「名前くん」

あれから七年も経てば環境も変わる。法廷における不正が正当化され、法の暗黒時代などと称される環境になったが、個人的には以前よりも余程働きやすい職場になったと感じる。
それも一重に、たった今呼びかけてくれた上司のお陰だ。裁判資料を大切に抱えながら振り返れば、真っ赤なスーツと首元のヒラヒラが堂々と靡いている。

「御剣さん、お疲れ様です」
「ああ。もし良ければなんだが、君の時間を少し貰えるだろうか」
「……もしかして、美人局か結婚詐欺の準備ですか?」
「む? ……名前くんには今、そのような案件は渡していなかった筈だが」
「すみません、冗談です。……昔、夕神くんとそんなやり取りをしたことがありまして」

すっかり髪が伸びた私の光を思い出して笑っていると、検事局長が何かを見定めるように目を細めていた。

「……君は、やはり変わらないのだな」
「御剣さんと出逢ってからはだいぶ歳も取りましたし、少しは検事として成長していたら良いんですけどね。もうすぐ三十路ですから」
「勿論、入局以来ずっと誠実に職務に向き合ってくれている貴重な人材として、頼もしく思っているとも」
「あ、気を遣わせて申し訳ありません。それでご用事とは?」

場所を変え、居住まいを正してから、御剣さんは神妙な面持ちで迅雷を落とした。

「……他でもない、夕神のことだ」

久しぶりに心臓が縮むかと思った。どうやら御剣さんは、夕神くんを囚人の立場でも検事として法廷に立てるように取り計らうつもりだと言う。
さすがはあの有名な弁護士と熾烈な舌戦を繰り広げた敏腕な検事局長だ、と舌を巻く。権力を公平に扱える聡明なひとだ。私の過去について何も言わず、実力を挙げれば登用してくれた事実からも充分理解はしていたけれど。

「それで名前くんには、夕神のサポートを頼みたいのだが……」
「御剣さん。その話、もう夕神くんにしました?」
「いや。君の意思を確認するのが先だと考えたのだが」
「……せっかくのお気遣いなのですが、お断りしたいです」

心底意外そうに、御剣さんは眉間のヒビを僅かに緩めた。

「一体何故? 嫌な訳ではないだろう」
「私、決めているんです。次に刑務所の外で夕神くんに会うのは、彼の身の潔白が証明されてからにしようと。……何より、彼自身がそれを望まないと思いますから」
「うむ、そうか。……分かった。ならば代わりとなる警察官を手配しておこう」

生真面目に頷いてから、御剣さんは足早に去っていく。昨今の情勢もあって検事局長が多忙なのは分かっていたから、深々とお辞儀をしながら見送った。

……そうか、夕神くんが再び法廷に立つのか。ならしばらくは面会も手紙も控えよう、と決意する。だってきっと、今あなたの顔を見て言葉を交わしたら、未来の可能性が頭をよぎってみっともなく泣いてしまうだろうから。

それ以降、夕神迅は再び法曹界にて大きく話題になっていった。希月心音弁護士の名前と共に。
成歩堂なんでも事務所の面々は、確実に司法界を揺るがす事件に関わっては、心理操作を巧みに操る夕神くんを打ち破っていくのだから大したものだった。……さすがは、夕神くんが何よりも大事に守ろうとする宝物だ。



「ちょっと名前! 何で最近わたしに会いに来ないのよ!」

かぐやさんから電話で連絡が入ったのは、法廷で一人、鷹のギンを愛でていた時のことだった。
彼の掌の温かさが恋しくなる度、彼が愛でていたこの子に会いに来ていたが、もうすっかり家族のような愛おしさを感じてしまう。驚かせたことに対する謝罪を込めて顎を撫ぜれば、嬉しそうに擦り寄ってくれた。やはり可愛い。それにほんの少しだけ、夕神くんの香りがするような気がした。

「す、すみません。かぐやさん……。最近仕事が忙しくなってしまって」
「嘘ね。ジンのことを避けてるんでしょう」
「……避けている、という訳ではないんですが」
「……ジンのこと、もう嫌いになった? もしくはあのお姫サマに遠慮してる!?」
「オヒメサマって……希月心音さんのこと、ですよね」
「嫌いになったかどうかの質問には答えてないじゃない!」
「勿論、夕神くんのことは嫌いにはならないですよ?」
「そりゃ名前のことは信じてるけど。……絶対ないとは、言えないでしょ」

思いのほか弱々しい声に瞠目する。かぐやさんはずっと、大切なひとを次々に失った悲しみを心の奥で抱き続けてきた。だからこそ強気な姿勢を貫く姿がいつもとは違い陰っていて、切なさと申し訳なさに胸を突かれる。

「寂しい思いをさせてごめんなさい、かぐやさん。近い内に会いに行っても良いですか?」
「勿論良いわよ! ならさっそく今日来てね、待ってるわ! 絶対だからね!」
「え。今日ですか?」

唐突にブチリと通話が切れてつい苦笑する。夕神くんの想いや気配を感じるのが切なくて、宇宙センターには敢えて行くのを避けていたのだけど。かぐやさんはきっとそれも見越しているのだろう。彼女は懐に入れたひとに対しては特別甘いから。

ちらりとスケジュール帳を確認する。実の所、最近は夕神くんに割いていた時間を全て仕事に回していたから、そこそこ余裕はあった。先延ばしにしても再び電話がかかってくるだろうからと、御剣さんに話を通した上で足を向けることにする。

夕神くんが殺人犯として断定された事件現場。いくら検事として成果を上げようと、事件の捜査を独自に進めようとも、その事実を覆せなかった無力な自分。その愚かさに向き合うのは、やはり未だに怖かったけれど。

大きく深呼吸をしてから、センターのエントランスに足を踏み入れようとした、その時だった。

「あっ……!」

それは小さな声だった。驚愕に塗れた、ほんの僅かな恐怖や喜色も滲む凛とした音。
反射的に振り向いた。想像通りの、いやそれ以上に立派に美しく成長した女の子がいた。
黄色いスーツに空色のネクタイ。焼きたてのパンのように柔らかな色を宿した、真っ直ぐで長くて綺麗な髪。頭を彩るリボンも鮮やかで若々しくて愛らしい。

あの子だ、と確信した。歳上の女として、まずは怪しまれないように声をかけるべきだろう。

「……こんにちは」
「こ、こんにちは! あの……わたしのこと、覚えていますか……?」

萎縮したように目線を逸らされてしまった。今とはまるで雰囲気が違うけれど、彼女が幼かった頃に顔を合わせたことを、私はハッキリと覚えていた。確か夕神くんに仕事で緊急の用事が発生して、慌てて彼女のお母様の研究室を訪れたと記憶している。

「ええ、覚えていますよ。希月心音さん、ですよね」
「は、はい! そうです!」
「すっかり綺麗な女性に成長されましたね。噂ではアメリカで弁護士資格を取得されたとか。……とても努力家でいらっしゃるんだなと感動していたんです」
「えへへ……そんな……」

年相応の笑顔で、嬉しそうに照れくさそうに髪を指先で撫でている。やはり昔と変わらずに純粋な女の子だと思った。私とは大違いだ。

「ウレシイ!」
「え?」

唐突に耳に届いた電子音声の元を辿れば、彼女の胸元で緑に光る小さな丸い機械を見つける。緑色にニッコリと笑っていて随分と愛らしい。

「あ、モニ太! ごめんなさい、この子は……わたしの本音を代弁してくれる機械なんです……」
「可愛いですね。モニ太くんとおっしゃるんですか」
「は、はい! 母が残してくれたもの……でして……」
「そうでしたか……。改めて、心からお悔やみを申し上げます」
「いえ、そんな……。わたしの方こそ、名前さんにずっと謝りたくて……」

希月真理さん。夕神くんのお師匠様で心音さんのお母様。かぐやさんからも話は聞いていたけれど、心理学にも機械にも造詣が深いとは恐れ入る。
裁判の知識ばかりを極める無知な私とは大違いだ。等と夕神くんの前で口にしたら怒られるのは経験則で理解しているから、思考するだけに留めておくけれど。

「その謝罪は、夕神くんの投獄に対する責任を感じているから、ですか?」
「……はい」
「なら不要です。夕神くんも同意見だって、心音さんなら分かるでしょう? 彼が刑務所に入ったのはあなたのせいじゃないですから」
「でも名前さんは……最愛の恋人と七年間も離れ離れなんですよね? そんなの絶対辛いに決まってます……!」
「え?」

悲痛そうに叫んでくれているが、心音さんが発した予想外の響きに頭がついていかない。

「コイビトって……魚の鯉が擬人化した人のことですか?」
「え!? そんな人いるんですか!?」
「いえ、聞いたことはないんですが……。夕神くんが鯉に変身できるなら大変興味深いですし、心音さんがいると仰るならいるのかなと」
「……あ、なるほど。夕神さんの言っていた『名前は超ド級の天然』ってこういうことですか……」
「テンネン?」
「いえ! 気にしないでください!」
「そうですか……? 分かりました」

コイビト、……恋人。相思相愛の二人が合意を得た上で築くパートナー関係。少し考えればさすがに思い至ったが、とても烏滸がましくて肯定する気にならない。知らないフリを続けよう。

「ともかく私は、夕神くん本人が決めたことに対して何か言うつもりはないですし、そんな資格はないと思っていますから」
「……はい。ありがとうございます。……でも、」
「どうしたんですか?」
「夕神さん、ずっと……心の声が寂しそうで、悲しそうで、苦しそうで、……幸せそうで、嬉しそうで。偶然名前さんの話題が出た時なんて、……とても言葉では言い表せないくらいだったんです」
「……私、夕神くんにずっと付きまとっているような人間ですから。そのことで何か思う部分でもあったのでは?」
「で、でも、それだけじゃ説明がつかなくて……!」
「私では分かりかねますね、お役に立てず申し訳ありません。……心音さん、用事があるのでここで失礼しますね」

これ以上ここにいて、かぐやさんにこの光景を見られたら心音さんが彼女の言葉で傷付いてしまうかもしれない。ならば私がすぐに去るべきだ。
処世術として身につけた笑顔を張り付けてから、サッと踵を返した。宇宙センターの中に入れば彼女は追ってこないだろうと理解した上での振る舞いに、自分で反吐が出る。他者から向けられる言葉をシャットアウトする技術だけは、きっと私は誰よりも巧みだった。

夕神くんが自分の命よりも大切に想っていて、この世の何よりも守りたいと願っている存在。そして、夕神くんを助けようと世界で一番努力をしてきた女の子。
心音さんはきっと、本当の意味で夕神くんを救える唯一の子だから。私は彼らのために、出来る限りのことをしようと再度決意した。