02:惑溺せし寒星
「名前」
「はい、夕神くん。何でしょう?」
傍から見ればふてぶてしい態度の後輩だが、私からすれば一年前と変わらずに美しい男の子のままだった。検事としての経験も心理学の知識も蓄えて、むしろ芯のある清麗な精神は日々清らかさを増しているようにさえ思えた。今日も朝から顔を拝めるだなんてラッキーだ。
歳も検事としての歴もあまり変わらないが、尊敬の念を込めて敬語は崩していない。時折眉を顰められているのは分かっていたけれど、どうやらこれも私の真面目な性分が表れているらしかった。
「今夜、空いてるかい?」
「はい、今日は特に残業の予定もないですし。何かお手伝いすることでも?」
「……男が女を飯に誘う理由、いくらおめえさんでも想像くらいつくだろう」
「うーん……。痴情のもつれによる脅迫? もしくは美人局か結婚詐欺の準備ですかね?」
「はいはい。相ッ変わらず名前サンは仕事ばっかりで真面目だねェ」
どうやら期待に応えられなかったらしい。真摯に答えたのに何故だろうと首を傾げていれば、大きな掌が私の頭をゆっくりと撫ぜていく。いつも通りの繊細で柔らかな手つきが心地好くて目を細めた。事ある毎に触れてくれるのは嬉しいものの、私からは何もお返し出来ずに悩むばかりだったけれど。
しかし、その日はいつもと何かが違った。瞳の煌めきがどこか翳りを帯びていて、慎重に言葉を選んでいるような気配を感じる。私相手に気など遣わなくても良いのに。
「夕神くん、何かありました?」
「……何もねェから悩んでるって言ったらどうする?」
「それはまた難解ですね……。心理学に関する課題ですか?」
「まァ、そんなところかねェ。ともかく考えておけよ」
「え?」
「何が食いたいか。それくらいは名前でも答えられるよなァ」
何となくはぐらかされたような気がしたものの、素直に大人しく頷く。私に自ら何かを望む資格なんて無いとは思うけれど、他でもない夕神迅が望むのであれば。
堅物とさえ称される頭を絞った結果、ぽつりと浮かんだ案はあったものの、そんな些末な思考は呆気なく溶けて消えてしまった。検事局に衝撃的な迅雷を巻き起こした、夕神迅の逮捕というニュースによって。
「……夕神くん」
「…………。名前、悪かったなァ」
留置所の面会室で相まみえた夕神くんの瞳は、出逢った時よりも一層輝きを増し、流れ星のように唯一無二の光を宿していた。目の前の男の子が殺人犯として逮捕されたことよりもずっと、私にとってはその事実の方が大切だった。
夕神迅は、きっと、今でも何かの目的をもって己の信念を貫いているのだ。
「謝るのは私の方です。……今回の担当検事を志願したのに、話さえ聞いてもらえませんでした」
「だろうなァ。殺人犯の罪を隠蔽するかもしれねェ検事なんてお笑い草でしかねェ」
「私が夕神くんを守ろうとするって、信じてくれたんですね。嬉しいです」
「……それぐらい分からァ。おめえさんは呆れるくらい物好きだってな」
私たちの間を隔てる硝子に、そっと手を添える。夕神くんはいつも通り背筋をピンと伸ばしながら微動だにしない。無機質な冷たさが指先からジワジワと伝わって広がって、ついに腹の底から薄暗い想像が迫り上がる。
「……ねえ、夕神くん」
「……、なんだァ」
「私の家族のこと、知っちゃいました?」
眉が僅かに吊り上がる。その仕草だけで充分だった。
犯罪者の父を持ち、それを苦に母も他の家族も自殺した過去。それを、私の知る限り誰よりも清らかな男の子に知られてしまった。だから夕神くんはあの時、何か言いたげな顔をしていたのだろう。
「……加害者の遺族だと知って、幻滅しましたか?」
「そんなことある訳ねェ」
「…………。でもね、夕神くん。私の背景を知った上で私を信頼してくれるひとなんて、誰もいなかったんです。社会的な信用を回復するべく仕事を頑張っても、私の血にまつわる話がどこまでも這い回って、……結局ダメでした」
「…………、」
「なんて、私のことは良いんです。自分語りが多くてすみません。……あの時のお父さんはね、ひどく濁った目をしていた。だから諦めることが出来た。でも夕神くんは違います。今でもあなたは何もかもが繊細で美しい」
「……そんなことで、おめえさんは俺なんかを信頼するのかい」
いつになく静かな声だった。夜を覆い尽くす星々のように手の届かない、いつだって私の胸を照らすやさしい音。
「そんなこと、じゃないんです。夕神くんは、私の名前を知っても私の過去を知っても、何も変わらないでいてくれました。……とても言葉じゃ伝えきれないくらい、感謝しているんです」
「…………名前」
「はい」
「俺のことを、忘れるつもりはあるかい」
「……そんなことをするくらいなら、腹を切るかもしれません」
「だろうなァ……」
清々しいくらい大きくて深い溜め息が落とされたかと思えば、星の煌めきを宿した瞳に、凛と射抜かれる。
「ならこれから先、俺に関することで泣くんじゃねェ」
「……え?」
心当たりが無くて首を傾げると、何故か視界がひどくボヤけて驚いた。目頭が熱くて目尻から何かが零れ落ちていくような気がして、恐る恐る自分の顔に触れれば温い水分で濡れる感覚がする。
「……私、もしかして泣いてます?」
「あァ」
「泣き方なんて、……ずっと昔に忘れちゃった筈なんだけどなあ」
みっともない顔を見られたくなくて、咄嗟に両手で顔を覆う。けれど夕神くんからは視線を逸らしたくないから、目元だけハンカチで拭ったあと誤魔化すように笑った。人って、感動したり切なくなったりしたら、こんなにも自然に泣けるものなんだ。
「名前」
「……はい」
「俺は、人としても検事としてもおめえさんのことを尊敬してるのさ」
「……そん、けい?」
「言葉を忘れた童みてェに喋るなァ」
「だって……ソンケイって、あの、相手を敬い慕うという意味の言葉、ですか?」
「それ以外に何かあるンなら言ってみな」
「ええと……車蛍孫雪 を略して語順を入れ替えた、なんてどうでしょう?」
「法廷なら問答無用でペナルティになる答えだろうよ」
「……ですよね」
受け入れ難くてつい惚けてしまった。だって、私が抱くならまだしも、夕神くんが私に対して向ける思いとしては違和感しかなかったから。
「名前は真っ直ぐすぎるんだ。全部一人で抱え込みやがって」
「ええ……?」
「どんなに下から後ろ指を指されても、上から成果を認められなくとも、おめえさんはずっと前だけを向いてるよなァ。しかも俺が強引に過去まで調べたのに、恨み言ひとつ吐かねェ」
「嫌がる理由は無いですし。……でも夕神くん、何でそんなに私について知りたがるんです?」
薄い唇の上に一瞬だけ三日月が浮かぶ。パチンと、心臓の奥で星が弾けたような気がした。
「答えは言わねェ。おめえさんも理由なんて考えなくていい」
「……分かりました、努力します。だから、夕神くん」
「なんだァ?」
「これからもずっと、会いに来て良いですか」
「……良い訳ねェだろうが」
「なら、先程の約束は無かったことにしましょう」
にこりと笑って告げる。再びの溜め息と、三日月から新月に移ろう顔を間近に浴びた。夕神くんはいつも、最後には必ず折れてくれると知っているから。
「…………、俺の負けだなァ。名前」
「はい」
「俺のことなんざ待たなくていい。信じる必要もねェ。だが、泣くなら俺の前で泣け」
「……なら、夕神くんは誰の前で泣くんですか?」
ぱちり、と意外そうに瞳が瞬く。そのまま鋭く細まった両目が、やわらかく私を捉えた。
「少なくとも、おめえさんの前では絶対に泣かねえな」
その言葉を最後に、面会時間は終わってしまった。けれど良かったのかもしれない。夕神くんの、その明確な線引きを示す言葉に対して返すものを、あの時の私は何も持っていなかったから。
それから間もなく夕神くんの裁判は執り行われた。現役検事による殺人。世間も検事局でさえも厳しく断罪することを求めた結果、下された判決は有罪。そして……死刑だった。
「はい、夕神くん。何でしょう?」
傍から見ればふてぶてしい態度の後輩だが、私からすれば一年前と変わらずに美しい男の子のままだった。検事としての経験も心理学の知識も蓄えて、むしろ芯のある清麗な精神は日々清らかさを増しているようにさえ思えた。今日も朝から顔を拝めるだなんてラッキーだ。
歳も検事としての歴もあまり変わらないが、尊敬の念を込めて敬語は崩していない。時折眉を顰められているのは分かっていたけれど、どうやらこれも私の真面目な性分が表れているらしかった。
「今夜、空いてるかい?」
「はい、今日は特に残業の予定もないですし。何かお手伝いすることでも?」
「……男が女を飯に誘う理由、いくらおめえさんでも想像くらいつくだろう」
「うーん……。痴情のもつれによる脅迫? もしくは美人局か結婚詐欺の準備ですかね?」
「はいはい。相ッ変わらず名前サンは仕事ばっかりで真面目だねェ」
どうやら期待に応えられなかったらしい。真摯に答えたのに何故だろうと首を傾げていれば、大きな掌が私の頭をゆっくりと撫ぜていく。いつも通りの繊細で柔らかな手つきが心地好くて目を細めた。事ある毎に触れてくれるのは嬉しいものの、私からは何もお返し出来ずに悩むばかりだったけれど。
しかし、その日はいつもと何かが違った。瞳の煌めきがどこか翳りを帯びていて、慎重に言葉を選んでいるような気配を感じる。私相手に気など遣わなくても良いのに。
「夕神くん、何かありました?」
「……何もねェから悩んでるって言ったらどうする?」
「それはまた難解ですね……。心理学に関する課題ですか?」
「まァ、そんなところかねェ。ともかく考えておけよ」
「え?」
「何が食いたいか。それくらいは名前でも答えられるよなァ」
何となくはぐらかされたような気がしたものの、素直に大人しく頷く。私に自ら何かを望む資格なんて無いとは思うけれど、他でもない夕神迅が望むのであれば。
堅物とさえ称される頭を絞った結果、ぽつりと浮かんだ案はあったものの、そんな些末な思考は呆気なく溶けて消えてしまった。検事局に衝撃的な迅雷を巻き起こした、夕神迅の逮捕というニュースによって。
「……夕神くん」
「…………。名前、悪かったなァ」
留置所の面会室で相まみえた夕神くんの瞳は、出逢った時よりも一層輝きを増し、流れ星のように唯一無二の光を宿していた。目の前の男の子が殺人犯として逮捕されたことよりもずっと、私にとってはその事実の方が大切だった。
夕神迅は、きっと、今でも何かの目的をもって己の信念を貫いているのだ。
「謝るのは私の方です。……今回の担当検事を志願したのに、話さえ聞いてもらえませんでした」
「だろうなァ。殺人犯の罪を隠蔽するかもしれねェ検事なんてお笑い草でしかねェ」
「私が夕神くんを守ろうとするって、信じてくれたんですね。嬉しいです」
「……それぐらい分からァ。おめえさんは呆れるくらい物好きだってな」
私たちの間を隔てる硝子に、そっと手を添える。夕神くんはいつも通り背筋をピンと伸ばしながら微動だにしない。無機質な冷たさが指先からジワジワと伝わって広がって、ついに腹の底から薄暗い想像が迫り上がる。
「……ねえ、夕神くん」
「……、なんだァ」
「私の家族のこと、知っちゃいました?」
眉が僅かに吊り上がる。その仕草だけで充分だった。
犯罪者の父を持ち、それを苦に母も他の家族も自殺した過去。それを、私の知る限り誰よりも清らかな男の子に知られてしまった。だから夕神くんはあの時、何か言いたげな顔をしていたのだろう。
「……加害者の遺族だと知って、幻滅しましたか?」
「そんなことある訳ねェ」
「…………。でもね、夕神くん。私の背景を知った上で私を信頼してくれるひとなんて、誰もいなかったんです。社会的な信用を回復するべく仕事を頑張っても、私の血にまつわる話がどこまでも這い回って、……結局ダメでした」
「…………、」
「なんて、私のことは良いんです。自分語りが多くてすみません。……あの時のお父さんはね、ひどく濁った目をしていた。だから諦めることが出来た。でも夕神くんは違います。今でもあなたは何もかもが繊細で美しい」
「……そんなことで、おめえさんは俺なんかを信頼するのかい」
いつになく静かな声だった。夜を覆い尽くす星々のように手の届かない、いつだって私の胸を照らすやさしい音。
「そんなこと、じゃないんです。夕神くんは、私の名前を知っても私の過去を知っても、何も変わらないでいてくれました。……とても言葉じゃ伝えきれないくらい、感謝しているんです」
「…………名前」
「はい」
「俺のことを、忘れるつもりはあるかい」
「……そんなことをするくらいなら、腹を切るかもしれません」
「だろうなァ……」
清々しいくらい大きくて深い溜め息が落とされたかと思えば、星の煌めきを宿した瞳に、凛と射抜かれる。
「ならこれから先、俺に関することで泣くんじゃねェ」
「……え?」
心当たりが無くて首を傾げると、何故か視界がひどくボヤけて驚いた。目頭が熱くて目尻から何かが零れ落ちていくような気がして、恐る恐る自分の顔に触れれば温い水分で濡れる感覚がする。
「……私、もしかして泣いてます?」
「あァ」
「泣き方なんて、……ずっと昔に忘れちゃった筈なんだけどなあ」
みっともない顔を見られたくなくて、咄嗟に両手で顔を覆う。けれど夕神くんからは視線を逸らしたくないから、目元だけハンカチで拭ったあと誤魔化すように笑った。人って、感動したり切なくなったりしたら、こんなにも自然に泣けるものなんだ。
「名前」
「……はい」
「俺は、人としても検事としてもおめえさんのことを尊敬してるのさ」
「……そん、けい?」
「言葉を忘れた童みてェに喋るなァ」
「だって……ソンケイって、あの、相手を敬い慕うという意味の言葉、ですか?」
「それ以外に何かあるンなら言ってみな」
「ええと……
「法廷なら問答無用でペナルティになる答えだろうよ」
「……ですよね」
受け入れ難くてつい惚けてしまった。だって、私が抱くならまだしも、夕神くんが私に対して向ける思いとしては違和感しかなかったから。
「名前は真っ直ぐすぎるんだ。全部一人で抱え込みやがって」
「ええ……?」
「どんなに下から後ろ指を指されても、上から成果を認められなくとも、おめえさんはずっと前だけを向いてるよなァ。しかも俺が強引に過去まで調べたのに、恨み言ひとつ吐かねェ」
「嫌がる理由は無いですし。……でも夕神くん、何でそんなに私について知りたがるんです?」
薄い唇の上に一瞬だけ三日月が浮かぶ。パチンと、心臓の奥で星が弾けたような気がした。
「答えは言わねェ。おめえさんも理由なんて考えなくていい」
「……分かりました、努力します。だから、夕神くん」
「なんだァ?」
「これからもずっと、会いに来て良いですか」
「……良い訳ねェだろうが」
「なら、先程の約束は無かったことにしましょう」
にこりと笑って告げる。再びの溜め息と、三日月から新月に移ろう顔を間近に浴びた。夕神くんはいつも、最後には必ず折れてくれると知っているから。
「…………、俺の負けだなァ。名前」
「はい」
「俺のことなんざ待たなくていい。信じる必要もねェ。だが、泣くなら俺の前で泣け」
「……なら、夕神くんは誰の前で泣くんですか?」
ぱちり、と意外そうに瞳が瞬く。そのまま鋭く細まった両目が、やわらかく私を捉えた。
「少なくとも、おめえさんの前では絶対に泣かねえな」
その言葉を最後に、面会時間は終わってしまった。けれど良かったのかもしれない。夕神くんの、その明確な線引きを示す言葉に対して返すものを、あの時の私は何も持っていなかったから。
それから間もなく夕神くんの裁判は執り行われた。現役検事による殺人。世間も検事局でさえも厳しく断罪することを求めた結果、下された判決は有罪。そして……死刑だった。