いってらっしゃいの魔法
人は、良いことがあった結果幸せになるんじゃない。自分で嬉しいことを探すからこそ幸せになれる。バレー部のマネージャーを始めてから痛感した持論だった。
起き抜けに窓を開ける。今朝もよく晴れていて気持ちのいい天気だった。合宿所は運動公園の中にあるから、身近に緑があって常に空気がとても澄んでいる。深呼吸をすれば、身体の隅々まで清廉で快活な光が満ちていくような気がした。
白湯を飲むついでに朝食の準備をしようと部屋を出ると、誰かが階段を下りてくる気配がする。ミルクティー色のサッパリした短髪を揺らす、我らが守備の圧倒的エース。そして、私の好きなひと。
その丸くて透き通った瞳に、ふわっと甘やかな色が浮かぶのを見た。夜久のレシーブみたいに優しくて力強い色だと思った。
「おはよ、夜久」
「おう。おはよ、苗字」
互いに手を上げて朝の挨拶を交わす。起きたばかりで顔も洗ってないけど、これも今更だなと笑った。
「やっぱり今日はいい日だ」
「ん?」
「朝一番に夜久に会えたから」
「……苗字さん、不意打ちに関しては人のこと言えないって自覚してますか」
「さあ、知らないです」
「はーッ、ずりいな!」
「お互い様だね」
選手とマネージャー。同級生。志を共にする仲間。私たちの関係性を表す言葉はいくらでもあるけど、今はどうでもいいと思ってしまう。
顔を合わせただけで言葉を交わせただけで幸せになれる、この瑞々しくて儚い一瞬の切なさを既存の言葉に無理やり当てはめるのは、実にナンセンスだろう。
「夜久、走りに行く?」
「おう。タオル、洗濯室から一つ持ってっていいか?」
「勿論。その間にドリンク作るから、玄関前に持ってくね」
「サンキュ。多分そのうち黒尾も海も来るから」
「オッケー。タオルもいつものとこに畳んで置いとくから、二人に会ったら伝えておいて」
「ん、了解」
考えるより先に手が自然と動くくらい、ドリンク作りは手に馴染む仕事だ。季節が進む度に皆の飲む量もペースもどんどん変わっていくから大変なんだよなあと、過去の経験を振り返っては笑う。
いくつか作り終えてからすぐ玄関に走った。夜久がいた。座りながらスニーカーの紐を結ぶ、その大きな背中は見慣れている筈なのに。なんだか一瞬、知らない男の人と邂逅したような気分になって息が止まった。
「ん? 苗字、どうした?」
座りながら振り返った夜久が、不思議そうに首を傾げていた。我に返ってから慌てて駆け寄ってドリンクを手渡す。
「なんか夜久、またカッコよくなったなと思って。見惚れちゃった」
「……そーですか」
「……顔、ちょっと赤い?」
「分かってんなら少しくらいは手加減しろ!」
「嫌。言いたい時に言いたいこと言わなきゃ後悔するし」
「……その気持ちはめっちゃ分かる」
「でしょ」
「はー……我ながら俺、苗字に弱えな」
「夜久は優しいからね」
「違えよ。苗字だけは超特別」
「……そうですか」
「ハハッ、顔が赤いですけど?」
「わざわざ言わんで宜しい!」
そんなこんなで準備を終えた夜久が立ち上がって、私を真正面に見据える。
「じゃ、行ってくる」
「うん。いってらっしゃい」
ガラリと玄関の扉が開く。未だに薄暗い朝の中、夜久の笑顔がキラキラと太陽みたいに輝いていた。
その背中を見送りながら、私はなんだか泣きそうな気持ちになってしまう。あと何度こんな朝を迎えられるのか、なんて。考えても仕方がないことなのに。
烏野総合運動公園、球技場。ゴミ捨て場の決戦……の第一歩たる練習試合が、ついに始まろうとしていた。
烏らしい真っ黒なジャージをまとった選手たちが一列に並ぶ様子を見て、自然と私の背筋も伸びる。一目見ただけでも個性豊かな様子が窺えた。音駒の皆も自然とワクワクしているように見える。
メンバーの後ろに控えていると、烏野のマネージャーさんらしき眼鏡の女の子と目が合った。お互いぺこりとお辞儀する。
選手たちが元気よく挨拶するのを見届けた後、サッと駆け寄って握手を求めた。
「初めまして、音駒でマネージャーをやっている苗字名前です。以後お見知り置きを」
「はじめまして。烏野のマネージャーの清水潔子です。よろしくお願いします」
第一印象はクールに見えたけれど、控えめな笑顔が可愛い子だなとほっこりする。それじゃ試合の準備に行きましょうかと歩き始めたところで、背後で山本が何やらワーワーと騒ぐ声を聞いた。
振り返ると、烏野の坊主頭の選手と険しい顔で言い合いをしているようだった。山本が初対面の人とあれだけ騒ぐのは珍しくて驚く。あれで結構な人見知りだから。
「清水さん、すみません。悪い子じゃないんですけど……」
「いえ、お互い様ですから」
面倒見の良さそうな烏野の人───視野の広そうな方だしセッターだろうか───が、夜久と共に二人を宥めに行っているようだ。噂のヒナガラスくんも孤爪と仲が良さそうだし、黒尾と向こうの主将さんもどうやら気が合いすぎているみたいだし。
ついに来たんだなと痛感する。試合前なのに心が浮き立って仕方がなくて、思うままに笑い声を上げてしまった。
「苗字さん、どうかしたんですか?」
「あ、驚かせてごめんなさい。……本番前からゴミ捨て場の決戦が白熱してるのが、なんだか嬉しくて」
清水さんはパチパチと何度か瞬きを繰り返した後、周囲を見回して同様に笑ってくれる。
「確かに、お互い既に楽しんでますね」
「因縁の対決ですし、やっぱり運命なのかな。……さて、今日の会場は練習で使ってて勝手は分かっているので、仕事は分担してやりましょうか」
「はい、早速行きましょう」
同時刻。背後の龍虎コンビが、私たちを見て悶え転がっているなんてつゆ知らず。
「潔子さんが笑っとる……!」
「苗字さんが今日も愛らしい……!」
「……オイ山本」
「アッ!? いや違うんです夜久さん! 俺にとって苗字さんは聖域 なので個人的にお近付きになろうとは全く思っておらず!」
「別にそんな邪推してねーし、怒ってねえよ。つか苗字はお前のこと可愛がってんだから、好意は素直に受け取っとけ」
「……勝負を挑む気は全く無かったのに、完全に負けた気分ッス」
「はあ? 何を訳の分かんねえこと言ってんだ。さっさと行くぞ」
夜久は、球技場の入口付近にいるマネージャーの背中を見つめた。そこにいてくれるだけで何万倍もの力が湧いてくる、ひどく大切で特別な存在。
少しでも恩返しが出来るように、けれど何より自分のために。今日という日も全力で楽しもうと改めて決意した。
起き抜けに窓を開ける。今朝もよく晴れていて気持ちのいい天気だった。合宿所は運動公園の中にあるから、身近に緑があって常に空気がとても澄んでいる。深呼吸をすれば、身体の隅々まで清廉で快活な光が満ちていくような気がした。
白湯を飲むついでに朝食の準備をしようと部屋を出ると、誰かが階段を下りてくる気配がする。ミルクティー色のサッパリした短髪を揺らす、我らが守備の圧倒的エース。そして、私の好きなひと。
その丸くて透き通った瞳に、ふわっと甘やかな色が浮かぶのを見た。夜久のレシーブみたいに優しくて力強い色だと思った。
「おはよ、夜久」
「おう。おはよ、苗字」
互いに手を上げて朝の挨拶を交わす。起きたばかりで顔も洗ってないけど、これも今更だなと笑った。
「やっぱり今日はいい日だ」
「ん?」
「朝一番に夜久に会えたから」
「……苗字さん、不意打ちに関しては人のこと言えないって自覚してますか」
「さあ、知らないです」
「はーッ、ずりいな!」
「お互い様だね」
選手とマネージャー。同級生。志を共にする仲間。私たちの関係性を表す言葉はいくらでもあるけど、今はどうでもいいと思ってしまう。
顔を合わせただけで言葉を交わせただけで幸せになれる、この瑞々しくて儚い一瞬の切なさを既存の言葉に無理やり当てはめるのは、実にナンセンスだろう。
「夜久、走りに行く?」
「おう。タオル、洗濯室から一つ持ってっていいか?」
「勿論。その間にドリンク作るから、玄関前に持ってくね」
「サンキュ。多分そのうち黒尾も海も来るから」
「オッケー。タオルもいつものとこに畳んで置いとくから、二人に会ったら伝えておいて」
「ん、了解」
考えるより先に手が自然と動くくらい、ドリンク作りは手に馴染む仕事だ。季節が進む度に皆の飲む量もペースもどんどん変わっていくから大変なんだよなあと、過去の経験を振り返っては笑う。
いくつか作り終えてからすぐ玄関に走った。夜久がいた。座りながらスニーカーの紐を結ぶ、その大きな背中は見慣れている筈なのに。なんだか一瞬、知らない男の人と邂逅したような気分になって息が止まった。
「ん? 苗字、どうした?」
座りながら振り返った夜久が、不思議そうに首を傾げていた。我に返ってから慌てて駆け寄ってドリンクを手渡す。
「なんか夜久、またカッコよくなったなと思って。見惚れちゃった」
「……そーですか」
「……顔、ちょっと赤い?」
「分かってんなら少しくらいは手加減しろ!」
「嫌。言いたい時に言いたいこと言わなきゃ後悔するし」
「……その気持ちはめっちゃ分かる」
「でしょ」
「はー……我ながら俺、苗字に弱えな」
「夜久は優しいからね」
「違えよ。苗字だけは超特別」
「……そうですか」
「ハハッ、顔が赤いですけど?」
「わざわざ言わんで宜しい!」
そんなこんなで準備を終えた夜久が立ち上がって、私を真正面に見据える。
「じゃ、行ってくる」
「うん。いってらっしゃい」
ガラリと玄関の扉が開く。未だに薄暗い朝の中、夜久の笑顔がキラキラと太陽みたいに輝いていた。
その背中を見送りながら、私はなんだか泣きそうな気持ちになってしまう。あと何度こんな朝を迎えられるのか、なんて。考えても仕方がないことなのに。
烏野総合運動公園、球技場。ゴミ捨て場の決戦……の第一歩たる練習試合が、ついに始まろうとしていた。
烏らしい真っ黒なジャージをまとった選手たちが一列に並ぶ様子を見て、自然と私の背筋も伸びる。一目見ただけでも個性豊かな様子が窺えた。音駒の皆も自然とワクワクしているように見える。
メンバーの後ろに控えていると、烏野のマネージャーさんらしき眼鏡の女の子と目が合った。お互いぺこりとお辞儀する。
選手たちが元気よく挨拶するのを見届けた後、サッと駆け寄って握手を求めた。
「初めまして、音駒でマネージャーをやっている苗字名前です。以後お見知り置きを」
「はじめまして。烏野のマネージャーの清水潔子です。よろしくお願いします」
第一印象はクールに見えたけれど、控えめな笑顔が可愛い子だなとほっこりする。それじゃ試合の準備に行きましょうかと歩き始めたところで、背後で山本が何やらワーワーと騒ぐ声を聞いた。
振り返ると、烏野の坊主頭の選手と険しい顔で言い合いをしているようだった。山本が初対面の人とあれだけ騒ぐのは珍しくて驚く。あれで結構な人見知りだから。
「清水さん、すみません。悪い子じゃないんですけど……」
「いえ、お互い様ですから」
面倒見の良さそうな烏野の人───視野の広そうな方だしセッターだろうか───が、夜久と共に二人を宥めに行っているようだ。噂のヒナガラスくんも孤爪と仲が良さそうだし、黒尾と向こうの主将さんもどうやら気が合いすぎているみたいだし。
ついに来たんだなと痛感する。試合前なのに心が浮き立って仕方がなくて、思うままに笑い声を上げてしまった。
「苗字さん、どうかしたんですか?」
「あ、驚かせてごめんなさい。……本番前からゴミ捨て場の決戦が白熱してるのが、なんだか嬉しくて」
清水さんはパチパチと何度か瞬きを繰り返した後、周囲を見回して同様に笑ってくれる。
「確かに、お互い既に楽しんでますね」
「因縁の対決ですし、やっぱり運命なのかな。……さて、今日の会場は練習で使ってて勝手は分かっているので、仕事は分担してやりましょうか」
「はい、早速行きましょう」
同時刻。背後の龍虎コンビが、私たちを見て悶え転がっているなんてつゆ知らず。
「潔子さんが笑っとる……!」
「苗字さんが今日も愛らしい……!」
「……オイ山本」
「アッ!? いや違うんです夜久さん! 俺にとって苗字さんは
「別にそんな邪推してねーし、怒ってねえよ。つか苗字はお前のこと可愛がってんだから、好意は素直に受け取っとけ」
「……勝負を挑む気は全く無かったのに、完全に負けた気分ッス」
「はあ? 何を訳の分かんねえこと言ってんだ。さっさと行くぞ」
夜久は、球技場の入口付近にいるマネージャーの背中を見つめた。そこにいてくれるだけで何万倍もの力が湧いてくる、ひどく大切で特別な存在。
少しでも恩返しが出来るように、けれど何より自分のために。今日という日も全力で楽しもうと改めて決意した。