その日はいつになくラッキーで、飴玉のようにころころと幸運が転がっていた。

6時。アラームが鳴る前に気持ちよく起床できた。
7時。通勤電車でゆっくりと座って過ごせた。
15時。職場でいつになく頭が冴えて上司に褒められた。
19時。スーパーで欲しいものが軒並みセール対象だった。その上、お会計では777円というラッキーナンバーが揃い踏み。

小さな好運でも積み重なれば、自然と心が大きく沸き立つ。
このまま緩やかで穏やかな波に乗っていれば、ずっと良いことが続くような気さえしていた。

「お姉さん、少しお時間ありますか」

19時半。帰路の途中、眉目秀麗という言葉で収まりきらない程の綺麗な男の子に声をかけられた。

柳の眉、芙蓉ふようまなじり、丹花の唇。多様な慣用句さえ霞んで溶けるような整い方をしている。
だが体格は男性らしくガッシリとしていて、線の細さとは無縁のようだった。
この世の美しさを全てかき集めたような容貌が、現実味の無さに拍車をかけていく。

「あの、それって私のことで合ってますか?」
「もちろん。今オレが見つめているのは貴女だけでしょう?」

駅前のロータリーを間近に臨む道のため、人通りは少なくない。
男女問わず多くの視線を感じるので、自惚れによる勘違いを期待したかったのだけれど。
初対面で声をかけられたら宗教か夜の仕事を警戒するものの、あまりにも相手が浮世離れしていて理由が検討もつかず混乱してしまう。

「お姉さん、お仕事帰りですか?」
「は、はい。そうです」
「ならオレの方が年下ですね。突然すみません、決して怪しい者ではなくて」

年齢を超越した存在のように思えたから、自分より幼いという認識が追いつかなかった。
コートから颯爽と名刺を取り出す姿も様になっていて、差し出された指先の繊細さにただ驚く。

犬堂我路。シンプルな白い背景に躍る明朝体が、彼の名前を示していた。
隣に添えられたローマ字で読み方を知る。いぬどうがろ。
骨ばった漢字に彩られた現実味の薄い響きなのに、子犬のような愛らしさも併せ持っている。
初対面であっても、彼を表す唯一無二の音だと理解出来た。

「オレの絵のモデルになってほしいんです。話だけでも聞いてもらえませんか?」

飴細工を扱うように恐る恐る覗き込んでいると、不意に声をかけられた。
彫刻のような容貌で絵を描くのかと一瞬唖然とし、次いで猛烈な恥ずかしさに襲われる。見た目で人を判断するのは恥ずべきことだった。
そんな罪悪感が心に過ぎったらすげなく断れないのが、小心者の性なのかもしれない。

「はい、お話だけなら……」

か細い声を絞り出せば、麗しい笑顔が返ってくる。
突如舞い降りた非日常があまりにも心臓に悪く、つい冷や汗をかいてしまった。

果たして、私の幸運は途絶えてしまったのだろうか。それとも更に大きな僥倖が降って湧いたのだろうか。
今となっては出すべき答えも、その時は形が見えない深い闇にしか見えなかった。




「名前さん、またミステリー読んでるんだ」

すっかり舌が馴染んだコーヒーに浸っていると、突如として軽やかな声が降ってきた。
焦りを悟らせないようにゆっくりと顔を上げる。相変わらず目映いばかりの端正さだった。

「うん。やっぱり娯楽として面白いし」
「でもファンタジーの方が好きなんだよね」
「物語としての面白さと、私の琴線に触れる作品かどうかは別物だから」
「ミステリーを読んでる時の方が真剣そうだけど」

頬杖をつきながら、どことなく無邪気な顔で見つめてくる。
心の傷も痛みも何もかも見透かすような問いかけは、時折鋭く私の息を奪った。

「それは……まあそうかも」
「へえ?」
「いつも思うんだけどね、我路くん。人に何もかも吐き出させるくせに自分は何も言わないの、ずるいからね」
「だって名前さんのこと知りたいし」
「そうやって煙に巻かないの」
「はぐらかしてるのはどっちなのかな」

言葉を詰まらせたところで、彼が優雅に手を上げる。店員さんに注文をする様をぼんやりと眺めつつ、己と相手の間にある圧倒的な隔絶を認識した。
あまりにも美しいものを見つめていると、劣等感も憧憬も瞬く間に丸め込まれるのが常なのに。
名前の見当たらない感情がどこからか湧き上がって、胸を押し潰すかのようだった。

「名前さん、何を考えてるの?」

いつの間にか鎖骨まで落ちていた視線を、慌てて眉間まで上げる。
直接その瞳を真っ直ぐ見るには、まだ勇気が足りなかった。

「ごめんね、何でもない」
「そっか」
「うん」
「オレはね、名前さんのこと考えてたよ」

その言葉が信じられない訳ではない。彼を信頼していない訳でも無い。単に、自分が人を好きになるという行為に絶望的に向いていないと知っているだけだった。

「また寂しそうな顔をしてるな、と思って」
「情けない顔の間違いじゃない?」

彼は否定も肯定もせず、唇に緩く弧を描く。その何も答えない優しさが棘を帯び、柔く心臓に巻き付くような心地だった。

彼が頼んだコーヒーが運ばれてくる。香ばしい香りのオリジナルブレンドと、小皿に添えられた色とりどりの飴玉。
アンバランスな配色が意外と合うことに初めて驚いたのもつい最近のことだったのに、不思議と遠い出来事のように思える。

自分の手では抱えきれない幸運に触れると、こんなにも息苦しくなるだなんて知らなかった。
未だに関係性も空気感も定まらない距離の中で、私は自分のコーヒーをスプーンでかき混ぜた。
何故だか無性に、飴玉を噛み砕きたい気持ちになっていた。