どんな苦労があっても俯かず、クリムトさまのお役にも立てるだけの努力をしていて。決して人の悪口を言わないし、お仕事でもプライベートでも常に上を向いて結果を出し続けている。……貴女の友人として、誇らしかった」

そんな大層な人間ではない。そう言ってしまうのは簡単だった。けれどもし、わたしがベリルちゃんの立場ならば似た思いを抱いたかもしれないと思い、そっと目線を下げていく。

「だからせめて、貴女に恥じないような友でいなければって、そう……思っていたのに…………ッ」
「……ベリルちゃん」
「軽蔑するでしょう? 私は貴女の恩師を売ったの。私のせいで、目の前の彼は傷を負ったの」
「ねえ、ベリルちゃん」

わたしは息を吸う。彼女の心は今、仄かな衝撃であっても容易く壊れてしまう程に脆く危うい。ならばわたしは改めて、今後の未来を決めるための問いかけをしよう。

「わたし、工房の場所もジェームズさんの名前も、ベリルちゃんに詳しく伝えたこと……なかったよね?」

バッと弾かれたように顔を上げた彼女が、ようやくこちらを振り返る。呆気にとられたような顔を受けて、どうやら間違いでなかったことを知る。
ジェームズさんもベリルちゃんも、互いに相手の核心をつくような話題を避けていたのは悟っていたから。わたしも常に遠回しな内容しか伝えていなかった筈だ。

「……わたしがジェームズさんに初めて会った時、工房に通わせてほしいって言っても門前払いだったんだよ。でも、ベリルちゃんからワイングラスを頼まれたことを話したら受け入れてくれた。……だからね、二人の過去に何かあったかなとはずっと考えていて」
「そう、だったのね……」
「うん。でも無理に話さなくても平気だからね。わたしは出来る限りずっと、何があってもベリルちゃんの味方でいたいと思うから」
「……ナマエちゃん」

今度は彼女の方から、わたしの手をたおやかに取る。バンジークス家の庭園のように華やかな微笑みを浮かべて、ベリルちゃんはわたしの額に自身のそれを重ね合わせた。澄んだ緑の瞳が面映ゆそうに細まっていくのを見て、先日まで毎日眺めていた画集を思い出す。
朝焼けに濡れた海岸を包み込む、儚くて眩いグリーンの太陽───グリーンフラッシュを。

「お話しさせて頂戴。わたくしの、誰にも話したことのない秘密を」
「うん、もちろん」

ふうわりと、ベリルちゃんは子どものように無垢に笑った。



───わたくしは、その方のことを「鳩のおじさま」と呼んでいたわ。だって大真面目に、初対面の子どもに「オレのことは鳩と呼べ」なんて仰ったのよ。
バスカビル家の書庫に突然通い始めたそのおじさまは、勿論不法侵入ではなかったの。実際は分からないけれど、今はもう亡き祖父の御友人だと伺ったわね。司法界の末席に名を連ねていたのだとか。

鳩のおじさまは、私にたくさんのことを教えてくださったわ。貴族とは、弱き者を助け社会を導いていく責任を負っているのだということ。地位や権力を持ったとしても、決して驕らずに目の前の人には手を差し伸べよ。……ナマエちゃんは、私を良い意味で貴族らしくなくて優しいなんて言ってくれたけれど、社交界でも異端とされる考えを持てるようになったのも「鳩のおじさま」のお陰だったのよ。

おじさまの横で書物を読みながら、貴族としての振る舞いだけではなく様々な教養も授かったわ。お花や野菜の育て方、ガラス細工をはじめとする工芸品の価値、医療や工学や科学や文学の知識、司法による統制が必要に迫られている社会情勢について。素朴なことから壮大なことまで何でも雑学としてお話ししてくださった。
険しい顔なのに誰より軽やかに語る様を見れば、きっと今ならば……なんて不器用なひとなのだろうと笑うのでしょうね。幼い私は何も考えず、新しい知識にはしゃぎ倒していたわ。

けれどある日突然、そんな日々も終わりを告げた。真っ暗な夜、おじさまに借り受けた書物を寝室で読んでいた私は、コンコンと窓をノックするおじさまの姿にビックリしたわ。いつになく慌てた様子だったから駆け寄ったら、強引に大きな箱を手渡されたの。

……もう、ナマエちゃんなら予想がついているかもしれないわね。その時に譲り受けたのがおじさまお手製のワイングラス。「お前にしか託せない」と、ただそれだけを仰った。あのグラスはずっと、……私にとって、秘密の宝物だったの。

それから「鳩のおじさま」は、罪人として貴族社会から、そして司法界からも追放されることになった……そうよ。断言出来ないのは、私では詳細を知り得ないから。当時の事情を知る人々は頑なに口を閉ざしていたから。

そうやって別れた後に気付いたの。私は「鳩のおじさま」の本名を知らなかった。だから。

「残された手がかりは、鳩という言葉だけだった……と」
「ええ、そうよ。私は片っ端から鳩についての文献を読み、新聞記事を探し、鳩のいる場所に足を運んだわ。けれど成果はなかった。そして最終的に辿り着いたのが、語学辞書だったの」
「語学辞書……。わたしだったらまず、鳩を英語以外の言語に訳す、かな?」

こくり、とベリルちゃんは真剣に深く頷いた。どうやら正解らしい。脳内に引っかかった「鳩」の音を頼りに、頭の引き出しを片っ端から開けていく。そして、推理の線が勢いよくぶつかった名前を、恐る恐る口にした。

「……それはもしかして、フランス語のコロンブ?」

彼女はそっと目を伏せた。正解なのだと悟り、わたしはそれ以上の推論を口にすることをやめた。
バロックくんからオススメされたあの文献に小さく載っていた名前で心当たりがあるのは、───コロンブ・ヴォルテックス卿。以前わたしが編集長によって刺された一件を揉み消そうとした、あのヴォルテックス卿と同じ苗字を持つ検事だと印象に残っている。

「ナマエちゃんと出会った時、私はいつになく狼狽えたわ。やっと手に出来たおじさまの手がかりを、自らの不注意で割ってしまったんだもの」
「……ベリルちゃんはあの時、サザーランド工房にいるのがそのおじさまだって分かっていたんだね」
「ええ。今の御名前も、ナマエちゃんが新聞で出してくれた工房の広告で知ったのよ」
「でも、だからこそ……ジェームズさんを狙いベリルちゃんに刃を向けたその人物にもヒントを与えてしまったのかもしれない」

ジェームズさんは電報や手紙を嫌がるのは、それが理由なのだろうか。もしかしたら、自分の素性が暴かれることを恐れているのかもしれない。しかしそれ以上に、かつて自らの工芸品を託した少女の身が、危険に晒されることを避けようとしたのだとしたら。……わたしが、孤独なジェームズさんの闘いを邪魔してしまったのだとしたら。

「……ナマエちゃん、自分を責めないで頂戴。貴女がいなかったら私、自らイーストエンドに赴いてもっと危険な目に遭っていたかもしれないわ」
「あはは。……確かに、あの時のベリルちゃんはそれくらい勢いがあったよね」

そうでしょう、と彼女は愉快そうに胸を張った。無鉄砲に見えて信念のある友の想いに苦笑しつつも、わたしはピンと背筋を伸ばして彼女の瞳を見据える。

「まだ事態の全貌は分からないし、ジェームズさんとも話をしないといけないけど」
「……ええ」
「全てが解決して、いつか何の制約もなく旅が出来るようになったら。……お互いの好きな場所へ行こうね」

ベリルちゃんは笑った。暗闇を照らし出す太陽のように。未来を見つめる彼女の瞳が静かに煌めいていく。

「ならグリーンフラッシュを見るために、皆で日本へ行きましょう」