闇夜にカサブタ
レシーブ練習組の自主練が終わった後、その場にいた全員で食堂まで行ってご飯を食べた。
レギュラー陣は食堂が閉まるギリギリの時間まで練習していることが多いから、終わる間際に大人数がやって来るのもよくあることだった。
黒尾や木兎をはじめとしたスパイク・ブロック組も合流したので、なかなかの大所帯である。まだ一泊の合宿だから全員元気そうだけど、来月は長期間だし全員が無理なく終えられるよう気を配らねばと改めて気を引き締める。
夜遅くまで厨房内にマネージャー陣を待機させるのも申し訳ないから、この時間はおかわり用のお鍋やおひつから各自で器によそってもらう形式を取っているのだが、小学校の給食みたいでテンションが上がるとなかなか好評だった。
選手のみんなと共に席に座って、いただきますの挨拶をして、ゆっくりと味わっていく。うん、我ながら見た目も栄養バランスも整っていた。両隣に座ってくれた黒尾と夜久も、いつも通り笑顔で褒めてくれるから嬉しい。
向かいの木兎と赤葦の表情も明るくなっていて、私もつい口が緩む。木兎は常に感情表現が豊かだし、赤葦も寡黙なようで分かりやすいところがあるから微笑ましかった。
そんなことを考えていると、食事の途中にふと張本人と目が合う。
「苗字さんって、将来は調理師の道を目指したりしないんですか」
「うーん、多分それはないかな。私には無理だと思うし」
「苗字が雪っぺと一緒に店とかやってたら、絶対俺は行くけどなー!」
「それはめちゃくちゃ嬉しいんだけど! 雪絵ちゃんみたいに料理自体が好きならともかく、私が好きなのはあくまで音駒の皆だから。モチベーションが続かなくて辞める道しか見えないし」
左隣の黒尾が、ニヤニヤと笑いながら私を覗き込んできた。純粋な喜びが隠しきれていない感じがして、こういう時折見える年相応な一面が可愛いと思う。
「苗字ってホントに、俺たちのことが好きなのな」
「まあね。なんなら一番のファンのつもりだし」
右隣の夜久も、一旦箸を置いてから私を真っ直ぐ見つめてくる。ほんのちょっとだけ照れた。
「それを言うなら俺たちも苗字のファンだけどな」
「ありがと。……なら尚更、料理のプロにはなれないだろうねー。プロは全てのお客さんに一定の品質を届けなきゃいけないけど、アマチュアなら好きな人たちのためにだけ作ってても許される訳だし」
「苗字はやっぱそのへん真面目だよな。凄えわ」
「本気でやるなら手を抜きたくないだけ。二人なら分かるでしょ」
「……だな」
「おー」
音駒の中でホワッとした空気が流れる中で赤葦を見れば、僅かに考え込むような顔をしている。
高校二年生にもなると、進路に関する空気が急に堅苦しいものに変わって、将来について考えなければならない圧迫感が迫ってくるのは覚えがあった。色々な人の話を聞こうとするところがさすが勤勉でえらいなーと、感動しながらスープを飲む。
「……苗字さんも言ってましたけど、何事もモチベーションは大事ですもんね」
「そうそう、そのあたりは人それぞれだと思うんだけど。……本気で何かに打ち込んで楽しむ人たちを支えてると、なあなあで決めた進路で将来の自分が満足出来るのか? って考えちゃうんだよね」
「ああ、それは分かる気がします」
ちょっぴり笑った赤葦の視線の先にいるのは、やはり木兎だった。本人は何やら不思議そうな顔でご飯をもりもり食べているけど。
「進路でも勉強でも、何かまた聞きたいことがあればいつでも声かけてね」
「本当ですか? めちゃくちゃ死ぬほど助かります」
「赤葦、顔がガチじゃん。もちろん、私で良ければ」
「分かってると思うけど赤葦、俺に聞いてもいいんだからな!」
笑顔で勢いよく笑う木兎もまた、梟谷のみんなのことが大好きなんだなと言動の端々から感じるのでほっこりする。
「……ありがとうございます」
「なんか苗字の時に比べて冷たくない!? 声も顔も!」
「小さい時に比べたら声変わりはしましたけど、顔は生まれた時から変わりませんよ」
木兎は、私たちと違って異次元の考え方をする傾向にあるから、進路や勉強については参考にならないだろうなーと納得する。赤葦も赤葦で、木兎の手綱を握るしっかり者に見えて天然なところがあるから、時々色々と嚙み合ってなくて面白いし可愛かった。
後輩からすげなく扱われる木兎を見て、黒尾が楽しそうにブヒャヒャと笑う様も相まって微笑ましい。夜久と一緒にその光景をほのぼのと眺めながらご飯を食べ進めていく。
そうして和やかに会話しつつ、隣のテーブルに座っていた後輩たちにも絡んだ後───孤爪が見事に日向くんに捕まっていた───、食堂を閉める予定時間の少し前に立ち上がる。
全員からお盆とお皿を回収していると、黒尾と夜久がこっそり二人で話しているのを見た。何やら真剣な顔だから練習についてだろうかと思いつつ、一人で皿洗いを始めようとした時のこと。
「苗字、俺も手伝っていいー?」
黒尾だった。それなりの量もあったから断る理由も無いし、正直助かるし。
「うん。もちろん大歓迎だけど、手袋ちゃんとつけてね」
「はあい」
すると、夜久が素早く私たちのもとに近寄ってきた。こちらに向けて明るく笑ってから、チラリと黒尾に視線を向ける。いつもみたいにワチャワチャ喧嘩する空気とは異なる、独特の緊張感が漂った。実際に目だけで会話をしているようなので、やはり仲が良いなとしみじみする。
しかしそれも一瞬の出来事で、夜久の方がふっと視線を反らせば、二人とも通常運転の笑顔を見せてくれた。
「俺たちは先にシャワー浴びに行ってるわ。苗字、またメールする」
「ありがと、了解」
海と連れ立って歩く姿を見送った後、二人で厨房に入る。先程の様子は少し気になったけど、こちらから無理に深入りするのも違う気がしたからすぐ仕事を始めた。
黒尾に対し、大事な指先を傷つけないように分厚い方の手袋を渡してから、何か腹の内に抱えているであろう横顔を見遣った。いつもより神妙な色を帯びているのは気のせいではないのだろう。
「で、黒尾さん。何か私に話?」
「そーそー。頭脳明晰で敏腕なマネージャーさんに、ちょっと聞きたいことがありまして」
「ほうほう。深慮遠謀な主将さんに頼られるのは光栄ですけど」
「ならお言葉に甘えて。……単刀直入に聞くけど、烏野の眼鏡くんから何か話しかけられたかなーと」
てっきり音駒か進路に関する質問かと思っていたので、一瞬面食らう。
「十一番の月島くんのことだよね?」
「うん。背が一番高いブロッカーくん」
確かに今日の黒尾は、練習中に時々烏野さんをジッと観察していた。私も仕事があったしその視線の先を詳しくは探らなかったけど、答えが分かれば妙に納得する。月島くんは黒尾が構いたくなるタイプの子だろうし、でもそれだけではないから私に質問しているのかなと感じた。
「晩ご飯の時、勉強のコツについて聞かれたくらいだけど」
「さっすが、全国模試一桁の噂を流した甲斐があったわー」
「私をダシに使ったことは認めるんだ?」
「……それについてはマジでごめん。反省してマス」
「そこは気にしてないし一旦置いといて。……私と月島くんを引き合わせて、一体何を確認したかったの?」
作業の手を止めて、隣の黒尾をしっかりと見つめる。煽りの達人と言われるくらいには人を揶揄うことが多い男の子だけど、無闇に人を傷つけるようなことはしないと知っていたから。何かしら画策する時にはそれなりの理由があると信頼していた。
「いやね、来月彼のことを木兎とのブロック練習に誘おうかと考えてたワケ。烏野は正直ブロックがイマイチだなって感触だったし、やっぱりゴミ捨て場の決戦は実現させたいし」
「うん。宮城には白鳥沢がいるし、ブロック強化は必要だろうね。あの牛島くん対策をするなら木兎とのマッチアップが最適解っていうのも同意」
「でしょ。だけどまあ、なんていうか……誘おうとした理由はそれだけじゃなくてね」
「うん」
黒尾の歯切れが悪くなるのは珍しいからこそ、特に急かすことなく相槌を打つ。いつもの日常的な空気感にした方が話しやすそうだったから、皿洗いを再開して目線をシンクに落とした。
「妙にひねくれて周りと一定の距離を置いちゃう、あの感じを見てると。こう……ヤケに昔を思い出すんだよなー」
「……そっか。昔、ね」
「苗字もここまで言えば察するだろうけど。……彼にも、俺たちと似たようなトラウマがあんのかなーって空気を感じてね。勝手に推し量るのも良くないかなとは思ったんですけど」
私と黒尾には別に、互いの過去について打ち明けたり深く話し合ったことはない。けど友達として仲間として二年以上も付き合っていれば、相手が家庭の問題で悩んだ経験があることくらいは自然と感づいていた。
特に私はマネージャーとして応援メンバーの取りまとめも行っているし、マネ弁週間のお陰で各ご家庭と連絡を取る機会にも恵まれていたし。黒尾が父子家庭で、今は一緒に住んでいないお姉さんがいるということも知っていた。
私も全く同じという訳ではないけど、それなりの事情があって色々苦しんだ経験はあったから。似たような傷を持つ人間同士というのは、理屈は分からないけど何となくお互い察するものがあったりするのだ。不思議なことに。
「成程ね。似たような経験がある上で、黒尾に散々構ってもらった人間は私だけってことか。だから意見を聞きたいって感じ?」
「……ま、そーいうこと」
かつて合宿であまり眠れなかった日の翌日には、必ず黒尾が気遣うように話しかけてくれたなと思い出す。私には躊躇いなく声をかけたのに月島くんを誘おうか迷っているのは、現状関わりの薄い他校の後輩だから、という理由もあるだろうけど。
もしかしたら相手の心の傷に深入りする恐れがあるのではと、不安を覚えているのかもしれない。高校生の男の子がそこまで他人の心情を慮れる背景には、それだけ黒尾が過去に悩んで苦しんで傷ついた経験があるからで。
だから相手を気遣う優しさも、相手の心の内に踏み込む覚悟も持っているんだと分かってしまった。
「いいんじゃない? いつものノリで誘えば」
「……そう思う?」
「うん。まあ多分恐らく十中八九、最初は邪険に扱われるだろうけど。黒尾はそういうコミュニケーションも好きだもんね」
「人をドエムみたいに言わないでくんない!?」
「というか、私に相談するって決めた時点で結論はもう出てるでしょ。違う?」
蛇口を捻って水を止めて、横に立つ黒尾を真っ直ぐ見つめる。私より背が大きいのに見下ろされている感覚が全く無いのは、黒尾が精神的に常に対等でいてくれてるからなんだろうなって、ふと思った。
「……そーかもしんない」
憑き物が落ちたような顔で、ふわりと黒尾が微笑んだ。私に相談しなくとも黒尾は月島くんを誘っただろうし、木兎に引き合わせてゴミ捨て場の決戦の実現に向けて動いただろう。
それでもまだ大人になってさえいない高校生の男の子だから、誰かに背中を押してもらいたい時だってあるのかもしれない。
「とりあえずやってみて、ダメだった時は一緒に考えよ。……たとえどんな過去があっても、誰かに声をかけてもらえるっていうのは、本人が思ってる以上に嬉しかったりするから」
かつて春の廊下で夜久に手を引いてもらったように、昼の図書室で海に見つけてもらったように、朝の合宿所で黒尾に話しかけてもらったように。人生に影響を与える程の些細で大きなターニングポイントというのは、どこに転がっているか分からないものだ。
洗い終わったお皿を拭く作業に入ったところで、ぽつりと呟く声が耳を打つ。
「やっぱ苗字って、お母さんみたいだよな」
その言葉に込もった寂しさにも温かさにも、今は気付かないフリをして笑った。
「黒尾は懐が深いしすごく優しいし、母親からすれば立派な息子すぎて鼻高々だろうねー」
「……そう思う?」
「思う思う」
「……そーですか」
「黒尾って意外と照れ屋だよね」
「うん、そこは認めるわ。俺、やっくんとは別の意味で苗字に弱いんだろうなーって今日めちゃくちゃ悟ったので」
「あら素直」
「ま、たまにはなー」
互いに小さく笑い合って、分担して食器を拭いていく。お世辞とか気遣いとかじゃなく、心からの気持ちを籠めた言葉をずっと贈っていたんだって、黒尾も分かってくれたんだろう。
「あ、そうだ苗字」
「何?」
皿洗いを終えて食堂を出てから、私は洗濯物を出しに、黒尾は着替えを取りに分かれようとしたところだった。早くシャワーを浴びたいだろうに引き留めてきた黒尾は、今までに見た中でも特に真剣な表情をしている。ちょっとビックリした。
「夜久に泣かされたらいつでも言えよ」
「……え。なに、どうしたの突然」
「いやーなんか、一応言っとこうかなと思って?」
「そっか。……ありがと」
やっぱり黒尾はお父さんみたいだなって、少し切なく嬉しく思いながら笑う。
失ったものを取り戻すことは出来ないけど、今目の前にある大切なものを愛しく思う気持ちは本物だし、これからも育てていくことは出来るから。
また明日ね、と今度こそ夜の廊下で分かれてから携帯を開く。夜久からメールがきていた。「おつかれ」の四文字の後、この後の待ち合わせについて書かれた文章を読む。普段ならば嬉しさに頬が緩むばかりの内容なのに、労わりと優しさに溢れた言葉の数々に触れてちょっとだけ泣きそうだった。
これも黒尾のせいだぞ、と若干八つ当たりめいた思考のまま返信を打つ。心の傷を無くすことは出来ないけど慈しむことは出来るって心から思えるようになったのは、他でもない夜久のお陰だったことを思い出してしまった。
送信ボタンを押した。廊下の窓から覗く夜空を見上げる。星なんて全然見えないけどいつも以上に澄んで美しく目に映るのは、私の周りにいる人たちがあまりにも優しすぎるからなんだろうなって、一人で駆けながら思った。
レギュラー陣は食堂が閉まるギリギリの時間まで練習していることが多いから、終わる間際に大人数がやって来るのもよくあることだった。
黒尾や木兎をはじめとしたスパイク・ブロック組も合流したので、なかなかの大所帯である。まだ一泊の合宿だから全員元気そうだけど、来月は長期間だし全員が無理なく終えられるよう気を配らねばと改めて気を引き締める。
夜遅くまで厨房内にマネージャー陣を待機させるのも申し訳ないから、この時間はおかわり用のお鍋やおひつから各自で器によそってもらう形式を取っているのだが、小学校の給食みたいでテンションが上がるとなかなか好評だった。
選手のみんなと共に席に座って、いただきますの挨拶をして、ゆっくりと味わっていく。うん、我ながら見た目も栄養バランスも整っていた。両隣に座ってくれた黒尾と夜久も、いつも通り笑顔で褒めてくれるから嬉しい。
向かいの木兎と赤葦の表情も明るくなっていて、私もつい口が緩む。木兎は常に感情表現が豊かだし、赤葦も寡黙なようで分かりやすいところがあるから微笑ましかった。
そんなことを考えていると、食事の途中にふと張本人と目が合う。
「苗字さんって、将来は調理師の道を目指したりしないんですか」
「うーん、多分それはないかな。私には無理だと思うし」
「苗字が雪っぺと一緒に店とかやってたら、絶対俺は行くけどなー!」
「それはめちゃくちゃ嬉しいんだけど! 雪絵ちゃんみたいに料理自体が好きならともかく、私が好きなのはあくまで音駒の皆だから。モチベーションが続かなくて辞める道しか見えないし」
左隣の黒尾が、ニヤニヤと笑いながら私を覗き込んできた。純粋な喜びが隠しきれていない感じがして、こういう時折見える年相応な一面が可愛いと思う。
「苗字ってホントに、俺たちのことが好きなのな」
「まあね。なんなら一番のファンのつもりだし」
右隣の夜久も、一旦箸を置いてから私を真っ直ぐ見つめてくる。ほんのちょっとだけ照れた。
「それを言うなら俺たちも苗字のファンだけどな」
「ありがと。……なら尚更、料理のプロにはなれないだろうねー。プロは全てのお客さんに一定の品質を届けなきゃいけないけど、アマチュアなら好きな人たちのためにだけ作ってても許される訳だし」
「苗字はやっぱそのへん真面目だよな。凄えわ」
「本気でやるなら手を抜きたくないだけ。二人なら分かるでしょ」
「……だな」
「おー」
音駒の中でホワッとした空気が流れる中で赤葦を見れば、僅かに考え込むような顔をしている。
高校二年生にもなると、進路に関する空気が急に堅苦しいものに変わって、将来について考えなければならない圧迫感が迫ってくるのは覚えがあった。色々な人の話を聞こうとするところがさすが勤勉でえらいなーと、感動しながらスープを飲む。
「……苗字さんも言ってましたけど、何事もモチベーションは大事ですもんね」
「そうそう、そのあたりは人それぞれだと思うんだけど。……本気で何かに打ち込んで楽しむ人たちを支えてると、なあなあで決めた進路で将来の自分が満足出来るのか? って考えちゃうんだよね」
「ああ、それは分かる気がします」
ちょっぴり笑った赤葦の視線の先にいるのは、やはり木兎だった。本人は何やら不思議そうな顔でご飯をもりもり食べているけど。
「進路でも勉強でも、何かまた聞きたいことがあればいつでも声かけてね」
「本当ですか? めちゃくちゃ死ぬほど助かります」
「赤葦、顔がガチじゃん。もちろん、私で良ければ」
「分かってると思うけど赤葦、俺に聞いてもいいんだからな!」
笑顔で勢いよく笑う木兎もまた、梟谷のみんなのことが大好きなんだなと言動の端々から感じるのでほっこりする。
「……ありがとうございます」
「なんか苗字の時に比べて冷たくない!? 声も顔も!」
「小さい時に比べたら声変わりはしましたけど、顔は生まれた時から変わりませんよ」
木兎は、私たちと違って異次元の考え方をする傾向にあるから、進路や勉強については参考にならないだろうなーと納得する。赤葦も赤葦で、木兎の手綱を握るしっかり者に見えて天然なところがあるから、時々色々と嚙み合ってなくて面白いし可愛かった。
後輩からすげなく扱われる木兎を見て、黒尾が楽しそうにブヒャヒャと笑う様も相まって微笑ましい。夜久と一緒にその光景をほのぼのと眺めながらご飯を食べ進めていく。
そうして和やかに会話しつつ、隣のテーブルに座っていた後輩たちにも絡んだ後───孤爪が見事に日向くんに捕まっていた───、食堂を閉める予定時間の少し前に立ち上がる。
全員からお盆とお皿を回収していると、黒尾と夜久がこっそり二人で話しているのを見た。何やら真剣な顔だから練習についてだろうかと思いつつ、一人で皿洗いを始めようとした時のこと。
「苗字、俺も手伝っていいー?」
黒尾だった。それなりの量もあったから断る理由も無いし、正直助かるし。
「うん。もちろん大歓迎だけど、手袋ちゃんとつけてね」
「はあい」
すると、夜久が素早く私たちのもとに近寄ってきた。こちらに向けて明るく笑ってから、チラリと黒尾に視線を向ける。いつもみたいにワチャワチャ喧嘩する空気とは異なる、独特の緊張感が漂った。実際に目だけで会話をしているようなので、やはり仲が良いなとしみじみする。
しかしそれも一瞬の出来事で、夜久の方がふっと視線を反らせば、二人とも通常運転の笑顔を見せてくれた。
「俺たちは先にシャワー浴びに行ってるわ。苗字、またメールする」
「ありがと、了解」
海と連れ立って歩く姿を見送った後、二人で厨房に入る。先程の様子は少し気になったけど、こちらから無理に深入りするのも違う気がしたからすぐ仕事を始めた。
黒尾に対し、大事な指先を傷つけないように分厚い方の手袋を渡してから、何か腹の内に抱えているであろう横顔を見遣った。いつもより神妙な色を帯びているのは気のせいではないのだろう。
「で、黒尾さん。何か私に話?」
「そーそー。頭脳明晰で敏腕なマネージャーさんに、ちょっと聞きたいことがありまして」
「ほうほう。深慮遠謀な主将さんに頼られるのは光栄ですけど」
「ならお言葉に甘えて。……単刀直入に聞くけど、烏野の眼鏡くんから何か話しかけられたかなーと」
てっきり音駒か進路に関する質問かと思っていたので、一瞬面食らう。
「十一番の月島くんのことだよね?」
「うん。背が一番高いブロッカーくん」
確かに今日の黒尾は、練習中に時々烏野さんをジッと観察していた。私も仕事があったしその視線の先を詳しくは探らなかったけど、答えが分かれば妙に納得する。月島くんは黒尾が構いたくなるタイプの子だろうし、でもそれだけではないから私に質問しているのかなと感じた。
「晩ご飯の時、勉強のコツについて聞かれたくらいだけど」
「さっすが、全国模試一桁の噂を流した甲斐があったわー」
「私をダシに使ったことは認めるんだ?」
「……それについてはマジでごめん。反省してマス」
「そこは気にしてないし一旦置いといて。……私と月島くんを引き合わせて、一体何を確認したかったの?」
作業の手を止めて、隣の黒尾をしっかりと見つめる。煽りの達人と言われるくらいには人を揶揄うことが多い男の子だけど、無闇に人を傷つけるようなことはしないと知っていたから。何かしら画策する時にはそれなりの理由があると信頼していた。
「いやね、来月彼のことを木兎とのブロック練習に誘おうかと考えてたワケ。烏野は正直ブロックがイマイチだなって感触だったし、やっぱりゴミ捨て場の決戦は実現させたいし」
「うん。宮城には白鳥沢がいるし、ブロック強化は必要だろうね。あの牛島くん対策をするなら木兎とのマッチアップが最適解っていうのも同意」
「でしょ。だけどまあ、なんていうか……誘おうとした理由はそれだけじゃなくてね」
「うん」
黒尾の歯切れが悪くなるのは珍しいからこそ、特に急かすことなく相槌を打つ。いつもの日常的な空気感にした方が話しやすそうだったから、皿洗いを再開して目線をシンクに落とした。
「妙にひねくれて周りと一定の距離を置いちゃう、あの感じを見てると。こう……ヤケに昔を思い出すんだよなー」
「……そっか。昔、ね」
「苗字もここまで言えば察するだろうけど。……彼にも、俺たちと似たようなトラウマがあんのかなーって空気を感じてね。勝手に推し量るのも良くないかなとは思ったんですけど」
私と黒尾には別に、互いの過去について打ち明けたり深く話し合ったことはない。けど友達として仲間として二年以上も付き合っていれば、相手が家庭の問題で悩んだ経験があることくらいは自然と感づいていた。
特に私はマネージャーとして応援メンバーの取りまとめも行っているし、マネ弁週間のお陰で各ご家庭と連絡を取る機会にも恵まれていたし。黒尾が父子家庭で、今は一緒に住んでいないお姉さんがいるということも知っていた。
私も全く同じという訳ではないけど、それなりの事情があって色々苦しんだ経験はあったから。似たような傷を持つ人間同士というのは、理屈は分からないけど何となくお互い察するものがあったりするのだ。不思議なことに。
「成程ね。似たような経験がある上で、黒尾に散々構ってもらった人間は私だけってことか。だから意見を聞きたいって感じ?」
「……ま、そーいうこと」
かつて合宿であまり眠れなかった日の翌日には、必ず黒尾が気遣うように話しかけてくれたなと思い出す。私には躊躇いなく声をかけたのに月島くんを誘おうか迷っているのは、現状関わりの薄い他校の後輩だから、という理由もあるだろうけど。
もしかしたら相手の心の傷に深入りする恐れがあるのではと、不安を覚えているのかもしれない。高校生の男の子がそこまで他人の心情を慮れる背景には、それだけ黒尾が過去に悩んで苦しんで傷ついた経験があるからで。
だから相手を気遣う優しさも、相手の心の内に踏み込む覚悟も持っているんだと分かってしまった。
「いいんじゃない? いつものノリで誘えば」
「……そう思う?」
「うん。まあ多分恐らく十中八九、最初は邪険に扱われるだろうけど。黒尾はそういうコミュニケーションも好きだもんね」
「人をドエムみたいに言わないでくんない!?」
「というか、私に相談するって決めた時点で結論はもう出てるでしょ。違う?」
蛇口を捻って水を止めて、横に立つ黒尾を真っ直ぐ見つめる。私より背が大きいのに見下ろされている感覚が全く無いのは、黒尾が精神的に常に対等でいてくれてるからなんだろうなって、ふと思った。
「……そーかもしんない」
憑き物が落ちたような顔で、ふわりと黒尾が微笑んだ。私に相談しなくとも黒尾は月島くんを誘っただろうし、木兎に引き合わせてゴミ捨て場の決戦の実現に向けて動いただろう。
それでもまだ大人になってさえいない高校生の男の子だから、誰かに背中を押してもらいたい時だってあるのかもしれない。
「とりあえずやってみて、ダメだった時は一緒に考えよ。……たとえどんな過去があっても、誰かに声をかけてもらえるっていうのは、本人が思ってる以上に嬉しかったりするから」
かつて春の廊下で夜久に手を引いてもらったように、昼の図書室で海に見つけてもらったように、朝の合宿所で黒尾に話しかけてもらったように。人生に影響を与える程の些細で大きなターニングポイントというのは、どこに転がっているか分からないものだ。
洗い終わったお皿を拭く作業に入ったところで、ぽつりと呟く声が耳を打つ。
「やっぱ苗字って、お母さんみたいだよな」
その言葉に込もった寂しさにも温かさにも、今は気付かないフリをして笑った。
「黒尾は懐が深いしすごく優しいし、母親からすれば立派な息子すぎて鼻高々だろうねー」
「……そう思う?」
「思う思う」
「……そーですか」
「黒尾って意外と照れ屋だよね」
「うん、そこは認めるわ。俺、やっくんとは別の意味で苗字に弱いんだろうなーって今日めちゃくちゃ悟ったので」
「あら素直」
「ま、たまにはなー」
互いに小さく笑い合って、分担して食器を拭いていく。お世辞とか気遣いとかじゃなく、心からの気持ちを籠めた言葉をずっと贈っていたんだって、黒尾も分かってくれたんだろう。
「あ、そうだ苗字」
「何?」
皿洗いを終えて食堂を出てから、私は洗濯物を出しに、黒尾は着替えを取りに分かれようとしたところだった。早くシャワーを浴びたいだろうに引き留めてきた黒尾は、今までに見た中でも特に真剣な表情をしている。ちょっとビックリした。
「夜久に泣かされたらいつでも言えよ」
「……え。なに、どうしたの突然」
「いやーなんか、一応言っとこうかなと思って?」
「そっか。……ありがと」
やっぱり黒尾はお父さんみたいだなって、少し切なく嬉しく思いながら笑う。
失ったものを取り戻すことは出来ないけど、今目の前にある大切なものを愛しく思う気持ちは本物だし、これからも育てていくことは出来るから。
また明日ね、と今度こそ夜の廊下で分かれてから携帯を開く。夜久からメールがきていた。「おつかれ」の四文字の後、この後の待ち合わせについて書かれた文章を読む。普段ならば嬉しさに頬が緩むばかりの内容なのに、労わりと優しさに溢れた言葉の数々に触れてちょっとだけ泣きそうだった。
これも黒尾のせいだぞ、と若干八つ当たりめいた思考のまま返信を打つ。心の傷を無くすことは出来ないけど慈しむことは出来るって心から思えるようになったのは、他でもない夜久のお陰だったことを思い出してしまった。
送信ボタンを押した。廊下の窓から覗く夜空を見上げる。星なんて全然見えないけどいつも以上に澄んで美しく目に映るのは、私の周りにいる人たちがあまりにも優しすぎるからなんだろうなって、一人で駆けながら思った。