体育館にやって来た我らが脳は、マトモに開かない目をしょぼしょぼと手で擦っていた。まだ他には誰もいなかったから、真っ先に駆け寄って話しかける。

「孤爪、寝不足?」
「苗字さん……うん……」
「少し横になってなよ。タオルも渡しとくから自由に使って」
「ありがと……」
「ん、何かあったら呼んでね」

のそのそと隅っこに歩いていく様子を見守る。練習が開始するまではまだかかりそうだし、少し仮眠するくらいの時間はあるだろう。
孤爪はアイマスクと耳栓をつけた後、床でごろんと横になって丸まっていた。私が渡したタオルは無事にぐるぐる巻かれて枕になったようだ。クマはあるけど顔色もそこまで悪い訳じゃないし、ひとまずは大丈夫そうかと納得する。

相変わらず他人を寄せ付けないようでいて、実際は人懐っこいところがあると思う。まさに気まぐれな猫みたいだなあと笑いつつ、私もマネージャーの仕事に取りかかった。

ドリンクにタオルにゼッケンにボールに、と一通りの準備を終えてからまた戻ってくる。
徐々に部員も集まり始めていて、完全防備の孤爪を取り囲むように黒尾と山本がニヤニヤ笑っていた。また何か企んでいるのかと呆れつつ私も近寄る。

「……ふたりとも、何やってんの」
「苗字さん! お疲れ様ッス!」

山本も孤爪を気遣ってか、ちゃんと小声で喋っている。ひらひらと手を振って返事をした。途端に黒尾が上からニュッと覗き込んでくる。

「研磨がいつ起きるか、賭けてました」
「賭け事なんてしてるの? 赤血球の分際で」
「えっ苗字、その言い方は酷くない!?」
「赤血球が脳に反旗を翻す方が酷くない?」

セッターに酸素を回すための血液。黒尾が決めた試合前の掛け声を受けて、私は彼らを赤血球と勝手に呼んでいた。
音駒の赤いユニフォームで丁寧にレシーブをする姿は、横で見ていると凄く綺麗な残像として映るから。敬意を込めているつもりだけど……普段こうして軽口を叩く時はつい笑いで誤魔化してしまう。

「……苗字さん」
「あ、孤爪。ごめん、起こしちゃった?」

アイマスクをつけたままの状態で、孤爪が小さく声を上げた。それ以上無茶させないように近付いて耳を傾ける。

「……アップルパイ」
「え?」
「こないだの、実質アップルパイのバー、つくって……」

僅かに掠れた覇気のない声が求めるのは、アップルパイが好きな孤爪のために先日試作したプロテインバーのことだろう。確かにあの日はいつもより食べる量が多かったけど、そこまで気に入ってくれたのかと嬉しくなる。
母親に夕飯のリクエストをする子どものようで随分と微笑ましかった。

「あれね。うん、分かった」
「良かった、おやすみ……」

なら準備するかと立ち上がったところで、再び視界に黒尾がヌッと現れる。本当に妖怪みたいだ。

「苗字は母親みも姉みもあるよな」
「グッ、分かります……。圧倒的な母性と包容力……更には幼なじみ属性も感じるッス」
「はいはい、悪ガキたち。訳わかんないこと言ってないで行くよー」

孤爪のもとから離れつつも、背後で黒尾がボヤき出す。

「苗字が母親なら父親は夜久? 俺、足癖が悪いオトンはヤダー」
「私、一緒に子育てするなら圧倒的に海派です」
「何で俺じゃねえんだよ!?」
「夜久こそ何でよりによって今来たの!?」

まさにちょうど、海と夜久が同じタイミングで体育館へやって来た。状況がカオスすぎる。溜め息を吐きつつ背後を見遣ると孤爪はまだ寝ていた。休息の邪魔になっていなければいいけど。

「それじゃ私、差し入れの準備があるから」
「アッおい! 苗字、話はまだ終わってねえぞ!」

好きな人と一緒に子育てしたい人は別ですから、なんてとてもじゃないけど言えない。

「文句ならこの状況を作った妖怪トサカマンに言ってー」
「オイコラ黒尾!」
「やっくんマジで苗字に甘いよね!?」

夜久も黒尾も大好きだ。心底尊敬しているし日々じゃれ合う時間も幸せだけど、それはそれとして好きだからこそ対応が面倒臭い時もある。……私がここまで人間関係で割り切った考えが出来るようになるなんて、入学当初は全く想像してなかったな。少し感慨深くなりつつも歩を進める。

体育館を出てすぐ、いつも通りマイペースな空気をまとった福永と遭遇した。

「苗字さん。……お疲れ様です」
「お疲れ! ……そういえば福永って差し入れのリクエストしてきたことないけど、何か要望あったりする?」
「……当たり前のように出てくる、あたりめ。すなわち当たりめーとか」

自然と出てきたダジャレについ吹き出す。うちの部員は素直な子が多いんだよなあと笑っていると、本当に母親にでもなった気分だ。

「合同合宿で監督にお酒のおつまみ出す予定だから、その時に準備しとくね」
「……! 俺、頑張ります!」
「うん。応援してる」

パッと顔が華やいだ福永に手を振ってから、家庭科室へと向かう。体育館の準備は芝山や手白たち頼もしい一年生に任せてきたから、私は遠慮なく楽をさせてもらおう。

その場でグッと伸びをして、外の瑞々しい空気を味わった。空が青く澄んでいて綺麗だ。バレー部のマネージャーをやっていなかったら、こんな些細な光景に幸せが詰まっているだなんて想像もしなかっただろう。

「よし、私も頑張ろ」

あの日、夜久に引いてもらった手で。初めてバレーボールの本を読み込んだ手で。差し入れ作りを試行錯誤した手で。発声練習のためにピアノを引いた手で。二年以上マネージャーを続けてきた手で。私なりに、未来へのボールを繋いでいこう。

全身に満ち満ちるやる気のまま、衝動的に駆け出した。走りながら両手で髪を上げてポニーテールにする。視界も気分も更にスッキリしたなと心から笑った。帰り道、自分のためにミルクティーを買って帰ろうと思った。