月の底を泳いだ人魚
夜闇に沈んだアジア支部は、まるで真夜中の湖のようだと思う。
どこまでも清らかな空気が満ちる中、誰もいない真っ暗な水底を自由に泳ぎ回るような心地だった。地下に掘られた巨大な聖堂という言葉に偽りは無く、過去の罪を懺悔してしまいたくなる程の静謐さに浸ってしまう。
カツン、コツン、と自分の足音だけが響き渡っていた。不器用ながら優しい守り神 の居場所たる、巨大な封印の扉に引き寄せられるように歩んでいく。今は彼女も眠っている時間だろうから、扉に背中を預ける形で座り込んだ。背中を丸めて膝を抱え、祈るように指を組む。
「名前」
ゆっくりと顔を上げる。毎晩飽きもせずに私の名前を呼ぶその声は低くて穏やかで、切ない程に柔らかい色を宿していた。
「……、バクさん」
「その格好だと身体が冷える。せめて上着を羽織りなさい」
寝間着で練り歩く女はさぞや惨めで不格好だろうに、対等に心配してくれる優しさに目を細める。胸元にローズクロスを携えた仕事着でこちらに歩み寄ったバクさんは、私の右隣にそっと座った。
「……私はもう、教団にとって価値さえ無い実験体ですし。別に風邪を低く心配もないですよ」
「教団だとかキミが何者だとか関係なく、このボクが! ……名前を、心配したいだけなんだ」
ひどく真剣な顔で、えらく真摯な声で。必死に叫んだ横顔にきょとんとする。何故このひとはいつも、私なぞにここまで熱心になってくれるのだろうか。
沈黙しか返ってこなかったのが恥ずかしかったのか、バクさんは暗がりでも分かる程に顔をぶわっと赤くさせた後、羽織っていた上着を強引に私の肩にかけてくれた。ありがとうございます、と咄嗟にお礼を伝える。
「……急に大声を上げて、悪かったな」
「いえ、こちらこそ気の利いた返事も出来ずにすみません。……ねえ、バクさん」
「ああ、何だ?」
陽だまりのような声で私に応えた、その綺麗な顔を見つめ返す。
月の光をかき集めたかのような美しい金髪、新月を思わせる透き通ったグレーの瞳、どこまでも繊細で優しい内面を投影したような温かな面差し。昼間に被っている尻尾みたいな長い房が特徴的な帽子は、私と会う時には外していた。
あの第二 エクソシスト計画が最悪の形で幕を閉じ、アジア支部を受け継いでから未だ間もないというのに。バクさんは、中央庁から役立たずと放り出された被験体 を、不思議なくらい大切に扱ってくれた。
ヴァチカンでの日々が甦って眠れないことも、バクさんと同年代のくせに教団の役に立つような知識や技術が無いことも、全ては未熟な私自身のせいなのに。立場も責任も人より余程重たいものを背負うあなたが、何故私を懐に入れようとしてくれるのか分からなくて、その答えが知りたかった。
「あの。……抱き締めてもいいですか?」
「勿論良いとも、…………へ?」
お言葉に甘えて、目の前の熱にそっと縋り付いた。右頬をバクさんの胸に擦り寄せれば、厚い胸板の底で心臓の鼓動が激しく響いているのが分かった。
「名前、どッ、どうしたんだ……!?」
「……少しだけ、バクさんに触れたくなったんです。駄目でしたか?」
「だ、ダメな訳はないが……、オレ様にも心の準備というものがあってだな!」
瞳を閉じて、バクさんの鼓動に集中する。温かくて優しくてかなしくて愛おしい、私の全身を柔く包むあなたの音が、世界の全てであるような気がした。
「あのね、バクさん。私、時々思うんです」
「……ん?」
「痛い実験は嫌でしたけど。……もしもバクさんから与えられた痛みだったら、我慢できたのになって」
「……ッ」
恐る恐る背中に触れていた指先が、今度は両腕で強く私の全身を抱き留める。それでもその力は切ないくらい優しくて、喉の奥がきゅっと縮まるような心地がした。
「ボクは、名前に痛い思いなんてさせない」
「……はい、知ってますよ」
「キミに悲しい思いもさせたくない」
「バクさんと出会ってからは、嬉しい思い出ばかりです」
「……名前の笑った顔が、もっと見たいんだ」
「私の笑顔なんて……みっともないでしょう」
ゆっくりと、バクさんの熱が離れていく。真正面の顔は僅かに赤くて、けれどいつも通りどこまでも誠実な色を帯びていた。
「キミはいつだって、世界で一番美しいよ」
あなたの言葉が嘘ではないと分かってしまったから、心臓が食い破られるかのようにひどく痛んだ。
だって、ヴァチカンではマトモな人間として扱われなかった。毎日全身を切り刻まれて、期限までに回復できなければ縫合されて、筋肉が千切れる程の訓練を強要されて。自我なんてものは封じなければやっていられなかったし、バクさんと出会った当初はもっと人形みたいな言動しか取れなかった。
それでもバクさんに保護してもらったことをキッカケに、ウォンさんに甲斐甲斐しく労わってもらったり、フォーに日々温かく構ってもらったり、アジア支部の皆さんと交流したりして。私は少しずつ、人間として生きる術を知り始めていた。
「……バクさんって、本当に、優しくて変なひとですね」
視界が滲んで、目尻から熱い何かがぼろぼろと溢れていく。まるで私の気持ちに呼応するようなそれが涙であることを、バクさんの指先がそっと拭ってくれた時に、ようやく気付いた。
「名前」
「……はい」
「やはり、キミはとても綺麗だ」
不格好に口角を上げる私を、バクさんは再び抱き締める。肩口が涙で濡れるのも構わず優しく頭を撫でてくれるものだから、更に思いが溢れて止まらなかった。
私はもう、夜の底を独りきりで泳ぎ続けなくて良いのだろう。バクさんの熱に包まれながら、ようやく理解した事実に目を閉じる。あなたの熱に、これからもいつまでも溺れ続けていたかった。
どこまでも清らかな空気が満ちる中、誰もいない真っ暗な水底を自由に泳ぎ回るような心地だった。地下に掘られた巨大な聖堂という言葉に偽りは無く、過去の罪を懺悔してしまいたくなる程の静謐さに浸ってしまう。
カツン、コツン、と自分の足音だけが響き渡っていた。不器用ながら優しい
「名前」
ゆっくりと顔を上げる。毎晩飽きもせずに私の名前を呼ぶその声は低くて穏やかで、切ない程に柔らかい色を宿していた。
「……、バクさん」
「その格好だと身体が冷える。せめて上着を羽織りなさい」
寝間着で練り歩く女はさぞや惨めで不格好だろうに、対等に心配してくれる優しさに目を細める。胸元にローズクロスを携えた仕事着でこちらに歩み寄ったバクさんは、私の右隣にそっと座った。
「……私はもう、教団にとって価値さえ無い実験体ですし。別に風邪を低く心配もないですよ」
「教団だとかキミが何者だとか関係なく、このボクが! ……名前を、心配したいだけなんだ」
ひどく真剣な顔で、えらく真摯な声で。必死に叫んだ横顔にきょとんとする。何故このひとはいつも、私なぞにここまで熱心になってくれるのだろうか。
沈黙しか返ってこなかったのが恥ずかしかったのか、バクさんは暗がりでも分かる程に顔をぶわっと赤くさせた後、羽織っていた上着を強引に私の肩にかけてくれた。ありがとうございます、と咄嗟にお礼を伝える。
「……急に大声を上げて、悪かったな」
「いえ、こちらこそ気の利いた返事も出来ずにすみません。……ねえ、バクさん」
「ああ、何だ?」
陽だまりのような声で私に応えた、その綺麗な顔を見つめ返す。
月の光をかき集めたかのような美しい金髪、新月を思わせる透き通ったグレーの瞳、どこまでも繊細で優しい内面を投影したような温かな面差し。昼間に被っている尻尾みたいな長い房が特徴的な帽子は、私と会う時には外していた。
あの
ヴァチカンでの日々が甦って眠れないことも、バクさんと同年代のくせに教団の役に立つような知識や技術が無いことも、全ては未熟な私自身のせいなのに。立場も責任も人より余程重たいものを背負うあなたが、何故私を懐に入れようとしてくれるのか分からなくて、その答えが知りたかった。
「あの。……抱き締めてもいいですか?」
「勿論良いとも、…………へ?」
お言葉に甘えて、目の前の熱にそっと縋り付いた。右頬をバクさんの胸に擦り寄せれば、厚い胸板の底で心臓の鼓動が激しく響いているのが分かった。
「名前、どッ、どうしたんだ……!?」
「……少しだけ、バクさんに触れたくなったんです。駄目でしたか?」
「だ、ダメな訳はないが……、オレ様にも心の準備というものがあってだな!」
瞳を閉じて、バクさんの鼓動に集中する。温かくて優しくてかなしくて愛おしい、私の全身を柔く包むあなたの音が、世界の全てであるような気がした。
「あのね、バクさん。私、時々思うんです」
「……ん?」
「痛い実験は嫌でしたけど。……もしもバクさんから与えられた痛みだったら、我慢できたのになって」
「……ッ」
恐る恐る背中に触れていた指先が、今度は両腕で強く私の全身を抱き留める。それでもその力は切ないくらい優しくて、喉の奥がきゅっと縮まるような心地がした。
「ボクは、名前に痛い思いなんてさせない」
「……はい、知ってますよ」
「キミに悲しい思いもさせたくない」
「バクさんと出会ってからは、嬉しい思い出ばかりです」
「……名前の笑った顔が、もっと見たいんだ」
「私の笑顔なんて……みっともないでしょう」
ゆっくりと、バクさんの熱が離れていく。真正面の顔は僅かに赤くて、けれどいつも通りどこまでも誠実な色を帯びていた。
「キミはいつだって、世界で一番美しいよ」
あなたの言葉が嘘ではないと分かってしまったから、心臓が食い破られるかのようにひどく痛んだ。
だって、ヴァチカンではマトモな人間として扱われなかった。毎日全身を切り刻まれて、期限までに回復できなければ縫合されて、筋肉が千切れる程の訓練を強要されて。自我なんてものは封じなければやっていられなかったし、バクさんと出会った当初はもっと人形みたいな言動しか取れなかった。
それでもバクさんに保護してもらったことをキッカケに、ウォンさんに甲斐甲斐しく労わってもらったり、フォーに日々温かく構ってもらったり、アジア支部の皆さんと交流したりして。私は少しずつ、人間として生きる術を知り始めていた。
「……バクさんって、本当に、優しくて変なひとですね」
視界が滲んで、目尻から熱い何かがぼろぼろと溢れていく。まるで私の気持ちに呼応するようなそれが涙であることを、バクさんの指先がそっと拭ってくれた時に、ようやく気付いた。
「名前」
「……はい」
「やはり、キミはとても綺麗だ」
不格好に口角を上げる私を、バクさんは再び抱き締める。肩口が涙で濡れるのも構わず優しく頭を撫でてくれるものだから、更に思いが溢れて止まらなかった。
私はもう、夜の底を独りきりで泳ぎ続けなくて良いのだろう。バクさんの熱に包まれながら、ようやく理解した事実に目を閉じる。あなたの熱に、これからもいつまでも溺れ続けていたかった。