絵のモデルをしていると、クラシックのコンサートに行った時を思い出す。

荘厳な舞台を前にして、大きな空間の真ん中にぽつんと座り込んでいるような感覚。
全身に響く重厚な音楽を楽しむため、五感をシャットアウトして聴覚のみ研ぎ澄ませる感触。
自分を含めた全ての人を風景に溶け込ませて、その場の空気の一部となっていく感慨。

それは精神と身体を分離させて、普段は形を持たない心を取り出していく作業だった。

私の心は不自然で不格好で、とても人に見せられたものではないけれど、美しさを浴びている瞬間だけは違った。綺麗で穢れのないものの一部でいられた。
今まで数え切れない程に恥をかいてきたけれど、この勘違いは私を奮い立たせる力があった。

だから私は生の協奏曲コンチェルトを求めたし、彼の手を取ってしまったのだろうか。

「オレね、名前さんのこと前から知ってたよ」
「え?」

画廊喫茶の奥にある貸しスペースの中で、いつも通り椅子に腰かけていた時のことだった。
スケッチブックの奥から投げられた言葉はなかなか衝撃的で、幾度か瞬きを繰り返してしまう。

「初対面で言ったら気持ち悪がられると思ったから、初めて告白するけど」
「……さすがに、一対一でのやりとりはしてないよね? 私だけ我路くんに心当たりがないのは不自然だし」
「ご明察。オレが一方的に見てただけ」
「最近美術館には行けてないし、駅や電車ですれ違ったとか?」
「残念、ハズレ」

答えが明示されないまま、謎掛けのような会話をすることにもようやく慣れてきた。
私は彼と違って頭の回転が鈍いため、答えに辿り着くまで時間がかかって不快にさせることを危惧していたのだけれど。
どうやら彼は、人が思考する様を観察するのを好むようだった。私が自分の頭から引っ張り出した言葉を聞くと、不思議なくらい無邪気に微笑むから。

モデルとしての役割を最後まで果たすため、動かしてしまいそうな指先や視線を何とか押し留める。
思索を巡らせる際に微動だにしないのは意外と難しい。無意識に何もしないことと、意識的に動かないでいることはまるで異なる。
こうして悪戦苦闘する様も、彼の目には面白く映っているのだろうか。

「周りに人がいるのに我路くんに気付かないってことは、私は何かに集中してた……と思うんだよね」
「うんうん」
「歩いている時はつい誰かの視線や音が気になっちゃうから、座って何かのイベントに参加してた時かな」
「いいね。他には?」
「ねえ我路くん。さっき、私のこと『見てた』って言ったよね? 『見かけた』じゃなくて」
「言ったね」
「なら……コンサートかな。オーケストラの演奏会に通うのが好きなの。我路くんも?」
「当たり」

スケッチブックが彼の膝に置かれて、薄い唇が持ち上がる。
額縁の向こう側の景色を眺めているような感覚に陥って、素直に感嘆した。
物理的に発光している訳でもないのに、こんなにも誰かが輝いて見えることがあるだなんて。

「綺麗に泣く人だな、と思ったんだ」
「……私が?」
「もちろん。オレは名前さんを後ろから見てることが多かったんだけど」

彼が指先を顎に添えて、輪郭を緩く撫ぜていく。
外では手袋を必ず身に付けているのに、筆を執る時は素肌を見せているのが印象的だった。

「最初は、髪が綺麗な女性だなと思って目に留まったんだ。次第に、その人がいつもステージが始まったばかりのタイミングで泣いてるなって気が付いて」
「お、お恥ずかしい限りです……」

空間そのものが日常から非日常に切り替わる瞬間、何故だか私は涙が零れてしまう人間だった。
自分の心が剥き出しになる感覚は唯一無二のもので、まるで子どもに還ったような気になれるからだろうか。
曲が始まる前に泣いてしまうことさえあったから、人目を気にせずステージに浸ってしまうのが常だった。

「この間、偶然同じ列に座って名前さんの横顔を初めて見てね」
「……うん」
「自分の気持ちを必死に押し殺しながら泣く人だなって、印象に残ったんだ」

彼の言葉がすとんと胸に落ちてくる。
巨大なホールの中で初めて鳴った音が、くしゃくしゃの胸に沁み渡っていくように。
小さなクロッキー帳に描かれた白黒の私を、初めて真正面から見つめた時のように。

「そんな情けない顔を、綺麗だなんて思ってくれたんだ?」
「うん」

確固たる自信を持った声が返ってきたから、眉を下げながら笑うことしか出来ない。
私は、彼が私を肯定してくれることを分かっていた。こちらの弱さも受け入れてくれるだろうと期待していた。
なんて不誠実で卑怯な思考なのだろうと愕然としてしまう。

けれどそれでも、一つだけ確かに分かったことがあった。

「私、もうとっくに我路くんの一部になってたんだね」
「え」

空気の抜けたような声がした。表情も呆気に取られたように見えて、いつになく年相応の愛らしさを感じる。
突然脈絡のない発言をした自覚はあるため、どう言葉を重ねようかと思案した。

「ごめん、変なこと言ったよね。私にとってオーケストラの舞台って、自分の心を曝け出す場所なの。我路くんのモデルをしている時も、同じような気持ちになるなって気付いて……。だから私、我路くんにはいつも無防備な姿ばかり見せてるし、我路くんの手でそれを描いてもらってたんだなって」

なるべく論理が繋がるように心がけたものの、彼の洗練された言葉回しに比べたら不格好だろう。
説明したいことの半分も言語化できていないようにも思えた。

「いや、うん。言いたいことは分かったから大丈夫」
「そう?」
「……うん」

彼が自ら沈黙を生むのは珍しいため、こちらも口を噤んで膝を正した。どうやら今日は絵の続きを描く気はないようだから問題はないだろう。

改めて彼を観察する。掌で口許を覆い隠しながら、視線を下に向けていた。
私が視線を逸らすことはあっても彼から目を背けるのは珍しいため、目の前の光景を焼き付けるようにゆっくりと瞬きをする。

「我路くん、もしかして調子悪い?」
「ううん、元気だよ」
「私、不快にさせるようなこと言っちゃったかな」
「それも違うから平気」
「……なら、もしかして」

彼が求める正解に最も近い言葉は、何度も自惚れて期待していた醜い自分が抱えているような気がした。
胸の奥から迫り上がる熱が顔中に集まるのを感じていたものの、いつになく開かれた心が羞恥心の波を押し流す。

「照れてる、とか?」
「……当たり」

口の中がやけに乾いていた。何もかも誤魔化すように、傍のテーブルに置いていた水で喉を潤す。
煮えたぎった体内がすうっと冷えて、頭の中も徐々に冷静になっていく。

「我路くん、かわいいね」

ふわりと赤く色付いた顔が向けられる。
私の中に僅かにこびりついていた無垢な気持ちが弾けて、見知らぬ色に染まっていくのが分かった。
なんとも面映ゆくて、喉の奥がきゅっと締まっていく。

「名前さんはずるい」

責められている筈なのに、暗く重たい感情は微塵も湧かなかった。
もし私に筆をとることが出来たならば、目の前の光景を永遠に切り取ることが叶ったのだろうか。