合宿の時は、目覚まし時計が鳴る前に一人で早起きしてしまうことが多かった。
音駒の皆にすぐ会えるから張り切ってしまうのかもしれないし、慣れない環境だと無意識に緊張してしまうからなのかもしれない。

今回も例に漏れずパッチリと目が覚めてしまったから、寝息を立てているマネージャーの皆を起こさないようにこっそり宿泊部屋を出た。念のため、夜久に「おはよう」とだけメールを送っておく。これで言いたいことは伝わるだろうし、大事な睡眠の邪魔をすることも無いだろう。

ご飯の準備を終えたとしても、文化祭の作業や写真の整理やブログの更新など───例の作文演説をキッカケにバレー部の見学希望が増えたので、全員に許可を取って情報発信用に作成した───やれることはいくらでもあるし。

未だに太陽も地平線の下で眠りにつく早朝、薄暗い食堂の窓を開けて空気を入れ替える。普段は木兎たちが駆け回っているであろうグラウンドをぐるりと見回して笑ってから、自分の戦場の一つである厨房へと向かった。早速エプロン類を全部しっかりと身に纏う。
仕込みは既に終えてあるし、少し早いけど始めてしまおう。複数の鍋を並べながら大きな炊飯器でお米を炊き、着々と調理を進めていく。

献立は、全員の希望メニューやアレルギー等の情報が載った通称「食いしん坊リスト」をもとに私で考え、主将と監督陣からの了承を得た上で決定していた。来月分も雪絵ちゃんと共に考案しなきゃなと考えつつ、無心になって手を動かしていく。
朝ご飯は、昼食や夕食に比べてだいぶあっさりしたメニューにしていた。起床してすぐガッツリした量を食べてしまうと、直後の練習試合でご飯を消化しきれていない状態で動くことになり、十分なパフォーマンスを発揮できなくなってしまうから。
栄養バランスと消化の良さを両立させるのはなかなか難しく、学生向けの業者さんにご飯を頼むとネックになるのはそこだった。だからこそ監督と主将と相談して、毎度なるべく良質なメニューになるよう調整している訳だけど。この試行錯誤はいつも楽しかった。

今日は、余った材料を使ってピザ風トースト用のソースと野菜スープを作り、ヨーグルトとフルーツも準備する。昼食用の肉じゃが作りも並行して進めれば、今日のご飯準備はバッチリ終えることが出来た。
あ、そういえば監督たちや冴子さんのために二日酔い用の食事は必要だろうか。と思ったけど、野菜スープとフルーツがあれば十分かな。もし希望があればお粥やお味噌汁を作れば良いし。

一通りの後片付けを終えてから厨房を出て食堂に戻る。まだ時間も余っているし持参したパソコンで何か作業しようかと思案しつつ、両手を上に伸ばしながらストレッチをした。

「苗字さん、おはようございまーす!」

自分一人だけだと思っていたから、声をかけられてついビックリして肩を震わせる。太陽を思わせる明るい声に満面の笑みを携えるのは、ゴールデンウィークに仲良くなった烏野のルーキーだった。

「日向くん! おはよ、随分早いね」

まさに寝起きといった髪をしているが、既にウキウキした様子なのが微笑ましい。他に選手の気配は無いし、私と同じく一人で早起きしちゃったんだろうか。

「あんまり眠れなかった? お茶でも淹れようか?」
「いや、楽しみでつい起きちゃっただけで! それに俺、昨日出遅れちゃったし……!」
「確かに勿体ない気持ちになっちゃうかー。ここだと色々なチームと戦えて勉強になるし、楽しいもんね」
「おう! あ、いや、はい!」
「別に、敬語は使わなくて大丈夫だよ。孤爪と同じくフランクに接してくれれば良いし」
「で、でも、苗字さんに近づきすぎたら、音駒の三年生からテッケンセーサイ? が飛ぶって研磨が言ってて!」

わたわたと顔を青くしながら肩を震わせている。いや孤爪、何でそんな脅すようなこと言ったの。
確かにうちの同級生たちは、私に対してそれなりに甘い自覚はあるけども。さすがに他校の後輩に対して、そこまで心の狭い振る舞いをすることはない筈だ。恐らくは孤爪なりに友達への冗談のつもりで言ったんだろうけど、あの子はジョークも言い慣れてなさそうだし。

「もし日向くんに何かしたら、私がちゃんと言い聞かせておくから。それより、まだ朝ご飯までは時間もあるし軽くおにぎりでも握ろうか?」
「苗字さんのおにぎり!? 食べたい!」
「今は冷やご飯しか残ってないんだけど……。あ、卵かけご飯の焼きおにぎりとかどう?」
「え!? うまそー!」
「よし。じゃあ作ってくるね」
「俺もやる! 手伝う!」
「お、ありがと。じゃあ一緒にやろっか」

やっぱり言動やテンションが犬岡と似ているなと感じつつ、他の選手には無い唯一無二の魅力を持つ子だとも思った。技術は他の選手たちに劣る部分が多いものの、無尽蔵の体力と圧倒的な跳躍力、そしてバレーボールに対する純粋無垢なまでの探求心は目を見張るものがある。
チームメイトにすら距離を置く孤爪の探究心を初対面から刺激していた程だし、あの木兎までもが日向くんを面白いと気にかけていたのが印象的だった。

「やっぱり美味えー!」

小学生相手にお料理教室をするようなノリで一緒に調理を終えてから、日向くんが嬉しそうに食べているのを見守る。

「良かった。私はお腹空いてないから、そんなに量も無いけど遠慮なく食べてね」
「アザッス!」

文字通りあっという間にぺろりと平らげた姿が微笑ましい。力強く手を合わせてから「ごちそーさまでした!」と挨拶してくれたので、「自分で頑張って作ったご飯も美味しいよね」と話しかける。

「うん、美味かった! 意外と焼くのが難しくて焦がしそうになったし、料理が作れる人ってすげーな!」
「慣れれば感覚的に分かってくるよ。バレーも練習すればするほどコツを掴むでしょ?」
「確かに! ……あのさ、苗字さん。リエーフに聞いたんだけど」

日向くんの顔に、僅かばかり影が差し込む。とはいえ暗いというよりは何やら考え込むような顔つきだったから、こちらもピンと背筋を伸ばした。悩める後輩の助けになるのが先輩の役割なのは、学校や所属が違えど関係なかったから。
そういえば昨晩、灰羽がやけにエースの話を楽しそうにしていたけど、もしかして日向くんとの会話もキッカケの一つだったのだろうか。

「苗字さんは、音駒の全員がエースだって言ってたって! 俺、烏野でエースになりたいって思ってるから、話を聞いてみたいんだ」
「あ。もしかして、日向くんは『小さな巨人』に憧れてるの?」
「苗字さん、知ってるの!?」
「うん。ゴミ捨て場の決戦は私たちの夢でもあるし、烏野さんのことはじっくり調べたからねー」

かつて烏野高校を全国大会に導いたエースは、バレー選手としては小柄でありながら跳躍力が凄く、小さな巨人と呼ばれていた。そう猫又監督から聞いていたし、実際に過去のテレビ映像を見て感動したのだ。確かに日向くんの力強いジャンプは、あの真っ黒な十番の背中に重なるものがある。

「それでエースを目指して、実際に烏野に入った日向くんはカッコイイね」
「え!? そ、そう思う……?」

そわそわと照れる顔が可愛い。山本も純情な質だし福永も口下手なところがあるし───なんて音駒の全員を挙げていったらキリがないけど───、不器用な一面のある後輩はつい構いたくなってしまうのだ。

「うん。自分の目標を達成するためにちゃんと行動できて、凄いと思う。……ただそれなら、私が言った『音駒は全員エース』って言葉はあまり参考にならないかも」
「そう? リエーフは、苗字さんがキッカケでエースを目指し始めたって言ってたから。俺が昔テレビで見た小さな巨人と、リエーフにとっての苗字さんの言葉は、つまり同じってことだよな?」

あまりにも当然のように言われたから、つい面食らう。何かを始めるキッカケなんて些細なものであることが多いし、私が自分の言葉を軽んじるような発言をするのは良くなかったかもしれない、と気付かされた。

「……うん、そうかも。ありがとね、日向くん」
「……? どういたしまして!」

何故お礼を言われたのか全く分からないという顔をしていた。日向くんらしいなと笑いながら、言葉を続けていく。

「それじゃ、少しでも参考になれば嬉しいんだけど。私にとってエースって言葉はね、『世界一カッコいいヒーロー』って意味なの」
「か……カッケー!!」

あまりにも真っ直ぐに褒められたから素直に照れる。成程、この純真さはやはり木兎あたりと相性が良さそうだ。

「チームにとってのエースは各チームにたった一人、得点源のスパイカーだっていうのが、共通認識ではあると思うんだけどね」

音駒で言えば山本だし、烏野で言えば東峰くんが該当するだろう。エースであるという自負や誇りがあるからこそ、彼らはここぞという場面で力を出せる。コートの中でプレーする選手たちの、そういった意地やプライドを否定する気は一切ないのだけど。

「それでも試合における全ての得点は、エースが独りきりでもぎ取ったものじゃないから。チーム全員が全力を尽くしてボールを繋いだ結果、勝ち取った一点だと思うの。だからこそ私にとっては音駒の全員がエースで、皆がヒーローなんだ。……あくまで勝手な独自解釈なんだけどね」
「全員で繋いだ一点。……全員が、ヒーロー」

日向くんが、全身で何かを噛み締めるように私の言葉を繰り返す。こちらまで気圧されるようなピリッとした緊張感を覚えた。
貪欲にどこまでも上へと登り詰めるべく、私のようなマネージャーの言葉にさえ真摯に耳を傾けて、成長の糧にしようとしてくれているのだろう。
ちゃんと知り合う前とはいえ、以前猫又監督に日向くんのことをヒナガラスと言ってしまったことがあるけど。無意識に軽んじていたのかもしれないと深く反省した。

そんな私とは対照的に、日向くんは心底晴れやかな顔で笑っている。

「苗字さん、ありがとう」

その笑顔は、夜に覆われた世界を照らす朝日のごとく明るく爽やかでありながら、全ての闇を振り払うような力強さを宿していた。

───ああ、この子はきっと、いつか手の届かない程に遠くに行ってしまうんだろうなと直感的に感じて、切ないような嬉しいような気持ちになった。それはきっと、音駒の皆だって同じなのだろう。

そのまま二人で、バレーのことやお互いのチームのことを色々とお喋りしていたら、あっという間に朝ご飯の時間に差し掛かっていた。

「それじゃ日向くん、私はご飯の仕上げに行ってくるね。またあとで!」
「おー! ありがとう苗字さん、またな!」

ぶんぶんと大きく振ってくれた手に微笑み返しつつ、再び厨房へと舞い降りた。トーストを一斉に焼きながら、私は来年立ち会えるであろうゴミ捨て場の決戦に思いを馳せていく。
今は夏の香りが滲む汗ばんだジャージに袖を通しているのに、新春の冷たく清らかな空気が肺を満たしていくような気がして、不思議と泣きそうになってしまった。



「苗字、何かあったか?」

夜久は、朝ご飯を渡した時はいつも通り明るく笑っていた筈なのに。食器の返却をしにきた時にはひどく心配そうな顔をしていて、何でいつもすぐ気付いちゃうのかなと、つい眉が下がってしまう。まだ今は、抽象的で不器用な説明しか出来ない気がした。

「……笑われるかもしれないんだけど」
「少なくとも、バカにする意図では絶対笑わねえよ。どうした?」
「来年の春高が最後なんだなって思ったら、……急に寂しくなっちゃって」
「そっか。……俺には苗字の寂しさを完全に消すことは出来ないけど、傍にいることはできるから。あんまり一人で溜め込みすぎんな」

ぽんぽんと、心臓を包み込むように頭を優しく撫でられた。傍にいるというその力強い言葉に、私は一体どれほど支えてもらっているのだろうか。
うん、と震える声で一言だけ返事をすれば、夜久はまた綺麗な目を細めて笑う。

「今日は睡眠時間も短めだろうし、無理もすんなよ。キツかったらいつでも周りに頼れ」
「ん、夜久も無理しないでね。ありがと」
「おう、こちらこそ。またな」

他にもお盆の返却に来た選手たちを見て、真っ赤な背中は瞬く間に去っていく。さすがの気遣い屋だと改めて尊敬の念を募らせながら、自分の仕事に再度向き合っていった。

きっと私は、夜久だけじゃなくて、音駒の皆がいつか遠くに行ってしまうことが怖いんだろう。だけど、今こうして別々の場所にいても私たちの目指すもの全国制覇は同じで、たとえ引退後もその先も、共に過ごした時間が色褪せることはないのだと、実感した。
夜久の手の温もりに包まれた心が、全身に柔らかな血を巡らせていくような心地だった。

午前中の練習もお昼ご飯も終えて、夕方になれば今回の合同合宿も終わりを迎えた。
チームとしての成長の機会をじっくり粘り強く窺っていた音駒と異なり、烏野は日向くんと影山くんを中心に何やら急速にギクシャクとしていたようだった。
だがあの眩しい笑顔と貪欲さの前では、時には成長のために衝突してしまうのも頷ける。日向くんも今回は特に灰羽に感化されていたようだったし、これもゴミ捨て場の決戦に向けた試練の一つなのだろうし。

黒尾も恐らく、同様のスタンスで楽しそうに見守っているであろう様子を何度か見た。練習の合間に時々目が合ったから、お互いの考えが自然と分かってしまってつい笑い合ったから。
結局ネタ帳は思ったより消化できないまま、宮城へと帰る烏野さんを見送る時間がやって来た。

冴子さんから熱い抱擁を受け、武田先生から例の作文への熱烈な褒め言葉と諸々の感謝を頂戴し、潔子ちゃんと仁花ちゃんとは再会に向けた握手を交わした。

「苗字さーん!」
「あ、日向くん。今朝はありがとね、疲れたと思うし気を付けて」
「おう! 俺、次までにもっとエースになってるから!」

もっとエースになる、という表現は通常なら首を傾げてしまいそうだけど。私にとってのエースヒーローの意味を知っている日向くんは、きっと色々な意味を込めて言ってくれているのだろう。

「うん、楽しみにしてるね」

ニッと太陽みたいに笑ってから、今度は近くにいた灰羽に話しかける横顔を見守る。

「苗字、すっかり日向くんに懐かれたなー」
「ふふ、可愛くてつい私も話しかけちゃったから」
「まー苗字パイセンは音駒のマネージャーなんですけどね?」
「いや黒尾、当たり前のこと言ってどうした」

夜久と黒尾が何故か僅かに険しい顔で両脇を固める中、海だけが目の前で穏やかに微笑んでいた。

「二人とも、苗字が取られるんじゃないかって拗ねてるだけだよ」

グッと揃って押し黙り、悪いかよ、とでも言うようにそっぽを向いた。あまりにも可愛くて、二人の背中をバシバシと叩いてしまう。

「私にとっての一番は、いつだって音駒だよ。それだけは何があっても揺らがないから」
「……知ってるし」
「……知ってるケド」

声が重なって睨み合い始めた二人を海と共に笑いながら、烏野さんを送り出すように優しく色づく夕焼けを見つめた。
私たちの夏はまだ始まったばかりだ。その事実が嬉しくて幸せで切なくて、その全てを呑み込むように仲間と共に全力で笑いあった。