「あ。谷地さんだ、こんばんは!」
「は、はひっ! こ、こんばんは!」

マネージャーの宿泊部屋に顔を出せば、小動物みたいにピョンと跳ねる姿に遭遇した。烏野の新しいマネージャーさんとは、そういえばちゃんとお話し出来ていなかったなと振り返る。
教室の中でリラックスしたように寛ぐお馴染みのメンバーに手を振った後、にこやかな顔で話しかけた。

「改めて、音駒マネージャーの苗字名前です。よろしくね」
「や、谷地仁花と申しますっ! よろしくお願いシャスッ!」

ビシッと敬礼する姿が愛らしくてつい笑っていると、何故か顔を青くしてワタワタと慌てだしたので首を傾げる。

音駒うちには一年生マネージャーの入部は無かったし、IH後の作文演説にて見学希望は増えたものの、「苗字さんと比べられたらしんどい」という理由で───直接言われることは少なかったものの、だいたいの断り文句がそういうニュアンスだった───結局勧誘は全敗してしまったのだ。
後輩たちにも協力してもらったが、私の勉強や料理の腕が一流だという噂が広まっていたが故に余計敬遠されてしまったらしい。

一時期はそれなりに落ち込んだものの、二年後には山本の妹さんであるあかねちゃんが入部してくれる筈だからと、引き継ぎ用の資料は丁寧に作成している。
今の一年生には出来る限りマネージャーの仕事を手伝ってもらい、実地で教えてもらえるように育ててはいるし。頼れるリベロの芝山がいるなら問題はないだろうと安心もしていた。

だからこそ、自分の在籍中にきちんと勧誘に成功した潔子ちゃんの努力が分かって、結果を耳にした時から凄いなって感動しきりだった。

「そんな堅苦しく接しなくても大丈夫だよ。良ければ仁花ちゃんって呼んでもいい?」
「は、は……っ! い、いやでもここで私なぞが了承してしまったら、音駒の皆様方に暗殺されませんか……!?」
「え。うちの部員、そんなに怖かった……?」
「いえ! そうではなくて……! ファンの方々に命を狙われるのではと!」

確かにさっきの晩ご飯中、夜久からファンと言ってもらったし、私も音駒の皆のファンではあるつもりだけど。首をひねっていれば、奥から雪絵ちゃんがヌッと現れた。心底楽しそうにニッコリと笑う顔は可愛いが、なんとなく事態の全容を把握して顔が引きつる。

「あ、疑ってる顔だー。谷地ちゃんにマネージャーの秘訣を聞かれたから、部員と打ち解けるなら名前ちゃんを見習うのがオススメかなあって話しただけだよ?」
「それを言うなら梟谷も仲良いでしょ?」
「いやー、名前ちゃんには敵わないってば」
「それはそう」
「音駒はやばいよね」
「わかる」
「物凄いフルボッコだね!?」

雪絵ちゃんだけでなく、かおりちゃん、英里ちゃん、真子ちゃんからも流れるような返答があったので肩を落とす。お陰で潔子ちゃんも楽しそうに笑っているし、谷地さんの緊張も少し解けたようで良かったけど。
布団の上に座っていた潔子ちゃんが、こちらに近づいてから後輩に寄り添うように口を開く。

「仁花ちゃん、名前ちゃんが悲しむようなことを音駒の部員はやらないと思う。だから安心して?」
「は、はい……! 取り乱してしまってすみません! お好きに呼んでやってくださいませ!」
「ありがと、それじゃお言葉に甘えて。私こそビックリさせちゃってごめんね、仁花ちゃん」

無事に話がまとまったところで改めて手を差し出せば、おっかなびっくりな様子で握り返してくれたので安心する。
小柄で華奢でショートカットで、まさに夜久のタイプはこういう可愛い子なんだろう。だからと言って今さら自分がこんな愛らしさを手に入れられるとは考えていないし、別に落ち込む必要もないんだろうけど。

しかし仁花ちゃんは初めての環境で緊張しているだけかと思っていたが、どうやら引っ込み思案な性格が強く出ているようだった。逐一ネガティブな思考に囚われたり、周囲の言葉をつい後ろ向きに受け取ってしまう傾向になんとなく覚えがあって、先程まで黒尾と交わしていた会話を思い出す。
もしかして抑圧的な傾向のある親御さんのもとで育ったのかな、なんてお節介極まりない考えが浮かんだ。……もしかしたら、黒尾もこんな気持ちだったのかもしれない。私の場合は、出来る限り優しく穏やかに接していくことくらいしか出来ないだろうが。

「名前ちゃんはこれからシャワーだよね?」

隣に立つ雪絵ちゃんが、ひょっこりと首を傾げる。

「うん、今から行ってくるね。その後に用事があるから少し遅くなると思うけど」
「おー? 旦那さんとデートですか?」
「言うと思った。確かに会いはするけど、それとは別に少し文化祭の準備作業もしてくるよ」

合宿の夜は毎日会おうと約束したものの、長時間拘束する気は互いに無かった。夜久からの時間指定は今から一時間後だし、こちらの事情も汲んでくれているのだろう。

「音駒の文化祭、毎年すごいもんねー。でもそっかあ、合宿先で準備するってことはご飯じゃないんだね……」
「雪絵ちゃん、ものすごくガッカリするじゃん。まあ模擬店やるなら業者さんに発注することになるからねー」
「でもいいもん。来月は一週間も名前ちゃんのご飯食べられるし!」
「次は雪絵ちゃんも一緒に作ってくれるもんね。がんばろ」

笑いながら喋りつつ、着替え一式とバス用品と、私物の四角いカバンを手に取った。

「名前ちゃん、いってらっしゃーい!」
「はーい。いってきます!」

その場にいた全員から笑顔で手を振られる。普段は男子メンバーのサポートばかりしているから、女の子たちに見送られるというのは毎度新鮮でくすぐったい。

梟谷グループの各校は強豪校が多いため、女子更衣室もシャワー室もバッチリと完備された快適な環境だった。男子更衣室とは場所も離れているし、梟谷は都内の私立校なだけあって施設が全体的に清潔感があり快適である。
さっさとシャワーを浴びて着替えてから、すぐ廊下に出た。念のため夜久にメールを送ってから目的地へ行こうと歩き始めたところで、向かいから誰かやって来る気配がする。

モヒカン姿の後輩がいつものごとく、パッと顔を明るくさせてからシュバッと近寄ってきた。その通常運転な様子に和みつつも、遠くですっかりカチコチに固まってしまった坊主頭の子が心配になる。

「山本、おつかれー!」
「苗字さん、お疲れ様ッス! 俺で何かお手伝い出来ることはありますか!?」
「今は休憩中だから特に何もないよ、大丈夫。今日は疲れたと思うからゆっくり休んでね」
「アザッス!」

後輩っていうより下僕だよね、とは黒尾の言葉だったか。でも全力で自分を慕ってくれる後輩なんて可愛いに決まっているし。
ただ、今回に限って言えば少し心配なことがあったから念のため質問しておこう。

「ねえ山本、田中くんと無駄な争いとかしてないよね?」
「む、無駄な争い……とは?」
「たとえばの話だけど。『苗字さんが一番か!? 潔子さんが一番か!?』なんて喧嘩をしてたりしないかなーって」
「…………………、そ、ソンナコトハ」

顔を青くして目を逸らして冷や汗をかきながらの、カタコトの返答。あまりに分かりやすく素直すぎるだろう。

「図星かー。それが二人のコミュニケーションなら無理に止めはしないけど、人を値踏みしすぎると誰かを傷付ける可能性もあるから気を付けてね」

そのあたり潔子ちゃんは慣れていそうだけど、思春期の少年少女は思いのほか繊細だから。山本や田中くんに悪気がなく、心から私たちを褒め称えようとしてくれているのは百も承知なのだが。

「も、申し訳ないッス! 俺が浅はかでした……!」
「そこまで謝らなくても平気なんだけど」
「いえ! この山本猛虎、責任を取って土下座からの切腹をさせて頂きたく!」
「やめて。夜久と黒尾に言いつけるよ」
「ヒェッ!? それだけはご勘弁を……!」

わたわたと、手をばたつかせるように慌てる山本に笑った。落ち着かせるべくポンポンと肩を叩く。

「冗談だから。それじゃ、長い間引き止めるのも悪いから行くね。田中くんも、お待たせしてごめん」
「苗字さん、アザッした! お気を付けて!」
「……あ、あの」

恐る恐る近付いてきた田中くんが、目を逸らしつつ蚊の鳴くような声で言葉を発する。てっきり避けられているかと思っていたから、呆気にとられてパチパチと瞬きを繰り返した。
次の瞬間、ガバッと綺麗な直角のお辞儀を披露されて更にぽかんとする。綺麗なつむじが見えた。

「う、うちの姉ちゃんが大変お世話になりました! ありがとうございましたーッ!!」
「あ。こちらこそ、冴子さんには可愛がってもらって感謝してるよ。ありがと、田中くん」
「ひゃ、ヒャイッ!」
「よくぞ言った! 我が友よ……!」
「ありがとう友よ! 俺もついに、潔子さん以外の女性とお話しを……!」

健闘を称えるように、山本が田中くんの肩を力強く叩いている。本当に仲良しなお友達同士になれたようで、これはさすがの黒尾も予想していなかったんじゃないかなと笑う。西谷くんと夜久といい、同じポジション同士の相性の良さが抜群すぎて運命を感じるばかりだ。

そのまま二人に手を振って分かれて───山本は力強く大きく、田中くんは控えめに小さく振り返してくれた───、階段を上がった。

皆が宿泊する教室とは別の階にあるのは、移動教室でよく使われる場所ばかりだった。美術室、家庭科室、視聴覚室の前を通り過ぎれば、目的の場所に着く。
監督陣には事前に事情を説明して使用許可を得ていたので、預かった鍵を回して扉を開ける。教室中に並んだ机、大きくて綺麗なグランドピアノ、五線譜の書かれた黒板、こじんまりと佇む譜面台。ぐるりと一通り辺りを見回してから、私はピアノの前の椅子に座った。

演奏のための準備を整えてから、深く大きく息を吸って、静かに吐く。ゆっくりと丁寧に、両手の指を鍵盤に添えた。

それから私はひたすら弾いた。歌って、笑って、聴いて、奏でた。
今回の合宿で巡り会った出来事を想起しながら、一つ一つの音に想いを込めていく。

一通りのノルマを終えてから楽譜を捲ろうとした瞬間、扉に一番近い席に座っていた夜久とばっちり目が合った。背筋をピンと伸ばしながら私の方を真っ直ぐ向いて、随分と柔らかな表情を浮かべている。

「えっ!? わっ!? いつの間に!?」
「悪い、驚かせたな。邪魔しないようにこっそり入った」
「いや、ううん、全部事前に伝えてたのはこっちだし謝らないで。というか私、そんなに集中してたのか……」
「おう。すげえ楽しそうだった。……やっぱり苗字の音っていいよな」

しみじみと感じ入るように夜久が言う。

「俺はピアノも音楽も全然わかんねえけど、優しくてあったかくて、聞いてるだけで元気になれる音だなって思う」

心が震えた。いくらでも本音を隠して取り繕える口頭の言葉と違って、自分の感情を込めた音楽には、私の心の全てが詰まっているから。心臓の裏側までまじまじと見られているような感覚さえ覚えるのだから、恥ずかしさと嬉しさと、他にも言葉にならない想いが湧いてくる。

「……ありがと」
「まだ消灯まで時間もあるし、もう少し弾いてくか?」
「でもせっかく夜久に時間取ってもらったのに、私の練習に付き合ってもらうのは申し訳ないし」
「ほぼ毎日会ってんのに、それでも一緒に過ごす時間が欲しいって言ったのは俺の方だろ。それに音楽やってる時の苗字を見れる機会なんてそうそうねえし」
「……つまんなくない?」
「苗字は俺が自主練やってるの見てる時、つまんねえって思うか?」
「そんな訳ないじゃん!」
「だろ。そういうこと」

ニッと悪戯っぽく笑う夜久が眩しくて、切なかった。いつでも私の欲しい言葉をくれて、優しくしてくれて、力強く手を引いてくれる男の子に対して、果たして自分は何を返せるのだろうかと途方に暮れてしまいそうだった。
でもそこで悩んで立ち止まるくらいならば、まさに今この瞬間、夜久と過ごす時間も自分の想いも大切にしたかった。

「それじゃお言葉に甘えて、ちょっとだけ弾くね」
「おー。時間がヤバそうな時は、また邪魔して悪いけど頭撫でていいか?」
「うん。……や、遠慮なく肩とか背中とか叩いてくれて良いんだけどね?」
「それで驚かせて、苗字の綺麗な指に怪我させるかもしれないからイヤだ」
「ペンだこもあるし荒れてるし、そんなに綺麗な手じゃないけど」
「全部、自分や俺たちのために努力した証だろ。カッコイイし綺麗に決まってる」

夜久が立ち上がって、私のもとへ歩いてくる。ピアノ椅子に座ったままの私を優しく宥めるように、何度も頭を撫でてくれた。

照れて俯いた後、ちょっぴり目線を上げる。夜久を下から見上げるのが新鮮で、目が合った時の空気感もいつもと何となく違って、戸惑った。
ミルクティー色のまるい瞳に───私の毎日を甘く柔らかく彩ってくれるその眩しい煌めきの中に───、他でもない自分の赤い顔が大きく映っていた。夜久の吐息を、近くに感じた。

……かと思えば、一気に視界が真っ暗になる。両瞼に押し当てられた熱が夜久の手だと、数瞬遅れて理解した。

「え、何!? 夜久どうしたの!?」
「…………あー、悪い。俺はマジで最低野郎になるところだった。土下座して切腹するわ」
「山本じゃないんだからやめて!?」
「もういっそのこと俺もモヒカンにするか?」
「そりゃ夜久はどんな髪型も似合うだろうけど! 今はなんか投げやりになってるからやめとこ!?」
「苗字はさー、どんな髪型が好き?」
「え? うーん……西谷くんみたいに髪を上げてるのとか、カッコイイよね」
「あー、そうだよな……。西谷くんならきっとこんなことしねえよな……」
「待って夜久なんでそんな落ち込んでるの!?」

瞳に触れる熱がゆっくりと離れたから、私も周囲の光に目を馴染ませるように瞬きを繰り返す。ようやく開けた視界の中で、両手を挙げた夜久が素早く踵を返して最初に座っていた席に戻っていた。

「夜久、だいじょうぶ……?」
「おー。……今は自分自身と闘ってるだけだから気にすんな。俺のことは気にせず弾いてくれ」
「うん、分かったけど……。無理しないでね」
「サンキュ」

項垂れた夜久が、ひらひらと手を振ってくれる。首を傾げつつも、時間は無駄に出来ないから深呼吸をして気持ちを切り替えて、鍵盤に指を滑らせていく。

ちょうど一連の練習を終えてから満足して顔を上げたら、夜久がやたらとホッとしたような表情を浮かべていた。ちょうどキリのいい時間だったらしい。とはいえまだ無理に帰らなくてもいい筈だけど。
しかしながら、先程からやけに距離を取られている気がして、なんだか寂しい。

「苗字、そろそろ戻れそうか? 部屋まで送るわ」
「……もう帰るの?」
「…………、今日はマジで俺が俺を許せねえから、もう帰る。絶対帰る」
「はーい。わかりましたよー」

夜久の頑固モードは、誰にも解除できない鉄壁の要塞なのである。大人しく荷物をまとめてから、音楽室を出て鍵を閉めて、二人で廊下を進んでいく。

夜久がすっかり黙っているなんて珍しいから、理由を探るべく先程のことを思い出す。
夜久の綺麗な瞳に見惚れて気付かなかったけど、あの目の中にいる自分が見えたということは、実は相当距離が近かったのだろうか。……あれ、もしかして、自意識過剰じゃなければ、恋人がするような行為をしていたかも、しれないのか。

燃え上がった顔のまま隣をチラリと見た。夜久が神妙な顔で私の視線を受け止める。

「……気付いたっぽいから言うわ。本当に悪かった」
「……私の方こそ、鈍くてごめん」
「いや、自制できなかった俺が悪い」
「でも、別にその……嫌ではないから」
「……だったら尚のことダメだろ。俺の自分勝手な行動で苗字のこと傷付けたくねえし」

夜久はこちらに向き直って、私を真っ直ぐに見つめる。澄んだ瞳に強く射抜かれて息が止まった。

「今は俺も練習に集中しなくちゃいけない時期だし、苗字の邪魔もしたくないから何も言えねえ。……本当にずるいって、分かってるんだけどな」
「……ううん。私も同じ気持ちだから。夜久の邪魔はしたくないし、今は自分のやりたいことに集中したいし」
「おう。だから、いつかちゃんと言う。……待たなくてもいいから」

僅かばかり不安そうな色が滲んだ、凛々しい顔を見つめ返した。

「私はいつも、夜久のこと見てるよ。ずっと応援してる。だから今はお互い頑張ろ」
「ん、俺も苗字のこと応援してるから。……ありがとな」
「いいえー。これからも夜久の背中に追いつけるように努力しないと」
「こっちの台詞だっつの。……帰るか」
「うん」

自然と繋いだ手の熱を全身で感じながら、私たちは笑う。きっとお互い、いつか来る未来を想いながら。夜闇に満ちた廊下をワルツを踊るように歩んでいった。