最初、私は男子バレー部のマネージャーになるつもりがなかった。
そう打ち明けたら、山本や犬岡あたりは大袈裟に驚いてから嘆いてくれそうだ。図書室の棚で懐かしい本との再会を喜びながら、そんなことを考えて一人で笑っていた。

「あれ、苗字」
「海、お疲れ。何か探しもの?」

出会った時から変わらぬ柔和な笑顔は、ちょうど二年ほど前の春をいとも簡単に呼び覚ます。昼休み、図書委員会の仕事中に偶然遭遇するなんてシチュエーションまで同じなのだから。

「うん、おつかれ。授業の課題で必要なものを少しね」
「そっか。簡単なレファレンスなら出来るから、困ったら呼んで」
「頼りにしてる。……それにしても、此処で苗字と話してるとなんだか懐かしくなるね」
「ね。私も全く同じこと思ってた」

二人の視線が自然と一冊の本に吸い寄せられる。「大解剖! 初めてのバレーボール」。私が夜久からバレー部の誘いを受けた日、真っ先に手に取った本だ。

───バレーボール、好きなの?

図書室のカウンターの中で齧り付くように本を読んでいたら、海に初めてそう声をかけられた。だから私も笑って答えた。

───好きかどうか自分で判断するために、今この本を読んでるんだ。

「今思うとあの返答、真剣にバレーやってる人に対して凄い生意気だったよね……。ごめん」
「そう? 苗字らしくて潔いし、俺はいいなって思ったよ」
「ありがと。海の他人に対する誠実でフラットな姿勢、素敵だと思う」
「ありがとう。俺も全く同じ言葉を苗字に返すよ」

真っ直ぐな褒め言葉は照れくさくて温かい。バレー部の皆と共に過ごす時間は全部泣きそうなくらい優しくて、切ないくらいに大事で仕方がなかった。

「あの時、急に夜久と黒尾も来たから驚いたけど」
「俺もビックリした。確かにあの日の夜久は妙にソワソワしてたし、そんな様子を見たら黒尾もついてくるのは納得なんだけど」
「二人が図書室前でギャーギャー騒いでたから、海が叱りに行ってくれたよね。懐かしい」
「そんなこともあったね。初対面だったけど、苗字との付き合いは長くなりそうだったから。少しでも親切にしておかなきゃと思って」
「そんなこと言って、海は誰に対してもいつだって親切でしょうが」
「苗字もね」

そんな風に笑いあっていれば、かつての驚いたような夜久の声が自然と脳裏に蘇ってきた。

───苗字さん、バレーの本読んでくれてんの!?
───うん。せっかく見学に誘ってくれたし、何も知らないまま行くのは勿体ないと思って。
───そんな、わざわざ気を遣わなくても。
───あ。ううん。違うんだ。これは夜久くんへの気遣いとかじゃなくて、自分のためなの。単なる私のエゴ。

ニヤリと面白がるような顔をした黒尾が、その言葉に反応して会話に突っ込んできたことも覚えている。

───ねー苗字さん、今のってどういう意味?
───……失礼ながら私、バレーボールについてほとんど何も知らなくて。でも今日、夜久くんのお陰でバレー部とのご縁ができたでしょ。
───だな、未知との遭遇ってワケだ。
───与えられたチャンス未知との遭遇を全力で楽しむためには、対象となる物事を深く知らないといけないと思うから。ここでバレーボールの知識をつけておけば、今日の放課後、私は今よりもっと楽しめる筈。それは私自身のためで、夜久くんの面子を保つためとかじゃないの。……知識はいつだって、私の人生を豊かにするための武器だから。

そんな拙い言葉を真っ直ぐ受け止めてくれた夜久が、何故か誇らしげに柔らかく笑ってくれたのが印象的だった。

───やっぱり苗字さんはカッコイイな。
───え。本気で全国制覇を目指して頑張る夜久くん達の方が、余程カッコイイと思うけど。
───つか、俺たちが全国を目指してるって夜久から聞いたんだ? それを素直に信じてくれてるワケ? 落ちぶれた強豪のクセにとか思わないの?
───オイ、黒尾!
───思わないよ。自分の夢を人に胸張って話せる人なんて、それだけで超カッコイイじゃん。私は皆のこと全力で応援してるから。
───……これは、苗字さんに良いところ見せて勧誘を頑張らなくちゃね? 夜久、黒尾。
───……オウ。
───だな。苗字さん、マネージャーになるかどうかは今のトコロ迷ってるみたいだし?
───えっ。
───やっぱり図星か。
───図星、というか。……本気で全国を狙う真剣な人達の努力を、私みたいな初心者が邪魔しちゃいけないかな、とは考えてて。

黒尾とは初対面だったのに、見事に言いづらかった本音を引き出されてしまった感覚だった。視線を逸らした臆病な私の意識を掬い上げたのは、他でもない夜久だ。

───なあ、苗字さん。
───夜久くん、ごめん。わざわざ誘ってくれたのに、こんなこと言って気分悪くさせちゃったよね。
───いや。むしろ、苗字さんが俺たちのことそこまで真剣に考えてくれてたんだって感動した。今日の放課後、前向きに考えてもらうために俺頑張るわ。
───そ、そっか……?

黒尾も海も、無邪気に楽しそうに笑っていたことをよく覚えている。

───それに苗字さん。自分たちの勝利を信じてくれるマネージャーが傍にいるってのは、それだけでメチャクチャ心強いもんだぜ? 頑張る理由が一つでも多いだけで、上を目指す原動力になるし。
───黒尾に同意。 決して無理強いはしないけど、苗字さんと一緒に全国を目指せたら嬉しいなって思うよ。

その時に感じた痛い程の胸の熱さは、今でもありありと思い出せる。全身から言葉にならない感情が零れ落ちそうで打ち震えた、あの感覚。
私は昔から、変人だの社会不適合者だの可愛げがないだの、身内にも他人にも散々言われ続けてきたから。
どこに行っても爪弾きにされて上手くやれないならば、場の空気を読むことよりも自分の意見を率直に伝えることを優先させようと、下手に取り繕うことなく生きようと決めた矢先の出来事だったから。

私なんかを、ここまで真っ直ぐに褒めてくれるひとなんて、全然いなかったから。

必死に涙を呑み込んだ私は、自分史上最高に不器用な笑顔を作るしかなかった。

───ありがとう。放課後もよろしくね。一緒に楽しもう。

そんなこんなでマネージャーへの就任を決め、今日に至る訳だ。全ての始まりとも言える本の背表紙をゆるりと指先で撫ぜてから、今も隣で柔く微笑む仲間を見遣る。

「やっぱり、苗字とは長い付き合いになったね」
「有難いことにね。あとは全国制覇するだけか」
「だね」

バレー部の仲間に会うと、私もバレーがしたくなる。
熱気に包まれたコートの中を縦横無尽に駆け巡って、体感時速何百キロで飛び交うボールを追いかけて、限界まで汗をかいては体育館の床に突っ伏して天井を見上げたくなる。

「ね、海。春高が終わったら海いかない?」
「あはは、真冬だと思うけど良いの?」
「うん。季節外れの海いいじゃん。風情のある景色、もっと一緒に見ようよ」
「オッケー。声をかけたら結局みんな来そうだね」
「福永なんて、海が海に行くってだけで喜びそうだもんね」
「海だけにね」
「そうそう、海だけに」

けれどボールを持たずとも、コートの外で仲間と顔を合わせるこの時間も全てが、等しく愛しきバレーボールだから。
私はたった今、この瞬間も確かにバレーをしていた。