一目見て、まるで夜みてェな女だと思った。

背筋をピンと伸ばす凛とした佇まいに、清潔に束ねた髪、モノトーンの慎ましいスーツ。その飾りっけのない横顔の美しさを浴びて、正直息を呑んだ。
辛気臭い訳でも陰気な雰囲気を纏う訳でもなかったが、ひどく静かな暗い湖を想起させた。真夜中に振るう剣のように鋭く周囲を寄せ付けないが、弱さも甘さも全てを抱き留める海のような底知れなさも感じる。

若手検事の星と呼ばれ、成人したてでイキがっていたガキの俺は、落ち着きはらった年上の大人にたじろいでいたのかもしれない。今まで身近な女だった姉貴は、世話焼きだが気が強く喧嘩だってしょっちゅうだった。反対に物静かで自己主張をしないヤツならいくらでもいたが、ひどくつまらねェ連中だと見下していたような気がする。

検事局の廊下を歩き、動揺を悟られないように淡々と近づいて行く。談話スペースにいた彼女がこちらに気付いて顔を向けた。そして、目が合う。
きっと、ひどくつまらなそうな顔をされるだろうと思っていた。興味も持たれないまま冷たくあしらわれるか、はたまたビジネスライクで表面的な作り笑顔を浮かべられるか。

それなのに、彼女はひどく柔く笑った。無二の宝でも見付けたかのような、長らく出会えなかった形見に巡り会えたかのような、とんでもねェ奇跡に遭遇したような。……心から俺を慈しんでいるみてェな、そんな、ただ綺麗な顔だった。

恐らくは一目惚れだったんだろう。相手の中身も何も知らねェのに惚れるだなんて、それこそ眉唾物だと馬鹿にしていたくせに。

「夕神迅って、繊細で綺麗なお名前ですよね」

彼女はまた笑う。夜明け前の星明かりを詰め込んだみてェな瞳を、純粋にキラキラと輝かせやがる。

「はァ?」

そうして俺は、彼女に落ちた。純粋で真面目で頑固で柔軟で聡明で、頭でっかちな俺なんぞを繊細で綺麗などと宣う女に、心臓をまるごと持っていかれちまった。



それから約一週間。運良く仕事で接する機会は多かったが、しかし俺は暇さえあれば理由をつけてわざわざ会いに行き続けた。

「夕神さん、お疲れ様です」
「……お疲れさん。名前サンは相変わらず、堅ッ苦しい喋り方をしやがるなァ」
「これが私の標準装備でして。……でも、少し不思議な感覚ですね」
「何がだァ」

職場では無垢に微笑むか生真面目な顔しかしない彼女が、その時ばかりは照れくさそうに、そっと小さくはにかんだ。

「誰かに名前を呼ばれるなんて、子どもの頃以来でして。……その相手が他でもない夕神さんなのが、嬉しいです」

息が詰まる。情けなくも顔に熱が集まっているのが理解できて、咄嗟に顔を背けた。これを自然と無意識にやっているのだからタチが悪い。

「名前」
「……え?」
「小せェ頃にサン付けなんてされてなかっただろ」
「そう、ですね……?」
「ならよォ、名前。俺を呼ぶ時も敬称なんていらねェ」

彼女は文字通り、真面目を体現したような検事だった。どれほど無礼で高圧的な相手に対しても常に丁寧に礼儀正しく接する。それは彼女なりの、絶対に曲げずにいられない信念のようなものなのだろうと薄ら感じていた。
だが彼女個人と親しくなりたい人間にとっては、手強すぎる線引きでもあった。

「尊敬する夕神さんを呼び捨てにするのは、かなり気が引けるんですが……」
「堅苦しい態度だけが礼儀の示し方って訳でもねェだろう」
「……成程、確かに仰る通りですね」

一瞬、ひどく驚いたような切なそうな顔をしてから、普段の生真面目な表情に戻ってしまった。その正体に迫る前に、彼女は取り繕うように微笑んでいく。

「それでは夕神、……さま?」
「ハァ?」
「し、失礼しました……。でしたら……夕神殿? もしくは夕神氏なら適切でしょうか?」
「おい、名前。俺のことをそんな慇懃無礼に呼ぶのか」
「……私が親しげに呼んだら、迷惑じゃありませんか?」

再び、瞬きのほんの少しの間だけ悲痛な顔をする。その奥にある痛みに寄り添う術など持たない俺は、淡々と事実を突き付けることしか出来なかった。

「最初に提案したのは俺の方だろうが」
「……はい、そうでした」

そして彼女はまた、夜明けみてェに綺麗に笑う。

「それではお言葉に甘えて。……ありがとうございます、夕神くん」

柔らかな顔も、気恥ずかしそうな声も、真っ直ぐな視線も、心臓の前で何かを祈るように組まれた指先も、その何もかもが。俺の心臓をあっという間に食い破って、夜に染まっていくみてェだった。

自分でも笑っちまうくらい、初心で静かな恋だった。