灼熱の雨、極寒の明星
それは血塗られた記憶。心の奥底でいつの間にか鍵をかけてきた、断片的にしか思い出せない過去のトラウマ。
証言台に立つ恐怖。大事な人が刑務所に入る恐怖。見知らぬ大人から心無い言葉を突き立てられる恐怖。相手の無罪を信じて会いに行っても、いつまでも濁った目を向けられる恐怖。家族がいなくなってしまう恐怖。家族が自ら命を絶った事実を目の当たりにする恐怖。私を守ってくれる大人が、誰ひとりいなくなってしまう恐怖。
この先もずっと、きっと、私は世界で独りぼっちだから。誰にも迷惑をかけないように一人で生きていけるように、鍵をかけた苦痛は誰にも見せずに墓場に持っていくものだと思っていた。
けれど私は、星の煌めきを宿した美しい男の子に出会った。
深い闇に囚われたトラウマに打ち克ち、向日葵のように笑う女の子に憧れた。
何度ピンチに陥ってもふてぶてしく笑い、最後まで何度も依頼人を信じ抜く弁護士に希望を見た。
だからこそ私もまた、錆びた蓋で固く閉ざされた過去に向き合おうと、決意した。
「休職願、か」
いつも通り眉間に深いヒビを入れた御剣さんへ向けて、謝罪を込めて深々と頭を下げる。夕神くんが正式に復帰したとはいえ、法の暗黒時代に胡座をかき不正を働いていた検事が一掃されたばかりの状況だ。人材が不足しているのは重々承知だった。
「検事局も大変な時期だと理解してはいるのですが……。個人的な我儘で、大変申し訳ありません」
「確かに、名前くんが居なくなるのは正直かなりの痛手だが……。自分の過去に向き合おうとする部下を応援しないのは、上司失格だからな」
フッと軽く唇を緩めた御剣さんは、軽やかに両手を広げてから肩をすくめた。
「それに、夕神は許可をしているのだろう?」
「はい、お話は済んでおりますが」
何故ここで夕神くんの名前が挙がるのだろうかと首を傾げる。確かにじっくりと二人で話をした。最後には一言、気を付けろと言葉をかけてくれた。
「ならば良い。……期間は約一年、か」
「もし早めに解決しましたら、すぐにご連絡して切り上げますので」
「いや。名前くんは今まで実に勤勉に働いてくれたからな。残りの期間はゆっくり休むと良い」
「……かしこまりました。お気遣い痛み入ります。日本からも離れるので、どれほど時間がかかるのか検討はついていないんですが」
「うむ、延長したければまた連絡をくれ。……必要であれば地元の警察や検事局も頼るといい。もしもの時は私の名前を出しても構わないからな」
「そのような事態にならないことを祈っておりますが……。何から何までお世話になります、御剣さん」
「備えておいて損は無いだろう。なにせ、あのクライン王国だ」
霊媒の国クライン。かつて親の仕事の都合で幼い頃に訪れた筈だが、過去の体験がキッカケでほとんど記憶が無い場所。なぜ子どもだった私がたった一人で帰国できたのかさえ、実は未だに謎のままだった。
身を寄せた先の孤児院もあまり良い環境でなかったため、幼少期はそれどころではなかったが。不思議といつの間にか芽生えていた、検事になるという使命感に縋り付くことで、辛うじて自分を保っていたような気がする。
それでも時折クラインでの出来事を思い出そうとすると、心臓が切り刻まれるように痛んで息が出来なくなったから。やがて私は過去を見つめるのを諦めて、周囲の全てに境界線を引いて、自分の職務に邁進することに決めた。
その決意にヒビが入ったのは、なんてことない幼い一目惚れだったなあと思い返す。……本当は、私の人生に夕神くんを巻き込むつもりなんて無かった。あなたが忠誠を誓った師匠と、彼女の忘れ形見である大事な女の子のために生きていってほしいと心から願っていた。今でも確かに祈っている。
けれど私は、検事としても一人の人間としても、夕神迅を諦めたくないと思ってしまったから。他でもないあなたが、私の前で泣くことを望んでくれたから。ようやく真っ直ぐに未来を見据えた男の子に少しでも相応しくなりたくて、今回の休職を決めた。
「……そういえば、なのだが。成歩堂のかつての助手がクラインで修行中だと聞いている」
「クラインで修行、というと霊媒師さまですよね。……公判記録で読んだ覚えもあります。かつて成歩堂さんは霊媒師さまの功績によって多くの無罪判決を勝ち取った、と」
「うむ。綾里真宵くん、というのだが。年頃も名前くんと同じ頃だった筈だ。もし会ったら仲良くしてやってくれ」
「はい。……御剣さんは、その綾里さんをとても可愛がっていらっしゃるんですね」
口調や表情も、いつもより若干柔らかい気がする。私の言葉を受けた御剣さんは一瞬きょとんと目を丸くさせ、やがて更に唇を緩めた。
「私は、君のことも可愛がっているつもりだ」
「それは……はい。重々承知しております。日々感謝しきりです」
実際、御剣さんには着任当時から目をかけてもらっていた。検事としての在り方や信念を、私はその赤い大きな背中から学んだのだ。
「ならば良い。達者でな、名前くん」
「ありがとうございます。御剣さんもお元気で」
再度深々と頭を下げた後、自分の執務室に戻って休職に向けた準備を進める。その結果、諸々の引き継ぎを終えて飛行機で飛び立てるのは一週間後だと確信できた。
少しでも引き継ぎが迅速に進むようにと書類を作成し、いよいよ終業間際となった時間。部屋の扉からトントンと芯のあるノックの音が響いた。そういえば今日は朝から王泥喜さんや心音さん相手に裁判をしていた筈だ、と聞き慣れた音から思い出す。
「どうぞ、夕神くん」
「あァ、忙しいところ悪いな。邪魔するぞ」
「夕神くんならいつでも大歓迎ですから。それに正式な出立日も決まったので、私からもご挨拶に伺う予定だったんです」
「そうか。……いつだ?」
「一週間後ですね。検事局での勤務も今日限りで済みそうなので、残りの時間はお世話になった皆さんへのご挨拶と、クライン王国に関する調査をしようかと」
「おめえさんのことだから、明日にでも無理やり行くなんざァ言い出しても驚かなかったぜ」
「……私ってそこまで無鉄砲に見えます?」
「俺を忘れるくらいなら腹を切る、なんて言ったことを忘れたかァ?」
「覚えていますよ、最初に留置所へ面会に行った時の会話ですから。……夕神くんは、私にとって特別なひとなんです。仕方がないでしょう」
夕神くんは、そっぽを向いたかと思えば深々と息を吐く。意外と癖っ毛な髪がふわりと揺れる様が愛らしくてつい笑ってしまった。
身に余る程の贅沢を言うのであれば、その髪にもっと触れたかったし、もっとご飯を作ってあげたかったし、お出かけだってしてみたかった。
しかしそのためにも、私は自分の心の闇に向き合う必要がある。……臆病者だと我ながら思うけれど、私は未だに人と接するのが怖かった。
たとえ誰より美しいと思う夕神くんであっても、私にいつも優しく接してくれるかぐやさんであっても、法廷で対等に渡り合ってくれた成歩堂さんであっても、検事局で色眼鏡無しに仕事を評価してくれた御剣さんであっても。
こんな歳になってまで、私はまだ他人に向き合うのが恐ろしかった。他者と言葉を交わし、相手から見つめられることに対して、言語化しきれない恐怖を覚えていた。
誰かと触れ合おうとすれば自然と身が竦んでしまう事実を知るのは、ただひとり。目の前の男の子だけだ。
最低限他者と接するだけならば、検事としての職務だと割り切れば問題はないのに。夕神くんは、肩書きや上っ面を全て剥ぎ取った後の私を求めてくれるというから。かつて法廷で贈ったキスだけでも精一杯だったのに、それ以上のこともしたいと、欲張りにも私自身が願ってしまったから。
彼を迎えに行ったあの青空の下で交わした熱を、もう一度だけ知りたいと思ってしまったから。
「夕神くん」
「なんだ?」
「……どれ程の期間いなくなるか分からないですし、無理に私のことを待たなくても構わないですから」
「断る」
「即答ですね……?」
「当たり前だ。俺の青くせェ一目惚れを舐めると、いくらおめえさんでも痛い目見るぞ」
「痛い目と言いますと……全身の関節が急に全て外れる、とか?」
「だから何で名前はそこまで発想が突飛なんだ」
「夕神くんの武術の腕なら不可能ではないのかな、と」
呆れたように目を細めた後、額に手を添えながら軽く項垂れる様を浴びて。どんな表情でも綺麗だなあと感嘆しつつも首を傾げた瞬間、───キィインと激しく耳が鳴った。
別の階の執務室で書類の束が床に落ちた音。次の裁判について調査結果を報告する警察官の声。牙琉検事がエアギターをかき鳴らす様子。御剣さんが秘蔵のトノサマングッズを手に独特のリズムを刻む瞬間。
多種多様な音と共に急激に流れ込んできた、数多の情報に脳がバチンと揺れた。いくら両耳を掌で強く塞いでも、雪崩のように私を深く暗く侵食しては濁らせていく音。やはり耐え切れなくて、椅子に座ったまま蹲る。
「……ッ! おい、名前!」
私の名前を必死に呼ぶのは、身体の境界線を瞬く間に溶かしてしまう程に力強く低い声だった。痛みと安心感とで目頭が熱くなったのを隠すように、そっと指先で彼の袖に縋り付く。
「…………ゆう、がみくん」
あなたの名前を呼べば、私の輪郭が徐々に形を成していくような気がした。
トントンと、宥めるように背中を柔く撫ぜられている。大きくて温かな熱に、いつの間にか全身まるごと抱き締められていた。呼吸さえ止まっていたことにようやく気付く。
「……また、急に耳が鋭くなったか」
「……、はい。ご迷惑をおかけして、すみません」
「俺ァただ心配してるだけだ。迷惑なんざ思ってねェ」
キッカケは分からない。私が自分自身に向き合おうと決意した日から、何故か。私の耳はありとあらゆる音を拾うようになってしまった。夕神くん曰く、幼かった頃に力を制御しきれなかった頃の心音さんに似ていた、ということだったけれど。
私は他者の気持ちが聞こえる訳でも見える訳でもない。ただただ聴覚が鋭くなり、それに伴って視覚的な情報も流れ込むようになって、一時的に脳内がパンクしそうになるだけだ。
現在はまだ裁判中に発生したことはないが、いずれ職務にも支障をきたすのは目に見えている。だからこそ夕神くんと相談の上、原因を突き止めていずれカウンセリングを受けるべく自己分析をした方が良い、という結論に至ったのだ。
クライン王国にて自分の過去に触れ、今までに負ってきた心の傷の正体を知り、私が私を許すための方策を知り、私という人間を構築する精神の根源に触れてこいと。……最初はついていくと頑なだった夕神くんも、最後はそう言って私を送り出そうとしてくれた。
「名前」
「……はい」
「まだ、俺に触れられるのは怖ェか」
いつの間にか、流星の如くその美しい顔が間近に迫っていた。吐息さえ交わりそうな距離に逆上せてしまいそうで、同時に身体の芯が冷えて心臓に鎖が巻き付くような心地になる。
「……ごめん、なさい」
「……謝るな」
「いい歳をして、こんな……夕神くんの望みさえ叶えてあげられないなんて」
「分かってねェようだから改めて言うが。俺の望みは、惚れた女がただ幸せでいてくれることだ」
私にそんな価値が無いとは思う。それなのにどうしようもなく嬉しくて、しかし何もお返し出来ない無力な自分が心底情けなかった。
泣きたい気分なのに涙が零れなくて、言いたいことがあるような気がするのに喉の奥がつっかえて形に出来ない。私はやはり言葉を口にするのが苦手だった。己の思考や感情を人に見せるのは大層恐ろしく、しかしどうしようもなく憧れた。
「名前」
「……は、い」
「いつでも帰ってこい。ずっと待ってらァ」
抜き身の刀に触れるようにそっと、夕神くんがゆっくりと私を抱き締める。身体は沸騰したように熱くなり、同時に氷漬けにされたかのごとく冷え切っていった。
私は知る必要がある。私は一体何者なのか。何に怯え、何を思って生きてきたのか。果たしてあなたの隣にいる資格があるのかどうか。
自分探しの末に、別離を選択することになったとしても。
証言台に立つ恐怖。大事な人が刑務所に入る恐怖。見知らぬ大人から心無い言葉を突き立てられる恐怖。相手の無罪を信じて会いに行っても、いつまでも濁った目を向けられる恐怖。家族がいなくなってしまう恐怖。家族が自ら命を絶った事実を目の当たりにする恐怖。私を守ってくれる大人が、誰ひとりいなくなってしまう恐怖。
この先もずっと、きっと、私は世界で独りぼっちだから。誰にも迷惑をかけないように一人で生きていけるように、鍵をかけた苦痛は誰にも見せずに墓場に持っていくものだと思っていた。
けれど私は、星の煌めきを宿した美しい男の子に出会った。
深い闇に囚われたトラウマに打ち克ち、向日葵のように笑う女の子に憧れた。
何度ピンチに陥ってもふてぶてしく笑い、最後まで何度も依頼人を信じ抜く弁護士に希望を見た。
だからこそ私もまた、錆びた蓋で固く閉ざされた過去に向き合おうと、決意した。
「休職願、か」
いつも通り眉間に深いヒビを入れた御剣さんへ向けて、謝罪を込めて深々と頭を下げる。夕神くんが正式に復帰したとはいえ、法の暗黒時代に胡座をかき不正を働いていた検事が一掃されたばかりの状況だ。人材が不足しているのは重々承知だった。
「検事局も大変な時期だと理解してはいるのですが……。個人的な我儘で、大変申し訳ありません」
「確かに、名前くんが居なくなるのは正直かなりの痛手だが……。自分の過去に向き合おうとする部下を応援しないのは、上司失格だからな」
フッと軽く唇を緩めた御剣さんは、軽やかに両手を広げてから肩をすくめた。
「それに、夕神は許可をしているのだろう?」
「はい、お話は済んでおりますが」
何故ここで夕神くんの名前が挙がるのだろうかと首を傾げる。確かにじっくりと二人で話をした。最後には一言、気を付けろと言葉をかけてくれた。
「ならば良い。……期間は約一年、か」
「もし早めに解決しましたら、すぐにご連絡して切り上げますので」
「いや。名前くんは今まで実に勤勉に働いてくれたからな。残りの期間はゆっくり休むと良い」
「……かしこまりました。お気遣い痛み入ります。日本からも離れるので、どれほど時間がかかるのか検討はついていないんですが」
「うむ、延長したければまた連絡をくれ。……必要であれば地元の警察や検事局も頼るといい。もしもの時は私の名前を出しても構わないからな」
「そのような事態にならないことを祈っておりますが……。何から何までお世話になります、御剣さん」
「備えておいて損は無いだろう。なにせ、あのクライン王国だ」
霊媒の国クライン。かつて親の仕事の都合で幼い頃に訪れた筈だが、過去の体験がキッカケでほとんど記憶が無い場所。なぜ子どもだった私がたった一人で帰国できたのかさえ、実は未だに謎のままだった。
身を寄せた先の孤児院もあまり良い環境でなかったため、幼少期はそれどころではなかったが。不思議といつの間にか芽生えていた、検事になるという使命感に縋り付くことで、辛うじて自分を保っていたような気がする。
それでも時折クラインでの出来事を思い出そうとすると、心臓が切り刻まれるように痛んで息が出来なくなったから。やがて私は過去を見つめるのを諦めて、周囲の全てに境界線を引いて、自分の職務に邁進することに決めた。
その決意にヒビが入ったのは、なんてことない幼い一目惚れだったなあと思い返す。……本当は、私の人生に夕神くんを巻き込むつもりなんて無かった。あなたが忠誠を誓った師匠と、彼女の忘れ形見である大事な女の子のために生きていってほしいと心から願っていた。今でも確かに祈っている。
けれど私は、検事としても一人の人間としても、夕神迅を諦めたくないと思ってしまったから。他でもないあなたが、私の前で泣くことを望んでくれたから。ようやく真っ直ぐに未来を見据えた男の子に少しでも相応しくなりたくて、今回の休職を決めた。
「……そういえば、なのだが。成歩堂のかつての助手がクラインで修行中だと聞いている」
「クラインで修行、というと霊媒師さまですよね。……公判記録で読んだ覚えもあります。かつて成歩堂さんは霊媒師さまの功績によって多くの無罪判決を勝ち取った、と」
「うむ。綾里真宵くん、というのだが。年頃も名前くんと同じ頃だった筈だ。もし会ったら仲良くしてやってくれ」
「はい。……御剣さんは、その綾里さんをとても可愛がっていらっしゃるんですね」
口調や表情も、いつもより若干柔らかい気がする。私の言葉を受けた御剣さんは一瞬きょとんと目を丸くさせ、やがて更に唇を緩めた。
「私は、君のことも可愛がっているつもりだ」
「それは……はい。重々承知しております。日々感謝しきりです」
実際、御剣さんには着任当時から目をかけてもらっていた。検事としての在り方や信念を、私はその赤い大きな背中から学んだのだ。
「ならば良い。達者でな、名前くん」
「ありがとうございます。御剣さんもお元気で」
再度深々と頭を下げた後、自分の執務室に戻って休職に向けた準備を進める。その結果、諸々の引き継ぎを終えて飛行機で飛び立てるのは一週間後だと確信できた。
少しでも引き継ぎが迅速に進むようにと書類を作成し、いよいよ終業間際となった時間。部屋の扉からトントンと芯のあるノックの音が響いた。そういえば今日は朝から王泥喜さんや心音さん相手に裁判をしていた筈だ、と聞き慣れた音から思い出す。
「どうぞ、夕神くん」
「あァ、忙しいところ悪いな。邪魔するぞ」
「夕神くんならいつでも大歓迎ですから。それに正式な出立日も決まったので、私からもご挨拶に伺う予定だったんです」
「そうか。……いつだ?」
「一週間後ですね。検事局での勤務も今日限りで済みそうなので、残りの時間はお世話になった皆さんへのご挨拶と、クライン王国に関する調査をしようかと」
「おめえさんのことだから、明日にでも無理やり行くなんざァ言い出しても驚かなかったぜ」
「……私ってそこまで無鉄砲に見えます?」
「俺を忘れるくらいなら腹を切る、なんて言ったことを忘れたかァ?」
「覚えていますよ、最初に留置所へ面会に行った時の会話ですから。……夕神くんは、私にとって特別なひとなんです。仕方がないでしょう」
夕神くんは、そっぽを向いたかと思えば深々と息を吐く。意外と癖っ毛な髪がふわりと揺れる様が愛らしくてつい笑ってしまった。
身に余る程の贅沢を言うのであれば、その髪にもっと触れたかったし、もっとご飯を作ってあげたかったし、お出かけだってしてみたかった。
しかしそのためにも、私は自分の心の闇に向き合う必要がある。……臆病者だと我ながら思うけれど、私は未だに人と接するのが怖かった。
たとえ誰より美しいと思う夕神くんであっても、私にいつも優しく接してくれるかぐやさんであっても、法廷で対等に渡り合ってくれた成歩堂さんであっても、検事局で色眼鏡無しに仕事を評価してくれた御剣さんであっても。
こんな歳になってまで、私はまだ他人に向き合うのが恐ろしかった。他者と言葉を交わし、相手から見つめられることに対して、言語化しきれない恐怖を覚えていた。
誰かと触れ合おうとすれば自然と身が竦んでしまう事実を知るのは、ただひとり。目の前の男の子だけだ。
最低限他者と接するだけならば、検事としての職務だと割り切れば問題はないのに。夕神くんは、肩書きや上っ面を全て剥ぎ取った後の私を求めてくれるというから。かつて法廷で贈ったキスだけでも精一杯だったのに、それ以上のこともしたいと、欲張りにも私自身が願ってしまったから。
彼を迎えに行ったあの青空の下で交わした熱を、もう一度だけ知りたいと思ってしまったから。
「夕神くん」
「なんだ?」
「……どれ程の期間いなくなるか分からないですし、無理に私のことを待たなくても構わないですから」
「断る」
「即答ですね……?」
「当たり前だ。俺の青くせェ一目惚れを舐めると、いくらおめえさんでも痛い目見るぞ」
「痛い目と言いますと……全身の関節が急に全て外れる、とか?」
「だから何で名前はそこまで発想が突飛なんだ」
「夕神くんの武術の腕なら不可能ではないのかな、と」
呆れたように目を細めた後、額に手を添えながら軽く項垂れる様を浴びて。どんな表情でも綺麗だなあと感嘆しつつも首を傾げた瞬間、───キィインと激しく耳が鳴った。
別の階の執務室で書類の束が床に落ちた音。次の裁判について調査結果を報告する警察官の声。牙琉検事がエアギターをかき鳴らす様子。御剣さんが秘蔵のトノサマングッズを手に独特のリズムを刻む瞬間。
多種多様な音と共に急激に流れ込んできた、数多の情報に脳がバチンと揺れた。いくら両耳を掌で強く塞いでも、雪崩のように私を深く暗く侵食しては濁らせていく音。やはり耐え切れなくて、椅子に座ったまま蹲る。
「……ッ! おい、名前!」
私の名前を必死に呼ぶのは、身体の境界線を瞬く間に溶かしてしまう程に力強く低い声だった。痛みと安心感とで目頭が熱くなったのを隠すように、そっと指先で彼の袖に縋り付く。
「…………ゆう、がみくん」
あなたの名前を呼べば、私の輪郭が徐々に形を成していくような気がした。
トントンと、宥めるように背中を柔く撫ぜられている。大きくて温かな熱に、いつの間にか全身まるごと抱き締められていた。呼吸さえ止まっていたことにようやく気付く。
「……また、急に耳が鋭くなったか」
「……、はい。ご迷惑をおかけして、すみません」
「俺ァただ心配してるだけだ。迷惑なんざ思ってねェ」
キッカケは分からない。私が自分自身に向き合おうと決意した日から、何故か。私の耳はありとあらゆる音を拾うようになってしまった。夕神くん曰く、幼かった頃に力を制御しきれなかった頃の心音さんに似ていた、ということだったけれど。
私は他者の気持ちが聞こえる訳でも見える訳でもない。ただただ聴覚が鋭くなり、それに伴って視覚的な情報も流れ込むようになって、一時的に脳内がパンクしそうになるだけだ。
現在はまだ裁判中に発生したことはないが、いずれ職務にも支障をきたすのは目に見えている。だからこそ夕神くんと相談の上、原因を突き止めていずれカウンセリングを受けるべく自己分析をした方が良い、という結論に至ったのだ。
クライン王国にて自分の過去に触れ、今までに負ってきた心の傷の正体を知り、私が私を許すための方策を知り、私という人間を構築する精神の根源に触れてこいと。……最初はついていくと頑なだった夕神くんも、最後はそう言って私を送り出そうとしてくれた。
「名前」
「……はい」
「まだ、俺に触れられるのは怖ェか」
いつの間にか、流星の如くその美しい顔が間近に迫っていた。吐息さえ交わりそうな距離に逆上せてしまいそうで、同時に身体の芯が冷えて心臓に鎖が巻き付くような心地になる。
「……ごめん、なさい」
「……謝るな」
「いい歳をして、こんな……夕神くんの望みさえ叶えてあげられないなんて」
「分かってねェようだから改めて言うが。俺の望みは、惚れた女がただ幸せでいてくれることだ」
私にそんな価値が無いとは思う。それなのにどうしようもなく嬉しくて、しかし何もお返し出来ない無力な自分が心底情けなかった。
泣きたい気分なのに涙が零れなくて、言いたいことがあるような気がするのに喉の奥がつっかえて形に出来ない。私はやはり言葉を口にするのが苦手だった。己の思考や感情を人に見せるのは大層恐ろしく、しかしどうしようもなく憧れた。
「名前」
「……は、い」
「いつでも帰ってこい。ずっと待ってらァ」
抜き身の刀に触れるようにそっと、夕神くんがゆっくりと私を抱き締める。身体は沸騰したように熱くなり、同時に氷漬けにされたかのごとく冷え切っていった。
私は知る必要がある。私は一体何者なのか。何に怯え、何を思って生きてきたのか。果たしてあなたの隣にいる資格があるのかどうか。
自分探しの末に、別離を選択することになったとしても。