今年最初の合同合宿が開かれるのは、七月上旬の週末。場所はグループの主軸でもある梟谷だ。
本番は夏休みの一週間だけど、週末を利用した二日間は春高に向けた顔合わせも兼ねているから毎度皆のやる気も上々である。

そんな合宿が翌日に迫った帰り道。最寄りのバス停にてレギュラー陣と並びながら、わちゃわちゃと喋る姿を横目に携帯電話を確認していた。

足りない備品が無いかどうか、念のため梟谷のマネージャーふたりに挨拶を兼ねたメールを送っていたのだが。
かおりちゃんからは「特に無いから大丈夫。いつもありがとね。明日から頑張ろ!」と頼もしい返事がきたし、雪絵ちゃんからは「名前ちゃんのご飯が楽しみすぎて今晩は眠れないかも。やっぱり結婚しよ」と用件ガン無視の可愛い返信があったので笑っていた。

「ふふ」
「ん、どうした? 苗字」

隣の夜久が尋ねてくる。確かに、携帯を見ながら一人で笑い声を上げてたら不審だし気になるか。

「ごめん、プロポーズされたから笑っちゃって」
「は? 誰に?」
「夜久、顔が怖いんだけど」

マジギレの顔だし声もめっちゃ低いし雰囲気も威圧的だし、奥にいる灰羽がビビってるし。そんな様子を瞬時に察してくれたらしい、更に奥にいた海が灰羽を連れて距離を取ってくれたので頼もしすぎる。

「梟谷の雪絵ちゃん。あの子、ご飯を食べるのが生き甲斐だから」
「あー、……成程な」
「雪絵ちゃんも料理すごく上手いんだけどね。自分のために作るご飯より、人が自分のために作ってくれたご飯の方が美味しく感じるのも分かるからなー」
「……俺も、家では母さんの料理手伝ってるからな」
「え? うん、それは知ってるけど」
「まだ苗字みたいには作れないけど、料理もいずれ練習するし」

ムキになって言い募る感じが可愛くて、目を細める。夜久の両手を自分の手のひらでそっと包んだ。大きくて角張っていて、いつも私たちを守って導いてくれる大切な手を。

「夜久の手は今、コートを護るためのものだから。無茶しないで」
「……おー」
「あと違ったら申し訳ないけど、女の子に張り合わなくてもいいんじゃない?」
「悪かったな、子どもっぽく張り合って。……相手が誰とか関係ねえよ。苗字のことは誰にも譲れないし」

真っ直ぐに射抜かれるように見つめられて、一瞬息が止まる。
夜久の目はどこまでも誠実で、真摯で、遊びで言っているつもりは一切無いんだろうなと改めて悟った。だからこそ、のらりくらりと交わす傾向のある自分の卑しさを感じて、つい目を逸らしてしまう。

「……夜久さんがカッコよすぎて、苗字さんはタジタジですよ」
「おー。いつも俺がやられっぱなしだから、少しくらいタジタジしとけ」

私が包んでいた筈の指先に、気付いたら私の両手が絡め取られていた。優しく慈しむように撫ぜられ体温が上がったところで、バスがやってくる。

乗り込もうと手を離した瞬間、先頭でこちらをこっそり観察していたらしい黒尾と目が合う。「そろそろ逃げられないんじゃない?」とでも言いたげな顔だ。
けどあれは揶揄うための表情ではなく、友達として心配してくれているんだろうと分かるから、私は肩を竦めることしか出来なかった。

バスの後部座席で夜久の隣に座りながら、いつも通り他愛ない雑談をする部員たちを眺める。

マネージャーと部員は、いつか終わりがくることが前提の関係だ。同じ志をもって夢に向かって共に歩いていく、信頼と親愛を軸にした三年間限定の繋がりでしかない。
しかし、もしも万が一。いつか恋人になったとして。やがて訪れる終わりに怯えければいけないのだろうかと、情けなくて臆病な自分が顔を出してしまう。……夜久には笑い飛ばされるか呆れられるかもしれないけど。
問題を先延ばしにしているくせに、思わせぶりなことを言って夜久の優しさには甘え続けているだなんて、我ながら酷い女だと自覚はしていた。

「苗字、何か悩み事か?」

張本人から問いかけられて、つい言葉に詰まる。
夜久に関することを考えていると、何故だかつい弱気になってしまう瞬間があった。
好きっていう気持ちだけで突っ走れたら楽だったんだろうな。とはいえ、今はバレー部としても大事な時期だし、我らがリベロに余計な悩みを与えたくないし。いずれ向き合うべきことであっても、それは少なくとも春高以降の話だろう。ただし嘘も吐きたくなかった。

「悩み事はあるんだけど、今は一人で考えたい時期なんだ。気にしないで」
「分かった、相談できる時がきたら言えよ。その前に、苗字が暗い顔してたらまた声かけるかもしれねえけど」
「ん、ありがと。……ごめんね、せっかく気にかけてくれたのに」
「俺の方こそ、いつもお節介ばかりで悪いな」
「夜久に気にかけてもらえるのは素直に嬉しいから」
「そっか」

ポンポンと頭をそっと撫でられて、俯く。先日教室で思わず抱き着いてしまって以来、何となく更に距離感が近くなったように感じた。
でも強引に割り込むような近さではなくて、私のペースに合わせてくれるのは変わらない。そんな優しさが嬉しくて、ほんの少し切なかった。悩みの内容を深く突っ込まれたら上手く答えられないくせに、夜久の熱が離れたら寂しくなるなんて随分勝手だけど。

前の席にいた灰羽や海に絡んでいく夜久を筆頭に、後ろから我が部員たちを見守る。
皆が大切で、皆との時間が大事だから、いつか手が届かなくなった時のことを想像して勝手に怯えているんだろうか。
あーあ、らしくない。マネージャーならばいつも通り明るく笑って、皆のサポートに徹して、チームとしての成長を見届けることに注力すべきだろうに。

将来のことを考えて暗くなってしまうなら、今は少しでも未来の楽しみを見つけなければ。

「……いつか夜久の作ったご飯、食べたいな」

小さくボソッと呟いた答えに笑っていると、夜久が凄い勢いで私を見た。聞こえないように言ったつもりだったのに。
その顔が心底嬉しそうで胸が疼く。無垢で無邪気な色を滲ませた明るい笑みに、全身の感覚が全て研ぎ澄まされていく気がした。

「任せとけ!」

爛々と輝く瞳があまりにも綺麗で透き通っていたから、今はこの距離で見つめられるだけで満足だと思った。

「というか、合宿の時に時間あったら教えてくれよ」
「んー、いいけど。練習で疲れてるだろうし、余裕のある時だけね」
「どちらにせよ毎晩時間は貰う訳だし、苗字の好きな物の作り方は最低限知りたい」
「……好きなもの、か」

食べ物の好き嫌いというものを、実はあまり考えたことが無かったかもしれない。少々複雑な家庭環境だからなと目を遠くさせていると、色々と察してくれたのであろう夜久が私を覗き込みながら口を開く。

「よく分かんねえならさ、苗字はどんな時に飯を美味く感じるんだ?」
「……夜久と一緒に食べてる時?」
「……ちょっとだけ、苗字ならそう答えてくれるんじゃねえかなって期待してた自分の浅ましさを恥じてる」
「何で落ち込むの!? 予想通りなら良かったじゃん!?」

その場で頭を抱えて項垂れてしまった姿を見て、迷った末に頭をそっと撫でる。見た目よりも細くて柔らかい髪質がまるで猫みたいだと感じて、ひどく心地好い。これはいつまでも触っていられるなと調子に乗っていると、少々恨めしげな声が上がる。

「……苗字」
「あ、ごめん。もうやめよっか」
「いや、……あー、ちょっとだけ体勢変えるか」

夜久が背筋を伸ばせば、しっかり目と目が合った。私の手も自然と夜久から外れてしまったけど、熱くて大きな指先に私のそれが掬われていく。

「……もうちょっとだけ、撫でてほしいんだけど。いいか?」
「ん、勿論。……でも、撫でるだけでいいの?」
「いーの。つか、俺がこんな子どもっぽいこと言って引かねえ?」
「そんな訳ないじゃん。夜久を撫でると、私もなんか元気出るし」
「分かる。俺も同じ」

お互いに視線を重ねてまた笑う。全身が甘く脈打つようで、先程まで感じていた不安も和らいでいくような気がした。
降りるバス停が近付いていたから、本当にちょっとだけ撫でた後にこっそりと手を繋ぐ。

夜久に髪に触れた時の、恥ずかしいような甘えるような、僅かに安心してくれたような顔を思い出す。
たったそれだけで、今はまだ肩書きとか終わりなんて考えずに、ただありのままの私でいても良いのかもしれないなと感じた。
そんな単純な自分のことは、案外嫌いじゃないのが不思議だったけど。