あの日、どうしようもなく彼女に惹かれたキッカケ。それはきっと苗字にとっては何てことない、しかし俺にとっては何よりもキラキラとして鮮烈な言葉だった。

「やっぱり高校生にもなったら、背が高くてスポーツ万能なイケメン彼氏が欲しいよねー」
「分かるー」
「ねー。苗字さんもそう思うでしょ?」

そうやってはしゃぐ女子たちの声にムキになることはない。背が低いことに対して引け目を感じることは無くなったのも、リベロという守備の要としての役目に誇りを持っているから。穴のない守備を戦略として掲げる音駒に入れたことを、心底幸運だと思っていたから。
身長が小さな男子は女子に揶揄われてマスコット扱いされるものだと、無意識の内に諦めていたから。

「年頃の女の子だし、そういう考え方をするのも自然だよね……」

高校に入学したての新入生が通り過ぎる廊下は、浮き足立った雰囲気で雑多なガヤガヤした声で溢れている。それなのにいつの間にか、俺の意識はその凛とした声に掬い上げられていた。

「それでも私は、自分より小さな男の子も好きだよ。相手の背が高いと、どう足掻いても見える世界が違うから。すぐに目を合わせられる相手なら、同じ目線でお互いの世界を共有して、同じ歩幅で一緒に歩いていけるから」

弾かれたように顔を上げた二年前の俺が、初めて苗字と目が合った。バチッと視線が重なって動けない。向こうは特に驚いた様子もなく、ふわりと花みたいに温かく笑っていた。真っ直ぐで澄んだ瞳に吸い込まれてしまいそうだと、恥ずかしげもなく感じた。
俺を意識して言った訳ではないのだろう。身長の小さな男を慰めるつもりも、励ますつもりもないのだろう。苗字はただ心の底から本気でそう思っているのだろう。……だからこそ、俺は。

「なあ、苗字さん。……バレーボール、興味ない?」

心底カッコイイと感じた女の子の手を、自ら引いた。



あー、良いなあ。と思った。汗で頬に張り付く髪とか、ポニーテールにする時の丁寧な手付きとか、顕になった白くて綺麗な首筋とか。
苗字が一人で気合を入れている時の静かで真剣な顔が、いつだって俺は好きだった。

「夜久?」

穏やかな同級生の声に意識を引き戻された。そして気付く。俺はまた、好きな子に意識を向けすぎていたのだろう。休憩中になるとすぐこれだと我ながら呆れる。

「悪ぃ海、何だ?」
「黒尾が苗字にちょっかいかけに行くみたいだけど、大丈夫かなと思って」
「は!?」

確かに、長身のトサカ頭が背後にゆっくりと忍び寄っていた。怪しすぎる。あからさまに黒尾が俺を誘い出そうとしているのも分かった。だがアイツの思い通りになるのも癪だし、何より苗字のうなじをガン見してんじゃねえクソが。
等と考えていたところで、当の本人である苗字とバチッと目が合う。……俺を真っ直ぐ見るその瞳がやっぱり好きだな、と思った。

「何かあった?」

そう問いかけられるくらい、俺は相当ひどい顔をしていたのだろう。だが苗字に嘘はつきたくないし、自分の気持ち悪い思考を晒す気もなかった。
別に、と答えれば深く追求せずに離れていく。そんな苗字の優しさと賢さが好きで、僅かばかり寂しかった。情けないところは見せたくないが、それはそれとして少しでも長く話していたい面倒くさい男の思考でしかないが。

───髪を上げた苗字を見て、良いなーでも他の輩に見られるのは癪だなーって思っちゃったんデショ?

黒尾の言葉は、的を得ているようで少し違う。苗字を良いなと思う輩が他にいるのは何も不思議ではない。問題は、純粋に心配してくれる女の子に対して煩悩にまみれた思考をしてしまう自分自身だった。苗字が完全にその場を去ったのを確認してから、改めて元凶をジロリと睨み付ける。

「黒尾、部内に色恋を持ち込むのはメンドイから嫌っつってたろ!」
「いやー、まあその意見は今でも変わらないんだけどネ」
「アァ!? どの口が言うんですかトサカマン!?」
「待って待って! 苗字も絶対本気でカッコイイとは思ってないから!」

一通り蹴り倒した後、ごろりと床に転がった黒尾が一転、真剣な顔をする。

「だってさ、やっくん。俺たちこれで高校最後の夏な訳じゃないですか」
「それがどうした」
「もっと好きな子と一緒に思い出作りしておけば良かったーって、後悔してほしくないんですよ」
「……後悔しねーよ。俺も、たぶん苗字も」
「ま、そこまで言うならこれ以上は言わねえけど。ただ俺は大丈夫だと思ってる。夜久と苗字なら、アレコレ持ち込んでも」
「…………」

休憩が終わる時間になった。勢いよく飛び起きた主将に続き、俺もまたボールを追いかけるために走っていく。

気持ちを伝えないというのは、俺たちの間にある暗黙の了解のような気がしていた。今だってほぼ毎日一緒にいられるし、もし万が一付き合えることになったとしても俺は絶対いい彼氏になんてなれない。
それに苗字は、俺じゃとても考えつかないような高い目標を持っているから。ただでさえマネージャー業で疲れている中、俺の邪な思いで邪魔をしたくなかった。

「オス、夜久」
「オッス、苗字」

体育館の前で顔を突き合わせて笑う。そのまま帰り道を二人で歩いた。
生温い夏の夜風でサラリと揺れる髪がやっぱり綺麗だった。校則通りに着こなす制服からは苗字の真面目さが際立っていて、細くて長い指先にもつい目を奪われる。この手であの結果をもたらしたのかと思うと、カッコよすぎて改めて痺れてしまった。

「メールでも言ったけどさ、苗字。おめでとう」
「ん?」
「全国模試九位」
「あ、あれね。……ふふ」
「どうした?」
「いや、前回は八位だったからさ。今回と合わせれば夜久89になるなと思ってたの。だから嬉しくて」

そんな可愛いこと言うなよ、と身勝手にも思う。しっかりと汗は拭いたのに顔は熱くなるし心臓は勝手に暴れ始めた。だけどこれが苗字だ。誰よりも凛々しくて可愛い、俺の片想いの相手だ。

「……なあ苗字」
「うん。何?」
「手、握ってもいいか」
「……汗ばんでても良ければ?」
「俺の方が汗かいてるだろ」
「夜久の汗は頑張った証じゃん」
「ならお互い様だな」

そうして笑いながら手を繋ぐ。温い風に晒された二つの体温は、きっと真夏の太陽に負けないくらい熱かった。

苗字と出会えた春の朝も、共に汗を流して笑い合えた夏の夜も、俺はこの先ずっと忘れることなんて出来ないんだろう。この子を好きになれて良かったなって、毎日思い返しては笑うんだろう。この関係性に名前なんて付けなくても、俺は確かに幸せだった。