「カブさん、奥さんがいらっしゃったんですか!?」

ルリナが驚いたように声を上げるのを見て、カブはきょとんとした顔で汗を首元のタオルで拭っていた。トレーニングで走ってきたばかりだったこともあり、身体は今も十分に温まっている。

「うん。言ってなかったっけ?」
「聞いてないです! 知らないです!」
「彼女の拠点はホウエンだし、向こうの方が有名人だからね。迷惑にならないように積極的には公表していないんだけど」

ホウエンにてポケモンコンテストを主催運営するトップコーディネーターが、ガラルへ視察にやって来る。先方はキョダイマックスを通じてパフォーマンスの仕方を学びたいとのことで、今日は可能な限りジムリーダー達がエンジンシティのスタジアムへと集まることになっていた。それしか知らなかったルリナは、驚愕の事実を浴びて唖然としてしまう。

「カブさんだって十分有名人じゃないですか……」
「確かにまったくの一般人というわけではないけどね。彼女はポケモンコンテストの黎明期を創り上げて、必死に生き抜いて、今も第一線で活躍するトップコーディネーターなんだ」

まるで自分のことのように嬉々として語るカブを見て、ルリナは内心驚く。ジムリーダーの先輩としても人生の先達としても立派で尊敬できる方が、こんなにも無邪気に微笑むことがあるだなんて。ポケモンバトル中も闘志をむき出しにされているけれど、それとはまた違う純真さを感じた。
きっと素敵なご夫婦なんだろうな、と自分まで微笑ましくなる。

「あ、カブくん」

背後から柔らかな声が降ってきた。誰だろうと疑問に感じるよりも前に、ルリナは、目の前のカブが見たことの無い程に柔らかく温かく笑う横顔を見た。そのまま風のように駆け抜けていく背中を見送る。

「ナマエちゃん! 来ていたんだね!」
「うん、先に会場を見ておきたくて。お話を邪魔するつもりはなかったんだけど……。ごめんなさいね、ルリナさん」

たおやかに微笑む女性が、ピンと背筋を伸ばしながらルリナへと頭を下げた。綺麗に結われたグレーヘアと左腕に火傷を負っている姿が印象的だったが、それよりも鮮烈なのは飛び抜けたファッションセンスだった。派手すぎず地味すぎず、年齢と顔立ちに合った赤いマーメイドドレスを上品に着こなす様につい見惚れてしまう。

自分の魅せ方をよく分かっている大人の女性だった。

「……ルリナさん?」
「あっ! ご、ごめんなさい! あまりにも素敵なファッションだったので」

あら、と口元に手を添えた女性がくすくすと微笑む。

「モデルもされている可憐なお嬢さんに褒めてもらえるなんて、鼻高々ね。ありがとう」
「いえ、そんな……! 失礼ですが、ナマエさんでいらっしゃいますか?」

今日視察にやって来る方の名前を口にすれば、彼女はゆったりと頷いた。

「ええ、名乗りもせずにごめんなさいね。年甲斐もなくはしゃいでしまって」

居住まいを正して両手を丁寧に揃えて、ゆったりと膝を折って礼をする。トサキントのような裾がふわりと優雅に揺れた。一つ一つの所作が美しく敬意に溢れていた。

「ホウエンにてポケモンコーディネーターをしている、ナマエと申します。以後どうぞお見知り置きを、ルリナさん」

誠実な優しさの籠った言葉に、ルリナの胸は更に撃ち抜かれた。初対面の相手の演技を、バトルを、この目で見たいと強く思ったのは、人生で初めてのことだった。

***

ルリナさんは、水面のような澄んだ瞳をキラキラと無邪気に輝かせながら私の手を握る。今度絶対にお食事に行きましょうね、と力強くお誘いしてくれた女の子が可愛くて、ついニコニコと微笑んでしまった。

「ええ、勿論。しばらくはエンジンシティに滞在しているから、ルリナさんのご都合の良い時にお声がけして頂戴」

ガラル地方のジムリーダーの面々との顔合わせは無事に終わった。とはいえ年長組とは顔見知りだったし、若くて素敵な子達とも軽い挨拶だけで終わった。少しだけ私の演技をお披露目し、ガラルにてポケモンコーディネーターを希望する人材がいれば連絡してほしいと伝えたけれど。

「ナマエちゃん、準備はできた?」

すっかり人気の無くなった広いスタジアムを見回していると、いつだって私の胸に熱い炎を灯してくれる声が降ってきた。くるりと、あの頃のように緊張と嬉しさが入り交じった気持ちで振り返る。カブくんはトレーニングウェアのまま柔らかく笑っていた。

「うん、出来たよ。カブくん」
「なら良かった。今晩は美味しいレストランを予約してあるんだ」
「そこまで気を遣わなくても良かったのに」
「そんな訳にはいかないよ。ぼくにとっては、大切な女の子と久しぶりに会える特別な時間だから」
「……女の子っていう歳でもないんだけど。でも、ありがとう。嬉しい」

かつて同じ言葉を言ってもらえたことを思い出す。カブくんが、トレーナーとしての在り方に思い悩んでいた時期。ガラルとホウエンを往復する中で共に時間を重ね、暗い顔をする横顔に発破をかけたことだってあった、あの頃。

「それじゃ行こうか、ナマエちゃん。一度家に帰ってシャワーを浴びなきゃね」
「うん、帰ろっか。カブくん」

そっと手を差し伸べられた。初めてのデートの時から変わらない温かな眼差しに、つい面映ゆくなる。こちらも仰々しく左手を乗せれば、互いに視線が絡んで再び微笑みが深まった。

カブくんの手にかかれば、私の左端はいつだって熱く燃え上がってしまうから。