かつての私へ捧ぐマズルカ
忘れもしない、高校一年生の合唱コンクール前日の朝。目を真っ赤に腫らした小柄なミディアムヘアのクラスメイトは、教室に入るなり深々と頭を下げた。綺麗に眉下で整えられたストレートのブルネットが、彼女の顔をそっと覆い隠す。
その場にいた全員が、痛々しい左手のギプスを見て察したことだろう。練習中、誰よりも楽しそうにピアノを弾いていた女の子が、翌日のコンクールに参加出来なくなってしまったことを。
「ごめんなさい、あたし……! 皆の練習を台無しにしちゃって!」
重たい沈黙が落ちた。何と声をかければ良いのか、誰が彼女の代わりを務めるべきか、逡巡する気配で満ちていくのが分かった。
だからこそ私は、暗く淀んだ空気を切り裂くように真っ先に声を上げた。
「数納 さん、謝る必要はないよ」
それは反射的だった。悲痛な姿が過去の自分に重なったのかな、と今では思うけど、あの時はただ放っておけなかったのだ。己とは違い、ずっと音楽にひたむきに向き合ってきたクラスメイトが紡ぐ音に日々癒されていたから、感謝の念を示したかったという理由もあった。
しかし何よりも。私はほんの数か月前に同級生に手を引いてもらったお陰で、こんなにも胸が熱くなれるバレーボールと出会えたから。自分が少しでも差し伸べられる手があるならば、たとえ無様だろうとせめて指先だけでも掴んであげたかった。
「だから明日、私にピアノを弾かせてくれないかな。……数納さんさえ良ければ、だけど」
深く下がっていた頭が、ゆっくりと恐る恐る上がっていく。涙に濡れたブルーの瞳と目が合った途端、くしゃりとその顔が歪んだ。
「でも、あたし、……苗字さんにそこまで優しくしてもらう理由なんて無いよ」
「ううん、これは優しさじゃないの。単なる私のエゴ。数納さんの努力と、明日を楽しみにしていた気持ちを、せめてこの手で繋ぎたいっていうだけの自己満足なんだ」
かつて春の図書室でバレーの本を読んでいたのも、たった今、目の前の女の子の力になりたいと思ったのも、どこまでも独善的な願望であり、誰かの見返りを求めるものではない。私がそうしたいと思ったからそうするまでだった。
心からの思いを込めて彼女と目線を合わせれば、目尻からぼろぼろと綺麗な涙が伝っていくのを見た。
「……ッ、あ、あり、がとう」
「こちらこそ。大事な役目を託してくれて、ありがとね」
嗚咽を漏らす彼女の手から、びっしりとメモが書き込まれた楽譜を受け取った。その日だけは部活を休み───詳しい事情説明は、当時同じクラスだった夜久が買って出てくれた───、休み時間も放課後も出来る限り一緒に練習した。
あんなに触れるのが怖かったピアノは、部活の後輩と仲良くなる手段にもなったし、将来の夢を共に語り合える友達との縁を繋いでくれた。だから私は今日も、部活にも音楽にもひたむきに向き合うために声を出し、音を紡いでいく。
あれは、合同合宿が始まる数か月前のことだった。
「名前、おっはよー!」
バレー部の朝練のために登校すれば、校舎前でたまたま遭遇した友人に後ろから抱き着かれる。ぎゅうっと力強いハグを浴びるのはいつものことで、すっかり慣れ親しんだ感覚に頬を緩ませた。
「おはよ、詩結 。今日も元気だね」
パッと背中の熱が離れたかと思えば、ぐるりと回りこんで私の正面で笑顔を見せる。ミディアムヘアのストレートのブルネットが、今日も愛らしくサラリと揺れていた。
「なんたって朝から名前に会えたし! 今日も好き!」
「はいはい、ありがとねー」
「えーん軽くあしらわれてる! でもそんなとこも好きー!」
なんたって数納詩結は、高校では唯一下の名前で呼び合う友達だし、お互いの色々な事情をさらけ出している間柄だし。信頼を前提とした緩い対応も取れて、良い意味で遠慮なく振る舞える関係性だった。
腕に抱きつかれながらそのまま二人で歩いていく。私は運動部のマネージャーが着替えに使うためのマネージャー室へ、詩結はピアノの練習と作曲をしに音楽室へ。互いの目的地は分かっているから迷わず進んでいこうとした。
「ねー名前。バレー部の朝練、見学しに行ってもいい?」
「うん、いいけど。珍しいね?」
「文化祭の件で策を練るために、ちょっとリサーチしようと思って」
詩結が何のことを言っているのか把握し、頭をフル回転させる。言語化できない思いが胸に広がって、つい眉を下げた。
「……、別に断った訳じゃないんだけどね?」
「分かってるよ。でも、強引に事を進めたいワケじゃないから。お互いの意思をちゃんと尊重したいし、そのためには名前が安心して輝ける場所を見て、きっぱり諦めて食い下がるか否か判断するのが筋かなって」
「……本当に真面目だね、詩結は」
「そこはお互い様かもね。じゃ、あたしは一足先に体育館に行ってるから!」
「おっけー。すぐ行くから」
既に私の友達として何回も見学に来ているから、部員たちも山本以外は特に戸惑うことは無いだろう。嬉しそうに去っていくセーラー服の小さな背中を見送ってから、どうしたものかと思索を巡らせた。
詩結の頼みは至極単純だ。文化祭の音楽ステージに、一緒に立って歌ってほしい。今まで共に作ってきた音楽を誰かに届けてみたいから、と。
青春の一ページに刻む思い出としては輝かしく、傍から見れば断る理由なんて無いように思えるだろう。
けど、人前で演奏して歌うという行為は───私にとって、合宿所で真夜中に眠れない程のトラウマを想起させるものでもあったから。いくら休みの日は友人の前で歌うことが出来ても、見ず知らずの人たちの前で何のトラブルも起こせずにパフォーマンスが出来るかどうか、正直自信が無かった。
すぐ部活用のジャージに着替えて朝練に向かえば、何やらワイワイと騒ぐ聞きなれた声が聞こえる。
「はー? 夜久と違って、あたしは朝一で寝ぼけてる時の名前の可愛さを知ってますけどぉ?」
「ほー? つまり数納は、夜中に眠くなった時の苗字の可愛さを知らねえと」
「ちょっとお二人さーん、いい加減にしなさいよ。苗字に聞かれたら呆れられんぞ」
「……と、噂をしてたら実際にやって来るんだよね。おはよう、苗字」
同級生が揃い踏みだというのに会話の内容があまりにも照れくさくて、呆れるよりも前に笑ってしまった。
「おはよ、皆。仲が良さそうで何よりです」
「あたしはもっと名前と仲良くしたいー!」
風のように飛んできた友達を、軽やかに受け止める。バレー部の三人は幼子を見守るような目で詩結の背中を見ていたから、肩をすくめつつ目線でお礼を伝えた。
「もう仲良いでしょうが」
「あたしたちの愛に限界なんてないもん!」
「はいはい。このまま見学を始めるも私の仕事を手伝うも、好きにしていいから」
「なら邪魔にならないように見学してるー!」
詩結はシュタッと小さく敬礼してから、体育館の隅に駆け出していく。自らパイプ椅子を設置した上でノートとペンを取り出し、ロールアップピアノをくるくると開いてからさっそく音を出し始めていた。
出会った頃は大人っぽい印象のあった子なのに、もうすっかり甘えん坊だ。生粋の音楽一家で親御さんも厳しく窮屈そうだった彼女が、こうして伸び伸びと過ごせているのは喜ばしいことだけど。
「皆、突然だったのにありがとね」
三人に声をかけると、三者三様の柔らかい笑顔が返ってくる。黒尾が私に部誌を手渡しながら愉快そうに口を開いた。
「数納とやっくんが揃うと、苗字のファンミーティングみたいで面白いからヘーキヘーキ」
「二人とも、苗字のこと大好きだもんな」
海も優しく同意してくれるのが居たたまれない。
別に約束をした訳ではないけど、私と夜久は互いに「好き」という言葉を避けている節があったから。ちらりと夜久を見ればバチっと目が合って、ちょっぴり照れ臭そうな顔をされた。
「……悪かったな、子どもっぽく言い争って」
「ふふ。嬉しかったし、謝る必要はないけどね。それじゃ私は仕事に入るから、今日もがんばって!」
「おう!」
力強い返事にひらりと手を振ってから、ルーティン化した朝練の準備作業に取り掛かる。いくら詩結に見られているとはいえ一切の緊張は無かった。彼女の真っ直ぐな青い瞳は、いつも通り全力で部活に取り組む私を見たいだけだろうから。
後輩たちも続々とやって来た。一人だけあからさまにギョッとした山本は最初ぎこちなかったものの、黒尾と夜久を主体とした朝練はつつがなく進んでいく。
皆のバレーに魅せられながら時折詩結の様子を窺うと、一心不乱にノートにメモをしたり、何やら楽しそうにはしゃいだりしていた。勿論バレーボールも楽しんでくれているとは思うけど、あれは多分私にまつわる言動で何かテンションが上がっているんだろう。自分も夜久や西谷くん相手に同様の状態になってしまうからよく分かった。
「おーし! んじゃ朝練はこれで以上!」
「お疲れ様でしたー!」
黒尾の号令に対し、その場にいた全員が返事をする。
ふらふらと頭を揺らす孤爪を福永がそっと支えているから、きっと寝不足だろう。あとでカフェイン入りのガムでも渡そうか、なんて考えていれば、黒尾にひょっこりと顔を覗き込まれた。
「苗字、片付けは俺たちに任せていーよ」
「え? でも私の仕事だし」
「朝は片付けもそんな手間かかんないし、数納の面倒見てやって。……なんか理由があるんでしょ?」
詩結は普段、私に無理やり着いてくるようなことはしない。バレー部が私の大切な居場所だと分かった上で、その邪魔をしたくないと思ってくれる子だから。
それに、空き時間があれば音楽に向き合っていたいと考えるような真面目でひたむき性格だからこそ、私も彼女の前でだけは歌えるようになった訳だし。
黒尾に私たちの関係性について話したことはないけど、人の感情の機微に鋭すぎる部長は、いつもさりげなく気遣ってくれるのだ。
「……それじゃ、お言葉に甘えていい?」
「勿論ですとも。ちなみに、やっくんと海も同じこと考えてたから、俺が代表で来ただけね」
「黒尾ってほんと、そういうとこ真面目だね。ありがと」
手柄を自分一人だけのものにしない真面目さがあるし、本人の知らないところでしか相手の優しさを伝えられない不器用さもある。特に夜久とは普段から意見を衝突させているから、素直に褒められないところがあるんだろうな。
少し離れた場所から様子を窺っていた夜久と海にも手を振れば、嬉しそうな笑みが返ってきた。やはり我らが音駒は同級生も全員かわいい。
孤爪に渡しておいて、と手元のガムを黒尾に預けてから、遠慮なく踵を返す。そわそわした様子の詩結の元へ駆け寄ると、飼い主を待つ犬みたいに目をキラキラとさせていた。直接話せる距離まで近付いたところで、椅子から立ち上がって力強く拳を握っている。
「お待たせ、詩結。どうだった?」
「うん! 名前が超可愛かった」
「……あ、そーですか」
「待って呆れないで! それだけじゃなくてね!」
「うん」
「もし今日、名前が歌ってる時よりも余程楽しそうで幸せそうな顔してたら、ステージに無理やり引っ張るのはやめようと思ってたんだ。……でもね」
「……うん」
「名前はバレー部で頑張ってる時も、あたしの前で歌ってくれる時も、同じくらいすごく楽しそうで、幸せそうだったよ」
息が止まる。目の前で柔らかく細まっていくブルーの瞳が、あまりにも清廉で温かな光を宿していて、心臓をぎゅっと掴まれる心地だった。
……私のトラウマを生んだ原因は、他でもない私自身だ。
幼い頃、習い事で通っていたピアノ教室にて。先生から薦められ、とあるコンクールに参加したことがあった。
無事に予選を通過し、いよいよ本選でクラシックの課題曲を演奏した時のこと。
小さい私は、音を奏でている時にキラキラと感じられる、色や感情を浴びるのが好きだったのだ。……今ならば、共感覚だったんだろうと分かるけど。
大きくて広くて綺麗な会場に興奮して、ただただピアノを奏でることに幸せを見出した私は───本番中に突然、曲にのせて自分で考えた歌詞を歌い上げてしまったのだ。
当然、未熟な子どもが突発的にルールから外れた演奏をしたのだから、聴くに耐えなかっただろうけど。
血の繋がった身内から散々、ステージで歌う姿を「みっともない」と、「聞き苦しい」と、「生き恥」だと言われ、実際の写真を何枚も家の壁に貼られて見せられて。
やがて私は、ピアノに触れるのが怖くなってしまった。自分にはあの綺麗で鮮やかな音に触れる資格はないのかと、絶望に似た気持ちで心臓は軋み、家庭の雰囲気もぎこちないものになった。
だがそんな私を哀れみ、趣味でバンドをやっていた叔父さんがギターをプレゼントしてくれたから。音楽を諦めずに続けることは出来た。
学校の授業で必然的にピアノに触れる機会はあったし、時々音楽室で鍵盤に触れることもあったけど。それでもやっぱり人前で演奏することは、怖かった。
しかし、あの合唱コンクールの前日。誰よりも楽しそうに嬉しそうに幸せそうにピアノを演奏していた詩結が、腕を怪我しているのを見て。
何の故障もしていない私が、彼女と違って何のハンデもなく演奏できる私が、自分のちっぽけな恐怖心に負けて、彼女の想いを無駄にしてはいけないと思った。
二年前の合唱コンクールでの演奏は、決して良い出来では無かった。詩結に比べたら拙くて不器用で仕方がなかったけど、彼女はそんな私の演奏を「好きだよ」って言ってくれたから。情けない恐怖心を抱えたままだった私も、もう一度だけ鍵盤に触れる喜びを思い出すことが出来たんだ。
そのキッカケになった友達が、バレー部にいる私も歌っている私も、同じくらい幸せそうに見えたと言ってくれた。その事実に、胸に刺さって抜けない棘がじんわりと熱くなるような想いが溢れて、喉の奥が熱くなる。
「……私、楽しそうで、幸せそうだった?」
「うん、すっごく。まーあたしと一緒に休みの日にスタジオに籠ったり、うちの家で曲作ったり歌詞書いたりしてる時も、当然同じくらい楽しそうだけどね?」
「そっか。……そっかあ」
「だからね、ワガママだって分かってるんだけど。あたし、名前の歌が大好きだから。もっと色々な人に聴いてもらいたい。そのための一歩として一緒にステージに立ちたい。あと、あわよくば高校の間に名前との輝かしい思い出がもっと欲しいのー!」
「ふふ、欲望に忠実でよろしい」
「わーい! 名前に褒められた!」
両手を挙げて満面の笑みを見せる懐が深い友達を、正面からぎゅっと抱き締める。力強い抱擁が返ってきた後、背中をぽんぽんと優しく撫でてくれるものだから、つい涙腺が緩んだ。
「私も、詩結の音楽が好きだから。そう言ってもらえて嬉しい」
「うん!」
「……でも、ちゃんと覚悟を決めた上で返事したいから、もう少しだけ待ってもらっていい?」
「当然。ステージの申し込み締切はまだ先だし、あたしが張り切っちゃっただけだし!」
「詩結、今日のお昼休みって空いてる?」
「空いてるよ。あたしが音楽室の使用許可は取ってるけど、使う?」
「使う。詩結と一緒に、……私の歌を聴いてほしい人達がいるから」
身体を離せば、きらきらした笑顔が待っていた。私の気持ちを見透かすように大きく頷く。
「分かった。何やってもいいように準備したいから、あたしはちょっとだけ音楽室に寄ってくる!」
「ん。本当にありがと。またね」
「またね! 大好き!」
「あはは、私も」
キャッと一瞬飛び上がって喜んでから、詩結は入口前でぺこりとお辞儀をして、近くにいた部員に挨拶しつつ軽やかに去っていく。
体育館の中を見回せば、片付けはすっかり終わっているようだった。着替えのために既に立ち去った部員もいたけど、同級生たちは未だ隅っこで丸くなりながら、それぞれノートを開きながら話し合いをしている。
放課後のトレーニングメニューを決めるにあたって、朝練でその日のコンディションや課題を把握するための話し合いをするのが三年生の習慣だった。三人とも自分の練習記録は欠かさずに書き続けているし、意見交換も毎日活発に行っているし。
いつもは私も当事者として、ビデオで撮影した映像を流したり、部員の様子で気になったことを述べたりしているけど。客観的にあのミーティングを見ていると、皆の努力家な一面を更に感じられて誇らしい。
近づいて行くと真っ先に目が合ったのは、やっぱり夜久だった。
「苗字、お疲れ!」
「おつかれー! あのね皆、ちょっとお願いがあるんだけど」
「どうした?」
「なになにー?」
「苗字の頼みなら何でも聞くよ」
間髪を入れずに三人からの返事があって、つい笑った。男子バレー部は私の大切な居場所だけど、中でも同級生の存在はことさらに特別だなと痛感する。
「ありがと。お昼休み、皆に聴かせたいものがあって。少し時間を貰えたら嬉しいんだけど」
全員の温かな笑顔と共に、力強い了承の言葉が飛んできた。しゃがみ込んで、私もまた一緒に笑う。
バレー部のマネージャーを二年以上続けてきて、思ったことがある。
部活で皆を応援する時に出す声も、音楽に思いをのせて歌う時の声も、目の前の相手に自分の気持ちを繋いで託すという点では、共通する部分があるのではないかと。
未だに人前で歌うことが怖いのは事実だけど、それでも私は、全国制覇するチームに所属しているのだから。
大好きな皆が、少しでも誇ってくれるようなマネージャーでいられるように。かつて膝を抱えて蹲っていた幼い私と共に、大きく一歩を踏み出そうと、そう思った。
その場にいた全員が、痛々しい左手のギプスを見て察したことだろう。練習中、誰よりも楽しそうにピアノを弾いていた女の子が、翌日のコンクールに参加出来なくなってしまったことを。
「ごめんなさい、あたし……! 皆の練習を台無しにしちゃって!」
重たい沈黙が落ちた。何と声をかければ良いのか、誰が彼女の代わりを務めるべきか、逡巡する気配で満ちていくのが分かった。
だからこそ私は、暗く淀んだ空気を切り裂くように真っ先に声を上げた。
「
それは反射的だった。悲痛な姿が過去の自分に重なったのかな、と今では思うけど、あの時はただ放っておけなかったのだ。己とは違い、ずっと音楽にひたむきに向き合ってきたクラスメイトが紡ぐ音に日々癒されていたから、感謝の念を示したかったという理由もあった。
しかし何よりも。私はほんの数か月前に同級生に手を引いてもらったお陰で、こんなにも胸が熱くなれるバレーボールと出会えたから。自分が少しでも差し伸べられる手があるならば、たとえ無様だろうとせめて指先だけでも掴んであげたかった。
「だから明日、私にピアノを弾かせてくれないかな。……数納さんさえ良ければ、だけど」
深く下がっていた頭が、ゆっくりと恐る恐る上がっていく。涙に濡れたブルーの瞳と目が合った途端、くしゃりとその顔が歪んだ。
「でも、あたし、……苗字さんにそこまで優しくしてもらう理由なんて無いよ」
「ううん、これは優しさじゃないの。単なる私のエゴ。数納さんの努力と、明日を楽しみにしていた気持ちを、せめてこの手で繋ぎたいっていうだけの自己満足なんだ」
かつて春の図書室でバレーの本を読んでいたのも、たった今、目の前の女の子の力になりたいと思ったのも、どこまでも独善的な願望であり、誰かの見返りを求めるものではない。私がそうしたいと思ったからそうするまでだった。
心からの思いを込めて彼女と目線を合わせれば、目尻からぼろぼろと綺麗な涙が伝っていくのを見た。
「……ッ、あ、あり、がとう」
「こちらこそ。大事な役目を託してくれて、ありがとね」
嗚咽を漏らす彼女の手から、びっしりとメモが書き込まれた楽譜を受け取った。その日だけは部活を休み───詳しい事情説明は、当時同じクラスだった夜久が買って出てくれた───、休み時間も放課後も出来る限り一緒に練習した。
あんなに触れるのが怖かったピアノは、部活の後輩と仲良くなる手段にもなったし、将来の夢を共に語り合える友達との縁を繋いでくれた。だから私は今日も、部活にも音楽にもひたむきに向き合うために声を出し、音を紡いでいく。
あれは、合同合宿が始まる数か月前のことだった。
「名前、おっはよー!」
バレー部の朝練のために登校すれば、校舎前でたまたま遭遇した友人に後ろから抱き着かれる。ぎゅうっと力強いハグを浴びるのはいつものことで、すっかり慣れ親しんだ感覚に頬を緩ませた。
「おはよ、
パッと背中の熱が離れたかと思えば、ぐるりと回りこんで私の正面で笑顔を見せる。ミディアムヘアのストレートのブルネットが、今日も愛らしくサラリと揺れていた。
「なんたって朝から名前に会えたし! 今日も好き!」
「はいはい、ありがとねー」
「えーん軽くあしらわれてる! でもそんなとこも好きー!」
なんたって数納詩結は、高校では唯一下の名前で呼び合う友達だし、お互いの色々な事情をさらけ出している間柄だし。信頼を前提とした緩い対応も取れて、良い意味で遠慮なく振る舞える関係性だった。
腕に抱きつかれながらそのまま二人で歩いていく。私は運動部のマネージャーが着替えに使うためのマネージャー室へ、詩結はピアノの練習と作曲をしに音楽室へ。互いの目的地は分かっているから迷わず進んでいこうとした。
「ねー名前。バレー部の朝練、見学しに行ってもいい?」
「うん、いいけど。珍しいね?」
「文化祭の件で策を練るために、ちょっとリサーチしようと思って」
詩結が何のことを言っているのか把握し、頭をフル回転させる。言語化できない思いが胸に広がって、つい眉を下げた。
「……、別に断った訳じゃないんだけどね?」
「分かってるよ。でも、強引に事を進めたいワケじゃないから。お互いの意思をちゃんと尊重したいし、そのためには名前が安心して輝ける場所を見て、きっぱり諦めて食い下がるか否か判断するのが筋かなって」
「……本当に真面目だね、詩結は」
「そこはお互い様かもね。じゃ、あたしは一足先に体育館に行ってるから!」
「おっけー。すぐ行くから」
既に私の友達として何回も見学に来ているから、部員たちも山本以外は特に戸惑うことは無いだろう。嬉しそうに去っていくセーラー服の小さな背中を見送ってから、どうしたものかと思索を巡らせた。
詩結の頼みは至極単純だ。文化祭の音楽ステージに、一緒に立って歌ってほしい。今まで共に作ってきた音楽を誰かに届けてみたいから、と。
青春の一ページに刻む思い出としては輝かしく、傍から見れば断る理由なんて無いように思えるだろう。
けど、人前で演奏して歌うという行為は───私にとって、合宿所で真夜中に眠れない程のトラウマを想起させるものでもあったから。いくら休みの日は友人の前で歌うことが出来ても、見ず知らずの人たちの前で何のトラブルも起こせずにパフォーマンスが出来るかどうか、正直自信が無かった。
すぐ部活用のジャージに着替えて朝練に向かえば、何やらワイワイと騒ぐ聞きなれた声が聞こえる。
「はー? 夜久と違って、あたしは朝一で寝ぼけてる時の名前の可愛さを知ってますけどぉ?」
「ほー? つまり数納は、夜中に眠くなった時の苗字の可愛さを知らねえと」
「ちょっとお二人さーん、いい加減にしなさいよ。苗字に聞かれたら呆れられんぞ」
「……と、噂をしてたら実際にやって来るんだよね。おはよう、苗字」
同級生が揃い踏みだというのに会話の内容があまりにも照れくさくて、呆れるよりも前に笑ってしまった。
「おはよ、皆。仲が良さそうで何よりです」
「あたしはもっと名前と仲良くしたいー!」
風のように飛んできた友達を、軽やかに受け止める。バレー部の三人は幼子を見守るような目で詩結の背中を見ていたから、肩をすくめつつ目線でお礼を伝えた。
「もう仲良いでしょうが」
「あたしたちの愛に限界なんてないもん!」
「はいはい。このまま見学を始めるも私の仕事を手伝うも、好きにしていいから」
「なら邪魔にならないように見学してるー!」
詩結はシュタッと小さく敬礼してから、体育館の隅に駆け出していく。自らパイプ椅子を設置した上でノートとペンを取り出し、ロールアップピアノをくるくると開いてからさっそく音を出し始めていた。
出会った頃は大人っぽい印象のあった子なのに、もうすっかり甘えん坊だ。生粋の音楽一家で親御さんも厳しく窮屈そうだった彼女が、こうして伸び伸びと過ごせているのは喜ばしいことだけど。
「皆、突然だったのにありがとね」
三人に声をかけると、三者三様の柔らかい笑顔が返ってくる。黒尾が私に部誌を手渡しながら愉快そうに口を開いた。
「数納とやっくんが揃うと、苗字のファンミーティングみたいで面白いからヘーキヘーキ」
「二人とも、苗字のこと大好きだもんな」
海も優しく同意してくれるのが居たたまれない。
別に約束をした訳ではないけど、私と夜久は互いに「好き」という言葉を避けている節があったから。ちらりと夜久を見ればバチっと目が合って、ちょっぴり照れ臭そうな顔をされた。
「……悪かったな、子どもっぽく言い争って」
「ふふ。嬉しかったし、謝る必要はないけどね。それじゃ私は仕事に入るから、今日もがんばって!」
「おう!」
力強い返事にひらりと手を振ってから、ルーティン化した朝練の準備作業に取り掛かる。いくら詩結に見られているとはいえ一切の緊張は無かった。彼女の真っ直ぐな青い瞳は、いつも通り全力で部活に取り組む私を見たいだけだろうから。
後輩たちも続々とやって来た。一人だけあからさまにギョッとした山本は最初ぎこちなかったものの、黒尾と夜久を主体とした朝練はつつがなく進んでいく。
皆のバレーに魅せられながら時折詩結の様子を窺うと、一心不乱にノートにメモをしたり、何やら楽しそうにはしゃいだりしていた。勿論バレーボールも楽しんでくれているとは思うけど、あれは多分私にまつわる言動で何かテンションが上がっているんだろう。自分も夜久や西谷くん相手に同様の状態になってしまうからよく分かった。
「おーし! んじゃ朝練はこれで以上!」
「お疲れ様でしたー!」
黒尾の号令に対し、その場にいた全員が返事をする。
ふらふらと頭を揺らす孤爪を福永がそっと支えているから、きっと寝不足だろう。あとでカフェイン入りのガムでも渡そうか、なんて考えていれば、黒尾にひょっこりと顔を覗き込まれた。
「苗字、片付けは俺たちに任せていーよ」
「え? でも私の仕事だし」
「朝は片付けもそんな手間かかんないし、数納の面倒見てやって。……なんか理由があるんでしょ?」
詩結は普段、私に無理やり着いてくるようなことはしない。バレー部が私の大切な居場所だと分かった上で、その邪魔をしたくないと思ってくれる子だから。
それに、空き時間があれば音楽に向き合っていたいと考えるような真面目でひたむき性格だからこそ、私も彼女の前でだけは歌えるようになった訳だし。
黒尾に私たちの関係性について話したことはないけど、人の感情の機微に鋭すぎる部長は、いつもさりげなく気遣ってくれるのだ。
「……それじゃ、お言葉に甘えていい?」
「勿論ですとも。ちなみに、やっくんと海も同じこと考えてたから、俺が代表で来ただけね」
「黒尾ってほんと、そういうとこ真面目だね。ありがと」
手柄を自分一人だけのものにしない真面目さがあるし、本人の知らないところでしか相手の優しさを伝えられない不器用さもある。特に夜久とは普段から意見を衝突させているから、素直に褒められないところがあるんだろうな。
少し離れた場所から様子を窺っていた夜久と海にも手を振れば、嬉しそうな笑みが返ってきた。やはり我らが音駒は同級生も全員かわいい。
孤爪に渡しておいて、と手元のガムを黒尾に預けてから、遠慮なく踵を返す。そわそわした様子の詩結の元へ駆け寄ると、飼い主を待つ犬みたいに目をキラキラとさせていた。直接話せる距離まで近付いたところで、椅子から立ち上がって力強く拳を握っている。
「お待たせ、詩結。どうだった?」
「うん! 名前が超可愛かった」
「……あ、そーですか」
「待って呆れないで! それだけじゃなくてね!」
「うん」
「もし今日、名前が歌ってる時よりも余程楽しそうで幸せそうな顔してたら、ステージに無理やり引っ張るのはやめようと思ってたんだ。……でもね」
「……うん」
「名前はバレー部で頑張ってる時も、あたしの前で歌ってくれる時も、同じくらいすごく楽しそうで、幸せそうだったよ」
息が止まる。目の前で柔らかく細まっていくブルーの瞳が、あまりにも清廉で温かな光を宿していて、心臓をぎゅっと掴まれる心地だった。
……私のトラウマを生んだ原因は、他でもない私自身だ。
幼い頃、習い事で通っていたピアノ教室にて。先生から薦められ、とあるコンクールに参加したことがあった。
無事に予選を通過し、いよいよ本選でクラシックの課題曲を演奏した時のこと。
小さい私は、音を奏でている時にキラキラと感じられる、色や感情を浴びるのが好きだったのだ。……今ならば、共感覚だったんだろうと分かるけど。
大きくて広くて綺麗な会場に興奮して、ただただピアノを奏でることに幸せを見出した私は───本番中に突然、曲にのせて自分で考えた歌詞を歌い上げてしまったのだ。
当然、未熟な子どもが突発的にルールから外れた演奏をしたのだから、聴くに耐えなかっただろうけど。
血の繋がった身内から散々、ステージで歌う姿を「みっともない」と、「聞き苦しい」と、「生き恥」だと言われ、実際の写真を何枚も家の壁に貼られて見せられて。
やがて私は、ピアノに触れるのが怖くなってしまった。自分にはあの綺麗で鮮やかな音に触れる資格はないのかと、絶望に似た気持ちで心臓は軋み、家庭の雰囲気もぎこちないものになった。
だがそんな私を哀れみ、趣味でバンドをやっていた叔父さんがギターをプレゼントしてくれたから。音楽を諦めずに続けることは出来た。
学校の授業で必然的にピアノに触れる機会はあったし、時々音楽室で鍵盤に触れることもあったけど。それでもやっぱり人前で演奏することは、怖かった。
しかし、あの合唱コンクールの前日。誰よりも楽しそうに嬉しそうに幸せそうにピアノを演奏していた詩結が、腕を怪我しているのを見て。
何の故障もしていない私が、彼女と違って何のハンデもなく演奏できる私が、自分のちっぽけな恐怖心に負けて、彼女の想いを無駄にしてはいけないと思った。
二年前の合唱コンクールでの演奏は、決して良い出来では無かった。詩結に比べたら拙くて不器用で仕方がなかったけど、彼女はそんな私の演奏を「好きだよ」って言ってくれたから。情けない恐怖心を抱えたままだった私も、もう一度だけ鍵盤に触れる喜びを思い出すことが出来たんだ。
そのキッカケになった友達が、バレー部にいる私も歌っている私も、同じくらい幸せそうに見えたと言ってくれた。その事実に、胸に刺さって抜けない棘がじんわりと熱くなるような想いが溢れて、喉の奥が熱くなる。
「……私、楽しそうで、幸せそうだった?」
「うん、すっごく。まーあたしと一緒に休みの日にスタジオに籠ったり、うちの家で曲作ったり歌詞書いたりしてる時も、当然同じくらい楽しそうだけどね?」
「そっか。……そっかあ」
「だからね、ワガママだって分かってるんだけど。あたし、名前の歌が大好きだから。もっと色々な人に聴いてもらいたい。そのための一歩として一緒にステージに立ちたい。あと、あわよくば高校の間に名前との輝かしい思い出がもっと欲しいのー!」
「ふふ、欲望に忠実でよろしい」
「わーい! 名前に褒められた!」
両手を挙げて満面の笑みを見せる懐が深い友達を、正面からぎゅっと抱き締める。力強い抱擁が返ってきた後、背中をぽんぽんと優しく撫でてくれるものだから、つい涙腺が緩んだ。
「私も、詩結の音楽が好きだから。そう言ってもらえて嬉しい」
「うん!」
「……でも、ちゃんと覚悟を決めた上で返事したいから、もう少しだけ待ってもらっていい?」
「当然。ステージの申し込み締切はまだ先だし、あたしが張り切っちゃっただけだし!」
「詩結、今日のお昼休みって空いてる?」
「空いてるよ。あたしが音楽室の使用許可は取ってるけど、使う?」
「使う。詩結と一緒に、……私の歌を聴いてほしい人達がいるから」
身体を離せば、きらきらした笑顔が待っていた。私の気持ちを見透かすように大きく頷く。
「分かった。何やってもいいように準備したいから、あたしはちょっとだけ音楽室に寄ってくる!」
「ん。本当にありがと。またね」
「またね! 大好き!」
「あはは、私も」
キャッと一瞬飛び上がって喜んでから、詩結は入口前でぺこりとお辞儀をして、近くにいた部員に挨拶しつつ軽やかに去っていく。
体育館の中を見回せば、片付けはすっかり終わっているようだった。着替えのために既に立ち去った部員もいたけど、同級生たちは未だ隅っこで丸くなりながら、それぞれノートを開きながら話し合いをしている。
放課後のトレーニングメニューを決めるにあたって、朝練でその日のコンディションや課題を把握するための話し合いをするのが三年生の習慣だった。三人とも自分の練習記録は欠かさずに書き続けているし、意見交換も毎日活発に行っているし。
いつもは私も当事者として、ビデオで撮影した映像を流したり、部員の様子で気になったことを述べたりしているけど。客観的にあのミーティングを見ていると、皆の努力家な一面を更に感じられて誇らしい。
近づいて行くと真っ先に目が合ったのは、やっぱり夜久だった。
「苗字、お疲れ!」
「おつかれー! あのね皆、ちょっとお願いがあるんだけど」
「どうした?」
「なになにー?」
「苗字の頼みなら何でも聞くよ」
間髪を入れずに三人からの返事があって、つい笑った。男子バレー部は私の大切な居場所だけど、中でも同級生の存在はことさらに特別だなと痛感する。
「ありがと。お昼休み、皆に聴かせたいものがあって。少し時間を貰えたら嬉しいんだけど」
全員の温かな笑顔と共に、力強い了承の言葉が飛んできた。しゃがみ込んで、私もまた一緒に笑う。
バレー部のマネージャーを二年以上続けてきて、思ったことがある。
部活で皆を応援する時に出す声も、音楽に思いをのせて歌う時の声も、目の前の相手に自分の気持ちを繋いで託すという点では、共通する部分があるのではないかと。
未だに人前で歌うことが怖いのは事実だけど、それでも私は、全国制覇するチームに所属しているのだから。
大好きな皆が、少しでも誇ってくれるようなマネージャーでいられるように。かつて膝を抱えて蹲っていた幼い私と共に、大きく一歩を踏み出そうと、そう思った。