急がば牛歩
細かい事務仕事は、パズルゲームみたいで結構楽しい。
TODOリストを作っては一つずつこなし、各項目をチェックマークで潰していくのは、孤爪が言うところのデイリークエストを消費する達成感に似ているんだろうなと思う。
特に合宿前は、他校への連絡や経費関連書類の提出、タイムスケジュールの調整や部員への配布物の作成など細かいタスクがたくさん出てくる。
選手たちが練習に集中できるように、少しでもご飯や休息時間を快適に楽しく過ごしてもらえるように、あらゆるシミュレーションをしては色々な対策を練るのは楽しかった。
「苗字さん、ちょうど良かった!」
職員室でプリンターを借りていた最中、大縫先生に呼び止められる。振り向けば、固定電話の受話器を持った格好で手招きされていた。
印刷されたプリントを抱えつつ足早に近寄っていくと、ニッコリと柔和な笑みが返ってくる。
「烏野高校の武田くんからよ。合同合宿の件で話があると言えば分かる筈だって仰っていたわ」
「あ、はい! ありがとうございます」
今日は直井コーチが仕事で忙しい筈だし、確か猫又監督もお出かけされる予定だった筈だ。連絡網の宛先に記載している残りの番号は音駒の職員室と私の携帯だったけど、さすがに平日昼間に生徒の番号にかける訳にもいかないだろうし。
常備しているメモとペンを取り出しつつ、先生から受話器を受け取った。
「お待たせしました。こちら、音駒高校男子バレー部マネージャーの苗字です」
「苗字さん! ご無沙汰しています、烏野の武田と申しますが」
武田先生についても、あの試合前に潔子ちゃんから聞いていた。眼鏡姿で穏やかな性格だけど、ちょっとロマンチストなところがある先生なのだとか。
「その節はお世話になりました! 本日は合宿の件でご連絡頂いたとのことですが……?」
「はい。具体的には会計報告書に関してなのですが……。あ、あの苗字さん! その前に一つ宜しいでしょうか!」
「はい、勿論大丈夫ですよ……?」
「実は僕は国語の教員をしておりまして。全日本高校生作文コンクール、苗字さんの作文を拝読しました! とても素晴らしかったです……!」
コンクールの話題が出ると、自然と先日の全校集会での出来事を思い出して胸が熱くなる。
羞恥心や達成感やその他色々な感情がごちゃまぜになりつつ、けどお陰でバレーに興味をもって声をかけてくれる人が増えたから良しと自分を納得させつつ。それでも顔に熱が集まるのが分かって少々気恥ずかしい。
「……ありがとうございます! 恐縮です」
「僕はお恥ずかしながらバレーボールの知識も浅く、彼らを導く術も満足に持たない若輩者なのですが。それでも最後まで出来ることを探すことこそが、自分の使命なのだと……改めて痛感して、身が引き締まる思いがしました」
ハッと息を呑む。相手は受話器の向こう側にいらっしゃるのに、敬意を込めたお辞儀をしてしまう。武田先生の真摯な言葉にじっと耳を傾けていった。
「バレーボールとは、コートの中だけで戦うものではないのだと。こうして僕が今、苗字さんと共に話す時間もまたバレーボールなのだと。……苗字さんの言葉から改めて学ばせて頂きました」
「……何よりも有難いお言葉の一つです。ありがとうございます、武田先生」
音駒には長らくマネージャーがおらず、仕事も居場所も自分で一から見つけて作っていくしか無かった。周りからはやり過ぎと言われることもあれば、時には迷惑をかけてしまうことだってあった。
勿論その都度反省はしつつ、黒尾たちと相談しては改善点を洗い出して、マネージャーの存在価値を自ら探っていった。今だってまだ明確な答えが見つかっている訳では無い。
そんな過去の自分と今の武田先生は、自意識過剰かもしれないけど、少し似ているような気がした。
バレーの技術も知識も無く、コートの外で声援を送ることしか出来ないサポーターが成せることとは、一体何なのか。とことん考え抜いて身体を動かして、失敗を重ねては己の役目を発見していく。
それが私にとっては勉強や料理であり、武田先生にとっては音駒との練習試合だったのだろう。
ゴミ捨て場の決戦が開幕したのも、何を隠そう武田先生の功績だ。
猫又監督が、烏野の先生から何度も練習試合を依頼されて終いには土下座されそうになったのだと、呆れながらも嬉しそうに笑っていた顔を思い出す。
結果的にあの監督に粘り勝ったのだから、相当な根性の持ち主だ。だからこそ個人的に武田先生のことは尊敬していたし、年下の高校生相手にも対等に賞賛を送ってくださる姿にも頭の下がる思いがした。
「苗字さんの作文を、烏野の皆にも見せて大丈夫ですか!?」
「え!? ……か、構いませんが、特に感想は求めていないので気を遣わないでほしいとお伝え頂けますか」
「はは、分かりました。念のため補足しておきますね」
メールアドレスを交換している日向くんからは、確実に連絡がくるだろうなと想像できる。
卵かけご飯のレシピを何度か共有したらその都度元気な返事がきたから、根が優しくて何事にも全力な子なんだなと実感するばかりだった。
あの明るさにはベクトルが違えど黒尾と似たものも感じるし、孤爪と仲が良くなるのも頷けた。
けれど、あの作文は人目につくことを前提にした文章というより、バレーボールやそれに関わる人々に対する個人的な心情を直情的に形にした言葉たちという感覚だったから。
自分の心臓の裏っ側をまじまじと観察されているかのような、独特の恥ずかしさがあってどうにも照れくさい。
そろそろ本題に戻ろうということで、互いに合宿に関する質疑応答を進めていった。
「……と、ご質問に対する回答はこんなところでしょうか」
「分かりやすいご説明、ありがとうございます。成程、最終日の買い出しによって、予算実績に多少変動の可能性があると」
「はい、今の監督たちは結構お茶目に食事も張り切ってくださる方が多いので……。あと私も色々試したいレシピがありまして、現地で直接ご相談しつつ案を練る形に落ち着きそうですかね」
「承知しました! 苗字さんのご飯は美味しいと日向くんから聞いているので、楽しみですね……」
「恐縮です。実は監督陣のお酒のつまみを作るのも恒例になりつつあるので、武田先生も何かご希望があればメールでお伝え頂ければと」
「え! わ、分かりました。検討の上で、結果にかかわらず本日中にご連絡しますね」
「はい、お待ちしてます」
各校から既に、食べたいもの・苦手なもの・アレルギーに関して記載してもらった通称「食いしん坊リスト」は受け取っているし、締切も過ぎているけど。まだ発注のタイミング的に問題ないし、個人的に先生とはご縁を感じたから特別ということで。
互いに改めて感謝を伝えてから、受話器を置いた。大縫先生にもお礼を伝えた後にすぐ職員室を出る。昼休みもそろそろ終わりだ。
「あれ、黒尾?」
廊下を少し進んだ先にあった進路指導室から、ちょうど出てきた場面に鉢合わせる。僅かばかり陰っているように見えた横顔が、私を見つけてからいつもの飄々とした色を帯びていった。
「よう苗字、お疲れ」
「うん、お疲れ。……進路相談?」
「まあな。将来なんて、今考えてもよく分かんねーなって実感してたとこ」
「同意。分かんないから、今は目の前のことを一生懸命やるしかない訳だし」
「苗字に共感してもらえると安心するわー」
「何それ」
互いに軽口を叩きつつ笑う。一緒に教室へ戻りながら、いつも通りに言葉を交わしていく。
「黒尾さん的には、人生なんていくらでもやり直しがきくし、新しくやりたいことが出来たらその時に頑張ればいいと思ってるんですけど」
「うん。人生どう転ぶか分からないからね」
「そーそー。たださ、今やるべきことを疎かにして将来の自分を犠牲にするのかって言われたら、……それを否定も出来ねえなってちょっと思っちゃったワケ」
今、勉強より部活を優先させて後悔しないのか。春高で結果が出せるかも分からないのに、練習に時間を捧げて良いのか。
大人が子どもに問いかける質問としては至極真っ当である。黒尾は面倒見がよくて気遣い屋な性質が強いから、周りの言葉を受け止めすぎようとする節があるのだろう。本人は認めようとしないだろうけど。
とはいえ、一般的なアドバイスなんて耳にタコだろうし。私はただ、過去に私の背中を押してくれた友人との会話を楽しむことしか出来ない。
「……犠牲ってさ、どっちの漢字にも牛偏が使われてるじゃん?」
「え? あ、ああ……そういやそうだな」
「牛は田畑を耕すのにも物の運搬にも役立つし、お肉は食べられるし牛乳も出してくれるし、めちゃくちゃ便利なわけ。だからこそ大地に恵みをもたらす存在として供物にされがちだったんだって」
「おお……頑張れば頑張る程に消費されていくと。現代社会の縮図みたいで切ないわー」
「で、黒尾って牛に似てるなと思ったんだけど」
「それ褒めてる!? 貶してる!?」
「めっちゃ褒めてる。今のバレー部は、黒尾が新しい体制を作ってくれなかったら成り立ってなかったし、黒尾の視野の広さや懐の深さがなきゃ部員同士の関係も上手くいかなかった場面だって多いし、音駒がチームとして技術もメンタルも強くなれたのは黒尾が主将だからこそだと思ってる」
「……苗字さんってほんと、人を褒めんの上手ですネ」
「褒めるっていうか事実だし」
目元を覆って僅かばかり項垂れているキャプテンは、どうやら照れているらしい。いつものお返しとばかりにニヤリと笑う。
「だから、黒尾がいなくても音駒はチームとして成り立つくらい成長したと思う。でもうちはまだ黒尾を必要としてる子ばかりだし。それに私も……ワガママかもしれないけど、もっと黒尾のバレーを見てたいよ」
「……おー」
ゆっくりと手を外しながらも、黒尾の背筋はずっと真っ直ぐに伸びたままだ。ガッシリとした体格を支える全身の筋肉は、コートの外でもずっと姿勢を保とうとする努力によって支えられているのだろう。
そんな努力家なところも、それを周囲に悟らせないよう振る舞うところも尊敬してるぞ、と思いながら私も密かに胸を張る。
「ま、これはあくまで私の意見で、無理強いしたい訳じゃないから。これからも美味しい牛乳 とお肉 を頼んだよ、牛さん」
「そーだな。苗字の作る飯を更に美味くしてやるかー」
「ドコサヘキサエン酸たっぷりの牛か。いいね」
「なら普通に魚食いてえけど」
「ふふん。合宿の朝食、楽しみにしてて」
「さっすが苗字! 分かってんなー」
黒尾は何かを確かめるように、視線を天井へと上げていく。我らが主将は自分の思考を人に悟らせないように振る舞う傾向があるから、個人的な価値観や心情に深入りすることは基本的にないけど。今日は何となく、お互いの深い部分を探り合うような感覚を覚えた。
「……苗字は、推薦でいくんだよな」
「まあね。受験も勧められたけど、今まで勉強やってきたのも部活に時間を使うためだし。今バレー部を諦めたら一生後悔するってことだけは分かるし。……だから、進路で困ることがあれば何でも言ってよ。こちとら、そのためにテストでも模試でも結果出してきたんだから」
今発した思いを全て込めた手のひらで、隣の大きな背中をパンと力を込めて叩く。黒尾は一瞬目を丸くしてから、脱力したように首を傾げた。
「苗字さん、頼もしすぎるしカッコよすぎませんか?」
「夜久には負けるけどね」
「……ほんと、お二人さんは似たもの夫婦って感じだよなー」
そう言われると、何となく違和感があるような恥ずかしいような、言語化し難い気持ちに支配される。
「苗字、照れてんの? 教室のど真ん中でやっくんに抱きついてたくせにィ?」
「ちょ! それは言うな!」
先日の件を盛大に掘り起こされる方がダメージが大きい。先程とは違う意味で背中をバシバシと叩きながら、私たちは並んで歩いていく。
たとえ誰かに後ろ指を差されたとしても、胸を張って自分の人生を歩んでいけるように。私は今までもこれからも、自分のために仲間のために地道な回り道を続けていこうと、黒尾の嬉しそうな横顔を見て思った。
TODOリストを作っては一つずつこなし、各項目をチェックマークで潰していくのは、孤爪が言うところのデイリークエストを消費する達成感に似ているんだろうなと思う。
特に合宿前は、他校への連絡や経費関連書類の提出、タイムスケジュールの調整や部員への配布物の作成など細かいタスクがたくさん出てくる。
選手たちが練習に集中できるように、少しでもご飯や休息時間を快適に楽しく過ごしてもらえるように、あらゆるシミュレーションをしては色々な対策を練るのは楽しかった。
「苗字さん、ちょうど良かった!」
職員室でプリンターを借りていた最中、大縫先生に呼び止められる。振り向けば、固定電話の受話器を持った格好で手招きされていた。
印刷されたプリントを抱えつつ足早に近寄っていくと、ニッコリと柔和な笑みが返ってくる。
「烏野高校の武田くんからよ。合同合宿の件で話があると言えば分かる筈だって仰っていたわ」
「あ、はい! ありがとうございます」
今日は直井コーチが仕事で忙しい筈だし、確か猫又監督もお出かけされる予定だった筈だ。連絡網の宛先に記載している残りの番号は音駒の職員室と私の携帯だったけど、さすがに平日昼間に生徒の番号にかける訳にもいかないだろうし。
常備しているメモとペンを取り出しつつ、先生から受話器を受け取った。
「お待たせしました。こちら、音駒高校男子バレー部マネージャーの苗字です」
「苗字さん! ご無沙汰しています、烏野の武田と申しますが」
武田先生についても、あの試合前に潔子ちゃんから聞いていた。眼鏡姿で穏やかな性格だけど、ちょっとロマンチストなところがある先生なのだとか。
「その節はお世話になりました! 本日は合宿の件でご連絡頂いたとのことですが……?」
「はい。具体的には会計報告書に関してなのですが……。あ、あの苗字さん! その前に一つ宜しいでしょうか!」
「はい、勿論大丈夫ですよ……?」
「実は僕は国語の教員をしておりまして。全日本高校生作文コンクール、苗字さんの作文を拝読しました! とても素晴らしかったです……!」
コンクールの話題が出ると、自然と先日の全校集会での出来事を思い出して胸が熱くなる。
羞恥心や達成感やその他色々な感情がごちゃまぜになりつつ、けどお陰でバレーに興味をもって声をかけてくれる人が増えたから良しと自分を納得させつつ。それでも顔に熱が集まるのが分かって少々気恥ずかしい。
「……ありがとうございます! 恐縮です」
「僕はお恥ずかしながらバレーボールの知識も浅く、彼らを導く術も満足に持たない若輩者なのですが。それでも最後まで出来ることを探すことこそが、自分の使命なのだと……改めて痛感して、身が引き締まる思いがしました」
ハッと息を呑む。相手は受話器の向こう側にいらっしゃるのに、敬意を込めたお辞儀をしてしまう。武田先生の真摯な言葉にじっと耳を傾けていった。
「バレーボールとは、コートの中だけで戦うものではないのだと。こうして僕が今、苗字さんと共に話す時間もまたバレーボールなのだと。……苗字さんの言葉から改めて学ばせて頂きました」
「……何よりも有難いお言葉の一つです。ありがとうございます、武田先生」
音駒には長らくマネージャーがおらず、仕事も居場所も自分で一から見つけて作っていくしか無かった。周りからはやり過ぎと言われることもあれば、時には迷惑をかけてしまうことだってあった。
勿論その都度反省はしつつ、黒尾たちと相談しては改善点を洗い出して、マネージャーの存在価値を自ら探っていった。今だってまだ明確な答えが見つかっている訳では無い。
そんな過去の自分と今の武田先生は、自意識過剰かもしれないけど、少し似ているような気がした。
バレーの技術も知識も無く、コートの外で声援を送ることしか出来ないサポーターが成せることとは、一体何なのか。とことん考え抜いて身体を動かして、失敗を重ねては己の役目を発見していく。
それが私にとっては勉強や料理であり、武田先生にとっては音駒との練習試合だったのだろう。
ゴミ捨て場の決戦が開幕したのも、何を隠そう武田先生の功績だ。
猫又監督が、烏野の先生から何度も練習試合を依頼されて終いには土下座されそうになったのだと、呆れながらも嬉しそうに笑っていた顔を思い出す。
結果的にあの監督に粘り勝ったのだから、相当な根性の持ち主だ。だからこそ個人的に武田先生のことは尊敬していたし、年下の高校生相手にも対等に賞賛を送ってくださる姿にも頭の下がる思いがした。
「苗字さんの作文を、烏野の皆にも見せて大丈夫ですか!?」
「え!? ……か、構いませんが、特に感想は求めていないので気を遣わないでほしいとお伝え頂けますか」
「はは、分かりました。念のため補足しておきますね」
メールアドレスを交換している日向くんからは、確実に連絡がくるだろうなと想像できる。
卵かけご飯のレシピを何度か共有したらその都度元気な返事がきたから、根が優しくて何事にも全力な子なんだなと実感するばかりだった。
あの明るさにはベクトルが違えど黒尾と似たものも感じるし、孤爪と仲が良くなるのも頷けた。
けれど、あの作文は人目につくことを前提にした文章というより、バレーボールやそれに関わる人々に対する個人的な心情を直情的に形にした言葉たちという感覚だったから。
自分の心臓の裏っ側をまじまじと観察されているかのような、独特の恥ずかしさがあってどうにも照れくさい。
そろそろ本題に戻ろうということで、互いに合宿に関する質疑応答を進めていった。
「……と、ご質問に対する回答はこんなところでしょうか」
「分かりやすいご説明、ありがとうございます。成程、最終日の買い出しによって、予算実績に多少変動の可能性があると」
「はい、今の監督たちは結構お茶目に食事も張り切ってくださる方が多いので……。あと私も色々試したいレシピがありまして、現地で直接ご相談しつつ案を練る形に落ち着きそうですかね」
「承知しました! 苗字さんのご飯は美味しいと日向くんから聞いているので、楽しみですね……」
「恐縮です。実は監督陣のお酒のつまみを作るのも恒例になりつつあるので、武田先生も何かご希望があればメールでお伝え頂ければと」
「え! わ、分かりました。検討の上で、結果にかかわらず本日中にご連絡しますね」
「はい、お待ちしてます」
各校から既に、食べたいもの・苦手なもの・アレルギーに関して記載してもらった通称「食いしん坊リスト」は受け取っているし、締切も過ぎているけど。まだ発注のタイミング的に問題ないし、個人的に先生とはご縁を感じたから特別ということで。
互いに改めて感謝を伝えてから、受話器を置いた。大縫先生にもお礼を伝えた後にすぐ職員室を出る。昼休みもそろそろ終わりだ。
「あれ、黒尾?」
廊下を少し進んだ先にあった進路指導室から、ちょうど出てきた場面に鉢合わせる。僅かばかり陰っているように見えた横顔が、私を見つけてからいつもの飄々とした色を帯びていった。
「よう苗字、お疲れ」
「うん、お疲れ。……進路相談?」
「まあな。将来なんて、今考えてもよく分かんねーなって実感してたとこ」
「同意。分かんないから、今は目の前のことを一生懸命やるしかない訳だし」
「苗字に共感してもらえると安心するわー」
「何それ」
互いに軽口を叩きつつ笑う。一緒に教室へ戻りながら、いつも通りに言葉を交わしていく。
「黒尾さん的には、人生なんていくらでもやり直しがきくし、新しくやりたいことが出来たらその時に頑張ればいいと思ってるんですけど」
「うん。人生どう転ぶか分からないからね」
「そーそー。たださ、今やるべきことを疎かにして将来の自分を犠牲にするのかって言われたら、……それを否定も出来ねえなってちょっと思っちゃったワケ」
今、勉強より部活を優先させて後悔しないのか。春高で結果が出せるかも分からないのに、練習に時間を捧げて良いのか。
大人が子どもに問いかける質問としては至極真っ当である。黒尾は面倒見がよくて気遣い屋な性質が強いから、周りの言葉を受け止めすぎようとする節があるのだろう。本人は認めようとしないだろうけど。
とはいえ、一般的なアドバイスなんて耳にタコだろうし。私はただ、過去に私の背中を押してくれた友人との会話を楽しむことしか出来ない。
「……犠牲ってさ、どっちの漢字にも牛偏が使われてるじゃん?」
「え? あ、ああ……そういやそうだな」
「牛は田畑を耕すのにも物の運搬にも役立つし、お肉は食べられるし牛乳も出してくれるし、めちゃくちゃ便利なわけ。だからこそ大地に恵みをもたらす存在として供物にされがちだったんだって」
「おお……頑張れば頑張る程に消費されていくと。現代社会の縮図みたいで切ないわー」
「で、黒尾って牛に似てるなと思ったんだけど」
「それ褒めてる!? 貶してる!?」
「めっちゃ褒めてる。今のバレー部は、黒尾が新しい体制を作ってくれなかったら成り立ってなかったし、黒尾の視野の広さや懐の深さがなきゃ部員同士の関係も上手くいかなかった場面だって多いし、音駒がチームとして技術もメンタルも強くなれたのは黒尾が主将だからこそだと思ってる」
「……苗字さんってほんと、人を褒めんの上手ですネ」
「褒めるっていうか事実だし」
目元を覆って僅かばかり項垂れているキャプテンは、どうやら照れているらしい。いつものお返しとばかりにニヤリと笑う。
「だから、黒尾がいなくても音駒はチームとして成り立つくらい成長したと思う。でもうちはまだ黒尾を必要としてる子ばかりだし。それに私も……ワガママかもしれないけど、もっと黒尾のバレーを見てたいよ」
「……おー」
ゆっくりと手を外しながらも、黒尾の背筋はずっと真っ直ぐに伸びたままだ。ガッシリとした体格を支える全身の筋肉は、コートの外でもずっと姿勢を保とうとする努力によって支えられているのだろう。
そんな努力家なところも、それを周囲に悟らせないよう振る舞うところも尊敬してるぞ、と思いながら私も密かに胸を張る。
「ま、これはあくまで私の意見で、無理強いしたい訳じゃないから。これからも美味しい
「そーだな。苗字の作る飯を更に美味くしてやるかー」
「ドコサヘキサエン酸たっぷりの牛か。いいね」
「なら普通に魚食いてえけど」
「ふふん。合宿の朝食、楽しみにしてて」
「さっすが苗字! 分かってんなー」
黒尾は何かを確かめるように、視線を天井へと上げていく。我らが主将は自分の思考を人に悟らせないように振る舞う傾向があるから、個人的な価値観や心情に深入りすることは基本的にないけど。今日は何となく、お互いの深い部分を探り合うような感覚を覚えた。
「……苗字は、推薦でいくんだよな」
「まあね。受験も勧められたけど、今まで勉強やってきたのも部活に時間を使うためだし。今バレー部を諦めたら一生後悔するってことだけは分かるし。……だから、進路で困ることがあれば何でも言ってよ。こちとら、そのためにテストでも模試でも結果出してきたんだから」
今発した思いを全て込めた手のひらで、隣の大きな背中をパンと力を込めて叩く。黒尾は一瞬目を丸くしてから、脱力したように首を傾げた。
「苗字さん、頼もしすぎるしカッコよすぎませんか?」
「夜久には負けるけどね」
「……ほんと、お二人さんは似たもの夫婦って感じだよなー」
そう言われると、何となく違和感があるような恥ずかしいような、言語化し難い気持ちに支配される。
「苗字、照れてんの? 教室のど真ん中でやっくんに抱きついてたくせにィ?」
「ちょ! それは言うな!」
先日の件を盛大に掘り起こされる方がダメージが大きい。先程とは違う意味で背中をバシバシと叩きながら、私たちは並んで歩いていく。
たとえ誰かに後ろ指を差されたとしても、胸を張って自分の人生を歩んでいけるように。私は今までもこれからも、自分のために仲間のために地道な回り道を続けていこうと、黒尾の嬉しそうな横顔を見て思った。