「ジェームズさん、ベリルちゃんに会う気はありますか?」
「ない」

開口一番直球に問いかければ、案の定即座に拒否をされる。予想通りの返答だった。それでこそジェームズさんだと納得しつつ、わたしは笑う。
すっかり慣れた質素な病室の中で座りながら、険しい顔から目を背けて窓の外に視線を投げた。

「分かりました。本人にはそう伝えておきます」
「……ナマエ、何を企んでいる?」
「それは勿論、色々と。わたしは自分のエゴで動く人間ですよ。ジェームズさんはよく知っているでしょう」

数秒の睨み合いの後、先に目を逸らしたのはジェームズさんの方だった。ベリルちゃんとも話し合った結果、無理やり全てを暴くのはやめようという結論に至ったのだ。今まで通りに不可侵の領域には踏み込まないけれど、こちらも出来る範囲で好き勝手にやらせてもらおうと。守られているだけの女でいるのは嫌だから、と。

「……ワシの周りには、お前ほど無欲な人間はいなかった」
「それを言うなら、わたしから見たジェームズさんだってそうですよ」

出自も知れない外国人の女を、自らの工房に招いて仕事を手伝わせてくれた。今もこうして、弟子としてわたしを対等に扱ってくれる。対価や見返りを要求されたことなんて無かった。ただ出来る限り工房に通えと、導き手としての端的な道標をくれた。
わたしが友人としてクリムトくんと真っ向から言葉を交わせるのも、ジェームズさんから貰った勇気と自信が大きかった。身分や能力など関係なく、相手に伝えたいことは口にして良いのだと身をもって教えてくれたから。

「ワシという人間の本質を知らないからそんなことが言えるんだ」
「やっぱり師弟って似るんですかね。全く同じ言葉を返します」

これは平行線ですねえと首を傾けながら笑えば、真っ直ぐに目が合った。出会った頃から変わらない透き通ったグリーンには、ホームズくんともベリルちゃんとも異なる柔らかさが確かに宿っていた。お互い頑固なのは分かっているからと腰を浮かせる。

「それでは、今日はもう戻りますね。まだ色々な作業も残っているので」
「あの小僧は迎えに来るんだろうな?」

深手を負っているにもかかわらずこちらを心配してくれる不器用な優しさに、つい口が緩んだ。

「ええ。なので、ジェームズさんは安心して眠ってくださいね」



病院の一階、待合室には深刻な顔をした友人達が座っていた。わたしが階段から降りてきたのを見た瞬間、パッと顔を上げて駆け出してくる。

「ナマエちゃん! 良かったわ……」
「ベリルちゃん、待たせてごめんね。亜双義くんも」
「いや、構わない。大事ないようで安心した。……オレが発見した時点でかなりの出血だったからな」

ベリルちゃんの両手に触れると微かに震えていた。少しでも落ち着くように、とぎゅっと握り締めてから、若干バツの悪そうな顔をした亜双義くんへと目を向ける。自分の言葉でベリルちゃんを不安にさせたと後悔しているのだろうか。相変わらず真面目で不器用なひとだなあと眉を下げる。

「出血多量だったから、通りがかった亜双義くんも偶然すぐ発見できた訳だからね。不幸中の幸いってところかな」
「……いや、偶然ではないんだ」
「え?」

わたしが情けない声をあげても、ベリルちゃんは神妙な面持ちを崩さない。そういえばジェームズさん発見時の詳しい状況は聞けていなかったな、と指先を顎に当てつつ二人に目を配る。

「苗字、バンジークス夫人。出来れば場所を移して話したい」
「そうだね、分かった」
「申し訳ないのだけれど、今やバンジークス家の屋敷も安全とは言えないわ。……わたくしには個人的なツテも無くて」
「オレも関係者ということで行動範囲は目をつけられているだろう。苗字、悪いがベーカー街で匿ってもらえないか」
「うん、それがベストだろうね。ちょっと待ってて」

いざという時のために、と渡されていた防犯グッズの中から通信機能を持つペンを取り出す。ホームズくんと連絡を取れば、案の定すぐに了承の返事がきたので馬車を呼んだ。



「おかえり、名前」

ホームズくんはそう言って、ベーカー街221Bにて両手を広げて迎えてくれた。
英語圏では一般的な挨拶とは言い難い「ただいま」も「おかえり」も、わたしが生きていた日本の文化に寄り添うように自然と口にしてくれるから。その無償の優しさについ顔を綻ばせる。

「ただいま、ホームズくん。急にごめんね」
「構わないさ。ちょうど工房へ向かうところだったからね」

ゆるりと柔く目を細めてから、ホームズくんがわたしの背後へ視線を向ける。

「さて。お客人もようこそ、我が家へ」
「ああ、邪魔をする」
「探偵さん、お世話になります」

いつも通り中に入ろうとすれば、ベリルちゃんがわたしの袖を引くのが分かった。亜双義くんもホームズくんも気を遣うように客間へと向かってくれたから、そのまま振り返って笑いかける。彼女の眉間に深く刻まれた皺をそっと指先で解すと、ハッとしたようなグリーンの瞳が瞬いた。

「ベリルちゃん、どうしたの? そんなに難しい顔して」
「ナマエちゃん。あのね、一つだけ貴女に誓わせてほしいの」
「誓う?」
「そう。……わたくしはもう、自分に向く悪意から逃げないわ。たとえ自分の命が散ることになったとしても」
「……その誓い、わたしは受け取れないかな」

何故、とでも言うように眉を下げた彼女の華奢な身体を抱き締める。普段から重たい責務を背負った友人の柔らかな髪からふわりと華やかな香水が薫った。胸の奥をそっと柔く包み込んでくれるような、朝日を想わせる切ない香りだった。

「ベリルちゃんには、責任を果たすための死を選んで欲しくないから」
「……何の意味もなく死ぬだなんて、バンジークス家の人間として出来ないもの。せめてクリムトさまのお役に立たなければ」
「あのね、もし的外れだったら申し訳ないんだけど。自分が情けなくて消えたくなる気持ちなら、少し分かるんだ。……あくまでわたしの場合ではあるんだけど。自分がいなくなることで、自分を大事に想ってくれるひと達が悲しんでくれるなんて想像する余裕……無かったから」
「…………、」
「でもね。身勝手かもしれないけど、ベリルちゃんが死ぬかもしれないって考えるだけで、とっても悲しくなるんだ。きっとクリムトくんもそうだと思う。……実際、わたしは彼が家族のために努力している姿を知っているから」

腕の中で彼女が小さく何度も頷いた。肩口が濡れていく様を見て、かつて心の瘡蓋を自分で引き剥がしてばかりいた頃のわたしを思い出す。

「ベリルちゃんがわたしの心を守ってくれたみたいに、出来る限りわたし達も頑張るから。もし良ければ、これからも傍で見守っていてほしいな」

ぐずぐずと子どものような声を押し殺す彼女のいじらしさを抱き留めるように、何度も何度も頭を撫でた。
客間から男性陣の朗らかな笑い声が響く。御琴羽くんを中心に話を回してくれているようだと状況を把握しつつ、意識的に明るい声を出す。

「ベリルちゃん、もう少し此処にいる?」
「…………ッいいえ、ごめんなさい。もう大丈夫よ、行きましょう」

瞳を赤く染めながら、僅かばかり固い笑顔が花開く。緑の瞳に薄く張られた涙の膜が煌めいて美しかった。それはバンジークス家の庭園に咲く花々のようであり、いつか彼女と共に見ると約束したグリーンフラッシュのようだと思った。




「おかえりなさい、名前」
「うん、ただいま。御琴羽くん」

リラックスしたように座る御琴羽くんが、微笑みながら手を上げる。わたしも同じ仕草を返してからベリルちゃんをソファーへと案内した。

「さてと、本題に入ろうか」

ホームズくんがピンと人差し指を立てる。相変わらず、柔和な表情のまま緊張感を掻き立てるのが上手な探偵だった。
ベリルちゃんも亜双義くんも背筋を凛と伸ばしながら、何やら考え込むような表情をしている。

「ではミスター・アソウギ、頼めるかな」
「ああ。どこから話したものかと思っていたが、本人から了承は得たのでな」
「……?」

首を傾げる。了承を得た、という口ぶりから察するに協力者がいたのは間違いないだろうけれど。今はまだ事態の全貌が掴めていなかった。
亜双義くんは一瞬こちらを鋭く見つめ、やがて視線を外した。

「……とある筋から、近頃怪しい動きをしている者がいると噂を聞いたんだ」

とある筋、というは亜双義くんの守秘義務に関わるのだろうか。頷きながら先を促した。

「オレは一人で調査を進めていたのだが……、その過程でこちらのホームズ氏と知り合ってな」
「ミコトバからも名前からも話は聞いていたからね。人となりも察していたし、ボク自身の目で見極めようと考えて接触したんだ」

ホームズくんと目が合った。その微笑みの裏にあるであろう柔らかな信頼を感じ取る。

「苗字は覚えているか? イーストエンドでレストレードと出会い、オレがキサマから墨を貰ったあの日のことを」
「うん、勿論。あの辺りに亜双義くんがいるのは珍しいなって思っていたけど……、まさか」
「そのまさか、だね。ボクが彼に依頼して下町周辺を探ってもらっていたんだ」

身近な二人が協力関係にあったという事実に、驚愕しつつも納得する。ホームズくんも亜双義くんも損得勘定を抜きに物事を考えて、真実を追い求めようとするひとだから。目的が合致したら手を組むのは自然だろうし、探偵と警察という立場であれば共にいても街の調査をしていても然程不自然ではない。

「苗字には、先程伝えようとしていた事実だが。……ジェームズ・サザーランド氏が狙われる可能性を、オレは事前に知っていた。だから迅速に発見できたんだ」
「なんて、ご自分だけが悪者のように仰っているけれど。ミスター・アソウギは、おじさまを病院に送り届けてからすぐにわたくしの身の安全を確認しに来てくださったのよ」
「そっか……。ありがとう、亜双義くん」

真っ直ぐに見つめてお礼を言えば、何故か目を逸らされる。珍しいと思った。亜双義くんはいつだって誠実に相手を見つめ続けるひとだから。けれどこちらが遠慮して口を閉ざすことは望まないだろうと居住まいを正す。

「亜双義くんは、ベリルちゃんが狙われる可能性も知っていたってことだよね?」
「ああ、そうだ。サザーランド氏もバンジークス夫人もオレの護衛対象だったからな。……少なくとも最悪の事態は防げたようだ」
「うん、本当にありがとう。……だから亜双義くん、そんな顔しないで?」

出来る限り優しい口調で告げれば、亜双義くんは弾かれたように顔を上げた。オレはどんな顔をしているんだ、とでも言いたげな、どこか驚愕を帯びた顔に向けて微笑む。まるで迷子の子どものような表情だった。けれどそれは友人の域を越えた言葉になるだろうから、口にはしない。

「ねえ。なんで二人は、わたしやベリルちゃんにこの話をしてくれたの?」
「線引きをしたかったからだ。オレの捜査範囲に、これ以上踏み込まないでくれと」

日本刀を眼前に突き付けられたかのような、緊迫した気迫を感じる。立場は違えど己の信念を貫こうとする人の瞳だと思った。わたしでは肯定も否定も出来ないな、と肩をすくめる。

「……うん、亜双義くんの気持ちは分かった。ホームズくんはどう?」
「ん? ボクは別に、キミ達の行動を制限するつもりはないがね。知らないよりは知っている方が良いと考えたまでだ」
「なるほど。ちなみに御琴羽くんはこの話を知ってた?」
「初耳です。飼い犬に手を噛まれるとはこういうことか、とまざまざ思い知りました」
「おいおい、ミコトバは相変わらず遠慮が無いな」

和やかに言葉を交わし合う相棒たちの横で、亜双義くんは腕を組んだまま視線を下ろしている。

「……わたくしは引く気はないわ、ミスター・アソウギ。貴方の捜査にも行動にも、今まで以上に踏み込ませて頂きます」

花々に恵みをもたらす雨のように彼女は笑った。亜双義くんはその煌めきを受けて、仄かに影を落とした瞳を鋭く尖らせる。

「このままであればキサマだけではない、バンジークスの身を危険に晒すとあってもか?」
「自分の身の安全だけを考えるならば、元よりこの場には立っておりませんもの。安全な場所で耳も目も塞いで蹲っていればいい。けれどそれだけは出来ないのです。私にはバンジークス家を守る義務があるのだから」
「……それをバンジークスが望むとでも?」
「利他的な精神をお持ちの方から、自己犠牲なんてするなと言われるのも……不思議な話でしょう?」

プライドと意地のぶつかり合いだ。どちらが正しいとも間違っているとも言えず、両者の高潔な精神が衝突し続けるのが目に見えている。

「亜双義くん、ベリルちゃん」
「……」
「……」

二対の瞳が向けられた。本音と建前が入り交じった、拗ねた子どものような目だった。大切な友人たちだからこそどちらかに肩入れすることもしたくない。

すると、柔らかな声が空間を斬り裂く。

「あまりウチの名前を困らせないでくれ」
「ウチのって……わたしは探偵業には一切関知してないけどね?」
「それでも家族だろう、ボクたちは。だから守りたいし何かあれば助けになりたい。……ミスター・アソウギとミセス・バンジークスにも、根底には他者を思いやる気持ちがあるのは間違いないだろうからね」

家族、という言葉に一瞬思考が停止する。ホームズくんとの関係性を名付けるのに、恋人もパートナーもどこかしっくりこないとは薄ら感じていたのだけれど。……そうか、家族か。
そうして思索を巡らせるわたしの様子に微笑んだ御琴羽くんが、真正面に対峙する二人の肩を叩いた。

「互いに譲れないものがあり、貫きたい信念がある。けれど腹の中を全てさらけ出すことも難しいでしょう。ここは一つ、現状のまま妥協点を探すというのはいかがです?」
「オレは、何も譲るつもりはない」
「それを言うならば私だって同じです」
「おやおや、これは困りましたねえ」

にこやかに肩をすくめる友人に、じとりと目を向ける。

「御琴羽くん、この状況を楽しんでない……?」
「いいえ? ただ、亜双義がここまで人と言い合うのは珍しいので愉快だなと」

確かに、亜双義くんは愚直で熱血漢だがちゃんと弁えている大人の男性だ。わたしも時折お小言を頂戴するとはいえ、意地になる姿はなかなか見ない。亜双義玄真をそこまで駆り立てるものは一体何なのだろうか。
だが、だからこそこのまま無理やり解決に向かわせるのは悪手だろう。どうしたものかと首を捻っていれば、ぽんと柔く肩が叩かれた。

「ミコトバも名前も随分と困っているじゃないか」
「言っておくけど、根本的な原因の一つはホームズくんの秘密主義っぷりにあるからね」
「おや、何のことやら」
「まったくもう……。詮索はしないけど、皆に被害が及ぶならキチンと説明してもらいますからね」
「仰せの通りに、マイレディ」
「……調子がいいんだから」

ホームズくんも亜双義くんも、何故ジェームズさんを追っていたのか明確な理由は打ち明けないままだ。それはわたし達に危害が及ぶことを危惧してくれているからだろうし、強引に首を突っ込むつもりは無いけれど。

悔しげに視線を落とすベリルちゃんの横顔を見つめる。彼女が大英帝国の巨大な闇へと立ち向かうのであれば、友人として出来る限り支えてあげたかった。

ぎこちない空気は消えない。一朝一夕で解決するような問題ではないため、一旦は二人の気持ちを落ち着かせる手伝いでもしようとキッチンへ身を翻す。ベリルちゃんの好きなハーブティーと、亜双義くんが好む日本茶を淹れようと思った。

わたしもまた、何故だか得体の知れない胸騒ぎを感じていたから。家族のような友人達へと手向ける温かなお茶を、一気に喉の奥まで流し込んでしまいたい気分だった。