白鍵のトス、黒鍵のスパイク
個の声援は、いとも容易く大多数の歓声にかき消される。
圧倒的な声量の前に打ちのめされてその現実を知ったのは、一年生のIH予選のことだった。どんなに一生懸命、喉を枯らす程に張り上げても、努力など無駄だと切り捨てるかのように私の声は無かったものとされた。
お門違いかもしれないけど、悔しかった。自分の無力さをまざまざと痛感させられたから。ただでさえバレーの初心者が役に立てる場面は少ないのに、応援さえもまともに出来ないだなんて。
東京は男子バレー部の激戦区だ。応援一つとっても、毎年全国に行くような常連校に勝つことは絶望的だった。そう、つまり真正面から声量で勝負するのは悪手なのである。
ならば何が最善か。外からの大歓声で勝ち目が無いなら、コートの中から届ける個 の声を鍛えれば良い。
今まさにボールを追いかける、目の前の選手 に声が届けばそれでいい。あと一歩足を踏み出していればボールを繋げた、その一歩を後押し出来る可能性が少しでも高まるならばそれでいい。
あの圧倒的な大敗北から約一年。今日のお昼休みは、私の原点とも言える戦場にやって来ていた。意を決して扉を開ける……と、ぽかんと大きく口を開けた部員と対面する。
「……山本?」
「エッ、あっ! 苗字さん!?」
「うん、苗字です。一年生、前の時間が音楽だったの?」
「は、……はい…………ッ」
勢いよく顔を背けられたから、全く視線が合わなくて苦笑する。新入部員の彼は不自然なくらい女性慣れしておらず常に挙動不審だった。私以外には威勢よく元気に接しているのに何故、と正直かなり寂しいのだが、思春期とはそういう時期なのかもしれない。
「答えたくなかったら何も言わなくて良いんだけど、歌のテストの再試?」
「ウッ! ……はい」
「手応えはどう?」
「……ダメ、かも、です」
うちの高校は、音楽のノルマが何故かやたらと厳しかった。音程やメロディーがズレていれば容赦なく休み時間を使った再試を言い渡されるし、どのクラスでも数人は居残りするのが常だった。
先生は何やら用事で退席しているようだし、この間に私自身の練習も兼ねてサポートしてあげられるだろうか。音楽室のグランドピアノに近付いてから鍵盤にポロポロと触れる。
「一年生の課題曲って……これか」
ちょうど教科書の楽譜が立てかけられていた。再試をする直前の状態だったのだろう。廊下の気配を探っても先生が戻ってくる様子は無さそうだし、遠慮なく鍵盤の前に座った。
「それじゃ山本、練習しよ」
「えっ!? で、ですが……苗字さんにご迷惑をおかけする……訳には……」
「このままだと、放課後も再試になって部活に遅刻するかもよ?」
「そ、それは……!」
練習をするにせよ、この状態だと山本もガチガチに緊張したままか。一瞬思考してから、右手の人差し指をピンと立てる。
「山本、ちょっと目を閉じてみて」
「え!? は、はい……」
思ったより大人しく従ってくれたから、素直で笑ってしまう。あくまで異性と話すのに戸惑っているだけなんだな、と思うと可愛く見えてきた。
「大きく深呼吸してー」
「は、はい! スゥ……ハァ……」
「少し身体を解してくよ。肩甲骨の中心から動かすイメージで、両肩を手前から後ろにグルっと回してみて。……うんうん、上手。自分のペースでゆっくり、もう一周。……よし、元の位置に戻ったらストンと肩を落としてみよう」
「あ……力が抜けた……?」
ぽかんと驚いたように呟いている。真正面から目が合ったから、グッと親指を立てた。
「身体が力んでると、上手く声が出ないことも多いんだよね。山本、コツ掴むの早いからこのやり方でいってみよっか」
「は、はい!」
「それじゃまた目を閉じてー」
「ウッス!」
何となく楽しくなってきた。それに山本の緊張も少しだけ解れてきた気がする。よしよしと頷きながら指先を鍵盤に乗せた。
「ぼんやり頭の中で想像するだけで良いから、これから私が伝える光景をイメージしてみて」
「はい!」
「山本は今、バレーコートの中にいます」
「よし!」
「ラッキーなことに、ボールが山なりに飛んできました」
ポーンと一つの音を鳴らす。臨場感が少しでも増すように。私も頭の中でコートに立ちながら、今聞こえるのはどの音かを見つけていく。
「山本は、そのボールをどうやって取る?」
「……アンダーでセッターに返球ッス!」
「うん、ナイス判断」
綺麗な弧を描くボールの軌道をイメージして、いくつかの音を繋げていく。セッターからトスが上がれば、スパイカー達がネット際に寄っていくだろう。
「山本、どうする?」
「もちろん、次期エースとして俺が打ちます!」
「最高。それじゃ山本にとってドンピシャのトスが上がってくるのを想像して……」
「オス!」
「打って!」
メロディーラインも盛り上がったところで、ブンと勢いよく空気を切る音がした。パチリと開いた目がキラキラと私を見つめてきた。やはりパワーのある有望な選手だと確信を持ちながら微笑む。
「今の感覚、覚えた?」
「はい! 今すぐにでも練習したくて堪らないッス!」
「バッチリ。ならそのモチベーションは保ったまま、今度は歌ってみよっか」
「…………へ?」
結論から言って、山本は再試を合格できるラインまで歌えるようになっていた。身体の強ばりを解いて、脳内でバレーをイメージしながら音を取っただけだが、確かにちゃんと曲として仕上がっていた。これで上手くいかなければいくつか案はあったのだが、山本が素直なお陰で上手くいったなと安心する。
「あ、あの、苗字さん! 本当にありがとうございます!」
「どういたしまして。私も少しは頼れる先輩になれた?」
「それはもう! 正直かなり絶望してたんで!」
「なら良かった。……先生、まだ戻ってこないみたいだし私も自分の練習しよっかな。山本、付き合ってくれる?」
「エッ!? あ!? は、はい喜んで!!」
「何でまた挙動不審に戻ったの? いくよー」
どんな大応援団と対峙したとしても、自分の仲間に届く声になるように。鋭く芯のある爪で相手を穿くように、しなやかで柔らかな尻尾で味方を包み込むように。いつだって仲間を鼓舞するための強い声を出せるように。私は今日も全力で発声練習をした。
放課後。体育館で準備をしていたマネージャーのもとに、モヒカン姿の一年生が真っ先に風のごとく駆け寄ってきた。
「苗字さん、お疲れ様ですッ! お仕事お手伝いしまァす!」
「山本お疲れ、ありがと。なら、倉庫から得点板もってきてくれる?」
「お安い御用です! しばしお待ちください!」
ひらひらと手を振って見送った。昨日とはまるで異なる様子の後輩に、近寄ってきた黒尾と夜久が目を白黒させている。
「え。苗字先輩、何やったの? 山本が下僕みたいになってたけど」
「ちょっと昼休みにお喋りしただけ?」
「それだけであそこまで変わるか……?」
「あの子は素直だし、ようやく私に慣れてくれたみたいだね」
本当かよ、と二人からさらに質問を受けていると、ガラガラと音を立てながら得点板と共に噂の後輩が戻ってくる。
「オイ山本! 苗字先輩にどんな風に誑かされたんだ!? 黒尾さんに言ってみなさい!」
「エッ!? いやそんな誑かされたなんて滅相もない!?」
「だーかーら、そんなことしてないってば。それに今日のことは二人だけの秘密だから。ね、山本?」
ピンと人差し指を立てて、私自身の唇に当てる。別にわざわざ秘密にする必要はないが、あまり大っぴらに努力していることを言うのも避けたかった。口裏を合わせようという意図を伝えているだけなのに、山本の顔が急速に赤らんでいくものだから首を傾げる。
「あのね苗字さん。そういう無自覚な誘惑が一ッ番タチ悪いんだからやめなさい。この鈍感」
「黒尾、そこまで言う?」
「苗字、健全な男子高校生は思わせぶりな一言だけですぐ簡単に勘違いするからそういうのマジでやめろ」
「夜久まで説教するの!?」
「自分を大事にしろってことだよ! 何で俺が苗字にキレなきゃいけねえんだ!?」
「知らないけど!?」
「はいはい、やっくん。気持ちは分かるけど落ち着いてー」
先輩たちが来るまでの間、じゃれ合うような会話を続ける。あとからやって来た海が宥めるように私たちの肩に手を置いたり、福永や孤爪までもが興味深そうに近寄ってきたり。
彼らのありのままの感情に触れる度に愛おしくて、どんなことでも頑張れると思った。皆が誇れるようなマネージャーになりたいなんて傲慢かもしれないけど、私は何より皆のことが誇りだったから。
これから何があったとしても、音駒高校男子バレー部のマネージャーは、他でもない皆のために声を張り上げるから。
いつか私の声が皆にとっての矛になれるように、盾になれるように。一縷の祈りを誠心誠意、込めるから。
圧倒的な声量の前に打ちのめされてその現実を知ったのは、一年生のIH予選のことだった。どんなに一生懸命、喉を枯らす程に張り上げても、努力など無駄だと切り捨てるかのように私の声は無かったものとされた。
お門違いかもしれないけど、悔しかった。自分の無力さをまざまざと痛感させられたから。ただでさえバレーの初心者が役に立てる場面は少ないのに、応援さえもまともに出来ないだなんて。
東京は男子バレー部の激戦区だ。応援一つとっても、毎年全国に行くような常連校に勝つことは絶望的だった。そう、つまり真正面から声量で勝負するのは悪手なのである。
ならば何が最善か。外からの大歓声で勝ち目が無いなら、コートの中から届ける
今まさにボールを追いかける、目の前の
あの圧倒的な大敗北から約一年。今日のお昼休みは、私の原点とも言える戦場にやって来ていた。意を決して扉を開ける……と、ぽかんと大きく口を開けた部員と対面する。
「……山本?」
「エッ、あっ! 苗字さん!?」
「うん、苗字です。一年生、前の時間が音楽だったの?」
「は、……はい…………ッ」
勢いよく顔を背けられたから、全く視線が合わなくて苦笑する。新入部員の彼は不自然なくらい女性慣れしておらず常に挙動不審だった。私以外には威勢よく元気に接しているのに何故、と正直かなり寂しいのだが、思春期とはそういう時期なのかもしれない。
「答えたくなかったら何も言わなくて良いんだけど、歌のテストの再試?」
「ウッ! ……はい」
「手応えはどう?」
「……ダメ、かも、です」
うちの高校は、音楽のノルマが何故かやたらと厳しかった。音程やメロディーがズレていれば容赦なく休み時間を使った再試を言い渡されるし、どのクラスでも数人は居残りするのが常だった。
先生は何やら用事で退席しているようだし、この間に私自身の練習も兼ねてサポートしてあげられるだろうか。音楽室のグランドピアノに近付いてから鍵盤にポロポロと触れる。
「一年生の課題曲って……これか」
ちょうど教科書の楽譜が立てかけられていた。再試をする直前の状態だったのだろう。廊下の気配を探っても先生が戻ってくる様子は無さそうだし、遠慮なく鍵盤の前に座った。
「それじゃ山本、練習しよ」
「えっ!? で、ですが……苗字さんにご迷惑をおかけする……訳には……」
「このままだと、放課後も再試になって部活に遅刻するかもよ?」
「そ、それは……!」
練習をするにせよ、この状態だと山本もガチガチに緊張したままか。一瞬思考してから、右手の人差し指をピンと立てる。
「山本、ちょっと目を閉じてみて」
「え!? は、はい……」
思ったより大人しく従ってくれたから、素直で笑ってしまう。あくまで異性と話すのに戸惑っているだけなんだな、と思うと可愛く見えてきた。
「大きく深呼吸してー」
「は、はい! スゥ……ハァ……」
「少し身体を解してくよ。肩甲骨の中心から動かすイメージで、両肩を手前から後ろにグルっと回してみて。……うんうん、上手。自分のペースでゆっくり、もう一周。……よし、元の位置に戻ったらストンと肩を落としてみよう」
「あ……力が抜けた……?」
ぽかんと驚いたように呟いている。真正面から目が合ったから、グッと親指を立てた。
「身体が力んでると、上手く声が出ないことも多いんだよね。山本、コツ掴むの早いからこのやり方でいってみよっか」
「は、はい!」
「それじゃまた目を閉じてー」
「ウッス!」
何となく楽しくなってきた。それに山本の緊張も少しだけ解れてきた気がする。よしよしと頷きながら指先を鍵盤に乗せた。
「ぼんやり頭の中で想像するだけで良いから、これから私が伝える光景をイメージしてみて」
「はい!」
「山本は今、バレーコートの中にいます」
「よし!」
「ラッキーなことに、ボールが山なりに飛んできました」
ポーンと一つの音を鳴らす。臨場感が少しでも増すように。私も頭の中でコートに立ちながら、今聞こえるのはどの音かを見つけていく。
「山本は、そのボールをどうやって取る?」
「……アンダーでセッターに返球ッス!」
「うん、ナイス判断」
綺麗な弧を描くボールの軌道をイメージして、いくつかの音を繋げていく。セッターからトスが上がれば、スパイカー達がネット際に寄っていくだろう。
「山本、どうする?」
「もちろん、次期エースとして俺が打ちます!」
「最高。それじゃ山本にとってドンピシャのトスが上がってくるのを想像して……」
「オス!」
「打って!」
メロディーラインも盛り上がったところで、ブンと勢いよく空気を切る音がした。パチリと開いた目がキラキラと私を見つめてきた。やはりパワーのある有望な選手だと確信を持ちながら微笑む。
「今の感覚、覚えた?」
「はい! 今すぐにでも練習したくて堪らないッス!」
「バッチリ。ならそのモチベーションは保ったまま、今度は歌ってみよっか」
「…………へ?」
結論から言って、山本は再試を合格できるラインまで歌えるようになっていた。身体の強ばりを解いて、脳内でバレーをイメージしながら音を取っただけだが、確かにちゃんと曲として仕上がっていた。これで上手くいかなければいくつか案はあったのだが、山本が素直なお陰で上手くいったなと安心する。
「あ、あの、苗字さん! 本当にありがとうございます!」
「どういたしまして。私も少しは頼れる先輩になれた?」
「それはもう! 正直かなり絶望してたんで!」
「なら良かった。……先生、まだ戻ってこないみたいだし私も自分の練習しよっかな。山本、付き合ってくれる?」
「エッ!? あ!? は、はい喜んで!!」
「何でまた挙動不審に戻ったの? いくよー」
どんな大応援団と対峙したとしても、自分の仲間に届く声になるように。鋭く芯のある爪で相手を穿くように、しなやかで柔らかな尻尾で味方を包み込むように。いつだって仲間を鼓舞するための強い声を出せるように。私は今日も全力で発声練習をした。
放課後。体育館で準備をしていたマネージャーのもとに、モヒカン姿の一年生が真っ先に風のごとく駆け寄ってきた。
「苗字さん、お疲れ様ですッ! お仕事お手伝いしまァす!」
「山本お疲れ、ありがと。なら、倉庫から得点板もってきてくれる?」
「お安い御用です! しばしお待ちください!」
ひらひらと手を振って見送った。昨日とはまるで異なる様子の後輩に、近寄ってきた黒尾と夜久が目を白黒させている。
「え。苗字先輩、何やったの? 山本が下僕みたいになってたけど」
「ちょっと昼休みにお喋りしただけ?」
「それだけであそこまで変わるか……?」
「あの子は素直だし、ようやく私に慣れてくれたみたいだね」
本当かよ、と二人からさらに質問を受けていると、ガラガラと音を立てながら得点板と共に噂の後輩が戻ってくる。
「オイ山本! 苗字先輩にどんな風に誑かされたんだ!? 黒尾さんに言ってみなさい!」
「エッ!? いやそんな誑かされたなんて滅相もない!?」
「だーかーら、そんなことしてないってば。それに今日のことは二人だけの秘密だから。ね、山本?」
ピンと人差し指を立てて、私自身の唇に当てる。別にわざわざ秘密にする必要はないが、あまり大っぴらに努力していることを言うのも避けたかった。口裏を合わせようという意図を伝えているだけなのに、山本の顔が急速に赤らんでいくものだから首を傾げる。
「あのね苗字さん。そういう無自覚な誘惑が一ッ番タチ悪いんだからやめなさい。この鈍感」
「黒尾、そこまで言う?」
「苗字、健全な男子高校生は思わせぶりな一言だけですぐ簡単に勘違いするからそういうのマジでやめろ」
「夜久まで説教するの!?」
「自分を大事にしろってことだよ! 何で俺が苗字にキレなきゃいけねえんだ!?」
「知らないけど!?」
「はいはい、やっくん。気持ちは分かるけど落ち着いてー」
先輩たちが来るまでの間、じゃれ合うような会話を続ける。あとからやって来た海が宥めるように私たちの肩に手を置いたり、福永や孤爪までもが興味深そうに近寄ってきたり。
彼らのありのままの感情に触れる度に愛おしくて、どんなことでも頑張れると思った。皆が誇れるようなマネージャーになりたいなんて傲慢かもしれないけど、私は何より皆のことが誇りだったから。
これから何があったとしても、音駒高校男子バレー部のマネージャーは、他でもない皆のために声を張り上げるから。
いつか私の声が皆にとっての矛になれるように、盾になれるように。一縷の祈りを誠心誠意、込めるから。