「キミは他人行儀すぎる」

ホームズさんが不満をありありと顔に浮かべて抗議してきたのは、いつも通り朝食を終えた後のことだった。
意外にも子どもらしい側面があると知ったのはつい最近のことなのに、違和感なく受け入れられる自分が不思議に思えた。
それはそれとして反応には困るのだけれど。

御琴羽さんは一瞬驚きつつも、微笑んで静観する姿勢を見せている。
逃げ場を失ったことを悟り、つい視線を斜め上に向けてしまった。

「……そう言われましても」
「イマドキ依頼人だってもっと横柄な態度を見せるというのに」
「ホームズさんは、わたしに何を求めているんです?」
「ほら! それをやめてくれないか」

正体不明の『それ』を酷く厭うような険しい顔で、人差し指をぴんと立てている。眉目秀麗な人は何をしていてもサマになるから凄いな、と素直に感心した。
しかし推理中にさえ見せないような難しい顔を、こんなシチュエーションで披露して良いものなのだろうか。

「名前さん、ホームズは貴女に……」
「ミコトバ、キミもだぞ!」
「はいはい。どうやら呼び方と話し方をもっと砕けた形にしろ、と言いたいみたいですね」
「なるほど……?」

恩人には失礼のないようにと思って丁寧な言動を心がけていたが、気に触ったのなら改めなければならない。

「さすがに、呼び捨てするのは気が引けるんですよ。あまり経験がなくて」
「なら間を取るのはどうでしょう。ホームズくん、とか」
「そっか。『くん』も立派な敬称ですよね」

ホームズさんの元々の性質を差し引いても、御琴羽さんはとても大人だった。
留学生として国を背負って立つ程に勤勉な上、面倒見がよく誠実とは恐れ入る。もしお子さんがいる父親だと明かされても素直に納得してしまうだろう。

「ということで、ホームズ。折衷案で手を打つのはどうです?」
「横から割り込まれたのが気に入らない」
「あなた、子どもですか……」
「少なくともキミよりはね」

御琴羽さんが呆れたように溜め息を吐く様も見慣れてきた。
年齢差を乗り越えた対等な信頼関係を真っ向から浴びて、あまりにも眩しくてつい笑ってしまう。
硬く干からびていた地面にようやく水が染み込んだように、胸がゆるゆると泥濘ぬかるむような心地になったものだから、わたしも少しくらい素直になろうと思った。

「そんなに拗ねないで。ホームズくん」

朝日に包まれた室内に浮かぶグリーンの瞳が、いつの間にかこちらを捉えていた。
このひとには夜の慎ましさも似合うけれど、朝の明るさもひどく映える。

「別に拗ねてはいないさ。ナマエ」

神妙な顔で紡がれる自分の名前がまるで違う響きに思えて、さらに笑ってしまう。
緩みきった顔を元に戻す方法が見当たらず口に手を当てていると、御琴羽さんも穏やかに笑い声をあげていた。

「これは一本取られましたね、ホームズ」
「甘いな。これくらいでボクを出し抜いたと思わない方がいい」

こんなに些細で何気ない出来事を大仰に言う姿が年相応に見えて、自然と御琴羽さんと目配せしあう。
二人して再度笑い出したことには気付いている筈なのに、ホームズくんは何も言わずに顔を逸らした。
どうやらキッチンへ食後のお茶を取りに行くようなので、あらかじめ準備しておいて良かったと胸を撫で下ろす。

「そうだ。私の呼び方も畏まらなくて良いですよ」

ひとしきり笑いが収まったところで、御琴羽さんが自然に切り出した。
僅かばかり期待していたことではあったが、見透かされていたのかと驚いて瞬きを繰り返す。

「……嬉しいんですけど、少し勇気がいりますね」
「ホームズのことはあっさり呼んだのに?」
「それとこれとは別というか! でも分かりました。ええと、御琴羽くん」
「敬語もいらないですね」
「容赦がない!?」

悪戯っぽく笑う年上のルームメイトは、推理に勤しむ探偵のような顔をしている。
普段見せるお医者さまらしい落ち着き方に慣れているため新鮮だったが、これもまた御琴羽くんの大切な一面なのだろう。

人に踏み込むのも人から踏み込まれるのも苦手だった筈なのに、わたしは今、夢よりもやさしい現実に助けられているのだと思った。



御琴羽くんが病院へ出かけた後、ホームズくんは自室に篭って科学実験をしているようだった。
試験管を扱う時は無表情で何処と無く虚ろな目をしているのだが、それこそが至極楽しんでいる様子だと理解したのもつい最近のことだった。

あらゆる意味で不器用なひとなのだろう。他人の醜さも痛みも自然と見通してしまうが故の、防衛本能の表れなのかもしれない。
自分の感情を抑え込んだ上で思索に耽ってしまう感覚はひどく覚えがあった。

同じ頃わたしは、与えられた役割を果たすべく自室の机に向き合っていた。
インク瓶と羽根ペンを武器に、質素なレターセットへと文字を書き連ねていく。
書きやすさという観点で見ると格段に現代の筆記具に劣るものの、だからこそ納得のいく文字が書けた際の達成感は一入ひとしおだった。

何より、インテリアのような繊細な見た目に毎秒ときめいてしまう。
日常を彩る些細な美しさを実感できたのも、あの夜に寄り添ってくれた優しい探偵のお陰だった。

コンコン、とノックの音が鳴る。素早く硬質なそれを生むのは当然一人しかいないため、どうぞ、とはっきり声を出した。

「ナマエ、調子は?」
「うん、悪くないよ。ホームズくんの功績は着実に知れ渡ってるから、無下にされることもないしお返事は貰えてるし」

警察に手紙を出してほしい。先日受けた依頼には、探偵シャーロック・ホームズが未解決事件の答えを国家に突き付ける、という目的があった。
すなわち、被害者の性別や国籍や身分、はたまた警察自身の多忙さによって切り捨てられてきた過去の捜査を、ホームズくんが一から実施した結果のレポートだった。

明るみになった事実を一つ一つ言語化して、ファイリングして、手紙としてしたためて、切手を貼って送る。
工程としてはシンプルなものだったけれど、名探偵の頭の一部を覗く作業にはやり甲斐と楽しさが詰まっていた。

事件の被害者たちが声を上げやすい社会を作りたいんだ、と淡々と語っていた横顔を思い出す。
自惚れなのは承知で、名探偵の下積み時代をほんの少し支えている実感もあり、ペンはいつになく滑らかだった。

「あ、でも一つ相談が。今回お返事をくれたグレグソンさんっていう方が、ホームズくんと話がしたいって」
「なら此処に呼べばいい。日時はいつでも構わないから任せる」
「うん、分かった」
「何か他には?」
「それ以外は大丈夫。ありがとう」

ホームズくんは返事の代わりに手を軽く上げて、素早く踵を返していく。
そのまま部屋から出ていくかと思ったのに、直前でくるりと振り返って口を開いた。

「今日の夕食なんだが、あれが食べたい。この間のステーキパイ」

恐らく初めてだった。探偵であるとか、英国人であるとか、ルームメイトであるとか、様々な立場を抜きにして、シャーロック・ホームズというひとが純粋にワガママを言ってくれたのは。

「了解。ご飯のリクエスト、何かあればいつでも言ってね」
「ああ、楽しみにしてる」

今度こそホームズくんは、扉の向こうに消えていく。

料理のレパートリーをもっと増やしたいし、今より手紙を上手く書けるようになりたいし、一人で街を出歩けるように最低限の護身術は身に付けたい。
明るい目標がふつふつと湧いてくるのを感じて、その全てを仕舞い込むように深呼吸をした。

まだ少し朝の明るさは怖いけれど、夜の方がわたしの全てを隠してくれるから落ち着くけれど。
今まで貰った優しさに恥じぬように、自分の脚で歩いていきたいと思った。

心臓の底を泳ぐ夜の残り香が、部屋の隅で膝を抱えていた頃のわたしを柔く撫ぜているような気がした。