大英帝国の女性は、家庭の天使として夫を支えるべき存在と見なされている。

必要に駆られて働くのは身分の低い労働階級ぱかりであり、女でありながら仕事を得ているというだけで白い目で見られることも珍しくない。
ましてや、名前は東洋の異国人である。屋敷で複数働くメイドたちの中でも、特に女主人から蔑視を受けている身であった。

今日も今日とて押し付けられた掃除をこなしつつ、名前はどこか浮き足立った屋敷の中を走り回っていた。食堂の給仕や洗濯等々こなすべき仕事は山積みであり、一瞬たりとも休んでいる暇などなかったのだ。

先日、突如として仕えていた旦那様が亡くなってから、この家には以前にもまして負の感情が渦巻くようになったと感じていた。どうやら自殺だったらしいとゴシップめいた噂を名前が知ることになるのは、当然誰よりも遅かった。

屋敷の広大さに比例した遺産は存在するようなのだが、雇用主としては少しでも人件費を削減したいというのが本音だろう。自分がいつクビを言い渡されても構わないように、名前はひっそりと準備を進めていた。

……この職場を紹介してくれた恩人の彼にも、後日改めて報告しようとは思っていたのだけれど。

「失礼、レディ。少しいいかな」

背後から聞き覚えのある声が降ってきて、瞬間的に身体が強張る。胸に滲んだ期待と不安を振り払うように踵を返せば、そこには相変わらず本音の読めない笑顔が浮かんでいた。

世界的にも有名な大探偵シャーロック・ホームズは、この屋敷の女主人から依頼を受けて彼女の夫の死因調査に赴いていた。
その肩書きに恥じないコネクションと抜群の容姿を持つが故に、社交界のご婦人にも大層気に入られているのだ。彼と幾度も夜を過ごしていた時期には、名前も否が応でも嫉妬や羨望の眼差しを受けたものだった。

近頃は、喪服を着てしおらしく俯いた女主人に寄り添う後ろ姿を見たきりであったから、深く関わらずに済むと胸を撫で下ろしていたというのに。

「いかが致しましたか、ホームズさん」

さり気なく視線を下に落として精一杯の抵抗をするものの、目敏い探偵の視界から逃れることは出来ないとは理解していた。

「仕事のジャマをしてしまってすまないね。今回の件について話を聞きたいんだが」
「わたしからお話しできることは何もございません。奥様の元へ行かれてはどうですか」
「そんなに拗ねなくてもいいじゃないか、名前」

ささやかな秘密を共有するかのごとく、彼の口はこちらの名前を紡いだ。かつての夜を想起させるような甘さを帯びた声に背筋が痺れて、ほんの僅かだけ息が詰まった。

その隙に掬い取られた左手の指先が、薄い唇の熱を感じ取る。続け様に手の甲に落とされたキスはやけに熱くて、名前は喉まで迫り上がった感情を振り払うように顔を背けた。

「し、失礼します……ッ!」

勢いよく背を向けて、はしたなく足音を立てながら廊下を駆け抜ける。背後で微かに笑う気配を感じても、振り返ることなんて出来なかった。

しかし、沸騰しそうだった頭は即座に冷えきることになる。仕事に戻るため、階段に繋がる角を曲がろうとした際、名前は女主人の氷のような視線を全身に浴びてしまった。

彼女のシャーロック・ホームズに対する執着を思えば、屋敷の中での軽率な行動は控えるべきだったのに。彼のキスを明確に拒めなかったのは、名前自身の甘さだと分かっていた。

その場では最大限のお辞儀をして主人への敬意を表したつもりの名前であったが、胸の奥に蔓延った嫌な予感はその夜に的中することとなった。



「───あら、ごめんあそばせ。手がスベってしまったわ」

真夜中に一人呼び出された名前は、薄暗いキッチンの片隅で、冷めた紅茶を頭から引っ被っていた。

真っ白なメイド服のエプロンにじわじわと滲んでいく赤を、ただ呆然と眺めてしまう。この時代、蔑視を受ける名前が自由にシャワーを使える筈もない。

「シミ抜きは自分でやってちょうだい。アナタにもそれくらいは出来るでしょ」
「あ、……はい。かしこまりました」
「それじゃ。お勤めご苦労サマ」

颯爽と踵を返した主人の気配が消えたのを見計らい、名前は床に零れ落ちた紅茶を拭き取る作業に移る。

跡が残らないよう慎重にふきんを動かしていると、ふと手の甲に何か液体が滲む感覚がした。目の奥が熱くて仕方ないことに気付いて、名前はようやく自分が泣いていると自覚する。

異国から一人この国にやって来て、偶然出会ったシャーロック・ホームズの家に住まわせてもらって、けれど一人で自立したいからと言って仕事の斡旋までしてもらったというのに。結局は、職場の環境にも馴染めずこのザマだ。

懸命に声を押し殺しながら涙を流していると、いつの間にか、名前の心臓をも包み込むような柔らかな熱に全身が覆われていた。耳元で激しく鳴る心臓の音が、すっかり聞き慣れた子守唄のように全身に沁み渡る。

「名前」
「…………ッ!  ホームズ、さん」

慈しむように頭を撫でられ、労るように背中を擦られ、気遣うように強く抱き締められた瞬間、名前は意地をかなぐり捨てて目の前の人に縋り付いていた。
そっと降ってくるキスを受け止めていると、自然と心が穏やかに凪いでいくのが分かった。

「……ホームズさん」
「ああ、なんだい?」
「今だけは、……わたしのそばにいてくれませんか」

頭上の顔を見るのが怖くて、名前は彼の胸にそっと額を押し付けた。くつくつと喉の奥で笑うような声が聞こえて、思わずむっとしながら視線を上げると、驚く程に甘やかなキスが降ってきた。

「今だけと言わず、一生でも構わないがね」
「……遠慮しておきます」
「おや、それはザンネンだ」

視線を重ねて笑い合うと、心の奥で絡まっていた糸がするすると解けていく音がした。

その夜は、彼に与えられた客室のシャワーを借りて、広々としたふかふかのベッドで久しぶりに二人で眠った。

翌日には仕事を辞めようと決意しながら瞳を閉じたのだが、しかし、名前が目覚めた時には何もかも終結していた。

───殺人事件あるところに探偵あり。夫殺しはまず妻を疑え。
大探偵シャーロック・ホームズは、そんな推理小説の王道をいく展開を華麗で鮮やかな論理と推理で暴き、事態を解決に導いたのだという。

女主人がスコットランドヤードの刑事に連行される様を寝惚け目で眺めていた名前は、次の瞬間、突然の浮遊感に襲われることとなった。

自分が、今まさに彼のたくましい腕に抱き留められているのだと知り、瞬く間に顔が茹だっていく。屋敷のメイドや刑事達からの視線を一身に浴びても、彼は真っ直ぐに名前だけを見つめて笑みを浮かべた。

「名前、帰ろうか。ボクたちの家に」

名前は、恩を仇で返すような可愛げのない言動ばかり取ってしまう女だ。異国人で身分も低く、街を共に歩くだけで白い目で見られてしまうような女だ。

しかし彼は、そんな女にとっての帰る場所になろうとしている。

泣きたくなる程の愛情深さにひとたび触れてしまったならば、名前に拒む選択肢など掴める筈もないというのに。

「……はい、ホームズさん。帰りましょう」

こんなにも素敵なひとを独り占めしてしまうのが怖いと、名前の心は静かに軋んでいたのだけれど。