07:傷口に沁みたミルクティー
中指にできたペンだこが以前よりも硬くなっていた。
ミルクティーを楽しみながら、親指でくるくると撫で回す。
朝と昼の狭間。自室の窓から一直線に光が射し込んでいた。
テーブルの上で作業をしていた紙を持ち上げて、その明るさの下に翳す。
シンプルなフレーズをいくつか、黒のインクで書き付けたものだった。新聞に掲載された広告をメインに、音の響きが綺麗なキャッチコピーを選び続けた。
アルファベットを丁寧に敷き詰めて、飾り文字と呼ばれる書体でデザイン性を持たせて。西洋の書道にあたるカリグラフィーは、すっかり心穏やかな趣味となっていた。
こんなにも手書きで文字を紡ぐことが楽しいだなんて、この世界に来るまで知らなかった。
コンコン、と硬質なノック音が鳴った。聞き覚えがあるが故に首を捻る。
先程ホームズくんへの客人が訪ねてきたため、部屋に篭って邪魔しないように努めていたのに。
「ボクだ。都合が良ければ客間に来てほしい」
「うん、分かった。何か準備するものは?」
「キミが文字を書いた紙を持ってきてくれ」
何故だろう、と意図が分からず首を捻るものの、否定的な感情は一切浮かばない。
もし少しでも名探偵の役に立てるならば、出来る限りの要望に応えたかった。
「了解、すぐに行くね」
「ああ、ありがとう」
以前に比べて、自分に向けられる言葉を素直に受け取ることが出来るようになっていた。
少し前の自分を思い返すと何とも不思議ではあったが、決して嫌な感覚ではない。
自分でも知らなかった自分が垣間見える感覚は、素直に興味深かった。
客間に繋がる扉を前にして、思い切ってノックをする。
どうぞ、と返事がきて緊張が走るものの、深々と礼をしてから入室した。
「失礼いたします」
「ナマエ、座ってくれ」
頷いてから、手で示されたソファに腰をかける。
ホームズくんの隣であったことに内心安堵しつつ、向かいで立ち上がった男性の視線を感じて気を引き締めた。
「先程案内してくださったレディでしたか。その節はお世話になりました」
グレーの瞳が印象的な、物腰の柔らかい英国紳士だった。歳は御琴羽くんと同じくらいだろうか。
ジャケットの下にベストを着たフォーマルなスーツの着こなし方がとてもスマートで、つい惚れ惚れしてしまう。
しかしなるべく迅速に返事をしなければならない。
幸い、玄関先で伺った名前と先日手紙で見た文字列が同じだったので、何の迷いもなくお辞儀を返すことが出来た。
「こちらこそ、いつもご丁寧なお返事をありがとうございます。お会いできて光栄です、ミスター・グレグソン」
「恐れ入ります。どうぞお掛けになってください」
隣にちらりと目を配ると、軽い頷きが返ってくる。どうやらお言葉に甘えて問題ないらしい。
客人相手ではあるものの、気を使いすぎると慇懃無礼にもなりかねないため素直に腰を下ろした。
「さっそくで悪いんだが、持ってきたものをボクたちに見せてくれ」
「うん、分かりました」
敬語混じりに返答すると、不満そうな視線が向けられる。
さすがにお客様の前で砕けた言葉は使えない、と見つめ返せば肩を竦めていた。
思っていたよりずっと簡単に拗ねる人だ。その分こちらも率直に意見を伝えやすいから不満はないけれど。
膝に裏返して置いていた、何枚かの紙をテーブルに置く。
趣味として書いているだけの質素なレタリング。けれど、丁寧に一つ一つ想いを込めて書いた文字たち。
見つめながら自然と綻んでしまう。自分の生み出したものに注目されるのは気恥ずかしくて、二人の顔は見れなかった。
「どうだい。なかなかのモノだろう」
どこか誇らしげなホームズくんの声を聞き、歳上相手に大丈夫だろうかと勝手に心配になる。
ふてぶてしさの中にどこか品があるのが彼の不思議な魅力ではあるものの。
「ええ、これは……いや、失礼ながら見くびっていたのかもしれません。美しい字を書かれるのは存じ上げていましたが」
「なら、例の話は進めてくれると認識しても?」
「もちろん、私から推薦させて頂きます。悪い結果にはならないでしょう」
話題の中心にあるものが何か薄らと察しつつも、混乱と引っ込み思案の性から口を噤んでしまう。
自惚れて先走って、ホームズくんに恥をかかせてしまうのも避けたかった。
「ナマエ、おそらく決まりだ」
「……何が決まったのか、聞いても良いの?」
「この場合は仕事か立場か。いや、両方だな。カリグラフィー作家としての未来がキミを待ってる」
ふと、目の前の瞳と先日の言葉が重なった。
───「ボクたちの味方を増やしたいんだ」と。それは単純に探偵としての人脈を広げたいのだと解釈していたが、ホームズくんはもっと先まで見通していたらしい。
自分の目的を果たすだけではなく、恐らくこのひとは、わたしのために動いてくれていた。
驚きが降って湧いて出て、咄嗟に大きく息を吸い込んだ。
目の奥がじわりと熱くなるのも構わず、深々と頭を下げる。
わたしの未来は、きっと明るいものになっていく。
大切な人たちの力を借りながら、きっと少しずつ自分の手で切り開いていけるのだと。そう確信することができた。
「いいかナマエ、これは忠告だが」
「うん……?」
グレグソンさんを丁重に見送った後、ホームズくんは自室に戻らずソファーに座り込んだままだった。
無言のままコーヒーを飲んでいたかと思えば、急に口を開いて隣に座るこちらを見遣る。
「他人に頼ることは、甘えではなく手段だ。利用できるものは利用した方が効率的だろう。キミはもっと図太くなった方がいい」
「……人に迷惑をかけてしまうことが、ずっと怖かったの」
視線で先を促される。わたしはもう既に充分甘えているのにな、と思いつつ、忠告の本質がそこにないことも分かっていた。
「人から嫌われることが怖くて、せめて少しでも役に立つ人間でいたくて。失敗する様を見せたくなくて、情けない自分を必死に隠し続けて」
「…………」
「そうしたらいつの間にか、誰かに頼る方法が分からなくなってた」
「ならまずは、目の前の男を練習台にすればいい」
「え?」
「ボクを利用すればいい。好きなだけね」
あなたは優しいと言えば、きっとホームズくんは否定するだろう。
客観的に事態を推察し、導いた結論から考察した結果、最適な言葉を口にしただけだと言う。
それが分かるくらいには、わたしはシャーロック・ホームズというひとの言葉に救われていた。
「……わたし、生きるのが下手だから。変なこと頼んじゃうかも」
「生きることに上手いも下手もないと思うがね。キミはただキミらしく在ればいいし、キミが選んだ道を最適な結果に変えられるのはキミ自身だ」
穏やかな声音が、一つずつそっと胸に沁みていく。
真っ赤な朝日の下で受けた傷口に、温かい言の葉が溶けてゆくようだと思った。
「ホームズくん」
「ん?」
「もう少しだけ、……ここで一緒にお喋りがしたい、かもしれないです」
敬語混じりであることに、ホームズくんは微かに笑っているようだった。
格好がつかずに恥ずかしくて俯いていても、視界の隅でゆっくりと脚を組んでいる様子だけは窺えた。
「いいとも。ボクもちょうど、キミのミルクティーを飲みたいと思っていたところだ」
もしも今ポットに向き合えば、羞恥心をスパイスに感謝をブレンドした、マイルドなミルクティーが出来上がりそうだと思った。
それはわたしにとって何よりの喜びに満ちた、最高のお茶になるのだろう。
ミルクティーを楽しみながら、親指でくるくると撫で回す。
朝と昼の狭間。自室の窓から一直線に光が射し込んでいた。
テーブルの上で作業をしていた紙を持ち上げて、その明るさの下に翳す。
シンプルなフレーズをいくつか、黒のインクで書き付けたものだった。新聞に掲載された広告をメインに、音の響きが綺麗なキャッチコピーを選び続けた。
アルファベットを丁寧に敷き詰めて、飾り文字と呼ばれる書体でデザイン性を持たせて。西洋の書道にあたるカリグラフィーは、すっかり心穏やかな趣味となっていた。
こんなにも手書きで文字を紡ぐことが楽しいだなんて、この世界に来るまで知らなかった。
コンコン、と硬質なノック音が鳴った。聞き覚えがあるが故に首を捻る。
先程ホームズくんへの客人が訪ねてきたため、部屋に篭って邪魔しないように努めていたのに。
「ボクだ。都合が良ければ客間に来てほしい」
「うん、分かった。何か準備するものは?」
「キミが文字を書いた紙を持ってきてくれ」
何故だろう、と意図が分からず首を捻るものの、否定的な感情は一切浮かばない。
もし少しでも名探偵の役に立てるならば、出来る限りの要望に応えたかった。
「了解、すぐに行くね」
「ああ、ありがとう」
以前に比べて、自分に向けられる言葉を素直に受け取ることが出来るようになっていた。
少し前の自分を思い返すと何とも不思議ではあったが、決して嫌な感覚ではない。
自分でも知らなかった自分が垣間見える感覚は、素直に興味深かった。
客間に繋がる扉を前にして、思い切ってノックをする。
どうぞ、と返事がきて緊張が走るものの、深々と礼をしてから入室した。
「失礼いたします」
「ナマエ、座ってくれ」
頷いてから、手で示されたソファに腰をかける。
ホームズくんの隣であったことに内心安堵しつつ、向かいで立ち上がった男性の視線を感じて気を引き締めた。
「先程案内してくださったレディでしたか。その節はお世話になりました」
グレーの瞳が印象的な、物腰の柔らかい英国紳士だった。歳は御琴羽くんと同じくらいだろうか。
ジャケットの下にベストを着たフォーマルなスーツの着こなし方がとてもスマートで、つい惚れ惚れしてしまう。
しかしなるべく迅速に返事をしなければならない。
幸い、玄関先で伺った名前と先日手紙で見た文字列が同じだったので、何の迷いもなくお辞儀を返すことが出来た。
「こちらこそ、いつもご丁寧なお返事をありがとうございます。お会いできて光栄です、ミスター・グレグソン」
「恐れ入ります。どうぞお掛けになってください」
隣にちらりと目を配ると、軽い頷きが返ってくる。どうやらお言葉に甘えて問題ないらしい。
客人相手ではあるものの、気を使いすぎると慇懃無礼にもなりかねないため素直に腰を下ろした。
「さっそくで悪いんだが、持ってきたものをボクたちに見せてくれ」
「うん、分かりました」
敬語混じりに返答すると、不満そうな視線が向けられる。
さすがにお客様の前で砕けた言葉は使えない、と見つめ返せば肩を竦めていた。
思っていたよりずっと簡単に拗ねる人だ。その分こちらも率直に意見を伝えやすいから不満はないけれど。
膝に裏返して置いていた、何枚かの紙をテーブルに置く。
趣味として書いているだけの質素なレタリング。けれど、丁寧に一つ一つ想いを込めて書いた文字たち。
見つめながら自然と綻んでしまう。自分の生み出したものに注目されるのは気恥ずかしくて、二人の顔は見れなかった。
「どうだい。なかなかのモノだろう」
どこか誇らしげなホームズくんの声を聞き、歳上相手に大丈夫だろうかと勝手に心配になる。
ふてぶてしさの中にどこか品があるのが彼の不思議な魅力ではあるものの。
「ええ、これは……いや、失礼ながら見くびっていたのかもしれません。美しい字を書かれるのは存じ上げていましたが」
「なら、例の話は進めてくれると認識しても?」
「もちろん、私から推薦させて頂きます。悪い結果にはならないでしょう」
話題の中心にあるものが何か薄らと察しつつも、混乱と引っ込み思案の性から口を噤んでしまう。
自惚れて先走って、ホームズくんに恥をかかせてしまうのも避けたかった。
「ナマエ、おそらく決まりだ」
「……何が決まったのか、聞いても良いの?」
「この場合は仕事か立場か。いや、両方だな。カリグラフィー作家としての未来がキミを待ってる」
ふと、目の前の瞳と先日の言葉が重なった。
───「ボクたちの味方を増やしたいんだ」と。それは単純に探偵としての人脈を広げたいのだと解釈していたが、ホームズくんはもっと先まで見通していたらしい。
自分の目的を果たすだけではなく、恐らくこのひとは、わたしのために動いてくれていた。
驚きが降って湧いて出て、咄嗟に大きく息を吸い込んだ。
目の奥がじわりと熱くなるのも構わず、深々と頭を下げる。
わたしの未来は、きっと明るいものになっていく。
大切な人たちの力を借りながら、きっと少しずつ自分の手で切り開いていけるのだと。そう確信することができた。
「いいかナマエ、これは忠告だが」
「うん……?」
グレグソンさんを丁重に見送った後、ホームズくんは自室に戻らずソファーに座り込んだままだった。
無言のままコーヒーを飲んでいたかと思えば、急に口を開いて隣に座るこちらを見遣る。
「他人に頼ることは、甘えではなく手段だ。利用できるものは利用した方が効率的だろう。キミはもっと図太くなった方がいい」
「……人に迷惑をかけてしまうことが、ずっと怖かったの」
視線で先を促される。わたしはもう既に充分甘えているのにな、と思いつつ、忠告の本質がそこにないことも分かっていた。
「人から嫌われることが怖くて、せめて少しでも役に立つ人間でいたくて。失敗する様を見せたくなくて、情けない自分を必死に隠し続けて」
「…………」
「そうしたらいつの間にか、誰かに頼る方法が分からなくなってた」
「ならまずは、目の前の男を練習台にすればいい」
「え?」
「ボクを利用すればいい。好きなだけね」
あなたは優しいと言えば、きっとホームズくんは否定するだろう。
客観的に事態を推察し、導いた結論から考察した結果、最適な言葉を口にしただけだと言う。
それが分かるくらいには、わたしはシャーロック・ホームズというひとの言葉に救われていた。
「……わたし、生きるのが下手だから。変なこと頼んじゃうかも」
「生きることに上手いも下手もないと思うがね。キミはただキミらしく在ればいいし、キミが選んだ道を最適な結果に変えられるのはキミ自身だ」
穏やかな声音が、一つずつそっと胸に沁みていく。
真っ赤な朝日の下で受けた傷口に、温かい言の葉が溶けてゆくようだと思った。
「ホームズくん」
「ん?」
「もう少しだけ、……ここで一緒にお喋りがしたい、かもしれないです」
敬語混じりであることに、ホームズくんは微かに笑っているようだった。
格好がつかずに恥ずかしくて俯いていても、視界の隅でゆっくりと脚を組んでいる様子だけは窺えた。
「いいとも。ボクもちょうど、キミのミルクティーを飲みたいと思っていたところだ」
もしも今ポットに向き合えば、羞恥心をスパイスに感謝をブレンドした、マイルドなミルクティーが出来上がりそうだと思った。
それはわたしにとって何よりの喜びに満ちた、最高のお茶になるのだろう。